第121話  神を殺す男、神に祈る少女

 




 薄暗い鏡に少年とも青年ともつかない男の立ち姿が映っていた。

 アベルは自分を見る。

 欲望に憑りつかれた男。


 暗鬱な視線の奥、群青の瞳が爛々と熱気を放っている。

 まるで想念そのものが鈍い光を放っているような……。


 望みがある。

 父親殺し。

 生まれた時から己に理不尽な苦痛を与えてくる男を、殺さなければならない。

 だが、既に殺した。

 もう、あまりにも遠いところで起こったはずの悪い夢のような出来事。


 飽き足らない……。

 まるで飢えが癒されない。

 だからガイアケロンに協力する。

 彼の望みを叶える。

 そして、今度こそ心の奥まで満足できるか確かめる。


 俺はどこにも所属できない異端者だった。

 たとえ生まれ変わっても。


 しかし、孤高を気取ったところで結局は人の間で生きるしかない。

 取り引きをして、人に与え、逆に受け取り、日々をやり過ごす。

 そんな風にして生きていかなければならない。

 でも、たとえばイースだったら……。


 自分には出来ない気高い行為を平然とやってしまいそうな気がする。

 たった一人、誰とも妥協せず、自他を騙さず、そのまま生きる。

 完璧な在り方。


 いや、全て妄想なのかもしもれない。

 イースとて封建社会の中、許される領分において生活していたにすぎない。

 しかも、差別され疎まれながら。少しも自由ではなかった。

 ぎりぎり許される形に自分を保ち、むりやり己を社会に嵌め込んでいた。


 ただ、ひたすら俺が一方的に美しい幻を見ていたに過ぎないのか。

 自分にない清らかさを勝手にイースへ感じ、勝手に祭り上げて……。


 だが、どこまでも心を捉えて離さない女。

 全てを与えてくれようとして、ところがこちらは怯み、触ることも出来なかった。

 愛に似たものすら感じさせてくれたイース。

 

 考えてみれば生まれた時から、決して手に入らないものを追い続けていた。

 そして、これからもだ。


 正義も悪も関係ない。

 どんなものが邪魔しようとも、終わりまで、果てまで、突き進むだけだ。

 神なんか殺してやる。

 

 忽然と鏡の奥に女が現れた。

 淡い金髪が豊かに流れている。

 完璧に整った眉目。

 澄んだ青空のような瞳。

 あまりに美しすぎるから……どこか女性すらも超えてしまった気配を漂わせていた。


「魔女アス」


 アベルが振り返ると、部屋の隅に漆黒のローブを纏った女がいる。

 いつも、ふと出現して、また消える。

 観察しているのか、からかっているのか。

 悶え苦しむ男を、高みの見物ときめている……。


「アベル。神を殺すの?」

「……できるものなら」

「素晴らしいわ。きっと貴方ならできる。父親を殺した男だもの」


 そう嘯く女は、うっとりと微笑んでいた。

 まるで暗闇そのものに見えるローブの前身頃が開けると、ほとんど裸身に近いような、布の切れ端みたいなもので辛うじて局所が隠された肉体が露わになる。

 妖しくぬめった乳房や太腿がチラつく。

 触りたくなった。舐めたくなった。


 黙っていれば神聖な巫女か女神に見えるだろうに。

 淫蕩な笑みで誘っていた。

 どんな売春婦よりも下卑た情欲を掻き立てる。


「また旅立つのね」

「ああ、一所ひとところに留まらず、また次の場へ。その繰り返しだ」

「欲しいものは手に入りそう?」

「分からないよ。昔っから……欲しいものがあっても何一つ得ることができなかった。そうでなけりゃ、どこにいっても計算されて平均的な、予測通りのものしか無かった。俺は欲張りだ。せっかく与えられたもので満足してりゃいいのに。地獄に堕ちるな」

「至福は地獄を突き抜けたところにある。満足などしてはだめ。尽きずに求めなさい。餓えて走りなさい」

「手に入るか」

「私が導いてあげる。どんなことでもしてあげる」

「……」

「私こそ望みが叶うのではないかと期待している。やっとこの世界に存在していたことへ意味を見つけられる日が来るような……、貴方だからこそ見せてもらえるのではないかと」

「……」

「時間や空間も超えて、生命と魂の求めるものを……。まだ見たことの無い景色を一緒に見に行きましょう」


 アスがアベルに近づく。抱き付いてきた。

 頭の奥がじんと痺れるほど甘い女の匂い。鼻腔に広がる。

 手の平に尖った乳首がぶつかる。

 熱い女の肌が押し寄せてきた。


 背筋に電流が走ったような快感。

 しかし、動かなかった。

 動けなかった。

 記憶から蘇るイースの野性的でありながら貴くもある美貌や肢体。

 一指として自由を失う。


 欲望と希求の間で金縛りのように立ち竦む、救われない愚かな男。

 するとアスは、さも可笑しそうにニヤニヤと笑って離れていく。

 無言のまま部屋の扉を開けて出て行った。


 少し遅れてアベルも部屋を出る。

 暗い廊下。

 奥から足音がしてきた。

 現れたのはアメジストのような麗しい瞳をした少女。カチェだった。


「……」

「アベル? どうしたの」

「いま、そこを誰か通らなかったですか?」

「いいえ。誰とも擦れ違わなかったわ」

「そうですか」


 カチェが怪訝な顔をして、それからアベルの腕を取る。

 服の匂いを嗅いだ。

 カチェの形のいい高すぎもせず、むろん低くもない鼻がふんふんと動く。

 直後、はっとしたように表情が変わる。


「いつかと同じ! 前にも嗅いだことがあるような気がする。女の人の匂いでしょ、これ!」

「いや、へへへ……。香水ぐらい男だってつけますよね」

「じゃあ男と抱き合っていたというの?!」

「えぇ? そっちの趣味はまだないですよ。カチェ様」

「あってたまりますか。軍隊にはそういう人が多いですからね。心配だわ」


 きっとアスは逆方向から出て行ったのだろう。

 アベルは苦笑して歩く。


 季節は晩冬。

 今日は旅立ちの日だった。

 ガイアケロンがテオ皇子と秘密の会合を持つ。

 ついにここまで状況を持ってきた。

 冬の間、何度か密書をやり取りして計画を具体的にした。


 ガイアケロンとハーディアは軍団長という要職にあるため長期間の不在に際しては、様々に手を打たなければならなかった。

 まず邪魔な軍目付けであるヒエラルクを遠ざけることにして、それに成功した。

 コンラート軍団が性懲りもなく、今度は第二王子リキメルを攻める素振りを見せている。


 コンラート軍団は惨敗したに近い有様だったが、さりとて負けたことを認めるわけにはいかなかった。

 だから犠牲はあったもののガイアケロンの攻勢を防ぎ、追い返して見せたと喧伝している。

 さらに続けてリキメル王子も叩いてみせると虚勢を張った。

 その結果の攻撃行動だった。


 そこでガイアケロンは弟シラーズを促した。

 一級の武将であることを証明する、またとない機会だと。

 誇りと名誉に飢えているシラーズが見逃すはずはなかった。

 さっそく自分の軍団を率いて兄のリキメルが防衛している旧レインバーグ伯爵領へと向かう。

 兄であるリキメル王子を助けるためではなく、追い落とすために。


 千載一遇の時機にシラーズは勇んで出撃した。

 ガイアケロンは親切にも腹心の武将ドミティウスを援軍に付けた。

 だが、これは保険だ。

 シラーズが下手を打って負けたら事である。

 暴走させないための綱。危険を知らせる鈴だった。


 当然、合戦となれば軍目付けのヒエラルク・ヘイカトンも同行する。

 もともと彼はリキメルを見極めるために父王イズファヤートから派遣されてきたとガイアケロンは想像する。

 戦意の低下した王子など無用の長物。

 新しい王子シラーズと交換する。疲労した部品を取り換えるのと同じ理屈。


 雪の積もった大地を、張り巡らされた策謀に動かされた軍団が起つ。

 その隙にハーディアとガイアケロンも隠密行動を開始した。

 領地巡回に出ると告げて、実際にはごく僅かな五十人ほどの精鋭と共に移動した。

 アベルたちもその中に混ざっている。

 雪の中、馬の息が威勢よく煙のように吐き出されていた。


 一行は目立たないよう北西へと進み、森を抜け、山岳を越え、湖につく。

 湖沼は凍り切っていない。

 船を借りて、さらに少ない人数となり、ほぼ真西へ水上を移動する。

 身体を痛めつけるような寒風の中、見知らぬ湖を移動するのは楽なことではない。

 リーマ湿地帯と呼ばれる地域は泥沼の連続であった。


 大地と呼べるようなものはどこにもなく、あるのは泥濘ばかり。

 ただし冬だけは表土が凍って、多少は歩ける。

 それでも、うっかり油断して泥の深いところに嵌ると命取りとなる。

 いわゆる底なし沼……。


 二隻の小舟に合わせて二十人が乗っている。

 ガイアケロンとハーディアが選りすぐった戦士たち。

 決して裏切らない仲間らの中に痩せた男がいた。


 オーツェル・エイダリューエ。年齢は二十九歳。

 濃緑の瞳に落ち着いた知性を感じさせる人物。

 くすんだ暗緑色の髪の毛を適当に伸ばしていた。

 美男子ではない。

 顔は似ていないがカザルスのような学究の徒に近いとアベルは思う。

 やや猜疑心の強さを感じさせる視線の持ち主。

 

 参謀という立場上、そうした雰囲気を纏うのは仕方ないことなのかもしれない。

 また、かなりの名門貴族の出身だと聞いた。

 王道国に無数とある貴族の中でも、特に抜きん出た名門五家がある。

 その内の一門がエイダリューエ家らしい。


 オーツェルには秘密が打ち明けられている。

 この移動の本当の目的を知る数少ない男。

 他の同行した戦士たちは移動の真意を知らされていない。

 これはガイアケロンとハーディアによる極秘の偵察だと言い含められていた。


 皇帝国に奇襲するための重要な下調べで、決して人に話してはならない……、そのような嘘を教えられている。

 誰も疑っていない。

 そんな危険な任務を成功させようと勇気を漲らせている。


 布の天幕が付いた小舟は櫂と帆で湖沼地帯を進む。

 いつもどこかしら靄や霧が湧き出ていて、視界は良くない。

 渡り鳥、鶴の類が優雅に空を舞っている。

 岸には貂や狐といった小動物が姿を見せていた。

 人界とも呼べないような手付かずの自然があるばかり……。


 濁った沼に薄氷を浮かばせるほどの冷たい風が吹き、アベルの前に座したカチェが身を縮めて寒そうにした。

 少し震えている。

 紫紺の髪が寒風で舞うように散った。

 柔らかそうな頬が蒼ざめ血色を失っている。


 アベルは多少、気恥ずかしさがあったもののカチェに身を近づけた。

 肩を抱き寄せる。

 それから撫でた。


 自分について来てくれたカチェに対する感謝や親しみのつもりだった。

 もし沼に転落したらことなので鎧は外している。

 冷たい布越しに、少女というよりも女そのものの質感が伝わってきた。

 従姉であり戦友であり幼馴染でもあり……、時として妙なほど女性であるカチェ。

 あまりも長い時間を共に過ごしている気がする。


「アベル……」


 カチェはアベルの手を握り、幸福を意識する。

 今この時、幸せである。

 

 湿った密林、乾いた草原、雲の上、遥かな大空ですらアベルと一緒にいられた。

 こんな凍てついた沼と葦原しか無いような名もなき辺土でも……。

 望みはもう叶っている。


 アベルの端整な横顔。

 何かを油断なく探して、虚空を舐めるような視線をしていた。

 瞳の奥にある心、明るいだけではないことを知っている。

 むしろ、不遜なほど恐れを知らない狂いのような何かが渦巻いているのではないか。

 カチェは心配になる。不安になる。


 力になってやりたい、傍にいてあげたい、何でもしてあげたい。

 できれば争いのないところ、静かに二人で暮らせたらいいのに。

 そうしたら毎日料理を作って、苦手なお針子もやってみて、一日の終わりに何気ない会話をする。


 願うが、無理なことは分かっている。

 アベル自身が転がり落ちるように争いへ寄せられていった。

 何かを求めていた。


 もはや神様に祈るしかない。

 せめてアベルの傍に死ぬまでいさせてください……。





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