第107話  出陣前夜

 




 宴は深夜に差し掛かる前まで続いた。

 ヒエラルクには彼が特に興味を示した女官の一人を付き添わせた。

 肉感的な肢体を持ったサリアという二十歳の女だった。

 そのまま豪華な天幕へと二人は消えていく。


 さすがにヒエラルクに酔いきったところはなく、四方に注意を払っている気配がガイアケロンには見て取れた。

 ガイアケロンは邪魔な存在である軍目付けのヒエラルクを、どう扱うか考える。

 

 もしかしたら皇帝国のテオ皇子と秘密同盟がなるかもしれない。

 大きな機会となり得る。

 皇帝国に潜らせている間者からの報告を思い出す。

 これから侵攻する地域を治めているリモン公爵はテオ皇子に参じているという……そんな相手を攻撃すれば秘密同盟の交渉どころではなくなると考えるべきだった。


 そう考えていた矢先にヒエラルクがやってきて、合戦をしなければならなくなった。

 厄介な時期に危険な男がやってきた。


 極論として、ヒエラルクを始末する、殺すという手……。

 もし、やるのであれば絶対にガイアケロンが殺したことは秘密にしなくてはならない。

 父王イズファヤート直属の人間を殺害などすれば、それはすなわち反逆行為。

 もう、その瞬間に己の願望は絶たれる。

 あとは自分とハーディアの軍団を率いて戦うのみとなろう。

 だが、戦力差は余りにも大きい。

 おそらく敗北してしまう。

 

 今頃、ヒエラルクは天幕の内側で女体を貪っている。

 天幕の周囲にはガイアケロンの衛兵もいるが、その他にヒエラルクの従者、弟子とも呼べるような者も控えていた。

 ガイアケロンは葡萄酒の入った銀の壺を傾けて、みずから杯に注ぐ。


「お兄様。わたくしが注ぎますのに……」

「いや。いいんだ」


 ガイアケロンは芳醇な香りを立てる赤い液体を飲みつつ、沈思黙考する。

 弟、シラーズはほとんど喋らず、また、女にも手を出さず静かにしていた。

 もはや宴は終わりに近づき静寂が増すなかで、一人浮かれ騒いでいるのはラカ・シェファのみだった。


 強欲な金貸しはご機嫌の様子。

 それはそのはずだ。

 破格の待遇。

 英雄と美姫から歓待され、傍には美しい女、美味い酒と料理。

 長い旅を経てきただけに喜びは、さらに倍増する……。


 では、他に暗殺をする方法はないかとガイアケロンは想像する。

 例えば、仮に不意打ちを仕掛けたとしても、ヒエラルクは完璧に反応してくる予感がある。

 斬流第九階梯、あるいは第十階梯とも言われる強さは本物だ。

 彼を襲って勝てる状況というのは、実に少ない。

 さらには誰にも察知されず隠密の内に消すなどと言うのは、空想すら成り立たない。

 搦め手として毒殺という手もあるにはあるが、失敗したときの危険性を考えれば打てる手では無い。


 ガイアケロンは自らとハーディアが力を合わせて急襲すれば……五分ほどの可能性でヒエラルクに勝てると踏む。

 あくまで彼は単独でいるところ、理想的に先手を取ったとしてという条件だ。

 そして、そうまで有利に戦い始めたとしても、自分か妹のどちらかは死ぬと覚悟すべきだった。

 あまりにも大きすぎる危険……選べない。


 数多くの配下、仲間がいるもののヒエラルクを暗殺できそうな人物はガイアケロンに心当たりがない。

 大軍を指揮、管理する力量を持つ者はいる。

 だが、ヒエラルクほどの者を確実に暗殺できる者はいない。

 強いてあげるなら、かつて出会った騎士イース……一段落ちてアベルの顔が脳裏に浮かぶ。


 かつてガイアケロンは決闘によってイースに重傷を負わされた。

 この未経験だった敗北寸前を味わって、当たり前だが相手の流派を徹底的に調べた。

 ほどなくして、イースによる独自の工夫は加えられているものの、どうやら夢幻流という珍しい流派の使い手ではなかったか……という見立てが出てきた。

 王道国に使い手はほとんど存在しないらしく苦労の末、やっとのことで一人だけ亜人界にいた夢幻流の門弟を見つけ出した。


 請うように招聘してやって来たのは、錆びた風合いをした年老いた男だった。

 中級の使い手で、お世辞にも名人とは言えない腕前。しかも老齢。

 だが、それでもガイアケロンは丁重に遇し、頭を下げ、金を渡した。

 どうしてもイースの技の一端を知りたかった。

 老人は言った。

 夢幻流は習得が難しく、しかも、易々と技を伝えたりしない。

 だから、いつの世もほんの僅かな使い手がいるだけだと……。


 王子という高位の者が丁寧に頼んできたことで、老人は興が乗っていた。

 もうじき死ぬ身だから、自分が習得しきれなかった技の型だけでも披露しようと請け負ってくれた。

 衰えていても、そこにはたしかに騎士イースの繰り出した癖技と濃厚に類似するものがあった。

 ガイアケロンとハーディアは執拗に学び、研究し、夢幻流の対策を得ていた。

 再戦なったとして、もう二度と窮地に追い詰められないために。


 相手の視覚を誘導して、裏を突くという詐術に満ち満ちた夢幻流の剣理。

 アベルはそれを二刀流でやってのけた。

 その腕、極めて巧妙。

 予期していなければ嵌められて、一本取られていたかもしれない。

 しかし、実際ところガイアケロンは夢幻流の技を予習して、対抗手段を会得していた。

 つまり……勝って当然だった。


 アベルをヒエラルクにぶつけるというのも、まず有り得ない。

 大事な交渉のための密使。

 しかし、それ以上にあの面構え、視線……。

 妙な鬼気迫る、ガイアケロンの心を捉えて離さない目はどうしたことか。

 手元に置いておきたいほどの魅力がある。


 もし、ヒエラルクを後ろから刺すのであれば……皇帝国との戦闘中が最適だろう。

 なにしろ犯人を敵国と仕立てることができる。これほど不自然ではない状況があるだろうか。

 剣豪ヒエラルクは戦いの中で散る……。

 しかし、それとて容易ではない。


 剣聖とまでの名声を得ているヒエラルクには弟子や従卒が多数、侍っている。

 ここへも引き連れてきた。

 その数、末端の者まで含めれば約百人。

 高弟と呼ばれる使い手も複数、付き添っている。


 彼らは軍目付け、そして剣豪でもあるヒエラルク個人の家来である。

 決してシラーズやラカ・シェファの部下などではない。

 彼らはヒエラルクを頂点として強固な同門の誓いを立てていた。

 加えてもう一人、王直属の男で強力な魔法を使うと噂されるサレム・モーガンまで同行している。

 そういう役職はないもののサレムのことは「副目付け」とぐらいには考えておくべき……。


 とてもではないが、手は出せない。

 よって今、そのような謀殺に及ぶつもりはガイアケロンにはなかった。

 それよりはヒエラルクを手掛かりに、もっと核心に迫る狙いがある。


 王国の奥深くにいて自身は戦場に出てこない父王イズファヤートを引きずり出す。

 防備万全な王宮で、あの暴君を殺すことは困難。

 それならば……なんとかして蛇を巣穴から誘い出さなくてはならない……。

 どこか野外か、あるいは防御の手薄な邸宅に入ったところを襲えば、殺せるだろう。

 あの狂った父親を。


 耐えて、騙し……いつか一瞬の隙を作る。

 だから、今は戦って勝たねばならない。

 果てしなく続く戦乱に突入して、活路を見出す……。


「シラーズ王子。ラカ・シェファ。二人とも楽しんでもらえたかな。そろそろ真夜中となるので宴は終いになるのだが……女官に天幕まで案内させよう」

「寝る前にガイアケロン兄上。人払いしてもらいたい。相談があります」

「……」


 女と戯れていたラカ・シェファまで表情を一変させて畏まる。

 シラーズとラカ・シェファは軍目付けのヒエラルクを交えない密談を申し込んできた。

 ガイアケロンはそれを了承する。

 ハーディアは給仕や女官を一人残らず宴席から離れさせた。

 静寂が訪れ、篝火の中から薪が燃える音だけがしていた。

 まず、シラーズが話しを切り出す。


「兄上。私は自分の力の少なさに自覚があります。単独で戦っていても大きな手柄は立てられません。そこでどの兄上のもとに参じるか考えました……まずリキメル王子は将器の無い方だと聞き及びます」

「……そう決めつけることはない」

「父王様から叱咤され、やっと戦線に復帰したそうですが、戦果は芳しくないと」

「皇帝国も愚かではない。簡単には勝たせてくれないさ」

「次の戦いに勝ち、目付け役のヒエラルク殿に芳しい上奏をしてもらえれば……このシラーズがリキメル王子に成り代われると考えています。負け犬根性をした王子に戦力を持たせておくぐらいならば、後発でも私のように才のある者を父王様は引き上げてくださるはず。しかし……そのためには……まずは勝って証を立てなくてはなりません。そのためにガイアケロン兄上に力を貸していただきたいのです」

「……」


 ガイアケロンは考える。

 シラーズの言い分は想像の範疇だった。

 むしろ……当然至極の結論と言ってもいい。

 負け込み、怖気づいた王族など進んで切り捨てる。

 それが父王イズファヤートというものだった。


「もちろん、戦が終わった後、私はガイアケロン兄上を支持いたします。対等な王子同士ではなく、格下の弟として扱ってもらっても結構です」

「そういう話しならイエルリング兄上に持っていったらどうだ?」


 シラーズは憮然とした表情で、断言する。


「すでに膨大な戦力を有しているイエルリング兄上に協力をしても、手柄を立てる機会は少なく……全くもって一つの手駒として冷遇されましょう」

「それではつまらないか? そして、我なら恩を売りやすいと?」


 ラカ・シェファが商売用の笑みを浮かべて口を挟んでくる。


「そう邪険にしてくださいますな。ご心配されるのは分かりますが、正直に申しましてこちらは必死なのでございます。いかな富豪の儂であっても、今以上の戦力を用意するのは無理でございます。シラーズ様はお立場に恵まれておらず、これからよほどの活躍をせねば王族として末席に加えていただくことすら……定かではありませぬ。健気な努力なのでございます」


 ガイアケロンは溜め息を飲み込んだ。

 こうした醜い競争が熾烈な戦いを生んできた。

 何もかも父親の狙い通り……。

 商人だろうと実子であろうと道具としてしか見ていないのだ。

 欲望を煽られて乗せられる者の浅ましさ。

 誰も彼も業が深い。


「搔き集めた一万程度の兵力で死地に飛び込むことの無謀さを理解しているのか。悪いが我はお前たちに頼めるところは何もない」

「とはいえ、前線に出ることは兄上とて了承したはずです。今更、引き下がりはしません」

「そんなに戦いたいのか」

「戦って勝たねば王族として認められません。私は王族として生きる以外の人生に価値を感じないのです。無理ならば、いっそ戦って死んだほうがましです」


 シラーズはやや興奮しているものの、冷静さを全く失っているわけではなかった。

 それでもガイアケロンからしてみれば恐れを知らない若輩者の傲慢さとも短慮とも言えた。

 黙って年若い弟を見詰める。

 血族とはいっても、今日初めて会ったばかり。

 実のところ親しみなどなかった。

 ただ、同情はある。忠告はしておくべきだった。


「せいぜい命を大事にするのだな。戦いに敗れて死んでいった兄弟は幾人もいるぞ。出陣することはヒエラルク殿と約束した。それは守る。だが我にシラーズ王子への指揮権はない。戦場でどうしろと命ずるつもりはない。良い働きをしたかそうではないかは、目付けのヒエラルク殿が判断することだ」

「どうかこのシラーズに機会をくだされ」

「とにかく一度勝たねば、始まらないと言いたいようだが……」


 シラーズとラカ・シェファは共に頷く。

 とても説得は不可能だった。

 突っぱねれば本当に勝手に行動されてしまう。

 余計なことをさせるわけには行かなかった。

 戦場において味方の不手際など起こってはならない。

 その敗北に巻き込まれて思わぬ窮地に立たされるかもしれない。


「活躍の機会を与える……それには条件がある。シラーズ王子の軍勢を知りたいから、我らと共に練兵をしてくれ。動きに足りないところがあれば今のうちに鍛えておこう。期間は最低でも三十日以上は必要になる」

「はい。兄上」

「……ここぞという時の突撃に加わるか?」

「間違いなく!」


 シラーズの青い瞳が野望に燃えていた。

 ラカ・シェファも欲望に塗れた顔をしている。

 金、名誉、地位は人を狂わせる。

 加えてシラーズには認められていないという劣等感というか強烈な不満があるのだと見抜いた。

 内面に激しい炎がある。

 人はこうして突き動かされていく……。

 ガイアケロンは殺意すら込めてシラーズを祭り上げている高利貸しを睨む。


「ラカ・シェファよ」

「は、はい」

「お前は商人とはいえ武の世界に踏み込んだのだ。せめて命懸けで金を使ってみせろ。出し惜しみをするなら、そして、そのせいで負けるとあれば……お前を許さない。処刑もありうると知りおけ」


 ラカ・シェファは自分に注がれる視線を受け止めようとしたが、できなかった。

 刃のような眼つき。

 殺意が本気なのを理解した。

 いっぺんに冷や汗が噴き出る。

 どういうつもりで脅迫してくるのかとラカ・シェファは途惑う。

 助けを求めるつもりでハーディアに視線を移せば、そこには仮面のように冷然とした表情をした王女がいた。

 ヒエラルクを歓待していた時とは別人……。


 ラカ・シェファは思わぬ風向きに怯みそうになったが、ここで無条件に服従するほど柔ではない。

 金を出せと言うが、金は命よりも重いのだ。

 逆に命は金で贖える。金は力だ。


 確かに自分は武人ではない。それでも時には切った張ったの勝負にもなる商いの世界を突破してきたという自負がある。

 政治の世界でも金が力を発揮した。

 黄金の輝きがあればどんな人間にも「はい」と言わせる自信があった。

 金は偉大だ。


 ガイアケロン王子に言われるまでもなく必要なときに金を使うつもりはあった。

 とはいえ、これは利益を見越した投資。

 名誉と地位を手にすれば、後から利息がついて金を取り戻せると踏んでいる。

 どこでとれだけ金を使うかなど他人に口出しされる筋合いではない……。


「処刑などと! な、なぜ私めをそのように脅すのですか……私めは志ある協力者ですぞ。か、仮に殺せば……王宮に懇意の貴族様がおります。その方たちも非道と思いますでしょうし……王道国の商人組合が黙っていません。物を売ってもらえなくなりますが、それでもよろしいので?」

「何はともあれ、お前を黙らせることはできるからな。戦場では一年後の心配よりも今の棘を抜くべきと心得ておる」

「……」

「商人は商人らしく金を出せばいい。我やシラーズは命を賭けて、お前は命どころか金すら賭けずか? 許されるはずがない……そのようなことが」

「それにしてもガイアケロン様の命令を、私が聞かなくてはならない理由は……ありませぬ」

「命令をしているつもりはない。シラーズと共に生死の覚悟をしろと言っているのだ。覚悟ができれば金も使いやすかろう」


 シラーズが慌てて仲裁に入る。


「あ、兄上。シェファは支援者です。また武人ではありません。それは承知のことです。シェファの助けがなくば私は軍勢を維持できません。兵への給金も食料の代金もほとんどシェファが払っているので……すでに十分出すものは出していると思います」

「出している? まだ戦いは始まってもいないぞ。いまのところ我には物見遊山に来たようにしか見えぬがな」


 冷たい沈黙が横たわった。

 ラカ・シェファは額に汗を滴らせていた。目が泳いでいる。

 シラーズは少し途惑っているものの、動揺はしていない。


「お前たちはこんなところまで来て、戦うことにした。もう後戻りはできないのだ」


 ガイアケロンから穏やかな表情は消え失せていた。

 そこには、ありとあらゆる難敵を殺して死地を潜り抜けてきた戦士の顔があった。




 ~~~~~~~~




 宴の翌朝。

 アベルはガイアケロンの元へ伺候するため軍陣に移動していた。

 オーツェル、カチェとワルトも同行している。

 途中、剣聖ヒエラルクが泊まっているという天幕の側を通過する。


 好奇心が湧き、離れたところからでもその姿が見えないものかと眺めるが、数十人の人間がいて誰がヒエラルクなのか判然としない。

 ただ一見したところ、集っているほぼ全員が剣士風であった。

 ヒエラルクは軍目付けだという。


 皇帝国で言うところの監督官の位置づけだろうとアベルは想像した。

 最高指揮官から独立した権限を持つ軍団が、適正な動きをしているか監視する制度は王道国にもあって然るべきだった。

 隣にいるオーツェルに聞いてみる。


「オーツェル様。高名な剣豪ヒエラルク・ヘイカトンという人がここに来ていると噂を聞きました。あの中にいますか?」

「間違っても指を差したりするなよ。天幕の入り口にいる褐色短髪の男だ。やや長身の……」


 言われてみれば、それらしき男がいる。

 武帝流の師範ヴィム・クンケルの長男を殺したのも彼だ。

 もう少しヒエラルクの所作などを観察したいところではあったが、時間が無いのですぐに離れた。


 ガイアケロンにはとりあえずご機嫌伺いをするだけで、特に用事というものがあるわけでもない。

 今はバース公爵から手紙の返事なり指令が来るのを待っている段階だ。

 その間、ガイアケロンが何かをして欲しいと頼んでくるなら……出来る限り応えていけばいい。


 ひと際大きな天幕が設営されていて、周囲はガイアケロンの親衛隊が厳重に警戒していた。

 幕内は平時、武装してはならない規則があるので刀をカチェに預けた。


「カチェ様。ちょっと待っていてください」

「なんだか……わたくしがアベルの侍女のようですね」


 アベルは思わず顔を引き攣らせる。

 骨身にまで染みついた長年の主従関係。

 少しでも覆すつもりはなかった。


「ふふっ。冗談ですよ。何かあればいつでも呼んでください」

  

 オーツェルは二人の遣り取りを興味深く見ていた。

 やはりどこか高家の出身で、立場はアベルよりカチェという女性の方が上なのだ……。

 どういう立場で、なぜ主ガイアケロンの元にやってきたのか。

 アベルは近習として取り立てられたが、何の任務に携わるのか説明はなかった。

 不思議な人物たちだった。


 アベルはオーツェルに導かれて中に入る。

 兄妹は持ち運びできる机に向かい、何か仕事をしていた。

 やるべきことは山積みらしく、ほんの一時空いた時間でも手紙を書いたりしているようだ。

 オーツェルと何か相談をしていたが、すぐに人払いの合図をハーディアが出した。

 アベルだけが残される。


「ガイアケロン様……」

「こちらから呼ぶまでもなかったな、アベル。椅子に座ってくれ。もっと近寄れ」

「はい」

「隠しても分かることだから伝えておくぞ。昨夜、軍目付けヒエラルクの要求により軍勢を動かすことになった」

「……言うまでもなく皇帝国へ攻め込むのですね」

「そうだ。攻撃先はリモン公爵領だ」

「リモン公爵はテオ皇子様の派閥です」


 アベルは武帝流の鍛錬所で知り合ったリモン公爵家三男のリッシュを思い出す。

 年齢は二十歳で、すでに結婚していた。

 気のいい貴族の青年といった風情で、技を教え合ったりして仲良くなったものだ。

 当主のセドリック・リモンはコンラート皇子の人格に不審を抱いたのが原因でテオ皇子の派閥に属しているとアベルは聞いたことがある。

 特にコンラート皇子が中央平原において下手な采配を繰り返し、敗勢となってから素早く逃げ出したことは決定的だったという。


「知っている。それぐらいの情報は以前から手にしている」

「リモン公爵領ではなくて、他の地域に攻め込むことはできませんか。例えばコンラート派閥の……近傍で言えばベルグレヒ公爵領など」

「他の王子が展開している戦線に攻め込むというのは簡単ではない」

「そこのところ、もう少し詳しく教えてもらえますか」

「父王様はどこを攻めろと細かく命令することはない。ただ、皇帝国と戦い勝利せよとだけ命じている」

「はい」

「だが、それでは誰がどこを攻め取るか……あまりも漠然としてしまうので王族同士は年に一度ほど会合を持ち、およその担当戦域を決めてある。それは強制力のある協定ではないし、父王様が決められたことでもない。よって交戦権というか裁量権とも言える権利を行使して担当範囲を破ろうと思えば破れる。たとえば決闘の際に我がハイワンドと結んだポルトへ攻め込まないというような約束がそれにあたる。また、リキメル王子が旧ハイワンド領に攻め込み約束を無視したこと……どちらも王族の裁量権である」

「なるほど」

「だから、事前の取り決めを我が破ってリキメル王子の担当している南の地域へ攻め入ることは……可能と言えば可能だ。ただし、リキメルが納得し、本国の連中が不審に思わないような理由が必要である。今、それに足り得る強力な根拠がない」

「つまり、協定は緩やかなものであったとしても、現状はリモン公爵領へ攻め込まなくてはならないというわけですね」

「そういうことだ。いまだ例の約定は成立していないから、我には守る義務というものは何もないはず。テオ皇子の派閥であろうと、やはり敵である」

「その通りですね……」

「とは言え……我は交渉を始める意志は伝えた。それにも拘わらず攻撃するのは、本意ではない。残念だと言っておく」

「……」


――参ったな……。

  問題が大きすぎる。

  こんなときバース公爵やテオ皇子が近くにいれば判断を仰ぐこともできる。

  今はそれも無理と……。


「正直なところ、僕にどうすることもできないです。ガイアケロン様のお好きにされてください」

「二十日ほど練兵したあと、出陣となる」

「いいのですか? そんなことを僕に教えて。情報が漏れるかもしれませんよ」

「漏れるも何もリモンの守りは厳重だ。攻撃は二年前から警戒されている。奇襲にはなりえない」

「そうだとしても教えてくれたのはガイアケロン様の誠意と受け取りました。なかなか上手く行かないものですね。当たり前ですけれども」

「そうだなぁ。我の人生は百回嫌なことがあったから、次は良いことがあるかと思ったら……また百回嫌なことが続いたという日々だ」

「お兄様が愚痴とは珍しいこと」


 ハーディアが意外そうな顔つきで言った。

 ガイアケロンは僅かばかり苦笑し考える。

 再び戦端を開けば密使アベルとも、これでお別れだろう。

 惜しいという気持ちが湧き上がる。

 自分でも良く分からないが親近感のある青年だった。

 親しい配下は幾人もいるが……どうもそれとは違う。

 できれば手元に置いておきたいと思ったが、やはり諦めるのがいいだろうと決めた。


 テオ皇子と秘密同盟を結ぶというのは、なかなか良い線を行く陰謀だった。

 もし成ったとすれば、身内たちを出し抜けたかもしれない。

 だが、派閥のリモン公爵に痛撃を与えてしまえば交渉は継続できないと考えるべきだった。


「アベル。戦が始まる前に皇帝国へ戻るべきだ」

「いえ。帰るつもりはありません。お傍にいさせてください。そうでないと緊急事態に対処できません」 

「……交渉は破談と考えている。テオ皇子と親しいリモン公爵を攻撃しては会談など夢のようなこと」


 アベルはガイアケロンの顔に諦念を見出した。

 所詮は敵同士と考えているのは明白だった。


――諦めさせるものか。

  殺したくて殺したくて堪らない父親に反逆をするんだろ?

  でも、このままでは永遠に利用されるだけになってしまうぞ。


「待ってください。その判断は早すぎます」

「二枚舌の交渉になってしまうからな。そういうことはしたくない」

「清廉なのは結構なことですが諦めないでください。僕の方からバース公爵様に事情は伝えてみます。僕とバース様は縁者。信頼もされています。交渉の継続を訴えれば、可能性はまだまだ残っているはず」


 アベルの様子は必死そのものだった。

 これほど粘ってくるとは思わなかったガイアケロンとハーディアは意外な印象を持つ。


「そう言うがな。手加減して攻撃などできないのだ。やるとなれば徹底的に戦うのみ」

「それは仕方のないことです。だいたいこれまで散々戦ってきた間柄ではありませんか。今更、遠慮はいらないです。結論をそう急がないでください。戦いはまだ始まってもいません」


 ハーディアはアベルに異様な熱意を感じ取る。

 普段は陰鬱なほどの気配が漂う視線に、どうしたことか激しい情熱が宿っていた。

 命懸けの男の気迫といってよかった。


「あくまで我に付いて回ると言うのか、アベル。いずれ戦闘になるのだぞ」

「構いません」

「向こうからすればアベルは王道国の人間にしか見えない。襲い掛かってくるな」


――こっちは元々皇帝国なんかに忠誠心ないんだよ……。


「……ハイワンド家とだけは戦えないのは確かです。しかし、それ以外の者でしたら戦いましょう」

「密使の役目をそうまでして遂げたいと言うのか」


 本当はガイアケロンの立場を強化してやりたいだけだった。

 その説明は難しい。

 不可能と言ってもいい。

 今は黙るしかなかった。


「簡単に言うが、アベルが戦死でもしてみろ。今度こそ交渉は不意になる」

「それは……なるべく殺されないようにするとしか言えないです」

「君に護衛として百騎つける。まだ交渉継続ならばアベルを失うわけにはいかないからな」


 アベルはガイアケロンの気持ちを引き留められた手ごたえを感じた。

 その時、天幕の入り口から声がかかる。

 オーツェルの声だった。


「ガイアケロン様。ヒエラルク様がいらしています」


 普通は王族の許可があるまで引見を待つものだが、軍目付けの地位を誇ってか、オーツェルを無視してヒエラルクが天幕の中に入ってきた。

 制止しようとするオーツェルをガイアケロンが止めた。


「構わない。入幕を許す」


 帯刀したまま王族と会話することを許されている軍目付けの勘気に触れたら、何をされるか分かったものではなかった。

 ヒエラルクが立場をいいことに、さしたる罪とも言えないような少しばかり瑕疵のあった者を斬殺したことは数十回以上に及んでいた。

 また、王の命令なくとも王道国の名誉を汚したと断じて、戦働きの芳しくない者を斬り捨てるというような行いも好むという。


「どうしたか。ヒエラルク殿。急な用件か」

「ガイアケロン様。昨夜、軍議の件につき、さっそく今日から準備に入られますな」

「無論だ。今日から練兵いたす。兵どもをさらに鍛え抜く」

「このヒエラルク。血が湧き立っておりまして。ぜひ、門弟ども加えて鍛えさせてもらいます」

「よしっ! しばし待っておれ。すぐに号令する」

「……ところで、こちらの若者はどなたかな」


 ヒエラルクの視線がアベルに注がれた。

 底冷えするような不気味な目。

 額には青筋が浮いている。


 剣豪は命の奪い合い、生死の境で感覚を磨いているので常人を越えた観察力と直観力を備えている。

 ちょっとした仕草、態度で疑心を起こさせてしまうかもしれない。


 特に眼と眼を合わせて動揺しない自信はさすがに無く、アベルは視線を逸らす。

 目迎しないように気を付けてアベルは軽く頭を下げる。

 ここは下手に喋らずガイアケロンの言葉を待つことにした。


「その者、名はアベル。なかなか気の利くところがあり気に入っている」

「なるほどぉ……。見たところ剣を嗜んでいる。お前、何流を使うのだ?」

「攻刀流です」

「側仕えか」

「はい……そうです」

「ふ~む。側仕えが椅子に座って王子と相対するとは、いささか腑に落ちないな」


 アベルは言い訳を考えたが、咄嗟には思いつかない。

 確かにその通りだった。

 主に仕えるべき従者が、座って同じ位置で向き合うのは慣例に反する。

 これではまるで客や訪問者だった。

 ヒエラルクの目線に体が圧されるようだった。


――どうしよう……。


 まるで言い訳が思いつかない。

 その時、ハーディアが口を開いた。

 顔には微笑み。

 琥珀色の瞳には演技とは思えない穏やかさが湛えられていた。


「ヒエラルク殿。兄上のたまの気晴らしを許し給え。その者とは棋盤遊びをするところでした」


 立ち上がるとハーディアは駒の入った小箱を出して机に置いた。

 本当は兵棋演習に使うため持ってきたものだった。

 ヒエラルクは、にやりと笑う。


「これはこれは。不粋でござった。剛毅で鳴らしたガイアケロン様も遊ばれることはありましょう。拙者、退散いたしまする」


 ヒエラルクが天幕から出て行った。

 アベルは手にじっとりと汗を掻いていた。

 澄ました表情をしたハーディアと視線が合う。


「助かりました」

「今の男はヒエラルク・ヘイカトン。剣聖などと言われております。聖なるところなど、おそらくどこにもないでしょうけれど」

「知っています。皇帝国にもその名、鳴り響く剣豪です。ちょっと危なかったな」

「本国から軍目付けとして来訪していました。まさか強引に入幕してくるとは思いませんでした。今後、会合にはより気をつけましょう」

「……まぁ、でも結果的にはこれで僕を側仕えだと信じたわけなので」

「少しの隙もあってはなりません」




 その日からガイアケロン軍団、シラーズ軍団の合同演習が始まった。

 歩兵隊が走って陣形を作り、騎馬隊が縦横無尽に平野を駆け抜ける。


 アベルには草原氏族出身者で編成された百騎が付けられる。

 一種、独立部隊のように扱って良いとガイアケロンから許可を得ていた。

 ほとんどが男性だが、十名ほど女性の戦士も姿が見えた。


 百騎を束ねるのはシュアットという二十五歳の男だった。

 茶色の蓬髪、野性的な相貌に猛々しい人格が現れていた。

 彼はアベルの護衛というのが不満らしい。


「なんでお前のことを守らないとならないか。俺たちは戦うためにいる。見ず知らずの若造を助けるためにいるのじゃない。つまらない任務を貰ってしまった」


 面と向かって、はっきりと言ってきた。

 他の騎馬戦士たちも似たような気持ちらしく賛同の態度である。

 実力こそ全てという気風を持つ草原氏族は、言葉よりも体で分からせるべきだった。


「僕はアベル。ガイアケロン様のために働くのが役目だ。そのために僕を守ってもらう。そこでだ……お前らがどれぐらい強いか試してみようじゃないか。もちろん護衛だから僕より強いんだろう?」

「……! いいだろうっ。馬術、槍、剣、組手。いくらでも受けて立つぞ!」


 シュアットは木槍を持ち、アベルは木刀で騎馬戦をすることになった。

 馬を攻撃するのは禁止にして、双方、離れたところから騎馬を全速で駆けさせる。

 擦れ違う一瞬で相手の体に打撃を加える勝負だ。

 草原ではユーリアン氏族と似たようなことを繰り返しやったものだ。

 それは遊びでもあり、戦士としての鍛錬でもあった。


 アベルはシュアットの様子を注視する。

 手綱をしごいていて、馬と一緒に気合いを高めていた。

 やがて嘶きと共に彼が全力騎行で突撃してくる。


 アベルは足先を鐙から抜く。

 もし体に槍を入れられて馬から跳ね飛ばされたとき、鐙に足が掛かったままだと悲惨なことになる。

 足は鐙から外れず、猛速度で走る馬に引き摺られ続けるわけだった。

 鐙がないと馬に乗ること自体がさらに困難となるが、十年近く乗馬を続けている。

 特に草原氏族の者たちと共に生活していたとき、彼らの馬の扱い方を学習できたのが大きい。

 手綱さえあれば馬を自在に操れる自信があった。

 

 ぐんぐん距離が縮まる。

 木槍の先がアベルの胸元を正確に狙ってきた。

 見切って木刀で凌ぎ、逆襲しようとしたがシュアットはアベルの斬撃を躱してみせた。


――あいつ、いまのを避けたか……。やるな!


 再び相対して突撃。

 アベルは歯を食い縛り、負けん気を奮い起こす。

 ここで負けたら、彼らはろくに指示を聞かなくなるだろう。


 急速にシュアットと距離が接近していく。

 殺気すら籠った木槍が、ぴったり狙いを定めてきた。

 時合を見計らってアベルは右手に持っていた木刀を左手に持ち替える。

 アベルの胸に槍が吸い込まれていく。


 穂先が衝突直前。

 今度は木槍の先端を右腕で跳ね除けて、左手の木刀をシュアットの顔面に投げつけた。

 手ごたえあり。

 木刀が強かに頬へ命中。


 アベルは即座に手綱をひいて反転を試みる。

 シュアットは落馬こそしていなかったが、痛みに怯んでいた。

 馬を急接近させて体当たりのように組みつく。


 アベルは力任せに相手を押し倒して、馬から引きずり落とす。 

 シュアットは猛烈に抵抗して拳骨を繰り出してきたが、アベルは腕の関節を取って組み敷いた。


「僕の勝ちだぞ」

「……ああ……降参だ」


 シュアットは隊で抜きんでた猛者だったらしく、百騎の者どもは驚いている。

 手を貸して引き上げた草原氏族の戦士の顔に、先ほどまでの嘲りはない。

 木刀が命中したところから出血していた。


「アベル……。強いな。俺の負けだ」

「あんたも、かなりのもんだよ。馬術だけなら互角だ」


 シュアットの顔を治療魔法で治してやる。

 その後、カチェやワルトも交えて試合を繰り返した。

 隊内で剣術においてアベルの右に出るものはいない。

 アベルにしてみれば当然のことだった。


 様々な人間に鍛えられ続けたのだ。

 こと、ヨルグに叩き込まれた夢幻流はいまだ習得なっていないものの自分の根幹になりつつある。

 それだけにガイアケロンに対して手も足も出なかったことは、驚きであり衝撃だった。

 まだまだ鍛えなくてはならないと、焦りにも似た気持ちになる。

 

 ガイアケロンの麾下で行動すること二十日目。

 いよいよ軍勢は攻撃の準備を整えつつある。

 ガイアケロンは旧ハイワンド領や中央平原に配置していた部隊を集結させていた。


 ポルト郊外には歩兵だけで二万五千人。

 騎兵も四千が結集しつつあった。

 くわえてシラーズ王子の援軍もいる。

 大軍が移動するには大量の物資が必要となる。


 ガイアケロンは商人や各地の有力者と事前に協定を結び、軍団の糧秣などを街道沿いに集積させていた。

 しかし、それだけでは足りないから軍団の後をついていく荷駄隊が数千人もいる。


 戦争に携わる人間たちが何万人と集まり、何やら異常なまでの熱気があたりに漲っていた。

 それは戦闘への恐怖でもあるし、活躍して名誉と金を手にしようという野心の高まりでもある。

 その日の夕刻、なんとなく軍内が騒がしい。

 アベルは頻りに議論している兵士の輪に入って事情を聞く。


「ウェルス皇帝が死んだのだと! 間違いないってよ。皇帝国が弔旗を掲げていたそうだ」

「皇帝が……!」


 軋みを上げて、時代が大きく動いていくのをアベルは感じる。

 ガイアケロンのもとへは皇帝国の密使としてやってきた。

 祖父バース公爵の陰謀、テオ皇子の利益のためである。


 テオ皇子が皇帝となり、首尾よく政権内に有利な地位を得ることができれば祖父バースが言う通り、アベルには政治家としても軍人としても成功できる栄光の道が開けている……。

 だが、そうした出世に少しも興味や関心が湧かない。


 もはやテオ皇子の手駒として行動する気はなかった。 

 ガイアケロンの狂えるような願望の先に……金や名誉を超えた、魂に関するものが手に入ると信じてみる。

 この機会に賭けてみなければならないという、追い詰められたような気持ちばかりが胸に渦巻いていた。




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