第126話  追跡

 





 アベルは強襲偵察隊を率いて、ガイアケロン軍団の最先鋒に位置していた。

 敵の警戒線を潜り抜けて、西に向かって隠密的に進む。

 コンラート軍団の後方に回り込む意図だった。

 ガイアケロンはリキメル王子と交渉を終え、臨時の連合軍団を作り出している。

 ケルク市を包囲しているコンラート軍団に対して一斉反撃の準備を着実に進めていた。


 アベルはコンラート皇子の面相を思い出す。

 欲深く、歪んだ心が滲み出た顔。平気で人を使い殺して感謝もしなければ顧みることも無い。

 他人は自分に奉仕するだけの存在だと心底信じている男。

 奴こそ世が乱れる核心原因の一つに違いない……。


――あんな亡者のような男は殺すべきだ。

  取り巻きの腐った連中も道連れにしてやる。

  必ず追い込んで殺してやるぞ。



 そうした殺意を漲らせて雪上を移動していた。

 戦場では何が起こるのか分からないのだ。

 もしかすると迂回突破した先にコンラートがいるという幸運も、有り得ないわけではない。


 そう思うと煮えたぎるように興奮してくる。

 アベルの強烈な意志が伝わったのか、配下二百人の騎馬戦士たちはいつもよりさらに慎重かつ大胆に行動してくれた。

 やれそうな気がしてくる。

 コンラートはもう直ぐそこに居る予感があった。




 皇帝国で最も美しく高価なミトラ織物で彩られた天幕の奥に、皇子コンラートが座していた。

 頭には枝葉を模した黄金の冠を被っていたが、その顔面は赤黒く、視線はどこか空中に投げ出されている。

 指が落ち着き無く、常に擦り合わされているのを執軍官ノルト・ミュラーは目敏く見つけた。


 ミュラーは嫌な予感しかしない。

 毎日のように開かれる軍議。

 だが、結論は先延ばしになっている。

 もはや一刻の猶予もなかった。


 冬季の間にケルク市を奪還してリキメル王子の首級を上げるという、コンラート皇子が強硬に主張した計画は実現できるようなものではなかったのだ。

 もともとミュラーが最初に提案した作戦では、圧倒的兵力でまずリキメル王子を攻略しているはずだった。

 これに従ってくれさえすれば今日の苦境は無かったはずだ。


 それなのに挑発するような物言いをしたリモン公爵に激高したコンラート皇子は、ガイアケロンと戦う道を選んでしまった。

 ポロフ原野などというところで綿密な準備のないままガイアケロン軍団と戦い、皇帝親衛軍は大きな損失を出した。

 なお悪いことにその後、公爵勢までもが深追いをして待ち伏せに襲われた。

 山岳を抜けたところで大反撃を食らって、ジブナル・オードラン公爵弟が捕虜になるという悲惨な結果だった。


 敗北のあとコンラート皇子は数日の間、誰にも会わず天幕に閉じ籠り、やっと妻アデライドから励ましの手紙が来て機嫌を回復させた。

 させたはいいが今度こそリキメルを攻め殺すと、そればかりが目標となった。

 もはや皇帝親衛軍は深刻な損害を受けてしまった後で、しかも本格的な冬まで到来していると言うのに。

 それでも命令は命令だ。


 再び執軍官となったミュラーは痛んだ軍団を引き連れて、ケルク市を不完全に包囲すること二十日以上。

 ミュラーは休息していたガイアケロン軍団が全面的に活動を再開させたという報せを手に入れていた。

 もちろんその狙いはリキメル王子の援護に決まっている。


 すでに時間は無かった。

 ミュラーは覚悟を決めて発言する。

 ガイアケロン軍団と決戦するか、それとも攻略を諦めて完全撤退するのか、どちらかしかないのである。

 緩慢に行動していては敵に主導権を奪われてしまう。


「早急にケルク市の包囲軍を再編成して、王道の僭称王族連合軍と戦わなくてはなりません。今日にでも命令を下され、コンラート様」

「……なぜじゃ。どうして計画通りにならない。リキメルは脆弱ゆえケルク市は攻略可能であったはずなのに。もとはと言えばミュラー。お前の作戦であっただろう」

「悪天候により包囲が充分に進みませんでした。くわえて先のポロフ原野で発生した損失が大きくあります。皇帝親衛軍に約七千人の死者。負傷者はおよそ一万人以上。寒さによる病気でさらに約四千人が脱落。三万人いた親衛軍は今や約八千人でございます。公爵勢はゲラン公爵の軍勢が来着したものの、軍団総数では四万人を僅かに上回る兵力でございます」


 公爵勢を束ねる立場のエンリケウ・ドラージュ公爵は、まだ発言すべき時では無いと考えているのか沈黙していた。

 この場に参じている公爵家の重鎮たちもそれに倣っている。

 貴族社会の駆け引きに練達している彼らは、迂闊な発言で窮地に追い込まれないかと常に注意深い。


「私にはどうしてこれほどの困難を与えられるのか……」


 コンラート皇子は呟く。

 目に怒りや不満が表れる。固く握りしめられた拳が震えていた。

 身を捩り、甲高い声で叫ぶ。


「王道の僭称王族めら! 寄って集って私を殺そうとしておる! ガイアケロンにハーディア、リキメル、それにシラーズとかいう王子まで援軍に来たではないか。それに比べて私は……テオもノアルトも裏切りおった。どうして私が勝てないのか。理由ははっきりしておる。我に味方が少ないからだ。裏切り者だらけだからだ!」


 コンラートの脳裏に自分を嘲笑う貴族や騎士達が蘇る。

 彼らはいつも皇帝の長男であった自分を値踏み、試してきた。

 つまり、およそ越えられないような難題を持ち出してきては、これを解決してみろと要求してくる。


 いつでも精一杯、応じてやっているというのに奴らの多くは、これでは足りないと少しも有り難がらない。

 それどころかコンラートは次代皇帝として相応しいかと絶え間なく調べてきた。

 なんと傲慢な臣下ども。


 今また、私に同じことが繰り返されているとコンラートは悩む。

 中央平原の大合戦でもそうであった。

 全ての貴族が均等に手柄を立てられるよう、細心の注意を払って陣立てしてやったというのに、ガイアケロンの騎兵が卑怯にも弱点を突いてきた。

 さらにディド・ズマの傭兵軍団が損害を顧みず攻撃をしてきた。

 そんなことは普通……無いのだ。

 動物のような傭兵どもが猛攻を加えてきたが、それでも私自身は踏み止まり、反撃を命じた。

 まさに英雄として振舞ったと自信がある。


 ところが、そこへもってきてイエルリングとリキメルの軍勢が右翼ばかりに押し寄せてきた。

 もともと自分に忠誠を誓っていなかった貴族達は堪えきれずに勝手に後退した。

 死ぬまで戦えと、それが貴族であろうと命じたにも関わらずだ。


 そして、悪鬼ガイアケロンが背後を攻撃するような素振りを見せた。

 あのまま留まっていれば……私は死んでいた。

 間違いない。

 包囲されて、攻め殺されていたであろう。

 この偉大な皇帝にして芸術家となるべく生まれた私がだ。

 そんなことあってはならない。そんなことは神が許さないであろう……。 

 思えば思うほど足が戦慄き、身を固くさせる。


 コンラートは閃く。

 そうか、分かったぞ。

 自分が勝てないのはテオやノアルトが悪い。

 皇帝たる私に従わず戦わない裏切り者達が原因なのだ。

 どうりで勝てないわけだった。

 

「テオとノアルト。それに奴らに与した者ども。あいつらのせいだ……」


 ミュラーはコンラート皇子の返答を待つ。

 皇子は考えているというよりも悩んでいるようであった。

 明晰な計算をしているのではなく、どうやら堂々巡りの中を彷徨っていると察する。


「私は勇敢に戦った。ハイワンド領を解放しようとガイアケロンと戦い、今度はレインハーグ領を奪い返そうと奮闘しておる」

「その通りでございます。コンラート様は皇帝国に比類無い英雄でございます」


 エンリケウ・ドラージュが巧妙に追随する。

 気を取り直したコンラート皇子はミュラーに命じた。


「ミュラーよ。ケルク市だけでも解放したい。私の勝利を皇帝国に知らしめる証がほしい。明日、総攻撃いたせ」

「コンラート様。……それはいけません。悪天候が続き攻城の準備が整っておりません。このまま攻め寄せれば、陥落させ得るか危うくあります。もし落城させたとしても、公爵勢も含めて軍団はすっかり消耗しておりましょう。そこを王道国の王子達に攻められますと……確実に負けるかと」

「ではどうするというのだ!」

「すでに献策しておりますように、やはり夏まで休息して軍団を立て直すのが最良です」

「ミュラー! その間にテオとノアルトが手柄を立てたらどうする。私の立場がないではないか!」

「……では目標を変えるのです。ケルクの攻略とガイアケロンとの戦いは両立いたしませぬ。包囲を解いて、決死の合戦と参りましょう。狙うはガイアケロンのみ」

「か、勝てるのか?」

「万全とは言い難く。五分五分以下かと」

「それが策と呼べるかぁ! お、お前ら親衛軍が不甲斐ないからこんな有様じゃ! ……悔しいぃ! 口惜しいぞぉ! なぜ私は勝てないのじゃあ」


 コンラート皇子は激高した婦人のように取り乱す。

 ミュラーは俯いて忠誠誓った主人の醜態から目を逸らした。

 勝ちたいのなら命を捨てたように戦わなければならないのに、まるで皇子は駄々を捏ねた子供のようであった。


 そこにエンリケウ・ドラージュが口を開く。

 悪いのは全て皇帝親衛軍と責任を押し付けてしまえる状況だった。

 発言とは、そうなってからするものだ。


「これはほんの初戦でございます。コンラート様。儂の聞いたところによりますと帝都では勇敢に戦うコンラート様の話題で持ちきりだとか。逃げ回って、あまつさえも臣民の村々を焼いて回るテオ皇子などと比べものにならない勇者であると」


 コンラートが苦悩に歪んだ面相を一変、輝かせて頷いた。

 そうであろうと、何度も繰り返し大声で応じた。


「コンラート様はガイアケロンやリキメルに一矢報いた。我々は既に十分な功績を得ております。親衛軍が悪いのです。マクマル・ピラト子爵は死んだことですし、そのことについてはもうよろしい。忘れましょう。ここは心機一転、ケルク市の包囲を解いて有利な地域に布陣いたすのはどうでしょうか。このエンリケウに心当たりがあります」


 エンリケウ・ドラージュ公爵が提案したのは、かなり西にある高地混じりの平野だった。

 レインハーグ伯爵領と隣接するエメドレ伯爵領との境といっていい。


 ミュラーにとって唐突な話しだった。

 ドラージュ公爵から事前に説明などされていない。

 そんなところまで移動する準備など何もできていない。

 しかも、現地には食料など物資の集積も全くできていないではないか。


「おお。公爵! そこが勝機を掴める新天地か」

「さよう、なるかと」

「お、お待ちくだされ。今はそのような準備の無い手を採用すべきではありません。撤退ならば、敵が追撃を諦めるような皇帝国の内部、完全に安全な場所にまで移動すべきです。また、戦うのならケルク市郊外。なにしろここには物資も集積済み。手持ちの戦力で決戦するのに最適かと」


 ドラージュ公爵が威嚇の顔つきで言い放つ。

 さすが生まれついての大貴族だけあって冷徹な迫力に満ちていた。


「子爵風情が黙らんかっ! 勝てるはずの戦いが勝てぬは、親衛軍の不甲斐なさが原因であろう! 仮にも執軍官に任じられたお前からは五分以下の決戦しか献策されず。ご心痛を極めたるコンラート様を慮れ、痴れ者が! しかも、儂が知恵を絞り出した良策を非難しおって」


 政治力の低いミュラーに味方は皆無であった。

 誰も取り成しなどしない。

 それでもミュラーはもっとよい策が出ないか期待するが、発言する者は居ない。

 コンラート皇子の無理な攻撃案に反対せず、こうして状況が悪化した今は再び保身のために沈黙するベルレアリ公爵やオードラン公爵らが恨めしい。

 

「これにて軍議は終わりじゃ。最後に撤退するのは親衛軍である。公爵勢は移動の準備を始めるのだ」


 エンリケウ・ドラージュ公爵に何やら耳打ちされてコンラート皇子がそれだけ命ずる。

 皇子はドラージュ公爵に導かれて別室に移動していく。

 執務に当たるということであったが、音楽師の演奏を聴きながら妻のアデライドへ手紙を書くものと思われた。

 だいたいコンラート皇子という人は飽きっぽくて、一つのことを集中して行える人間ではなかった。


 ミュラーは疲労から目頭を押さえる。

 この無理な冬の攻勢によって、またしても損失が出ていた。

 戦うまでもなく厳しい気候により、多くの将兵が病気になってしまった。

 無謀な反撃によってリキメル王子を大いに困惑させたであろうが、結局はただそれだけの成果だ。

 危険な撤退戦がこれから始まる。

 不安になりそうな心を叱咤する。

 仮とはいえ栄えある皇帝国の執軍官たるもの、最後の最後まで正しく命令しなければならない。


 ミュラーは慌てて親衛軍の元に戻り、副官のウルズファルに命じて地図を用意させる。

 千人将など幕僚たちと今後の行動を検討する。

 現在のところ王道国の王子たちの中で、最も派手に動いているのはシラーズの軍団だった。


 僅かな情報によるとシラーズ王子は最近になって前線に派遣されてきた新勢力である。

 まだ実戦に不慣れなためか、ガイアケロン旗下の将軍ドミティウスが五千ほどの兵士を引き連れてシラーズの支援に当たっていた。

 それは援護というよりも、ほぼ同伴と言うべき緊密さである。

 彼らは姿を隠しもせず、堂々と行動をしている。しかし、大規模な合戦は挑んでこない。

 これは陽動のためと推測できた。


 それから第一目標であったリキメル軍団らしき集団を先日、ついに発見していた。

 ケルク市から八日以上はかかるであろう森林の中。

 総兵力は不明だが、以前から探らせた情報をもとに予測すれば、多く見積もっても一万五千人ほどではないだろうか……。


 そして、ありとあらゆる注意を払うべきガイアケロンとハーディアの軍団。

 肝心の奴らがどこにいて、どこを攻撃目標にしているのか、これが分からない。


 方々に偵察隊を派遣しているのだが、悪天候が影響して結果は出ていない。

 それどころか敵に迎撃された偵察隊もいるらしく、再び帰らない部隊も複数ある。

 こうなると偵察すら満足にできないという最悪の状況になる。


 なに一つと間違いの許されない局面。

 もはやミュラーは自分自身で調べることにした。

 撤退は有能な副官であるウルズファルに任せて、自らは二十人ほどの選抜者で小隊を編成する。

 すぐに軍陣を馬に乗って飛び出した。

 雪に覆われた平原や山地を抜けて目指すは、手頃な山の頂上。

 視界の開けたそこからなら何らかの兆候を掴めるのではないかと想像する。


 一日ほど移動したあと、強引に登山をした。時間が惜しい。

 昼ごろ、山頂に着きミュラーは森林混じりの平野を観察する。

 意外なほど近くに集団が動いていた。

 望遠鏡を取り出して覗いて見る。


 背筋の凍る思いがした。

 間違いなくガイアケロン軍団だった。

 理解していたつもりだが、やはり恐ろしい。

 総兵力は分からない。槍を持った歩卒が列をなして行進していた。


「ミュラー様。どうしますか!」

「急いでコンラート様に注進する。おそらくガイアケロン軍団はシラーズ軍団に我々の注意を向けさせておいて、死角方向から戦いを挑むつもりであろう。あるいは退路を断つつもりか。後退中を襲われたら大変なことになる」


 ミュラーは寒さの中、夜通し移動して皇帝親衛軍の元に戻ると、公爵勢の後退はあまり進んではいなかった。

 急いでコンラート皇子の元に飛び込む。

 コンラート皇子は公爵たちと晩餐の最中であった。

 広い食卓の上には肉やスープが湯気を立てている。


「コンラート様! ガイアケロン軍団を発見いたしました。ケルク市の北東十五メルテほど地域にて」


 するとコンラートは目を剥きだしにして激しく驚き、手を震わせた。

 瞬間的に落ち着きを失っていった。

 顔色まで変わってくる。

 真っ青だ。


「このミュラーめはこれより皇帝親衛軍の残余を率いて遅滞作戦を開始します。コンラート様は公爵勢を率いて例の場所に移動してくだされ。かの地にて、しかと布陣すればガイアケロンは無理攻めをしてこないかと」

「ミ、ミュラー! わ、儂は皇帝国を救わねば、ならぬっ。そうだ。こんなところで覚束ない戦いをしている場合ではない! あの悪鬼を仕留めるには、ここでは分が悪いぞ。あとは貴様が処置せいっ」


 それだけ言うとコンラートは直ぐに天幕の奥に駆け込んだ。

 処置などと言い残し、具体的な指示が何もなかった。

 それならそれで構わないと考え直し、ミュラーは軍団の統率に明け暮れる。

 たった八千人ばかりに減った親衛軍を率いてガイアケロン軍団が移動しているらしき地点へ急行した。

 今度という今度は生きては帰れないかもしれない。



 コンラートは取り乱して命じる。

 急いで馬車と護衛の騎馬隊を編成しろと。

 もう心は荒れ狂う嵐のようであった。

 

 悪鬼ガイがやってくる。

 考えてみればこのような敵地の真ん中で、ろくに防衛もされていないところを奴に襲われたら……。

 今度こそ殺されてしまう!


 そう思いつけば、もはや移動するしかない。

 それしかないのだと確信に変わった。


 エンリケウ・ドラージュら側近たちだけで、とにかく西へ行こうと決心する。

 後のことはエリアスや他の公爵たちに任せればいい。

 公爵勢を指揮するのは彼らの義務だ。


 コンラートは急遽、仕立てさせた馬車に乗り込んだ時に思いつく。

 そうだ。なんならさらに後方にあるエメドレ伯爵の城まで行ってもいい。

 我ながら良い考えだと膝を打つ。

 エメドレ伯爵はコンラート派閥の一人だった。

 彼は皇子の訪問をさぞかし喜ぶことだろう。配下を慰問してやるのも重要な仕事だ。


 ミュラーは配下、八人の千人将と八十人の百人隊長を整列させて命じる。

 規律正しい皇帝親衛軍は損害を受けていたとしても命令に従うのだった。


「我々親衛軍はガイアケロン軍団の行動を少しでも遅らせる。ただし、こちらが孤立して全滅するようなことはしない。最後まで私が指揮を執る。ついてまいれ!」


 北西へ進むこと一日。

 早くもミュラーは再びガイアケロン軍団に遭遇した。

 接近戦は極力、挑まないと厳命してある。

 付かず離れず、弓などの攻撃に徹することにした。

 少し戦っては離れ、少し戦っては再び逃げる。これを繰り返す……。


 ミュラーは最前線で戦場を見渡す。

 ガイアケロン軍団の最先鋒は軽装歩兵だった。

 弓兵と投石兵が主体で、そこへ槍兵が混ざっている。

 彼らは一言も無駄口など喋らず、黙々と目標に向かって急ぎ足で進んでいた。

 ミュラーの妨害行動に翻弄されずに、どうやら命令されている方向へ侵攻することだけを心得ている。


 まるでガイアケロンの指先そのままに実行する兵士たち。

 実に不気味な軍団だった。

 巨大な兵員の塊が、一個の強烈な意志によって完全に統制されているのが明確に伝わってくる。


 ミュラーは包囲される前に脱出したが、ひたひたと常に背後から接近してくる敵を、どこまで振り払えるか分からなくなってきた。

 午後を過ぎ、夕刻が迫ってきた。

 一休みできるかという村の近くに到達したが、小川を挟んだ向こう岸に、やはり沈黙したまま整然と侵攻を続けるガイアケロン軍団が見え隠れしていた。


 揺れる炎が見えるのは、松明を灯しているからだった。

 彼らが灯り用意しているということは、夜通しでは無いにせよ深夜まで移動を続けるということだ。

 ミュラーは怒りと戦慄を感じつつ命じる。


「皇帝親衛軍! 今日は寝れないと知れ! 朝まで走らねば捕捉されるぞ!」


 疲れを見せ始めている歩兵を叱咤しながらミュラーは最後尾で指揮を続ける。

 これが殿軍というものかと、悪い夢のように感じた。

 もし今夜、戦死することになったら悪い夢が永遠に続くことになる……。




 三日間に渡って、そのような撤退とも遅滞作戦とも言えるような苦しい戦闘が続き、ミュラー率いる皇帝親衛軍残余はレインハーグ領の西端に到達した。

 そこはエンリケウ・ドラージュが提案した有利な戦場のはずだったのだが……。


「陣立てが出来ていないではないか! 公爵勢はどこへ行ったのだ!」


 ミュラーは苦悶の呻きを上げた。

 ガイアケロン軍団が接近していると何度も急使を派遣したのに公爵勢は塹壕を築くのでもなく、柵を作るのでもない。


 あるのはどこの者とも知れない兵らが、漫然と形成した薄い戦列だけであった。

 どういうことなのだ。

 新たな戦場で地の利を得て、王族連合軍団を迎撃するという計画だったはずだ。

 指揮官がいるらしき軍陣に飛び込んで事情を聞きだす。


「ノルト・ミュラー執軍官。方針が変更になりました。公爵の皆々様方はエメドレ伯爵領にて新たに軍勢を盛り立てるとのこと。コンラート皇子様もすでに移動されております。当地へは攻撃の恐れが少ないため、小勢で防衛ができるとのこと……」


 ゲラン公爵に雇われた傭兵団の団長はそう答えるのみ。

 この場には寄せ集めの傭兵、それから傷痍によって一線から後退させられた親衛軍。徴兵された農民兵などがいるのみ。

 オードラン公爵の軍勢が五千ほどいるが、ここまでガイアケロン軍団が来るとは信じていないようであった。

 それよりも軍勢全体に、ケルク市への困難な攻撃が止めになって安心したような気配が満ちていた。


「ただちに部隊を集めて戦列を作るのだ! それから応援をコンラート皇子様に要請する。ガイアケロンを筆頭に王道の王族たちがここへ攻め込んでくるのだぞ! それをこんな一万にも満たない兵団で防衛するなど不可能……」


 ミュラーが発狂せんばかりに檄を飛ばしていると平原の先、森林の間から、一糸乱れぬ軍勢が押し寄せていた。

 これまで姿の見えなかった猟騎兵までもが出現している。

 ミュラーの見たところ、騎馬五千、兵に至っては万を超えるのがはっきり視認できた。

 ここで戦ってしまえば全滅しかない。


「執軍官ミュラーからの厳命だ。付近の部隊に通達。出来る限り西へ逃げろ。責任は全て私が取る」


 王道国の軍勢を見て、急速に動揺が広がっていた部隊に伝令兵が走る。

 戦列はそのまま崩れ去り、勝手に遁走を開始した。

 ミュラーは死を覚悟して最後尾の防衛に当たる。

 逃げる友軍のため犠牲になってでも敵を食い止める決意だった。

 信頼する副官ウルズファルが歩いてくる。


「ミュラー様。いよいよ最後ですかな」

「仕方あるまい。王道の英雄相手に、この凡俗がやれるところまでやってみせるぞ」


 千人将たちへ死守命令を発し、戦列が組まれていく。

 いよいよ戦端が開かれるかと思われた直前、ガイアケロン軍団は急激に移動速度を落としていく。

 やがて完全に停止してしまった。




 アベルはもう一歩のところでコンラートを取り逃がしたのだと知った。

 ほんの一日か半日の差であった。

 悔しさで怒りが湧いてくる。


 このままエメドレ伯爵の領内にまで侵攻して、あのくだらない皇子を追い詰めてやろうという気になってきた。

 配下の強襲偵察隊をさらに前進させようとしたところ、ガイアケロン本隊から伝令騎兵がやってくる。

 エメドレ伯爵領内は不明な場所が多いため、ここで進撃を中止せよ……というものだった。


 ガイアケロンは大胆不敵だが、それは細心の慎重さと同居したものだ。

 情勢のはっきりしていない地域には進軍しない。

 攻勢はこれで終わりだ。

 アベルは平原の彼方を見て呟く。


「コンラートめ……。いつか滅ぼしてやる」






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