第116話  戦場の男と女

 



 


 ハーディアはアベルにどう問い掛けるか考える。

 アベルが真に欲するものを与える。

 それにより今は自陣に属していないこの青年を手中に収めることができる。

 これは狩りだ。

 滅多に現れない貴重な獣を仕留める危険な遊戯。

 しかし、だからこそ面白い。

 ハーディアの琥珀色をした瞳は、いつにも増して魅力的な色を増す。


 人間とは結局のところ、自らの欲求に従って生きる他ない。

 欲するもののために動くと言ってもいい。

 それは金であることが多い。

 金があれば飢えない。欲しい物も手に入る。


 もう少し形を変えれば名誉や地位、あるいは性欲の対象となる。

 アベルの欲しいものとはなんであろうか……。


 ハーディアは珍しく演技ではない微笑みを見せた。

 笑う時は、いつも演技である。

 怒るときですら同じだった。

 王族にとって感情は使い分けるものであって、笑いたい時に笑うことなど滅多にない。

 だが、どうもアベルという青年。

 生身のまま付き合った方がよいと思えた。


「アベル。本日の働きは別格に優れていました。瞬時に状況が変わる中で咄嗟の判断、僅か百騎を的確に指揮して迂回してきた敵の先鋒を叩いた行動力。見事でした。褒美を取らせます。何が欲しいですか」

「……いえ、それには及びません」

「無粋も過ぎれば人に恥をかかせます。王族の労いを断るのは無礼ですよ! お金か物か……求めるのなら女性でもいいのですが……何でも言ってみなさい。年若い侍女もいますし、高貴な女が好みでしたら教養のある貴族の子女も自由になります。遠慮などいらないのです」


 ハーディアはアベルがどんな女を好むのか想像してみる。

 普通、十代半ばを過ぎた男なら、飢えるように女性を欲するものだ。


「お金はいらないです。女性なんかもっと困ります」

「どうしてですか? 後のことなど気にせず好きにしても良い女性でしたらいくらでもおります。男性の疲れを癒すのも女の役目というもの」


 ハーディアは温和に笑ってそう言うのだが、アベルはもちろん断る。

 というか隣のカチェが怖くてそちらが見られない。

 黙っているアベルを扱いかねてか王女は困ったような表情をした。


「何でもいいから求めてみなさい。王族はやろうと思えばかなりのことができるのですよ。我々にお金がないのは本当ですが、それは遊興に使う分がないというだけで人材のために必要な資金を惜しむつもりはありません」


 アベルは途惑う。

 ハーディアは意外ほど追求の念を示していた。

 逃げ道がまるでない。

 どうしても欲しいものを言わねばならないようだ。


 深く考えれば考えるほど「望み」というものは混乱し、錯綜していく。

 心にあるのは間違いなくイースと……もう一つは飢えとも破壊願望ともつかない欲求の塊。

 さらに己の心中を探れば女性への肉欲か。

 夢に出てきた魔女アスの豊満な肉体は今でも生々しく脳裏に焼きついていた。

 それから厳重に抑えているもののカチェへ欲情を抱くことがある。

 これらは複雑に絡み混じり合い、もはや不可分だった。


 肝心のイースに対する気持ちも明瞭ではない。

 一方的に単なる女を超えた神聖な存在のように感じてはいるが、当のイースはそれを否定していた。

 ただ、イースの濁りの無い感情に触れていると心地よかった。

 火傷で爛れた傷に氷を当てている感覚のような。


 ガイアケロンの父親殺しがなったとき己の魂に関わることが起こるのではという期待をしているが……。

 何かが明確になっているというより、獲物の香しい匂いに引き寄せられて駆けている獣のようなものであった。

 血にまみれた願望をそのまま口に出すことなど、出来はしなかった。


 しかし、ハーディアもガイアケロンも勘が強いに決まっている。

 下手な嘘は言わないでおくべきだった。

 仕方なく説明してみる。


「強いて言えば戦いを求めています」


 嘘ではないにせよ本当のことでもないのではとハーディアは感じる。

 到底、納得はできない。


「戦いを求めるのは何故ですか? あのイースという亜人の騎士が関係していますか」


 アベルの頬が痙攣する。

 いきなり本質を言い当ててきた。

 恐るべしハーディアの直感。

 頷くのがやっとだった。


「どうして貴方は彼女と別れたのですか? 強固な主従だと見受けましたが」

「込み入った事情ですので説明いたしかねます」

「…………。王女を困らせるとは貴方も良い度胸をしています。せめて褒美を与えておかないと心配なのですよ。貴族とは権威をふりかざして人を只働きさせるものですが、去ってほしくない者には手厚く報酬を払います。いざという時に裏切られると致命的ですから」

「そんなことを気にしていたのですか。見返りなど無くても、何でもします」

「そのように言われましても家来でもない人間が命懸けで戦ってくれるのは、少々不気味な事です。例の件があるにせよ」


 カチェもハーディアの物言いに共感した。

 ここのところ、アベルのガイアケロン陣営への肩入れは度を越している。

 テオ皇子とガイアケロンの直接会談のためとはいえ……行き過ぎていた。

 もっと適度に動く賢さを持ってほしいと切実に感じる。

 ハーディアは言う。


「問いを変えましょう。貴方は既に報酬を約束されているのですか」

「この任務に成功すれば褒美は望むままとテオ皇子様に約束されているのは事実です」

「なるほど。つまり報酬の二重取りを躊躇ったのですか。そんなことなど恐れなくともよいのです。働きの良いものに褒美を渡すのは目上の義務ですよ」


 これはハーディアにしてみれば罠だった。

 テオ皇子の約束した報酬を上回るものを渡せば、アベルの心はこちらに傾斜するというものだ。

 とにかく何が欲しいのかはっきりさせなくてはならない。


「……僕、欲しいものというのが、あまりないのです。治療魔術があるから金はどうとでもなりますし。地位にも興味はありません。やっぱり強くなりたいという目的が一番強いだけで……出来るだけガイアケロン様の傍で戦わせてください」


 カチェはアベルの答えに驚く。

 早急に任務を果たしてハイワンド家に戻るのではないか。

 あともう一歩で密会がなるかもしれない。

 そうなったら、アベルは栄光を掴める。


 近い将来にも軍団を指揮する立場にだってなれるかもしれない。

 武人として最高の位ではないか。

 ところが、どうやらそれが欲しくないらしい。

 それどころかガイアケロンに使われる立場のまま命懸けの日々を送りたいという。

 ハーディアは、どことなく哀れな者を見る目線でアベルを見る。


「つまり、個人的な強さを欲しているのですか。剣豪のような……でもそれは果てのない泥沼のような世界ですよ」


 アベルは頷いて見せた。

 ハーディアは考える。

 アベルは求道者のようなものなのかと。

 嘘だとは感じないが、今一つ落ち着かない。


 激しい願望……アベルの群青色をした瞳の深奥から感じる。

 その正体の見極めがつかない。

 もしかすると人に言えないようなことなのかもしれない。

 欲しているものを与えると約束すれば、それは一種の契約となり有能な駒が手に入るのだが……。


「貴方のような人が一番、手に負えないのです」


 黙って遣り取りを見ていたガイアケロンが朗らかに笑った。


「アベルを篭絡しようとしても無理だったなぁ。ハーディア、いいじゃないか。これほどの者が味方でいてくれるのだ。しかも、今なら無料で。金に困っている我らには何ともありがたい話しじゃないか」


 ハーディアは微笑し黙ったが、諦めるつもりは無かった。

 色々と探ってみようと考える。


 アベルは追求を止めさせてくれたガイアケロンに感謝の視線を送る。

 彼は灰色と青の混じった瞳に優し気な気配を湛えていた。

 妹ハーディアを抑えて、強引にアベルの内心を剥き出しにしようとはしなかった。

 余裕のある男はいいなとアベルは嬉しくなる。


 多忙を極める兄妹との会見はそれで終了する。

 天幕から出た後、スターシャはアベルの無欲さを称賛してきた。


「アベル! お前、よく言った。金も女もいらない。ただガイアケロン様のために働きたいなどと……なかなか言えないぞ」


 喜ぶスターシャはアベルの顔を抱いて腕を絞めつけてきた。

 鎧を装着しているから面白いことなど何もなく、むしろ痛いだけだった。


「いてて! スターシャ。鎧が顔に刺さりそう」

「次は素肌で思い切り抱き締めてやるさ」


 彼女の濃く青い瞳が、やけに甘く嫣然と輝いていた。

 生々しい女の色気がある。

 冗談という風でもなさそうだった。


 よほど無償の態度に好感を抱いたようだったが、アベルは複雑な心境になる。

 ガイアケロンに与しているのは別に単純な好意からではなかった。

 むしろ、ある意味ではもっとも貪欲な願望を持っている。

 金や名誉ではなく、正体不明な「救い」に繋がるかもしれないなどという気狂いじみた渇望。


 そんなことは少しも想像していないであろうスターシャは単純に同志を見出した気分でいるようだった。

 何だか騙しているようで気後れを感じる。


 ちょっと妙な雰囲気なりかけたところでアベルは物凄い力によってスターシャから引き剥がされる。

 刺すような視線でカチェが睨んできた。


「アベル。どういうつもりなの!」

「え~と……とりあえずカチェ様に絞め殺されるつもりはありません」

「ふざけないでよ! だったら……」


 カチェは皇帝国に帰ろうと言いたかった。

 しかし、言えない。

 アベルの事は分かっている。

 きっと危険だからカチェ様は先に帰ってくれと言うに違いない。

 だから結局、カチェはアベルの胸甲を叩いて、怯んだ隙にその手を握り歩く。

 スターシャは苦笑しながら二人を見送る。

 あまりからかってはカチェを本気で怒らせてしまう……。


 アベルはカチェを宥めつつ、そのまま救護隊に行った。

 今日は前日よりさらに怪我人が増えているはずだった。

 一人でも助けてやりたい。


 幔幕で仕切られた救護所には入りきれない怪我人が列を成している有様だった。

 一目で重態と分かるものは優先されて、命に別条ないものの手当てを必要とする者は待たされている。

 医者のセジャン・ロマヌスカたちが懸命の働きを続けていた。


 次々に負傷者に手当てをして、それから歩けない者は担架で送り出していく。

 怪我人が見捨てられるとなれば、みな勇敢さを失ってしまう。

 少しぐらい負傷しても助けてもらって、再び戦列に復帰できるとなれば士気は高まるというものだ。

 だから救護部隊は重要なのだった。


 アベルとカチェは無言のまま手を洗い、手助けに入る。

 セジャンが知的な顔に笑みを浮かべている。

 まだ若い看護婦たちも嬉しそうにした。


「おお! 我が助手アベル。遅かったな。待っていたぞ」


 戦場では噂が広まるのが早い。

 その夜のうちに戦闘でも治療でも腕の確かな男がいると話題になりつつあった。

 隣には飛び切り美しい少女の相棒もいる……。





 ~~~~~





 もはや執軍官のピラトは罪人のようなものであった。

 士官から兵卒に至るまで冷たい視線で彼を見る。

 このうえもなく惨めな心境で絢爛なコンラート皇子の軍陣に出頭することになった。

 朝方、夢見ていた栄華とはかけ離れている。

 これが現実だと認められなかった。しかし、事実だった。

 恐ろしくてコンラート皇子の顔は見られなかった。

 だから這い蹲り、目を閉じていた。


「ピラト! この馬糞以下の男めがっ。何が勝利してみせるだ!」


 コンラートの罵りは続く。

 同席する公爵や将は誰も何も発言しない。

 ミュラーは面罵を聞き続ける。

 よくもこれほど人を謗る言葉が出て来るものだと、下品な物言いには事欠かない軍人としても呆れるばかりだった。

 気になるのは将兵に損失が出たことを責めているのではないところだった。

 コンラート皇子は自分の面子が潰れたと狂ったように悲嘆している。


「今度こそガイアケロンに勝てると思ったのに……どうしてだぁ! 私はやつに勝てないのか!」


 コンラート皇子は目を吊り上げて、身をよじっていた。

 肩で息をして、手元の果実をピラトに投げつける。

 その様子は女性が神経症的に興奮する姿にも似ていた。

 ひとしきり叫び通して、疲労から動きが鈍った絶妙な頃合いを見計らってエンリケウ・ドラージュ公爵が語りかける。


「コンラート様。これは小手調べの前哨戦に過ぎませぬ。決して負けではございませぬ。公爵勢は注意深く戦ったゆえに微小な損害です。明日には後続の部隊が到着しますゆえ、軍団は損なわれておりません。公爵勢の慎重な動きにより引き分けたのでございます」

「……そ、そうか。そうであったな」


 混乱気味のコンラートが落ち着きを取り戻すが、陰湿な視線をピラトへ向けた。


「ピラト。お前は死罪にしようと考えていたが、最後の慈悲じゃ。明日、ガイアケロンに一騎打ちを申し込みに行け」

「……お、応じるとは思えませんが」

「そんなことはお前が交渉することだ! それとも今から打ち首にするか! どちらにしてもお前の顔など二度と見たくもないわ!」


 ピラトは這い蹲ったまま陣幕から去っていく。

 ミュラーはその背中を哀れに見る。

 普通に考えれば、彼は明日死ぬことになる。

 他人事とも思えなかった。明日は我が身……。


 ようやく興奮を鎮めたコンラート皇子は引き連れてきた音楽師の演奏を楽しむため別の天幕に移動してしまった。

 エンリケウ・ドラージュ公爵がミュラーに話しかけてくる。


「ミュラーよ。捕虜の尋問はどうだ」

「はぁ。捕えたのは皆、下級兵士です。大した情報は得られませんでした。聞き出したところによるとシラーズ王子という王族の兵でした」

「シラーズ? 知らない僭称王族だな。何を喋ったか」

「金に釣られて兵士になったが、こんなとんでもない戦いに突っ込まれて貧乏くじを引いたと。ガイアケロンも英雄だと聞いていたが弟のシラーズとは仲が悪く、戦わなければ容赦なく石を投げられるなどされて面白いことは何もなかったとか……」

「ほう……! 王族同士で仲違いか」

「新参の弟シラーズと……方針の違いがあったようです。事実、戦場にいたシラーズ王子配下の兵士はほぼ全滅しています。おそらく四千人前後は戦死していると思われます」


 ドラージュ公爵は脂ぎった面相に笑みを浮かべた。


「王道の奴らめも一枚岩ではないということだな。なるほど……まだまだ勝ち目はあるぞ。我らが公爵勢の兵士が明日にも来着する。敵に来援がなければ、ここでもう一戦して勝つ事ができる」

「どうしても攻勢を仕掛けるというのでしたら、せめて仮設橋を造っておきましょう。今、準備を進めております。夏なら問題にならなくとも冬に渡河作戦はやはり無謀です。木を切り出して建設するのに急げば数日。妨害が激しくなければと条件付きですが。それまでお待ちを」

「いや、わしに良い考えがある。リモン騎士団の砦に使われている材木を分解して入手しよう。伐採して運び出す手間が省けるから建設期間を大幅に短縮できるぞ」

「……砦を出ていけと言って、そうするとは思えませんが」

「わしとコンラート様が命じる。断らせはせん」


 禿頭のドラージュ公爵は、精力的な瞳を光らせていた。

 よほど自信があるようだった。

 政治的交渉の分野なのでミュラーは任せることにする。


「ミュラー。お前は皇帝親衛軍を纏めておけ。寛大にもコンラート様は仮にではあるがお主を執軍官として復帰させてやるとの仰せだ。励めよ」

「親衛軍は疲労しきっております。戦力を回復できるのはいつになることやら、お約束できません」

「これからは公爵勢が前面に出る。心配には及ばぬ。お前は我らの支援だけを考えておれ」


 ドラージュ公爵は手で立ち去るように仕種をした。

 天幕の外は既に夕暮れ。

 ミュラーは軍団に戻ると仕事に忙殺されて食事を摂る暇もなかった。

 怪我人の中でも重体の者は後方に送り、無事な者の集計を取ってどんな部隊編成にするか考える。


 やはり無理な迂回攻撃を仕掛けた軽装歩兵に酷い損害があった。

 顔見知りの百人隊長が何人も戦死している。

 こうなると部隊編成に支障をきたす。

 夜通し連絡と報告が続き、夜明け前、僅かな仮眠をとって再び仕事をしているとミュラーの元に血相を変えた偵察将校が飛び込んでくる。


 ミュラーは慌てて馬に乗り河岸まで行く。

 同じように顔色を変えることになった。

 そこにいるはずのガイアケロン軍団が消えている。

 あの岩壁のように堅牢で威圧感に満ちていた戦列がどこにもなかった。


 良く見ればずっと後方、旧ハイワンド領へと続く山道の手前に旗が翻っていた。

 ミュラーが目を凝らすと、その将旗の元に千人ほどの小部隊が居残っている。

 どうやら敵は僅かな防衛隊を残して昨夜のうちに撤退してしまったらしい。

 二万人以上の人間が夜間、僅かな松明の明かりを頼りに粛々と移動するとは、それ自体が驚異的であった……。


 戦いの後、即座に退くと言うのは分かる理屈なのだが、気になるのは残っている防衛隊だ。

 いかにも小勢で、もし攻撃をすれば粉砕できそうな気配である。

 あれは皇帝国の追撃から本隊を逃がすための殿軍なのだろうか……。

 そう考えるのが合理的であったが、ミュラーは訝しんだ。


 最後尾の殿部隊を配置するなら山道の最中が適切ではないか。

 なぜ、ぎりぎり皇帝軍から確認できる位置に陣取ったのか。

 深読みのしすぎかもしれないが、まるで餌のような役割ではないか。


 思案するミュラーの横を通過した数名の集団がある。

 マクマル・ピラト子爵だった。

 コンラート皇子の命に従い、これから一騎打ちを申し込みに行くようだ。


 もはや執軍官でもなく将軍ですらないピラトに親衛軍の兵士を動かす力はない。

 死出の旅に供する者などピラト家の郎党だけだ。

 昨日は三万人を直接率いて戦い、今朝はたった五人の配下で死地に向かう。

 しかも、声援どころか罵倒までされていた。

 下級兵卒までもが下手な采配でケチな戦になったと罵っている。


 馬に乗ったまま彼らは渡河して進んでいく。

 ピラト家の家紋が刺繍された旗がはためいている……。

 勇ましいと言うより物悲しい光景だった。


 皇帝国、王道国の双方に騎士道という概念がある。

 決闘の申し込みは貴族の誉れであり、応じるのもまた名誉という意識もあるが、こうした場合に受け入れられるものではない。


 断ったところで当然であり誰も非難はしないことだろう。

 むしろ、ピラトの無茶な要求こそ馬鹿にされて然るべきだった。

 だいたいガイアケロンはもはや戦場から去っているはず。

 ピラトは本当の犬死をしにいくのだ。


 ミュラーは副官のウルズファルに決闘の成り行きを偵察しておくように命じて後退したが、いくらも時間の経たないうちに信じられない結果を受け取った。

 なんと王道国の僅かな残留部隊にガイアケロンとハーディアがいるという。


 ミュラーは開いた口が塞がらなかった。

 何かの悪い冗談かと思ったが、ウルズファルは信頼に値する副官である。

 しかも、遠巻きに成り行きを見物していた者が他にも数十人はいたらしく、彼らはことごとく同じことを主張していた。


「ミュラー様。信じられない事ですが本当です! ガイアケロンとハーディアがたしかに居ました。将旗が翻り、遠目にも姿が確認できました」


 ミュラーは自分自身の目で確認しないわけにはいかない。

 再び馬に飛び乗り、渡河した。

 自分は何回、この河を往復することになるのだろうか……。




 アベルは皇帝国の軍勢から来たピラトとかいう男がガイアケロンに決闘を申し込む様子を見ていた。

 何でも子爵だと言う。

 最初、皇帝国が派遣して来た軍使かと思って攻撃が控えられていたのだった。

 ところが、相手から非常識な要求がある。

 大声でガイアケロンと決闘をさせろと叫んでいた。


 居残ったガイアケロン軍団から失笑が溢れる。

 それほどまでに間抜けな申し入れだった。

 命令一つで投げ槍の嵐をピラト子爵に食らわせてお終いになる珍事かと思われたが、何とガイアケロン本人は承諾してしまった。


 いわく執軍官として戦い、負けた屈辱を濯ぐために命を捨てた姿勢に感動したとのこと……。

 決闘の内容を素早く誓紙にしたためて馬廻りに命じ、ピラトに渡す。

 辺りは喧噪に包まれた。

 兵士たちは何事か叫び、百人頭が静まれと制止する。


 アベルは困惑する。

 ガイアケロンの強さを知っているだけに勝負自体に不安はないが、いかにも突飛な行動のような気がした。

 だいたい、この布陣からして奇妙だ。

 まず昨日、日没後に騎馬部隊を後退させた。

 シュアットたちともその時に別れ、アベルとカチェは馬廻りの一員として加えてもらった。


 次に怪我人、それから軽装歩兵、最後に重装歩兵と闇夜に紛れて旧ハイワンド方面へと逃れていく。

 ヒエラルクという軍目付けも既に後退していた。

 常識的に考えれば、まず離脱するのはガイアケロンとハーディアであるべきだった。

 ところが部下たちを早々に逃がして、王族兄妹は悠々と戦場に居残った……。


 やってきたピラト子爵から承諾の返事があり、署名された誓紙が返ってきた。

 いよいよ決闘である。

 ガイアケロンは素早く準備を整えて前に出た。

 黒鉄の実用的な鎧。腰には両刃の大剣を佩いていた。

 胸甲は鋭角的に突き出ていて、下半身は太腿から脛までしっかりと同様の防具で覆われていた。

 腕も同様。


 しかし、なぜか冑は装備していなかった。

 視覚や聴覚が遮られないという利点はあるが、戦場では必須の装備である。

 イースほどの使い手ともなれば己の五感を最大に保つために冑ではなく額当てぐらいに留めることもあるが、一軍の長としては奇異だった。


 しかし、ガイアケロンの雄々しい表情が味方からも敵からも良く見えた。

 アベルは一つ思い出す。

 決闘の際に冑や面頬で顔が隠れるため、替え玉を用意することがあると。

 そうした疑いをかけられないために、あえて顔を晒しているのだろうか。


 対するピラトも子爵とだけあって、装備はかなり良い。

 全身を鈍色の鎧で覆っている。

 もちろん冑も付けていた。

 武器は大剣。


 互いに歩み寄り抜剣、剣を構える。

 ガイアケロンの大剣には年輪とも波紋とも見える模様が浮いていた。

 不思議な美しさがある。

 両刃で、と呼ばれる溝が刀身半ばから柄まで伸びていた。

 見るからに斬れ味の良さそうな優美で凶暴な形状。

 いずれにしても名工による一級品だろうと思われた。


 ピラト子爵は「憤怒」と呼ばれる構えを取った。

 大剣を肩に担ぎ上げたような姿勢。

 力任せに相手へと剣を叩きつけるのに適した構えだった。

 単純だが強力な威力を発揮する。


 対するガイアケロンは両手持ちの「突き」の構え。

 これはそのまま切っ先を相手に差し込むことも出来るうえ、剣先を相手の視線に合わせておくと剣の長さを認識させない効果がある。

 アベルも時々、使う技だった。


 戦場は静まり返っていた。

 一瞬にして両者の距離が縮まる。

 ピラト子爵が踏み込み、憤怒の構えそのまま、上段から剣を振り下ろした。

 ガイアケロンは突きの構えから上方に剣を払い、ピラト子爵の斬撃を跳ね返した。

 剣と剣がぶつかって火花が飛び散る。

 

 ガイアケロンは相手の猛攻を物ともせずに、攻撃を凌ぎ、今度は反撃に転ずる。

 まず剣の通り道を無理やり、こじあけるような強引さで作ると大剣の切っ先を冑や鎧に容赦なく当てていく。

 必然、ピラト子爵は防御に集中するが、防ごうとするあまりガイアケロンの攻撃に追随しすぎた。

 大きく開いた隙へ、ガイアケロンは瞬間的に剣を下段から潜らせて膝のあたりに斬撃を加える。

 大剣が膝当てに減り込み、ピラト子爵が後退した。

 目に見えて動きが悪くなる。


 ガイアケロンはわざと手加減した攻撃を何度か繰り返したが相手は降服しない。

 ついにガイアケロンの大剣がピラト子爵の冑を捉えた。

 凄まじい斬りつけは頑丈な冑を引き裂き、頭蓋骨を卵のように割った。

 倒れたピラトは少しも動かない。

 誰がどう見ても即死だった。


 兵士たちは割れんばかりの歓声でガイアケロンを称賛している。

 アベルも興奮してしまった。

 一軍の長が惚れ惚れするような剣捌きで正々堂々と戦い、そうして勝つなど兵士にとっては最高の出来事だろう。


 死体は従者に渡されて、彼らはそのまま返してやることになった。

 ピラト家の郎党と思われる彼らは主人の亡骸を担ぎ上げて馬に乗せると帰って行く。

 決闘の行く末を偵察しに来たコンラート軍団の者たちも引き上げていった。

 アベルはその様子を見ながら考える。


――さて、これからどうなるのだろうか……。

  敵が押し寄せて来るに決まっているけれど。



 ガイアケロンが居残っているという真偽を確かめるためミュラーは副官ウルズファルと共に河を渡った。

 同じことを感じた者は多いらしく、公爵勢から騎士が数十人ほども馬を駆って原野を進む。

 やがて原野から山岳へ伸びる道の手前で、整然と盾を構えた王道国の部隊が戦列を作っているのが良く見えるようになった。

 翻る旗は獅子の横顔。間違いなくガイアケロンの将旗だった。


 強弓の射程ぎりぎりまで寄ってからミュラーは望遠鏡を取り出す。

 戦列の後方、馬に乗った人物が二人。

 拡大された人物は間違いなく王族兄妹に見える。

 影武者の可能性を想像するが、ピラトは決して並の男ではなかった。

 粗暴だが剣の腕はかなりのものだった憶えがある。

 やつを倒せるほどの腕を持った影武者など、そうそういないようにも思えた。


「これは……罠?」


 だが、餌は紛れもなく本物だ。

 よってこれは罠かつ機会と言えた。

 必ずや大混乱になると察してミュラーは背筋を凍らせた。

 親衛軍には絶対に追撃をしないよう厳命を下そうと考える。

 しかし、公爵勢は自分の指揮下にないので、どうしようもない。

 昨日に続いて今日も酷い一日になるのだろうか……。

 ミュラーは胃を押さえようとしたが鎧があって出来ない事に気がつき苦笑した。


 ミュラーの横で出来たばかりの簡易な仮設橋をドラージュ公爵家の重装歩兵が渡っていく。

 馬に乗る騎士たちは橋を使わずに、水飛沫を上げて渡河していた。

 すぐそこにガイアケロンとハーディアが僅かな手勢のみでいると知って、手柄目当ての者らが先駆けようと必死になっている。

 どう見ても指揮命令は行き届いていなかった。



 アベルが原野を眺めていると敵が波のように押し寄せてくる。

 その数、一万は優に超える。


――そりゃそうだよな。

  千載一遇の機会だ。


 そこへガイアケロンの号令。

 重装歩兵が機敏に行動する。

 先に約五百人が山道に入っていき、残りの兵士たちは盾をいつもよりさらに密集させて巨大な亀の甲羅のようになる。

 そうして山への入り口を完全に封鎖してしまった。


 コンラート軍団からいくらか矢が射られてきたが、全く受けつけない。

 そのまま亀の甲羅はゆっくりと後退していく。

 すぐ傍にガイアケロンとハーディアがいるのに近づけないため、相手はいきり立っていた。

 絶叫しながら騎士が騎馬突撃をしかけてきては、そのたびに防御に弾かれて落馬する。

 アベルは敵が主にドラージュ公爵の手勢であるのを旗などで理解した。

 ドラージュと言えばコンラートの後見人であり敵対派閥の重鎮だった。


 山道での後退戦は早くも白熱していく。

 ガイアケロンの重装歩兵たちは防御後退に徹していて、敵が接近しないかぎりは攻撃をしない。

 ハーディアが良く通る声で兵士たちを励ましていた。

 その様子は美しくも凛々しく、戦姫と呼ばれるのに相応しい態度だった。


 最前列で大きな爆発がある。

 ドラージュ公爵の魔術師が使った火魔術らしい。

 十人以上の重装歩兵が爆風で吹き飛ばされる。

 裂けた戦列へ騎士が攻撃を仕掛けてくるが、素早く態勢を戻して歩兵たちが槍で攻撃して追い返した。


 アベルはやがて自分の出番もくるだろうと予感する。

 最精鋭の歩兵たちでもこんな激しい追撃を受け続ければ、次々に消耗していってしまう。

 この苦しい後退戦は山道を越えるまで続く。

 隣のカチェに話しかけた。


「カチェ様。どうしてこんな戦い方をすると思いますか」

「理由は二つ。一つはさっさと逃げださないガイアケロン王子の性格。もう一つは……皇帝国の軍勢を意図的に誘引するため。なんて戦い方なのかしら!」

「僕もその危険な事に参加するとします」

「アベル! 役割りが違うわよ。密使の分を超えているわ」

「こういう戦いに加わらないようでは……イース様にいつまでたっても追いつけないから」


 カチェはアベルの瞳を見つめ返す。

 昔から変わらないどこか暗い陰のある群青色の瞳。

 今はなお激しい欲求を感じさせていた。

 結局、自分はアベルの近くに居たいだけだった。


「……わたくしのことも忘れないでよ。アベルの背中を守るのはワルトだけではないからね」

「ありがとう」


 欲しいのは感謝の言葉だけではないのだが……。


 カチェの感傷は爆発音で断ち切られる。

 再び最前線で魔法が使われて歩兵たちが薙ぎ倒された。

 雨のように石と人体の欠片が降って来た。

 アベルとカチェの戦意が燃え上がる。

 ワルトも加わって戦いの渦中に飛び込んでいった。





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