第122話 歴史の残骸
小舟による旅は三日目。
今日、目的地に着くはずだった。
地形を知る案内人など居はしない。
地図と事前に聞き取り調査した情報が全てだった。
「なんだ。お前ら随分と仲がいいな」
船上、そう声を掛けてきたのはオーツェル。
彼の服装は黒地に銀糸で精巧な刺繍が施してある長衣だった。
防具の類はつけていない。
武器はダガ―を一本、腰帯に差し込んである程度。
贅沢なのか地味なのか良く分からない服だが、魔術師的に言えば重要な懇談の場に相応しい盛装であるらしい。
寄り添う姿でいるアベルとカチェにオーツェルが皮肉げな笑みを与えている。
「危険な任務、冷たい風のなかでも楽しそうで羨ましい。こっちは痩せた体を野ざらしさ。哀れなものだろう」
「じゃあ、オーツェルさんも隣に来ますか。肩組んであげましょう」
「バカ野郎。私はそんな野暮じゃない。アベルと抱き合うぐらいなら酒でも飲んでいるさ。だいたい紫のお嬢さんが私を凄い眼で睨み付けてくるから寛げそうもないが……」
「わたくしは元々、こういう眼でございます」
「おっと。怖いな」
アベルは思わず同意の頷きをくれた。怖いのである。
オーツェルは自分の肩を、ちょいちょいと小突く者に気づく。
けむくじゃらの獣人。
アベルの奴隷で名はワルト。
なかなか忠実な獣人で荷物運びをしたり、時には野鳥を捕らえてきて新鮮な肉を供給するなど実に重宝な奴だった。
「なんだ。獣人」
「寒いなら、おらっちの胸を貸すっちよ」
「固そうだな……、拒否させてもらう」
「ふさふさだっちよ。遠慮しなくてもいいずら。さぁ!」
「くそっ! アベルが羨ましいぞ」
正午ごろ、アベルは湖沼の先に建築物を認めた。
輪郭すら定かでなくなっている石造りの、風雨に長くあったため苔むす岩壁のような風合いを得ている建物。
あれこそ目的地である祭祀殿らしい。
そこはアベルが聞いたところ、かつて全世界を統治した始皇帝そのものを崇める集団がいまだ細々と存在していて、そうした者たちが祭祀に利用する数少ない遺跡だという……。
ただし現在は番人が一人いるだけで、ほとんど無人に近い状況だというので会合地に選ばれた。
まず、アベルやカチェ、それにオーツェルなどの乗った小舟が黒い旗を掲げて接近する。
用心のためガイアケロンとハーディアの乗る船は、やや離れた湖上に隠れていた。
祭祀殿に赤い旗が翻っている。その旗は問題なくテオ派閥の用意した人質が到着していることを示していた。
事前に決めてある手筈通り。
アベルは警戒心を最大に研ぎ澄ませているが、何もおかしくない。
テオ皇子とバース公爵は人質として破格の人物を提案していた。
それはノアルト第三皇子であった。
まず、ガイアケロン側がノアルトの身柄を受け取る。
アベルがそれを確認して本当にノアルトならば、先に彼の身柄を預かったまま二者会談に移る。
ガイアケロンにとって安全かつ有利な出会い方であり、やはりテオ派閥の揺るぎない秘密同盟への意思を感じるのだった。
アベルとカチェは胸甲や冑などを身につけて、入念に武装もする。
もし襲撃があれば全力で反撃する決意を固めてあった。
舷側が船着き場に軽くぶつかる。
アベルは身軽に飛び降りて上陸した。
この祭祀殿のある場所は例外的に岩盤が露出している地形らしい。
足元の泥は浅い。
これが、ひとたび湖畔の泥濘に足をつけてしまえば最後。
膝から股まで泥に沈み、協力者がいなければ抜け出せないらしい。
「ワルト。どうだ。変な臭いがしたりしないか」
「何人か人の臭いがするっちねぇ。それから金属の臭いも。おら、様子を見て来るだ!」
ワルトが身軽に走って、たちまち祭祀殿に辿り着く。
周囲を確認したワルトが戻ってきた。
建物の中から臭いがするが、特におかしなところは無いと言う。
「カチェ様。オーツェルさん。念のため祭祀殿の外で待っていて。ワルト、一緒に来てくれ」
感覚に鋭敏なワルトは奇襲防止に役立つ。
アベルは警戒しながら祭祀殿の中に入る。
薄暗い祠のような内部。
そこには約束通り、三人の人間がいた。
神経質そうな眼つきの鋭い男がいる。
禁欲的な雰囲気が削げた頬に感じられた。
ノアルト皇子だ。間違いない。
隣はすらりとした身の丈に赤褐色の長髪をしたベルティエ、それに厳しい視線をした中年の男性。
武帝流師範のヴィム・クンケルだった。
アベルは一人駆け寄る。
まずノアルト皇子に挨拶した。
右手を胸に当て、正式な貴族礼をする。
「ノアルト様。御自ら人質の役目を引き受けてくださるとは、このアベル恐懼の至り」
「アベル! ガイアケロン殿とハーディア殿は来ているのか!」
「確かにいらしています」
「おお。よくやった。任務をやり遂げたな」
「まさか高位の人質としてノアルト様が応じてくださるとは思いませんでした。交渉が捗った最大の理由です……。それでは早速ですがこちらの船に乗っていただけますか。ノアルト様を届けたら今度はいよいよガイアケロン様がここへ来ます。憂いなくテオ様と語らっていただけることかと」
アベルはノアルトを促す。
ベルティエが逞しい笑顔でアベルの肩を叩く。
「アベル。見事だ。単身、敵地に潜入して困難な交渉を成功させるとは。まさに男の仕事だ」
「……。それより本当に裏は無いですね? 実は隙を突いて襲うとかいう作戦では。密書でも伝えましたが、ガイアケロン王子は僕などを遥かに超えた強さです。絶対に小細工はやめてください」
アベルは緊張しながらベルティエに問う。嘘の気配がないか注意する。
バース公爵へ発信した情報としてガイアケロンとハーディアの個人としての戦闘能力を伝えてある。
下手な襲撃は返り討ちとなり取り返しのつかない損害となる、そのように強く警告しておいた。
しかし、それにも関わらず、ガイアケロンを襲うつもりなら機会を見てノアルトの首筋に刃物を当てなくてはならない。
皇子を本当の意味で、人間の盾にしてガイアケロンに危険を知らせる。
その際には火魔法を使うことになっていた。
やれば裏切り者として皇帝国テオ派閥からは永久に罪人とされるだろうが、そんなことはどうでもいい。
ベルティエは誠実な表情で答えた。
「それは無い。絶対だ。これはテオ様、ノアルト様、バース様の願いである。おそらくこれが秘密同盟を結ぶ最初で最後の機会になるだろう。それよりガイアケロン側にこそ裏はないな?」
「このアベルが命を持って証します。ガイアケロン様はテオ様と会談を望んでおります」
武帝流のクンケルは静かだが厳しい顔つきで一言も発していない。
かつて鍛錬所で会った時よりもさらに凄味がある。
それはそうだろうとアベルも感じる。こんな場所にテオとノアルトという派閥の柱が出張っていた。
まさに運命を賭けている最中だ。
アベルが見れば、ノアルト皇子らは三人ともきっちり鎧で身を覆い、かつ帯剣していた。
別に降服するわけではないから武装は仕方ないが……、それでも万が一の時は死ぬまで戦うつもりだろう。
決意を漲らせた男たちが雁首を揃え、必然的に張り詰めた圧迫や殺気に似たものが発せられている。
アベルたちは祭祀殿の表に出る。
背後から、うっという呻き声が上がる。
アベルが驚いて振り返るとノアルト皇子が唇を
それから小走りで移動を始めてしまう。
アベルは何事かと付いて行くが、皇子はカチェの前で止まった。
顔を凝視している。対するカチェは一歩も怯まず堂々としていた。
唇を引き結び、いかなる難敵にも怯えない沈勇なほどの態度だった。
たった一人の少女なのにひどく決然としていた。
「ノアルト様。ご機嫌麗しゅう」
「なにがだ! カチェ! 黙って消えて、しかも、こんなところに……。信じられない。アベルと共に行動していたのか」
「はい。ハイワンド一族と皇帝国の命運をかけた任務です。やらいでか……といった気持ちでございます」
苦い表情をしていたノアルトはカチェの答えを聞き、少しだけ和らいだ顔をした。
「ともかく君が無事で良かった。本当に」
「それではノアルト様。わたくしと船に乗ってください。少しばかり離れた所におわすハーディア様の元で、お
「カチェが共にあるのなら安心できるというもの。さて、人質になるとするか」
ノアルトはカチェに促されて乗船した。
それから漕ぎ手が櫂を動かして、二人を乗せた小舟が岸から離れていく。
離れた場所で隠れているガイアケロンたちのところへノアルトが人質として届いたら、向こうからもすぐに移動を開始するだろう。
それまで時間が多少かかるためアベルたちは祭祀殿へと引き返す。
クンケルとベルティエは掲げてある赤い旗を振っている。
あれは事前の合図でノアルトが移動したことを知らせるものだ。
ワルトは言われずとも役割を心得て、周囲の警戒をしていた。
アベルとオーツェルは祭祀殿の内部を念のために調べてみる。
雨風の趣が年輪のように積み重なる半ば朽ちたような祠、数十人も人が入れば一杯になってしまいそうな狭さだった。
訪れる者は皆無に近いらしく、侘しい佇まいそのもの。
番人ですら祭事に際して来訪するのみだという。
壁に錆び果てた風合いの壁画や浮き彫りなどがある。
非常に古い書体で始皇帝の戦争や壮大な事業が記されてもあった。
アベルは待っているだけでは居心地が悪く、何となくそれらを読む……。
始皇帝が十万の大軍を率いての決戦、中央平原での勝利。
旧王や諸侯を尽く殺すが、しかし、信頼する将も戦死してしまう。
それから狂魔獣レブカ・レブトの討滅。
かなり読み難く、おそらく全体の半分ほどがやっと理解できている程度だろうと感じた。
――始皇帝……。どんな男だったのかな。
大帝国が影も形もない頃から、その男は始まりの皇帝を自称した。
まるで狂人の戯言だが……しかし、実現した。
「そう言えば始皇帝の実名すら伝わっていない」
アベルの呟きに答えて、それは何故だと思う、と聞いて来たのはオーツェルだった。
アベルは自分の知っている知識を呼び起こす……。
「僕はライ・カナの著した国家誕生と滅亡の歴史という本を読みましたが、その根拠は書いていなかったはずです。名が不明な理由は知りません」
「私もついさっきまで知らなかった。しかし、いま知っている。そこの壁に刻んであるぞ。一番、右端から三行目」
「古い書体だから読み難いです……えっと……。然して始皇帝、仇なす部族をば一人残らず殺し尽くす。そののち家郷に戻るも、これ忌み子と呼ばわれ、欺き毒を与えられるなり……かな?」
「次は私が読み上げてやる……。始皇帝。おのれが里を燃し滅す。親類縁者、族長までも殺めるなり。ゆえに始皇帝の名を知るもの一人残らず失せにけり」
「……」
「そののち最初の兵ども集めるに至る。忠なる賢臣アスならびに希有なる癒し手トライアを率い大征服を始められるなり。いと賢きアスの…………、なんだ、劣化していて読めないな」
アベルは固唾を飲む。ごく短い記録に凄惨な血の気配が滴るようだ。
色々と考えてしまう。
どうやら始皇帝とは、毒を盛られたあげくに自分の家族を故郷ごと消滅させたらしい。
もっとも、この壁に描かれた伝承が本当に正しいのかは分からないが。
だが、始皇帝は征服事業の最中、数すら分からないほど、たぶん数百万人もの夥しい人間を殺したのは間違いないとだけ伝わっている。
それからこの壁画においては賢臣アスと呼ばれている者。魔女アスのことだろうとアベルは考える。
アスという名の人物は古代史にしばしば登場する。
しかし、出現時期と地域にだいぶ開きがあること。古い記録なので不確かであることから、当然のように同一人物と見なさない。
一部の歴史学者によって伝説の魔法使いとまでいわれているアスが、現在も生き長らえていると考える人は少ないはずだった。
ライカナのように危険を犯して魔獣界まで捜索する者など奇特の極みとでも言えて……、滅多なことではない。
あるいは凄腕の冒険者や遺跡捜索者の中にはアスの存在を多少なりとも嗅ぎつけた者がいるかもしれない。数百年の間にはいたことだろう。
しかし、あの魔女が、ただ金目当ての墓暴きとも野盗とも呼べる者をどのように扱うであろうか。
アベルはアスの戦闘能力を想像する。
きっと多彩な、誰も見たことが無いような魔術を駆使してくる。
ほとんど初見殺しの嵌め技……。
歴史の陰に屍が積もっていた。
「オーツェルさん。皇剣について壁に何か記されていませんか」
「始皇帝の剣か。あの伝説の?」
「そうです。有名な伝説のあれです」
「はははっ。何だ。アベル。大人だと思っていたが意外と子供じみたことに興味があるな。そんな皇剣なんてものが実在していれば、とっくにどこかに出てきているさ。だが、世に出回ったのは偽物でしかない。帝都の古道具屋に行けば始皇帝由来の品などいくらでもあるが、すべて贋物だ。伝説の剣だとか槍などというものはそんなものさ。まぁ、たまには魔剣と評しても足るような一振りがあるそうだが」
「僕は学者のライ・カナと友誼を結んでいるんです。本名はリリーナ・ライカナ・ヴィエラという魔人氏族の女性なのですが」
「なに。あの高名なライ・カナと知り合いなのか」
「それでライカナさんは皇剣を探しているのです。理由は世界平和の為。この乱世を治めるに値する人物へ皇剣を託すのが目的です」
「……名立たる歴史学者にしては
オーツェルは首を振り、そう呟いたものの足早に壁の文字を解読していってくれた。
テオ皇子とガイアケロン王子はまだ来ない。用心のため離れた所に隠れているせいだと思われる。
クンケルとベルティエは微妙な緊張感を持ちつつ祭祀殿を出たり入ったり、繰り返していた。
オーツェルは祭祀殿の壁廻りを一巡して腕を組んだ。
船上では寒さと警戒心から絶えず不機嫌そうだった彼は、知的好奇心を刺激されているらしく微妙に楽し気だった。
「だめだな、アベル。皇剣の行方については記されていない。だけれど壁画の終わりを見てみろよ。何かの魔術を行使する始皇帝は剣を手にしているが、これこそ皇剣ではないのか」
「じゃあ、皇剣もまた始皇帝と共にどこかへ消え失せた?」
「さてね。私は教養として歴史を学んだが、遺物については詳しくない」
「……いや、でも隣の壁画よく見てください。ついに諸王を残らず殺して大陸を征服した記念に戴冠式を挙した様子が描かれているようです。付記は僕にも読めます……。戴冠の儀となり始皇帝、証しとしてスメラノツルギを創り賜う。その剣、貴く七色極彩に輝くなり」
もはやすっかり色褪せているが、かつては虹のように彩色されていたらしい皇剣の絵が残されていた。
それ程までに美しく煌めく特徴を持っていたと思われるが、その剣の絵は以後現れない。時空間魔術を発動させた始皇帝が消えてしまう情景にも、描かれてはいないのだった。
アベルとオーツェルは顔を見合わせる。
しかし、二人とも首を捻るばかりだった。
もはや時の彼方の出来事……。
巨大な存在であるにも関わらず、始皇帝に纏わる事物は亡失している。
それというのも大帝国の分裂戦争があまりに激しすぎたからだった。
強引かつ急激な統一事業は始皇帝というカリスマの力のみで成立していたゆえに、それが無くなった途端、爆発的に壊れた。
約三百年間ほど継続したその大戦争によって、主だった都は全て灰塵になるまで破壊されてしまったという。
同時に多くの書物も焼かれて無くなった。
新たに国が出来ては滅亡するのを繰り返し、その末に皇帝国と王道国が建国される。
しかし、血で血を洗う争いの果てに生まれた二国は、宿命的に緊張と緩和を繰り返すことになった……。
偉大な理想とかつてない繁栄を実現させた大帝国。
その残骸である祭祀殿。
ここで、二国の運命を変える会談が近づいていた。
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