第101話  奴隷市場にて

 





 カチェはアベルの交渉を部屋の外で待つ。

 気分を落ちつけようとしても出来なかった。

 皇帝国の宿敵である王道国の王子と、どんな話しをしているのだろうか。

 もしかすると取り返しがつかないほど危険なことが始まっているのかもしれない。


 命令の出どころであろう祖父バース公爵の真意は分からない。

 アベルにも潜入交渉の詳細については、あえて質問してこなかった。

 ただ嫌な予感がする。

 カチェは無意識に刀の柄を掴みそうになり途中で手を止めた。


 気を揉みつつ待っているとアベルが出てきて用事は終わったと伝えてきた。

 カチェは開いた扉から中を見る。

 女性が外套を羽織り、顔を隠すところだった。

 素顔が見える。


 思わず息を呑むほどの美しさ。

 見覚えがあった。

 かの女性は確かに戦姫と名高く謳われるハーディア王女だった。


 数年前、ポルトの郊外で行われた決闘のときに顔を間近から目視する機会に恵まれた。

 間違いない。

 それにしても眉目の魅力的なことたるや同性のカチェから見ても破格であった。

 

 琥珀色をした瞳は、どこか憂いを感じさせている。

 清楚にして馥郁たる色香が漂う。

 かつて祝宴会で百人を上回る貴族の息女と出会ったが、それら誰よりも気品というものを感じずにはいられない……。


 ひとまずアベルの任務は成功したのだろうか。

 いずれにしてもこのために危険を冒してポルトまで来たのだ。

 カチェは心配になるが、こらえて黙る。


 ガイアケロンはスターシャに命令を下す。

 内容はアベルの支援と目付けである。

 アベルに聞かれたことは偽りなく教えてやるように、同時に彼が行うことを監視しておくことを合わせて言いつけた。


 スターシャは畏まった態度で拝命する。

 最後、王子はここで会合があったこと自体、絶対に誰にも話してはいけないとスターシャに言い残す。

 全員で建物を出た後、気さくにもガイアケロンはアベルへ手を振る仕種をした。

 スターシャは顔を隠した主たちが城の方へ歩いていくのを見守り、それからアベルに向き直る。


「アベル。ガイ様からお前らを助けるように言われた。御方の命令とあれば命懸けで実行するだけだ。で、これからどうするつもりだ?」

「ディド・ズマの周辺を調べた上で……隙があれば奴らの邪魔をする」

「あの荒くれどもの? ちょっかい出したら謝って済む相手じゃねぇぞ?」

「もちろん。けれども僕らが本気だってことを証明しなくてはならないから。ただじゃ信用してもらえない」

「別にディド・ズマは、あたいらの仲間じゃない……。けれどガイ様に迷惑が掛かるようなら止めるからな」

「それも分かっている」

「アベル。わたくしにも説明してよ。ディド・ズマは王道国の協力者のはず……。なぜ、奴の妨害をするとそれが王子の信用を得ることになるのですか?」

「彼の御二方はディド・ズマのような非道の輩を嫌っています。できれば排除したいと希望しているのです」

「けれどディド・ズマはイエルリング王子の重臣であると聞いたことがあります。もちろんイズファヤート王の許可なども得ていないことですね」

「そうです。おそらく意見の食い違いがあるのでしょう」

「アベル! なんて危険なことをやろうとしているの」


 カチェは驚く他になかった。

 ガイアケロン王子との交渉を成立させるため、王道国の権力争いに飛び込もうというのだ……。

 しかし、どんなことがあろうともアベルの意思は変わらない。

 強い決意のもとに行動している。

 止めようも無かった。


 アベルたちはシャーレとワルトの待つ宿屋へと移動する。

 シャーレに不眠症を改善する薬の調合を頼めるか聞いてみた。


「えっ。相手は王女様……さ、さすがにちょっと緊張するかも」

「嫌なら断ってもいいはずなんだけれど」

「……。ううん。お城に行くわ。困っている人がいるなら相手が誰であっても助けになります。医神アーストライア様の教えですから」


 シャーレは素直な微笑を浮かべてそう答える。

 エメラルドのような緑の瞳には、人の役に立ちたいという真摯な温かさが感じられた。

 医神アーストライアはウォルターも信じている医学の神である。

 過去に実在した強力な治療魔術師が神格化されたのち信仰の対象になっている。

 きっとウォルターの影響でシャーレも信じているのだろう……。


 同意したシャーレを城門まで送ると、既に話は通っていた。

 丁重な態度の役人に招かれて、彼女は城の奥に進んでいく。

 いかに治安が良いとはいえポルトの宿屋に一人置き去りにしてしまうのは忍びない。

 ガイアケロンは一般人に手を出すような男ではないはずだ。

 何故かそういう信頼を感じている。


 急いで準備を整えなくてはならない。

 今は軽装備だが、襲撃をするとなればそれなりに武装が欲しいところだ。

 復興した城下町の武器屋に行くと数多くの鎧や槍が売っている。

 アベルは冑を買うことにした。


 探すと、優美な流線型をした黒鉄の冑が見つかった。

 額から耳までを覆う形状をしている。

 聴覚を阻害しない構造になっているところも気に入った。

 それから顔を防御する鉄の面頬を買う。

 顔は隠したほうがいい。

 これはカチェにも買い与えた。


 冑を被り、薄金の籠手や脛当てを装備する。

 実用一点張りの武骨な胸甲と合わさって、姿は完全に戦士へと変貌した。


 珍しくワルトが食い物ではなく武器をねだってくる。

 耳を伏せて低姿勢な態度を装っているものの体がデカくて厳つい獣人がそんな素振りをしても全然可愛げはない。

 むしろ怖い……。


「くううぅぅん。ご主人様。おら、斧が欲しいだっち。買ってほしいずら!」

「いつもみたいな短剣じゃなくて?」

「長物は邪魔だし苦手だっち。でも斧なら上手く使えるようになれるはずだっちよ」

「お前の馬鹿力で斧を振ったら凄そうだな! いいぞ、買ってやる」


 すぐに中型ほどの片刃の戦斧を見つけ出してきた。

 獣人であるワルトは、戦い方において人間族と違いがあるのをアベルは熟知していた。

 詰まるところ体術の駆使に大きな特徴がある。

 強靭な体躯は力が強いだけではなく、恐るべき速さを兼ね備えていた。

 敵を翻弄する動きにはアベルも驚かされたことがある。


 ワルトは不思議といつの間にか強くなっていた印象がある。

 暇なときは寝ているばかりで訓練というものを全くやらないのだが、どうやら周囲の達人を見て学習しているらしい……。


 次にアベルは急いで馬商人を見つけ出して、良馬と馬具を買い揃える。

 金貨に糸目はつけない。

 安くて最高の馬などいるはずもない。


 食料を買い足して、準備はほぼ整った。

 スターシャは訓練所に立ち寄ると装備を一変させていた。

 いつもの、やたら露出の多い防具ではなくて板金鎧で胸と腹を覆っている。

 

 下穿きは木綿で作られた乗馬用のもので、脛当てもしていた。

 腰に佩いた武器は両刃拵えの長剣。

 布で目から下を隠しているから、総じて別人のようである。

 普段が個性的で目立つので、その格差のせいもあるようだ。


 ワルト以外は馬に乗り、速やかにポルトから南下していく。

 旧ハイワンド領の地理には詳しい。

 アベルは魔光を灯らせながら日没後も移動して、やがて見つけた農家で納屋を借りる。

 馬に水を飲ませ、金を出して買った干し草を食べさせた。

 汗も拭いてやる。

 そうしないと馬は体調を崩してしまうことがある。


 一応、不寝番を立てて休息に入る。

 スターシャは素直に見張りの当番に入ってくれた。

 ガイアケロンの命令を忠実に守る態度だった。


 急ぎに急ぎ、たったの二日で旧レインバーグ領との境に到着。

 ここより先は王道国第二王子リキメルが支配している領地だった。

 街道には厳重な検問があるのだが、間道や原野など密かに越境できる場所はいくらでもあった。


 限られた兵力で味方同士の領境を完全に警戒することはできない。

 そうした警備の穴はスターシャが熟知していて教えてくれた。

 アベルたちは検問を迂回してリキメル領に入り込む。


 ここからどう進むべきか。

 アベルはスターシャに聞いてみる。


「スターシャさん。ディド・ズマはどこを通過して来ますかね?」

「はっきりしたことは分からねぇな。ただ、ガイ様の話しでは数千人の陣容を整えて来るんだと。ズマは見栄っ張りだからよ。なめられたくないんだ。あとは急な襲撃に備えるって意味合いもある」

「……ということは細い道では行軍もままならないな。主幹道路を使って来る」

「ああ。そう考えて間違いないだろう」

「主幹道路はポルトから……たしかケルク市へ伸びていますね」


 アベルはまず、旧レインバーグ領の中心都市であるケルクを目標にした。

 ディド・ズマの傭兵軍団が通過する可能性が一番高い場所だ。

 途中、村落を横切るとハーディアが統治している旧ハイワンド領とは明らかに様子が異なっている。

 燃やされた家が片づけられないまま放置されていた。

 村は無人というわけではないが活気がない。

 これは四年前の攻防戦で破壊されたものなのか、その後に略奪を受けて燃やされたのか……判別はつかない。


 荒れ放題の農地がやたらと目についた。

 農民が逃散して、それ以後に耕す者が現れていないらしい。

 リキメルによる統治は上手く行っているようには見えなかった……。

 ハーディアの治めている地域と比べればその差は歴然としている。


 三日ほど南下を続けてケルクに到着。

 いわゆる城砦都市でポルトよりもやや小規模ぐらいであろうか。

 背丈の倍ほどの石壁で周囲を守られている。

 かなりの賑わいなのが離れたところからも確認できた。


 大勢の戦闘員らしき者たちが壁の外で軍陣を作り、なにかしらの活動をしている。

 道を歩いている商人風の男たちに聞くと、あの数千人の戦士たちこそがディド・ズマ直轄、最強の傭兵団「心臓と栄光」の構成員だという。

 アベルは感慨も深くカチェに話しかけた。


「ディド・ズマの直属部隊を見るのは初めてだ。これまで末端の山賊みたいな奴らばっかりだったから」

「ええ。さすがに装備なども良い物ばかりね。従卒も鉄製の胸当てをしている」

「馬の数も多い。それに弓や槍もきちんと大きさが揃っている」


 スターシャが辺りを見回しながら言う。

 その表情は布で隠れているから見えないが、忌々しげな雰囲気があった。


「ディド・ズマの直属部隊そのものは約二万人ぐらいだと思う。傭兵軍団は総勢で七万とも八万とも噂されているが、中小の傭兵団を寄せ集めたものだ」

「直参二万人……。多いとみるか少ないとみるか」

「心臓と栄光って傭兵団はもともとディド・ズマの親父。ズラフ・ズマが設立したものだ。後を継いだディド・ズマは厳しい統制と並外れた暴力で勢力を拡大した。鉄の掟で荒くれどもを統制している。ズマ親子に逆らって傭兵稼業をやるのは亜人界では難しいほどだ」

「それに逆らうと?」

「確実に潰される。実は……あたいが昔いた傭兵団もズマから傘下に入れと脅されて……結局、解散に追い込まれた」


 アベルはスターシャの過去の切れ端に触れた思いがした。

 誰しも他人が知りえぬ時間を持っている。


 数千人にもおよぶ傭兵軍団はケルク市に収容しきれないので、壁の外に天幕を張っている。

 行軍中の休憩といった感じだった。

 傭兵と言うと素行が悪く、統制もそれほど取れていない印象であったが、彼らはなかなか規律が行き届いている。

 さすがに亜人界最強の傭兵団と呼ばれる者たちだった。


 アベルたちは入市税を払って門を通過した。

 市内は大変な騒ぎだった。

 まず目に付くのがディド・ズマの率いる傭兵たちだ。

 剣呑な雰囲気を湛えた武装せし男たちが犇めいている。

 戦争を職業としている人間の、一種独特な凄みが誰も彼にもあった。


 犬の鳴き声。

 汗と小便の臭い。肉を焼く煙と混じっている。

 臓物の煮込み料理を出す店に商人や労務者が群がっていた。

 何の肉なのか分かったものではないが、みな貪るように食べている。


 裏路地では愛想笑いを浮かべている売春婦が、ずらりと並んでいた……。

 まだ十三歳ぐらいの少女から三十路の女まで花を売っている。

 大通りを通過して市の中心部にある市場へと進む。


 中央広場が奴隷を売り買いする会場になっていた。

 奴隷市場は数千人の人間でごった返している。

 アベルは縄で連結された奴隷たちがいたので、どこから連れ去られたのか聞いてみた。

 相手は二十歳ぐらいの女性だ。


「あたしたち、ウルミダスの街から連れて来られたの!」

「なぁ、あんた。親戚が買い戻しに来てくれるかもしれねぇんだ。俺の名は」


 奴隷を見張っている傭兵が怒鳴ってきた。

 勝手に話しをするなと脅してくる。

 アベルたちは場を離れる。

 最近、傭兵軍団が攻め落とした皇帝国の街から連れて来られた人たちだった……。

 みな、悲痛な顔をしている。


 競り会場では、まず男女別に売られる奴隷が区切られていた。

 高値がつくのは十五歳から二十五歳ほどの若者。

 若すぎる子供は労働力としては二流なので少々安い。

 年齢が三十代では読み書きができるとか家畜の世話ができるとか、そういう技能があると文字通り「売り」となる。

 逆に安いのは不具、病気持ち、年寄り、あるいは反抗的な態度の者だった。


 別格に高いのが美しい男女と魔法の使える者。

 特に治療魔術が使える者は天井知らずだという……。


 中央平原や亜人界では労働力が不足しているので、質の良い奴隷を求めて買い手が殺到していた。

 商売の世界は何でもそうであるが、良いものは最前線にあってなおかつ早い者勝ちなのである。

 もたもたしていると商機はたちまち消え失せてしまう……。

 よって戦地の直ぐ近くまで出張して、奴隷を買い付けるというわけだった。


 アベルが見ていると特設台のようなところに十人ずつ奴隷が並ばされていく。

 それを奴隷商人たちが体や性格を調べ、値段交渉を始めていった。

 奴隷の態度は様々だった。


 もう何もかも諦めて無表情をしている若い女。

 情けなさで泣いている中年の男。

 一生懸命に自分の良さをアピールして、少しでも好条件な主に買ってもらおうと努力している男など……。


 叫び声が聞こえた。

 アベルが見ていると、若い二十歳ぐらいの奴隷の男が暴れている。

 俺は騎士の子だとか、無礼者がとか、そんなことを怒鳴っていた。

 ディド・ズマの手下たちが押さえつけて蹴り飛ばすなどしているが、それでも抵抗を止めない。


 大事な商品なので、普通は骨折しない程度に痛めつけて脅しあげるものだが、若者の抵抗は半端なものではなかった。

 ますます暴れ狂う。


 堪りかねた手下たちは棍棒で滅多打ちにする。

 肉が潰れる重たくて湿った音が響いた。

 アベルは、まさか殺すところまではしないだろうと思っていたが、そうはならなかった。

 やがて叫び声はふいに途切れる。


「あっ。この野郎。死んでしまったぜ」

「ぎゃはは! まったく柔い野郎だな」

「なにが騎士の子だぁ。この、粋がりやがって!」


 その死体は見せしめのため、首に縄を括られて近くの樹に吊るされた……。

 奴隷市場の片隅には、そんな風に殺された者の死体が無数に転がっている。


 アベルが観察していると派手に奴隷の売り買いを仕切っている人物がいた。

 年齢四十歳ぐらいの男。

 悪賢いブルドックみたいな顔……。

 太っていて、どう見ても戦士風ではない。

 絹のゆったりとした貫頭衣を着ていた。

 

 競りを巧みに誘導して、次から次へと奴隷を売り渡していく。

 鮮やかな手並みだった。

 あまりジロジロと見ていては怪しまれてしまうかもしれないので、アベルたちは市場を離れた。


 探せば、こんな戦地にほど近い場所でも商友会の集まりがあった。

 アベルは中に入り、事情を知っていそうな商人を見つけ出したので、金を渡して色々と質問をしてみる。

 相手は穀物商人で、傭兵軍団に糧秣を供給していた。


「ここにディド・ズマが来ているって本当ですか?」

「ああ、本当さ。奴隷を売りさばいて北に行くってことだ。目的地はハーディア様の領地かな」


 五十がらみの、梟を思わせる老獪な気配をした商人だった。

 黒い頭巾を被っていて、表情は温和でも無ければ冷たくもない。

 たしかこの頭巾は黒羊商協会という商人組合に属する証だ。


「いつ軍勢が出発するのか知っていますか」

「急ぐらしい。明日には行軍を再開するはずだが」

「けれど奴隷の取り引きが、まだ終わらないのでは……」

「若いの。鋭いな。なにしろあの数だからな……。明日は三級品が安売りだろうて」

「買い手がつかない場合はどうなりますか」

「服を剥ぎ取られて、放り出されるさ」

「乞食か……」

「捨てられるのは病気持ちや発狂者だ。ほとんどが直ぐに飢え死にしちまうよ。去年も中央平原のセトゥバルという街で奴隷の競りがあったのだが、千人以上の買い手のつかない奴隷が放置されて……ほぼ餓死さ。哀れなものだったの」

「奴隷を売って得た金はディド・ズマの懐ですかね」

「そうさ。だからあいつ金回りはえらくいいぞ。ディド・ズマと商取引の協定を結べば利益が見込める。お前さんも、それを狙っているのだろう?」

「ええ……まぁ。そうした交渉は誰とすればいいですかね。ディド・ズマに面会なんか無理ですよね」

「ああ、無理だ。よっぽど信頼があるか紹介がなければズマには会えない。わしも会ったことはないぞ。ねらい目は会計か主計だ。わしが交渉しているのは軍団主計長のトクザールだ。奴隷の販売を仕切っているのは会計のマゴーチ。やるんだったら命懸けになる。荒っぽい連中だからな」

「交渉する機会があればいいけれど」

「明日、奴隷の取り引きが終わった頃合いが機会かもな。わしの見立てでは昼頃まで競りが続いているはずだが。もしかすると午後までずれ込むかもしれん」

「……」


 アベルはそれからも会話を続ける。

 どうやらディド・ズマ本人は野外の軍陣にいるらしい。

 ただ、いつ出てくるかなど分からないし、辺りは十重二十重に守られている。

 とてもではないが接近などできない。


 あまりに離れていては落雷を発生させる特殊魔術の「紫電裂」を行使しても命中は期待できなかった。

 それに能力の高い魔術師が周囲に控えていると、攻撃を察知される恐れもある。

 紫電裂は切り札の一つなので、簡単には見せられない。

 使う機会はなさそうだった。


 傭兵軍団は明日の朝、出発するという情報を得た。

 やがて夕方となる。

 市内は人が多くて、アベルは一夜の宿を見つけるのに苦労してしまった。

 大部屋には空があるのだが、なかなか個室はない。

 やっと見つけた狭い部屋に四人全員で入ることになる。

 しかも、宿泊費は高くついてしまった……。


 アベルは色々と考えを巡らせる。

 傭兵軍団の悪辣な手口は分かっているので襲撃することに躊躇いはない。

 問題はどこで誰に……ということだ。

 成果を見せなければガイアケロンは決して自分を信用しない。


 ガイアケロン……。

 皇帝国の大軍を敵に回して華々しく活躍し、英雄とまで言われている男。

 不思議な王子だった。

 大らかで優しそうな印象すらあるが、強大なものと対決している人間に特有の芯の強さがあった。

 

 密かに和平派に取り込めれば確かに頼もしい。しかし、彼が王道国の指導者になるのは不可能に近いのではないか。

 それとも皇帝国が総力を結集してイエルリングやリキメルを敗北させれば……あるいはガイアケロンに道が開かれるのだろうか。


 それからハーディアのことも気になった。

 あからさまにディド・ズマを嫌悪していた。

 そんな男が婚姻相手では不眠にもなるだろう……。


 襲撃が上手くいけばハーディアも協力的になってくれるかもしれない。

 ともかく、できることを一つ一つやっていくしかないとアベルは考え至る。

 アベルは寝台に座って革帯の点検をしているカチェに話しかけた。


「カチェ様。ちょっと話があります」

「はい」

「これからの戦いは本当に……どうなるか分かりません。僅かな失敗で命を落とすかも。だから、ここからは僕とワルトだけでやります」

「どうしてそうなるの」

「やっぱりカチェ様を巻き込むのは悪いと」

「……アベルはさ。わたくしの気持ちを本当に考えてくれているの? 巻き込みたくないと思ってくれるのは、ありがたいことかもね。けれど貴方が、もし仮によ……。どこか遠いところで殺されてしまったとして……わたくしはそれを知らないでいたら、どうなってしまうの? それが最も恐ろしいのよ」

「……」

「だってそうでしょう。わたくし五年も十年も二十年も……、今日は帰ってくるかな。明日は帰って来るかなって待ってなければならないのよ。貴方はとっくに死んでいるのに。それって凄く残酷だと思わない?」


 アベルは何の反論も出来なかった。

 ただ、黙って頷いた。

 幼馴染かつ戦友の友情に首を垂れるしかない。

 カチェは澄んだ眼差しで言葉を続けた。


「もう、ここまで来たら運命と思いなさい。わたくしは強引に力でこちらを選びました。けれど、本当に運命が千切れていたら、どれほど力を加えてもアベルとは別れたきりになっていたでしょう。繋がったのなら、運が続いているのよ。たとえ共に……死ぬことになっても後悔しない」


 恋や愛は狂気に近いとカチェは思う。

 死んだって構わないと心から思いきれるのは、やはり正気の沙汰ではないのだから。

 けれどアベルを二十年も三十年も待っていたら、それはそれで狂ってしまうかもしれない。

 いや、きっとそうなる。

 そうなるぐらいだったら、アベルの側で死力を尽くして戦う方がいい。


「バース公爵様が言っていましたよ。カチェ様が男に生まれていれば良かったと」

「……わたくしは女に生まれてきたのは幸運だと考えています」


 なぜなら貴方のことを愛することができますから……、そう心で付け加える。

 使命を帯びたアベルに今、必要なのは共に戦う力だ。

 それならば一緒に戦ってやらねばならない。

 心に猛烈な戦意が宿る。


 同じ部屋にいるスターシャは寝台に横になって目を閉じていたが、会話を聞いていた。

 二人は恋人同士なのかと思っていたが、移動の最中の態度などからそうでないのは察せられた。

 どうも主従関係のようでもある。

 それもアベルの方が格下で……。

 興味が湧いたが、込み入ったことは聞かないことにする。

 今は主ガイアケロンの命令を守らなくてはならない。


 死闘の予感を前にして、皆は沈黙のうちに夜を明かした。





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