第108話 敵と味方の狭間
アベルはガイアケロンから与えられた百騎とポルト郊外を駆けて戦闘訓練に励む。
仲間が負傷して落馬したときに素早く拾い上げて、鞍に乗せるという練習もした。
意識を完全に失っている者を運ぶのは、かなり苦労することだ。
いよいよ、これから戦場に飛び込むことになる。
いつ、どんな事が起こるか誰にも分からない。
下手をすれば敵中に孤立するような絶体絶命の場合も想定しておかなくてはならない。
ガイアケロンが助けてくれるなどと考えるのは、甘すぎる。
百騎を付けてくれたのは、これでどんなことがあってもこの戦力で潜り抜けろという意味でもあるとアベルは感じた。
アベルは彼らと昼夜、共に生活した。
名前を憶えて一緒に飲み食いをし、野営などをしていると信頼関係は自然と高まっていく。
彼ら草原氏族の戦士たちは複数の部族からなる混成で、血縁関係であることも珍しくなかった。
もとからあった結束はガイアケロンという英雄の旗下にあって、鉄のように鍛えられている。
皇帝国が敗退を続けた理由を垣間見る思いだった。
もはやアベル、カチェ、ワルトの三人はすっかり受け入れられているが、特に人気があるのはカチェだった。
カチェの馬術は草原氏族と比べても劣らないし、さらに武芸諸般に通じているとなれば部隊の中で注目されないはずがなかった。
気が強く、凛々しくて元気に満ち満ちているカチェは草原の者たちと気心が通じやすいようだ。
アベルはカチェが騎馬戦士と剣術の稽古をしている様子を眺める。
短期間ながら武帝流で身につけたステップ歩法が上達していた。
それから状況に応じて摺り足移動に切り替える。
間合いに入る前から勝負は始まっていて、すでにカチェの有利だった。
相手の男は、カチェの捉えどころがない移動に幻惑されて下手な姿勢で追随しようとした。
その瞬間、隙が出来る。
カチェがそれを見逃すはずもなく、流れるように上段から木刀を打ち下ろす。
手加減した一撃が肩に入った。
実戦ならば鎖骨から肺まで斬り下げられて、即死か瀕死だ。
遊びに来ていたスターシャが感嘆の声を上げた。
「これで五人抜きか。やるな、カチェのやつ……!」
スターシャはときどきアベルの元に来ては剣の稽古を望んでくる。
やはり負けたことが悔しいという気持ちもあるのだろうが、無駄話だけをして帰っていく日もある。
どうやら単純に息抜きの意味でも訪れているようだ。
ガイアケロン軍団には特に精鋭が選抜された部隊がいくつかあって、その中の一隊は遊撃隊と呼称されている。
スターシャはその遊撃隊の長だった。
五百人の屈強な戦士からなるスターシャの部隊は必要性応じて騎兵にもなれば槍兵にもなるという、多様な働きが出来るのが特徴らしい。
もう秋も深まって風は爽やかというより寒くなってきているが、相変わらずスターシャは露出の多い軽装の姿をしている。
しなやかな太腿が丸見えになる腰巻、割れた腹筋も大胆に晒されていた。
豊かな胸にはビキニ風の鋼鉄で造られた覆い。
腕は金属の籠手で守っているが、肩とわきは全部出ている。
筋肉など実に良く発達しているが、やはり女性的な甘いラインを描いていて艶めかしい。
陽気な色気が発散されている。
大胆なスターシャの格好は深読みすれば相手の視線を誘導するとか、いかにも分かりやすい隙となり、それがかえって狙いを限定する効果があると言える。
でも、アベルはそうした意味は実際のところ関係なくて、単に彼女の趣味という気もしている。
あとはガイアケロンに見てもらいたい、という最大の理由だ。
スターシャが己の主に心酔しているということは態度の端々から伝わってくる。
愛する男に自慢の肉体を見せたい気持ちは分かるけれど……目のやり場に困るとアベルは感じる。
だいたい、この場にガイアケロンはいないではないか。
スターシャがアベルの視線に気が付いた。
優秀な戦士だけあって見逃さない……。
「おっ! なんだ、アベル。あたいの美脚が気になるか」
「いや、あの……」
「怖いわぁ。アベルの目ってギラついていて……凄く普通じゃないことされそう!」
「そういうのいいですから。命に関わるから」
「カチェが怒るってんだろ?」
「……」
答えることもできずに黙っているアベルをスターシャが、にやにやと優越的に笑って見ていた。
大人しくさえしていれば凄味のある美人なのに、ちょっと下品。
アベルが反応に窮していると面白がって、わざと胸を強調させ媚びるようなポーズをしてくる。
正直、触りたくなった。
少しばかり品のない女の方が興奮してくるのは何故なのか……。
「ま、あたいもアベルに手を出したら半殺しは確実だからな。お互い命懸けになっちまうな。そういうのも燃えるよな?」
「いや、それは燃えるどころか灰にされるから」
また試合に勝ったカチェが戻ってくる。
思う存分、技を試せたからか満足げだったのだが、目敏く怪訝な表情で聞いて来た。
「ん? 二人ともなんか変な雰囲気じゃない?」
「ど、どうかされましたのかな。カチェ様。何も変じゃないのですよ?」
じろじろとカチェが二人を交互に検分していたが、小首を傾げて黙った。
いかにも不自然な様子でアベルは訓練に戻る……。
なんとか誤魔化した。
――スターシャの奴、からかいやがって。
まぁ、あいつもあれで重職だからストレス発散なのかもな。
アベルは苦々しく思いながらも許すことにする。
あの色気と魅力的な肢体だけは本物だし。
帰り際、スターシャは数日以内にガイアケロン軍団の本陣が出征となることを教えてくれた。
先発部隊はすでに西へ移動して、最前線に向かっているという。
本当なら全ての部隊が既に出発している計画であったのだが、シラーズ王子配下の兵士たちを鍛える作業が捗らずに遅れが生じたと言う。
なんでも金で集めただけの人間たちなので、少しでも割に合わない危険な訓練や疲れる行為を忌避しているというのだった。
「軍隊なんか究極の重労働ですからねぇ。そんなんで大丈夫ですか?」
「あたいらも危惧している。はっきり言って質の低い者は、いないほうがマシってこともあるのさ。特に戦場では動揺して敵前逃亡なんかされたら、やる気のある者まで怖気づくしよ」
「……」
「行軍が始まったら休む暇なんかないから、今のうちに用事を済ませておくといいぜ。じゃあな」
アベルは忠告に従い、ポルトの城で薬師として働いているシャーレと別れの挨拶を済ませておいた。
何かあれば故郷テナナに戻れば安全だろうと、ほとんど命じるように伝える。
戦禍に巻き込まれることなどあってはならない普通の娘なのだ。
シャーレはエメラルドのような瞳に悲しみの色を浮かばせて言う。
「あたしも付いて行きたい。看護婦も必要とされているよね。今からでも遅くないから」
「それは許さない。旅の間は僕が何があっても守ってやれたけれど戦場ではそれができない」
アベルの鋭いほどの口調にシャーレは黙るしか出来なかった。
帝都に居た時には一緒に買い物をしたり食事をしたりと、それは幸福な日々だった。
やはりテナナの幼馴染は随分、遠くに行ってしまったのだと思い知る。
「あたしはアベルが帰ってくるって信じているからね。一度はもう死んでしまったと諦めたけれど、でもアベルは帰ってきた……。もう二度と諦めない」
「そんな風に思い詰めたらダメだ。僕なんかいなくても充分、シャーレは幸せになれる。戦争とは無関係に生きてくれ。今だって巻き込んで悪いと思っている」
「そんなことないよ。ハーディア様やガイアケロン様と接する機会になった。お二人とも高貴な方です。素晴らしいお人達なのだと知ることができた……」
離れ難かったものの、アベルは振り切るようにして別れた。
これでシャーレが生まれ故郷に帰れば、彼女に関しては義務を果たしたような気がする。
治安も極度に悪い帝都ではなく、田舎のテナナで穏やかに暮らすのが似合っているとも思う。
きっと数年以内にいい伴侶も見つかる。
腕の良い薬師などは引く手あまたに決まっていた。
次に小間物屋に偽装している連絡要員を訪ねた。
店先で何気ない風を装い、小声で会話する。
「返事は?」
「まだ来ていない」
「僕は数日以内にポルトを離れることになるだろう。この手紙が最後の通信になるかもしれない。頼むぞ」
アベルはガイアケロンから離れないために軍陣に参じることになった経緯を既に送ってある。
バース公爵には、ガイアケロンの苦しい立場、王子といえども自由に行動できない状況を伝えた。
それでも秘密同盟への意志を繋ぎとめてあるので、どうか何があっても交渉を継続してほしいと強く訴えていた。
バース公爵とテオ皇子がどう判断するのかは、それでも分からない。
だが、自分に出来ることへ全力を尽くすのみだった。
~~~~~~~
翌朝、アベルに意外な人物が訪れる。
白馬に乗ったハーディアが、それも単騎でやってきた。
王女の姿に気が付いた草原氏族の戦士たちが頭を下げている。
赤みを帯びた金髪が朝日に輝き、秀麗な眉目を一段と美しく彩っていた。
すでにハーディアは普段着の着用を止めて、昼夜を問わず艶消し白鋼の鎧で武装をしている。
腰の左側には両刃剣を佩いているのが見えた。
他に刀剣類の装備は見当たらないが、実際のところハーディアは恐るべき二刀使いでもある。
ダガーは太腿を防御している草摺りの裏に隠しているはずだった。
「アベル、カチェ、それにワルトという獣人も来てください」
「ハーディア様。御付の者などは?」
「人を交えたくないので。時間はそれほどないから急いでください」
ハーディアは肝心の用件を告げずに、付いてくるよう促した。
部隊の野営地を離れ、収穫を終えた麦畑を横切る。
落ち穂を狙った野鳥が数百羽も地面を啄んでいた。
飛来する鳥を捕えるためにカスミ網が張ってある。
あれは上手く獲物が絡まっていれば農家の副収入になる。
やがて人気のない葡萄園の片隅に移動する。
木々には収穫目前の、赤黒くなるほど熟した実が鈴生りになっていた。
あとは収穫して干して食べるか、葡萄酒にするか……。
ワルトは周囲を警戒するために一行から少し離れた。
臭いに敏感な獣人を騙して待ち伏せするのは非常に難しいはずだし、ハーディアはあらかじめ目的地を決めていない素振りなので先回りもできないと思われた。
やがてハーディアは白馬を止めて下馬したのでアベルたちもそれに従った。
王女は何故かカチェに語りかける。
「カチェ。実は貴方のことを調べました。すぐに分かったことなのですが、ハイワンド家の長女だったのですね」
「そうです。ハーディア様。偽名を名乗ったところでいずれ露見しますし、隠すつもりもありませんでした」
「貴方に教えておかなくてはならないことがあります。きっと関心があるはず」
「……」
「かつて、ベルル・ハイワンドという方がハイワンド騎士団の長でした。つまり貴方の父親……」
「はい」
カチェは行方不明の父親について、あえて考えないようにしてきた。
軍人が戦場で行方不明となれば、それはどうしたことであるか自明の理というものだった。
祖父バースもあえて話題にはしなかったが……態度から息子の死を事実として受け入れていた。
「中央平原の戦いにおいて、伯爵家の連合騎馬隊が我々の本陣近くまで攻め込んできたことがありました。辛くも撃退したあと、我々は逃げる者は追わずに皇帝親衛軍との戦闘に集中しました。やがて、野戦の勝敗は決してポルトの攻防戦へと移行していきましたが……」
アベルは苦しい撤退戦と籠城戦を思い出す。
当時、まだ総執軍官だったコンラート皇子は自分だけ素早く逃走して、ハイワンドに対してはポルトの死守を命じたのだった。
そして、一兵の援軍すら派遣しなかった。
時間稼ぎの名にも値しない用兵だった。
アベルはその時のことを思い出すと、怒りが湧き上がってくる。
血筋だけで指導者に選ばれ、部下の気持ちなど考えもしない男……。
早く死ねばいいと、本当にそう思う。
ハーディアは話しを続けた。
「我々がポルトを包囲していたところ、占領地域でハイワンドの騎士を捕虜にしました。名をフォレス・ウッドという男です」
アベルは聞き覚えのある名前に驚く。
ゴブリン退治の際に同行した騎士だ。
それから連絡要員として働いている彼とは、たびたび顔を合わせていた。
戦闘は下手だったが、謹厳実直な男だった。
「ウッドは頑固な人で捕虜になった後の態度は良かったのですが尋問には黙秘を続けました。しかし、ハイワンドの全てを占領したのち一年ほど経ったころ統治に力を貸してほしいと頼むと、ついに負けを認めました。以後、下級官吏として働いてもらっているのですが、彼はベルル殿の最後を知っていました。服従したときに全てを正直に話してくれたのです」
アベルとカチェは絶句する。
ただ、ハーディアの言葉を待つ。
ハーディアの真剣な眼差しがカチェに注がれていた。
「皇帝親衛軍と伯爵家の連合部隊が敗退していくなか、リキメル王子配下の傭兵たちは奔走を始めました。高位の人物を捕えれば、莫大な身代金を獲得できますから。
結果、フォレス・ウッドとベルル殿、数名の騎士たちは味方とは逆方向に逃げざるを得なかったそうです。しかし、傭兵隊に追いつかれ戦いになり、ベルル殿は見事な腕前で二十人ばかりを討ち取り、残敵は逃げたそうです。
しかし、ベルル殿も戦いのさなか深手を負ってしまった。残ったのはフォレス・ウッドのみ。ベルル殿は逃走を続けることも出来ず虜囚になれば今後の戦いに多大な迷惑となると考え、自決の道を選んだそうです。首は土中に埋め、装備は藪に捨て、遺体は裸のまま山野に放置したとのこと。私たちは事の真偽を確かめるためにフォレス・ウッドと共に見分役を派遣しました。遺骸は獣に食い荒らされてほとんど残っておらず、首も発見できませんでしたが……冑だけは回収できました」
カチェはうな垂れて沈黙していた。
アベルは伯父ベルルを思い出す。
顔立ちはウォルターに似たところがあるものの、生まれついての貴族らしく尊大で冷ややかな気配を多分に漂わせていた。
敵意に近いものを向けられたが、死に番をやってのけた後は態度を変えた。
その直後、別れたきりだ。
戦死していなければ、案外、認められていたのかもしれない。
貴族のプライドを守るため死を選んだというのは、いかにもやりそうな行動という気がする。
「このことをお話ししたのは、アベルに偽物ではない誠意があるからです。真相を知っていながら伝えなければ信頼に関わると考えました。アベル。本国のお家に伝えるといい。希望するのなら遺品となった冑も渡します」
「分かりました。ですが遺品の方は結構です」
ハーディアはカチェへ穏やかに語りかけた。
「カチェよ。見え透いた謝罪などしません。戦場のことゆえ、是非も無きことと考えています。もし王道国に許しがたい恨みがあるのなら、アベルと別れて立ち去るといいでしょう」
カチェの心中は複雑だった。
物心がついてから両親との思い出は僅かである。
母親が姿を消し、父親もほとんど外出ばかり。たまに城にいても会話らしい会話などした覚えがない。
スタルフォンの授業に飽きて剣術の訓練をしていれば、女戦士にでもなるつもりかと叱りつけられたものだった。
そう、よくよく考えてみても父親に認められたことなど皆無と言っていい。
ついに自分を理解してもらえないまま……二度とは会えなくなってしまった。
死別の悲しみとも違う、飲み込めない石のような感情。
「カチェ。貴方はアベルがどうしてここに来たのか理由は知っていますね。気持ちに揺らぎがあるようでは、こちらも不安になります」
「いえ。ハーディア様。わたくし、アベルの使命について詳しくは知らされていません」
ハーディアは少し意外そうな顔をした。
「そうでしたか」
「父は武人として生き、自分で自分の最後を決めたのですから、わたくしが恨む筋ではないでしょう。また、意図したことではなかったかもしれませんが、結果としては囮となって騎士団の者どもを助けたのだと、そう美化することもできます。……いずれにしても、わたくしはアベルと生死を共にすると決めております。くわえて、おそらく祖父バース公爵様の命によるところと想像しているのでハイワンド家の人間として……力を尽くすのみです」
ハーディアはカチェに自分との類似を見出した。
アベルと生死を共にするという言葉。
美しい眼差しは、真っ直ぐな気持ちだけで彩られている。
嘘とは思えなかった。
自分の信じる者と行動し、武運拙く最後の時が訪れたとしても迷わず運命を共にする。
兄と自らの姿に重なるのだった。
やはり本当のことを伝えておくべきだと感じた。
「アベルの使命とは……歴史の闇から生まれて闇に消えていく、陰謀を伝える密使」
「陰謀ですか」
「王道国の王家は激しい後継者争いをしているうえに、非道なディド・ズマの傭兵団を利用して戦争を優位に進めている。私と兄ガイアケロンの良心にそぐわない事態です。そこへアベルが密命を持ってやってきました」
「……」
「秘密を知る者は少なくあるべきですが、貴方には知る資格がある。陰謀とは、ガイアケロン王子とテオ皇子の秘密同盟です。互いが次期の最高権力者になるため密かに協力する」
「……まさか……敵と手を結ぶ?」
「誰も彼もが敵です。殺されないために……工夫するものです。弱い者なら尚更のこと」
カチェは祖父を思い出す。
生粋の貴族で、ありとあらゆる困難を引き受けるのは選ばれた階級出自からして当然の義務だと考えている人物。
それにしても息子を戦死に追いやった王道国の王子と裏で手を結ぼうなどとは、あまりにも冷徹かつ強靭な意志だった。
やがてカチェは腹が立ってきた。
アベルはこんなにも危険な役目を命じられていたのに自分を置いて行こうとしたばかりか、律儀に秘密を守り通した。
どこまでも一緒にあろうという、この気持ちをもっと汲みとってほしい……。
アベルに語りかけると、どうしても非難の口調になってしまう。
「アベル。何の任務なのかと、ずっと思っていました。でも、内容を話せないようでしたから、あえて聞かないままにしていましたが……ディド・ズマの部隊に襲撃を仕掛けたのもこれで理由が分かりました。あれは貴方への小手調べだったのですね。どの程度の行動力なのかを確かめる」
「すみません。バース公爵様から、絶対に誰にも言うなと命令されていたので」
「どうりで必死になって動いているわけです」
特にガイアケロンと稽古をしたあたりから、はっきりとアベルの雰囲気は変わっていた。
妙に必死で、まるで駆り立てられるような様子なのである。
アベルの態度は未だ腑に落ち切らないものの、ハーディア王女が秘密を明かしてくれたことにより、かなり納得ができてきた。
「ハーディア様。父の最後、教えていただきありがとうございます。何も分からないままであるよりも心が楽になりました。それに、アベルの密命についてまで説明していただいたこと感謝します」
「秘密を知った以上は、覚悟していただきます。もっとも、既にすっかり心は決まっていたと見受けましたが」
ハーディアは際立って美しい分、厳しい顔をしていると驚くほど冷たい印象になるが今に限ってはどこまでも柔和に微笑んだ。
アベルは裏表を感じない琥珀色の瞳に、奇妙な信頼関係の深まりを感ずる。
少し眦の上がった、いかにも天稟の鋭さを思わせるカチェにハーディアは内心の深くから感謝していた。
時間が経っていた事とはいえ、よく肉親の死を乗り越えてくれたと……。
この陰謀は敵味方の枠組みを超えた、禁断の試み。
時には味方を騙し、あるいは見殺しにする必要すらあるだろう。
大陰謀とはそうしたものだ。
心を堅く決めた者が仲間にいるのは頼もしい。
アベルはカチェの横顔を見る。
そこには早くも悩みや悲しみの色がない。
これは父ベルルと疎遠だったというのも一因だろうが、それよりは人を怨む性根を持ち合わせていないカチェの性格だと感じた。
――本当は人のことを憎んだりしない方がいい。
怨めば怨むほど……魂は昏くなっていく。
アベルはそう思い、カチェの清々しさに憧憬と似たものを抱いた。
カチェがアベルの視線に気づく。
なぜか顔を赤くさせる。
「な、なによ」
「いや……。頼もしいなと思って」
カチェは嬉しいような、少し残念なような気分になる。
依然としてアベルの気持ちは女性に対するそれではなく信頼だった
できれば恋心が通じ、互いに愛する仲になればそれが最高だ。
しかし、この危急の最中にあってアベルに必要なのはどんな困難も共に乗り越えられる強い人間である。
甘いばかりで、時には怠くなるような女は絶対に求められていない。
おそらく……理想はイースのようなものなのだろう。
しかし、己がイースになることは不可能だ。
それならば、死力を振り絞ってアベルの行動に身を捧げなくてはならない。
もし、恋を打ち明けるとしたら、それは務めから解放される平和が訪れた時か、あるいは確実な死が迫った場合だ。
告白してしまえば恋心に決着はつくだろうが、形は定まってしまう。
一つ決まってしまってから、この姿は嫌だと徒を捏ねても取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。
どれほど大きな戦いにも恐れを抱かないカチェだったが、秘した想いの行く末には震える思いだった。
「アベルは良い相棒を持ちましたね……」
すでに白馬に跨ったハーディアが馬上から嬉しそうに笑っていた。
用事は済んだので葡萄園から離れ、王女とは軍営の手前で別れる。
多忙な執務の最中に抜け出してきたらしく、颯爽と早駆けさせて戻っていった。
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