第100話 運命の再会
ディド・ズマは暑さに耐えかねて冑と面頬を外した。
汗を滴らせた素顔が露わになる。
見る者を思わず怯ませるような顔面。
残酷を好み、執念深い性格が現れた人相だった。
顔の造作という以前に醜く爛れた心が、そのまま表れていた。
ディド・ズマの姿を見た多くの人間が、まず醜悪な蛙を連想する。
淀んだ泥沼に棲むイボ蛙を……。
数万の傭兵を束ねるディド・ズマは自ら陣頭指揮を執っている。
その視線を戦場にいる誰しもが感じる。
下手な動きをすれば残虐を飛び越えた埒外な制裁が待っていた。
何万人がいようとも決して見逃さない。
だから、荒くれた傭兵たちはいつでもどこでも背中に激しい恐怖を感じていた。
踏み込めば殺されるかもしれない敵地よりもズマの方が恐ろしい。
それは体の隅から隅にまで刻み込まれていた。
ディド・ズマは早朝から昼に至るまで攻め続けている城砦都市を眺めた。
人口約一万人程度の皇帝国の拠点。
市内の至るところから火災が発生していた。
退路を遮断して、波状攻撃を仕掛けること今日で四日目。
攻略は最終局面だ。
街を守るはずの外壁は力ずくで突破した。
ついに市の中央にある、尖塔の多い城にまで押し寄せている。
いくつもの投石器が油と硫黄の詰まった壺を投射した。
城に命中するたびに爆発が起こる。
手下たちから報告が次々に上がってきた。
行動の芳しくない傭兵団には檄を飛ばす。
やる気が感じられない部隊長など、その場で惨殺することもしばしばだった。
それゆえにディド・ズマの叱咤が飛ぶと、狂ったように勢いが高まる。
無数の梯子に取りついた傭兵たちが損害に構わず城壁を登っていく。
皇帝国の守備兵に槍で突かれた傭兵が梯子から落下していった。
頭から真っ逆さまに落ちて、首が折れたのが見えた。
だからといって誰も怯まない。
怖気づきでもすれば良くて半殺し、そのまま殺されることもある。
ディド・ズマの腫れぼったい目蓋の下。
ぎらついた褐色の瞳がある。
抵抗する皇帝国の敵たちが、まさに断末魔を上げていた。
喜びで心が躍る。
人を踏み潰すとき、この上もなく楽しい。
何よりも喜びを感じる。
だから暴力が、略奪が、殺人が好きだった。
血筋を誇り、大口を叩いていた貴族などを殺すときが最高だ。
相手の立場が高ければ高いほど念入りに殺した。
以前、皇帝国伯爵家の年若い子弟を捕らえたことがあった。
莫大な身代金を強請ってやろうと思っていたが、相手が侮辱してきた。
――お前がディド・ズマか。噂通り醜い顔をしているな。
蛙そっくりだと聞いていたが、蛙に失礼なことだった。
お前は腐った馬糞だ。下賤めが……。
そんな罵りを克明に思い出せる。
ディド・ズマは笑って言った。
じゃあ、その馬糞の小便を飲ませてやるよ……。
さんざん蹴っ飛ばして、踏みつけてから頭に小便を注いだ。
そのあとは指から腕まで寸刻み。
切断した指は鼻の穴に詰め込んでやった。
悲鳴が心地よかった。
最後は首を素手で締めた。
それもゆっくり、時間をかけて、わざと緩急をつけて首を搾りあげた。
ディド・ズマはその時のことを思い出して、髯の生えていない口元を歪めた。
眉毛も薄い体質なので、額が異様に広く見える。
頬が、ぼってりと厚く膨れていた。
全く醜い蛙そのものだった。
糞蛙と敵対者からは罵られ、手下たちは傭兵団の団長として相応しい雄々しさと讃える。
暴力を競い合う戦場においては、強さと奸智に長けた者こそが「出来た者」として認められる。
どれほど性格が残忍であろうとも弱い者より強い者が称賛された。
ディド・ズマは、間違いなく抜きん出た強者と認められていた。
人倫などなく、情けもなく、常識もなく、謙譲もなく……あるのは底なしの貪欲さと暴虐だった。
今や褐色の瞳は血走り狂気じみた殺気を湛える。
最後まで防衛を諦めなかった尖塔の多き砦が、ついに陥落した。
そこを守備している皇帝国の敵兵たちが攻防戦の最中、ディド・ズマを嘲笑った。
イボ蛙に似ているとか、ふとっちょの短足だとか、戦場ではよくあるような挑発だった。
ディド・ズマの心は憎悪に塗れ、狂ったように吼えた。
敵を殺せ、金を奪え、奴隷を集めろ。
いくつもの戦争を渡り歩いた荒くれを震え上がらせる気迫がディド・ズマにはあった。
毎日のようにディド・ズマ自身が人を殺した。
敵を槍で突き殺し、捕虜を棍棒で殴り殺し、あるいは手下の顔が不服そうだという理由だけで、その場で斬首したことも数え切れないほどあった。
だが厳罰の反面、手柄に対しては厚く報いた。
実力があれば傑将と呼ばれる幹部格に引き上げた。
その報酬は莫大。
複数の街を支配する権利が傑将に与えられる。
まるで小国の主になったような気分を味わえる。
戦場に賭けた荒くれが目指すべき頂点だった……。
事あるごとにディド・ズマは喧伝している。
自分とハーディア王女との婚姻が間近であると。
しかし、そのためには金が要る。
中央平原や亜人界に無数にあった傭兵団を次々と傘下に置き、彼らに上納金を課した。
季節ごとに定められた金品を納められない場合は、容赦なく傭兵団は解体。
他の手勢に組み込む。
成果の上げられない団長は殺し、そうでなくともあらん限りの罵りを与えて裸一貫で放り出した……。
まるで手段は選ばなかった。
イズファヤート王が要求したハーディア王女と婚姻条件。
王政金貨五十万枚に届くまで、どんなことでも遣り遂げる。
落ちた城から、捕虜たちが連行されてきた。
ディド・ズマは命じる。
俺を蔑んだ者は絶対に許さない。
鎧と服を剥ぎ取り、全裸にしてから弓矢の的にして遊び殺した。
数百人の兵士を虐殺したあと、捕らえた市民は奴隷商人や光神教団などに売る。
中規模の街を占領すると、だいたい金貨一万枚の収入になる。
だが、それは以前のことだった……。
最近は金の集まりが悪い。
皇帝国の貴族たちが警戒して、あらかじめ財宝や家財を徹底的に疎開させるようになってきた。
さらには故郷を離れたがらない市民までもが家や土地を捨てて逃げ出している。
ディド・ズマは焦る。
目下、王政金貨にして二十五万枚程度の金が集まっている。
ところが、ここに来て皇帝国の抵抗は、いよいよ激しい。
それはそうだろう。
いまや皇帝国の領土にまで攻め込んでいるのだから。
領地を守るために皇帝国の貴族たちは必死に戦ってくる。
戦が終わり、戦利品がディド・ズマのもとに運び込まれてくる。
桶に装飾品や銀製の杯などが満載されていた。
会計係の幹部であるマゴーチという名の男が財宝を鑑定して、概算額を知らせに来る。
せいぜい金貨三千枚程度ではないか……という報告。
これだけの規模の街を落としたにしては期待外れな成果だった。
「少ねぇじゃねえか……。誤魔化している野郎がいるだろうっ!」
眼を血走らせたディド・ズマは怒鳴りあげる。
すぐに部隊長や傭兵団の団長を集めるように命令が下る。
女子供も平気で殺す荒くれたちが子犬のように怯え、駆け足で集まってきた。
しかし、呼ばれた者のうち数名が来ない。
戦死していたからだ。
結局、横領をした者はほとんど見つからなかった。
奪った金杯を供出せずに隠していた男がいたので見せしめに両腕を切断した後、処刑したぐらいだった。
どうやら、もともと財宝が期待していたほどなかったらしい。
報告によると攻略による損害は、即死が約千人。
大怪我をして傭兵稼業ができなくなった者はそれ以上に及ぶという。
思ったよりも損害が大きい。
ディド・ズマは数百の死体と、苦悶の表情を晒した生首の連なりを眺めて、ようやく気分が落ち着いてきた。
それでも内心、激しい不満が渦巻いている。
皇帝国の抵抗が増すごとに糧秣や人員に出費が嵩む。
こんなことでハーディア王女との婚姻に必要な金貨五十万枚などという途方もない金が集まるだろうか……。
それを思えば己の肉体を炎で炙られている気になる。
唯一の相談相手、父親のズラフ・ズマと今後の方針を話し合おうと考える。
それからディド・ズマはハーディア王女を思い出した。
忘れられない。
毎日、毎日、脳裏に姿が蘇る。
最高の女。
どんな高級娼婦も及ばない美貌と色香。
心中に燦然と光り、欲望は無限に膨らむ。
あんな女、他に見たことが無い。
しかし、自分がハーディアを愛しているとは少しも感じない。
愛などという形を持たない概念について思索するようなことは、これまでの人生で一度たりともなかった。
あれほど美しい女は、必ず自分のものにする。
他のどんな男にも渡すわけにはいかない。
ただ、それだけの強烈な衝動。
数千回でも、数万回でも犯し尽くしたい。
全身を舐め回して、あの女を隅々まで味わいたい。
無限に湧いてくるような欲望……。
ディド・ズマは当座の捌け口を求めた。
自身の実母はもともと売春婦であった。
今では数百人の娼婦を束ねる「お母様」と呼ばれる存在になっている。
その母親に飛びっきりの美女を用意させた。
ほんの少しでもハーディア王女に近い女でなければならない。
連れて来られたのは皇帝国子爵家の子女だった。
以前の都市攻略で捕らえていたものだ。
一流の教育を施されていた本物の貴族。
それをディド・ズマ専用の奉仕奴隷にするため再教育させた。
しかし、膨らんだ期待は直ぐに激しい失望となった。
顔といい雰囲気といい、ハーディア王女にはまるで及ばなく感じた。
怒りが澱んでくる。
それでも農民の娘よりはマシと思って犯した。
見え透いた媚び。
気品とは程遠い、お高く纏まっただけの態度。
少しも面白くなかった……。
腹が立ったので射精したあと、女をぶん殴った。
泣き叫ぶ声と姿に興奮したので、さんざん痛めつけた後は再び犯した。
いくらか荒ぶった気分が落ち着き、夜空を何ともなしに見上げれば二つの月が輝いている。
別に月を見たところで綺麗だ、などとは感じなかったが無性にハーディア王女に会いたくなった。
あの美しい顔、貪りたくなる姿をこの眼で見たい……。
そう思い立てば、ディド・ズマは即座に動くことにした。
旧ハイワンド領まで手下たちを連れても急げば十日の距離だ。
いまやイズファヤート王にすら認められているのを強く自覚している。
軍議を申し入れれば拒否することはできないはずだった。
だが、念には念を入れてイエルリング王子に仲介を頼んでおこうと決める。
イズファヤート王に取り成してくれたのも王子だった。
およそ人へ感謝することなど無いはずが、イエルリング王子だけは別としていた。
いずれイエルリング王子と共に世界を切り分ける。
王道国は彼が支配する。
自分は亜人界と皇帝国を征服する。
強い者だけが称賛されるのだ。
単純な理屈。
他者を暴力で圧倒した者が頂点に立てる。
ただ、それだけ。
そして、どんな卑怯なことも残虐なことも躊躇わずにやり遂げた者が王になるのだ。
弱い者に価値などない。
力があれば欲しいものが手に入る。
自分に跪く無数の戦士と奴隷。
世界最高の美女ですら、欲するまま
あの高潔にして貴顕に満ちたハーディアを生きた家具として扱える日を夢見る。
気が向けば四つん這いにさせて椅子のように腰掛けてやろう。
物のように縄で縛って手下どもの目の前で犯すのも一興だ。
やがて子供が生まれる。
王道国の王族と縁組させられる。
将来は全てを手にするかもしれない。
自分とその息子は王道国、亜人界、皇帝国を統べる究極の超王だ……。
ディド・ズマは、醜怪な顔を歪めて笑う。
野心は果てを知らずに駆け巡った。
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アベルとカチェはポルトの街中にある一軒の酒場にいた。
ガイアケロンはそこで待っているようにと言い残し、城へと急ぎ去っていったからだ。
スターシャも主に付いて行って、ここにはいない。
酒場は昼間ということもあって、あまり人はいない。
四人ほど他の客がいるだけだった……。
出される料理の値段などからみて、中の上ぐらいの店であるようだ。
二階と三階は宿屋として機能している。
ポルトのような街では良く見かける、普通の店だった。
昼下がり、苦みの効いた麦酒を飲みながら相手を待つ。
カチェが小声で聞いて来た。
「ねぇ。アベル。さっき街で会った人……。前に魔獣界で飛竜に乗せてくれた魔女アス様じゃなかった?」
「……うん」
「あのときは驚きで考えが回らなかったけれど……どうしてあそこにいたのかしら。何か知っているの?」
説明の難しい件だった。
アベルはどう説明をすれば良いものか悩む。
なにしろ自分にだって完全には理解していないのだから……。
「カチェ様。僕にも意味が分かりません。アスって人は……きっと何か考えがあるのだと思います」
「でも、なんでアベルにだけ話しかけたのかしら?」
アベルは分からないという風に首を振った。
カチェは少し怪訝そうにしたものの、それ以上は追及してこなかった。
それからしばらくして、三人の人影が店の入り口に現れた。
目深にフードを被った二人と、もう一人はスターシャだった。
スターシャは店の女将に金を払い、何事か交渉をしていた。
女将は愛想よく頷き、一つの鍵を渡す。
体の大きな人物は、顔が隠れていてもアベルにはガイアケロンだと分かった。
もう一人の人物は誰なのか分からない。
体の線からして女性のようであった。
スターシャがアベルの横まで歩いてくる。
「三階に部屋を借りた。来てくれ」
アベルは黙って付いて行く。
通された部屋に入ったのはアベルと顔を隠した二人だけ。
スターシャとカチェは部屋の前で待たされた。
質素な部屋で、旅人が一晩使うだけの場所だった。
寝台が二つ、小さな机と椅子が一組のみ。
万が一にも覗き見されないように窓の木戸は、ほんの少ししか開けない。
薄暗い室内。
ガイアケロンともう一人が鼻梁と口元を隠した布を外した。
現れた顔。
それはハーディア王女だった。
王女は肉体の芸術品と呼んでよかった。
頭を覆っていたフードが取り払われ、零れるように出てきたのは豪奢で豊かな赤味がかった金髪。
剣のように細く繊細に伸びた眉。
琥珀色の瞳も明瞭に現れる。
見詰められていると気づかない内に、その瞳の奥へ思いを馳せてしまう魔力があった。
もしかしたら好意や嫌悪か、何らかの感情が映っていないかと調べてしまう。
結局のところ相手の心に何があるのかは分からないにも関わらず……。
王女の齢は二十歳を少し超えたほどに思える。
美しさの絶頂に達しつつある年頃なのかもしれなかった。
アベルはやや気圧されつつも、直後に一つの気づきを得た。
王女の信じがたいほどの美貌に、どこか悩みの影を感じる。
しかし、だからといって別に美しさは些かも損なわれてはいないが……。
むしろ絶世の美女が憂鬱にしていれば、そこには全く新種の花が咲いているかのごとく未知の美しさを発見せざるを得ない。
――決闘をしたときも美しかったけれど、今はもっと魅力的だな……。
怖いぐらいだ。
やがてハーディアは憂いの気配を引っ込めて無表情のままアベルを見る。
アベルは相手が何を考えているのか探ろうと視線を合わせる。
そこに何か意志を見つけようと必死になりかけた。
アベルは視線を合わせるのを止める。
呑まれそうだった。
「貴方は見覚えがあります」
そうハーディアは問い掛けてきた。
涼やかなで高雅な声だった。
「思い出してきました。名はアベル。ポルト郊外で戦った」
「はい。アベル・レイです。戦争とはいえ、お命を狙ったこと……申し訳なく」
「前口上や見え透いた謝罪はいりません。あれは正当な闘争でした。戦士同士が戦場で相対すれば、殺し合いになるのは道理ではありませんか」
「は、はい」
三人は座らずに、立ったまま話し始めた。
ガイアケロンは懐から密書を取り出して隣のハーディアに渡す。
手紙の印璽を目にしたハーディアは初めて表情を僅かに変えた。
中の文章を読み取り、視線を上げた時、変化はより明瞭になっていた。
アベルは意外に思う。
上流階級の人間であれば顔色を変えない作法など、幼少期から躾けられる。
不快に思っても眉一つ動かさないことなど当たり前のようにやってみせるものだ。
カチェですら普段こそ自由奔放であるが、社交の場では完璧な貴族として振る舞っていた。
すなわち儀礼的な微笑、相手に無視や注視を感じさせないやや伏し目勝ちにした視線。
どこまでも恭しい物腰など。
もちろん、そうした態度が苦手であったり、あるいは訓練を受けなかったためにできない貴族もいるにはいるのだが……。
ハーディアのような極めて高位にある人物にしては、顕著な表情の動きだった。
戦姫とまでの異名を持つ王女から物憂げな気配は消し飛び、今や鋭いほどの観察眼を感じる。
嘘や隠し事など通用しないという覇気にも似たものが発せられている。
質問はガイアケロンからではなくハーディアから始められた。
「皇帝国皇子の使者として来たとのこと。貴方はハイワンド公爵家の身内だったのですね」
「はい、まずはそこからお話しさせてもらいます。僕の父、名をウォルター・レイと申します。その出自はバース公爵様の私生児。ただし、本人がハイワンド家の郎党になることを拒否しているので相続権はありません。ですが、この僕、アベルはハイワンド家の相続権第四位に指名されております」
「なるほど。それでテオ皇子はどうしたわけで、私たちに密使を派遣したのですか」
アベルはバース公爵から事細かに伝えられた交渉条件を思い出す。
緊張してきた。
最悪の場合、この密談自体を危険視して、全てを無かったことにしてくる可能性はゼロではない。
もう退き返せない死地に飛び込んでいた。
こんなとき、自分一人だけならどれほど気が楽かと痛感する。
別に己一人が生きるか死ぬかの死線に追い詰められるのは仕方がない。
しかし、シャーレやカチェを巻き込みたくはなかった。
本当なら越境した時に彼女たちと別れておくべきだったのだろう。
つい……ここまで連れてきてしまった。
「どうしたのですか? 使者が黙っていては困ってしまいますよ」
先ほどとは一転してハーディアは深重なほどの穏やかさを感じさせる笑みを浮かべた。
商売用の媚びた表情などとは限りなく離れた、自然な気品のある態度。
ガイアケロンはずっと佇んでいるだけなのに、大らかな明るさを発散させている。
二人とも相対する者の緊張感を解し、人を信用させる技術を持っているようであった。
アベルは覚悟を決めて交渉を始めた
「まず、この僕がここに到達したことは、すでにポルトへ入り込んでいる公爵家の者が知っています。僕や連れが姿を消したら……ここで殺害されたと判断することになっています。そうなった場合はハイワンド家ならびにテオ殿下は、これを生涯における最大の汚辱と見なして、ありとあらゆる機会に復讐することを明言しております」
ハーディア王女は、いささかも美貌の風合いを変えることなく僅かに頷いた。
俺は非道なことは嫌いだからしない、という返事はガイアケロンからだった。
つい信用したくなる態度。
アベルは息を吸い込み、それから本題に入る。
「前口上は必要ないとのこと。では、本題からお話しします。僕は密約交渉のために派遣されてきました。密約の内容は秘密同盟です。率直に申し上げて、皇帝国は未来の王道国国王としてガイアケロン様が最も相応しいと確信しております。そのために王道国におわす他の後継者候補を優先的に攻撃する用意があるとお伝えしておきます。いずれはガイアケロン様が国王となり、テオ殿下が皇帝国の皇帝となります。その際には対等な国同士として和平して、共に繁栄したいと望んでおります」
二人の王族は沈黙した。
それは巨大で
アベルは冷や汗を掻きながら言葉をさらに続ける。
もはやこれは命懸けの状況だ。
――やっぱりこいつら……危険とあれば全てを無かったことにするかも?
いや。だからこそ釘は差しておいた。
皇帝国の皇子と公爵からの特別な敵意はこいつらだって避けたいはず。
けれど、もしこの二人に攻撃されたら……。
たぶん敵わない。
「話しを続けます。テオ殿下におかれましては、別して裏切りを促しているつもりなどありません。現状のところ不幸にも御方らと戦場で会い見えれば、戦わなくてはならない立場であることも事実です。しかしながら、深く未来を考えた結果、お心健やかなるガイアケロン様こそ対等なる王に相応しいと結論されております。そこで、このたび使者を遣わしたのです。重ねて言いますが、決して叛意を煽るものではありません。ただ、このまま戦火が広がれば誰にとっても不幸の極みとなります。それを将来、止めるための約束を結びたいのです」
とうとうハーディアは沈黙を保っていられなくなる。
本来ならば会話をするだけで危うい相手だった。
もし、皇帝国の密使と接触したことが露見すれば、それだけで命とりになり得る……。
余裕があれば反応はしなかっただろうという自覚がある。
だが、止められなかった。
自分と兄は徐々に追い詰められつつあるという恐ろしさが心から離れない。
真の安息など決して得られない毎日。
しかも、ディド・ズマの使者がつい先日に訪れ、軍議の開催を申し入れてきた。
長兄であるイエルリングとの連名なので断れば不審がられてしまう。
戦争を激しく促す父王にそんな噂が届いてしまうと思えば断れなかった。
あの怪物じみた男と再び会わなくてはならない。
苦悩はますます深まるばかりであった。
そんな内心を隠しつつハーディアは切り出す。
「まず、念のために申し渡しておきますが、王道国は皇帝国を信用していません。よってどのような取り引きも成立しないのが常であります。さらには我ら王族が……王族ともあろう者が同じく血を分けた貴い一族を……裏切るなど、ありえないこと」
「はい。それは承知しています」
ハーディアは本心を隠し虚言を口にする。
実際は兄ガイアケロンと共に地獄のような日々を送ってきた。
たびたび送られてくる暗殺者、試みられる毒殺、間者が入り込むこともある。
それらは全て親族による権力闘争の結果だ。
ことに父王イズファヤートに対する憎しみ。
積み重なりに重なり、もはや怨念と呼んでも足りない。
次から次へと子を作り、打ち捨てておきながら気まぐれに召喚しては血に塗れた競争に任せ、平然としている暴君。
最近になってもまだ方々で産ませた子が元服して適当な支援者を得るや、戦場に送り出されてきた。
これからも続くだろう。
諸悪の根源である父親を殺さなくてはならない。
冷酷残忍なイエルリングやリキメルも同時に排除する望みがあった。
「密約などと言う小賢しい謀で我らを操ろうなどと……狡猾ですね」
「ハーディア王女様。それは違います。僕は祖父バース公爵からこのように説明せよと言われました。王道国の権力闘争は非常に激しいと。失礼ながらガイアケロン様におかれましては国王に選出されなかった場合、儚い命運になると想像いたします。くわえて、このアベルめはイエルリング王子様と直接、会話をさせていただいたことがあります。無礼を承知でその際の印象をお伝えするのなら……蛇のように心の冷たいお人柄であったかと」
兄妹にとって驚きであり図星でもあった。
しかし、表情は変えてはならなかった。
弱いところをアベルに察せられるわけにはいかない。
ところがガイアケロンは妹の頬に熱情の朱が差しているのを見つけた。
明らかに興奮していた。
それからハーディアは愛らしいほど小振りな口を開く。
「貴方たちが色々と勘繰っているのは理解しました。また裏切りを唆しているつもりもないと……。いずれにしても、この状況でこちらから返事などしようもありません。本来ならば貴方を罰するところですが不問にします。今日にも皇帝国にお帰りなさい」
ハーディアは密書に「魔火」で火を付ける。
燃え滓までも徹底的に足で踏み躙り、手紙は姿を灰に変えた。
アベルは粘らないわけにはいかない。
遥々やってきて、これではあまりに成果が無い。
それに皇帝国に戻ったところでイースに近づくという目的も達せない。
ガイアケロンの傍にいれば……もしかしたらイースが訪ねて来るかもしれないと僅かな期待がある。
少なくとも帝都にいるよりは様々な可能性がある。
「テオ殿下におかれましては簡単に秘密同盟を結べるとは考えておりません。しかし、まず最初の段階では小さな協力を重ねていきたいとお考えです」
あえて冷淡な態度をしてみせたハーディアは食い下がってきたアベルの反応に満足した。
何といっても取り引きとは望む方が最初に支払わねばならないのだから……。
アベルが釣れるかどうか試してみることにする。
「テオ皇子とは会ったこともなく、ただ伝聞からその人柄を想像するしかありません。ですが、テオ皇子の実力を確かめるのに最適な人物が居ます。それは貴方です」
「僕……」
「わざわざ密使として遣わせたのなら、貴方は手駒の中では相当優秀なのではないですか。逆に言えば、貴方が無能なのでしたらテオ皇子の資質の程度も知れるというものです」
――そういう理屈もあるか……。
「私には目下、懸念があります。それは王道国の名誉に関わることです……。ディド・ズマという男を知っていますか」
「直接会ったことはありません。聞くところでは残虐非道の輩かと」
「……あの者、このまま野放しでは却って王国の恥となるに違いないと、私は考えています。また、皇帝国にとっても憎き敵ではないですか?」
「そうです。その通りです。大勢の市民や農民を襲って、遠方の荘園や鉱山に送り込んでいると聞いたことがあります。それに捕虜を虐殺することもあるとか……」
「傭兵とは恐喝や略奪を好んで行うものです。それに金次第でどこへでも行き、何でもする」
「……」
「ディド・ズマの非道には私も兄も心を痛めております。ましてや、そのような人物が王家に深く食い込んでいるとは……情けないこと」
アベルはハーディアの様子に再び変化を感じた。
熾火のように静かだが赤々と燃える感情の高ぶりを見る。
そして、一つ思い出した。
ハーディアはディド・ズマと婚姻する予定があるのではないのか……。
「僕はイエルリング王子との会話の中で聞いたのですが、ハーディア様とディド・ズマとの間に婚姻が結ばれると」
ハーディアは一瞬、憤怒の色合いを露わにさせたが、すぐに治まった。
というのもガイアケロンがハーディアの肩に手を置き、制したからだった。
それだけで王女の様子は全く平静そのものになった。
ガイアケロンはアベルに向かってゆっくり語りだした。
「婚姻はまだ決まったわけではない……。だが、王道国がディド・ズマに困らされているというのは真実だ。国の良識派にはズマの悪辣な手法を嫌っている者もいる。しかし、兄たちはズマを重用しているゆえ、我らにできることはあまりないのが現状である」
そう言って兄妹は再び沈黙する。
ここまで来れば暗に何を求められているのかアベルにも分かった。
「ディド・ズマの残虐に心を痛めておいでですか。良くわかる話しです。できれば皇帝国としても最優先で排除したい相手なのは確か。ただ手段はどうするのかの問題が……。軍事的に敗北させるか、あるいは……暗殺か」
暗殺という直接的な言葉がでてきた。
ハーディアの心は図らずも踊った。
あのような貪欲かつ醜悪な男が身辺に近づくというだけで吐き気を催すほどだ。
それが父王イズファヤートによって婚姻を認められるとは、悪夢を超えていた。
ガイアケロンの妹である自分には夢がある。
いつまでも兄を支えて、やがて理想の国家を打ち建てる。
人々は幸福のうちに働き、健やかな生活を営める王国だ。
それと比べてディド・ズマの妻とは悲惨を飛び越えて滑稽ですらある。
現実となれば……、選択は三つほどだろうか。
逃亡、自殺、あるいは発狂か。
ハーディアは口を開く気配がない。
ガイアケロンが言葉を継いだ。
「暗殺と言うがな、簡単ではないぞ。あやつ自身が優れた戦士だ。周囲には強力な使い手もいる。大軍を指揮させても上等な手腕なのはお前らこそ熟知しているはず」
「皇帝国も負けっぱなしというわけにはいきません」
「それこそ言葉ではなくて実際にやってみせねば、些かも信用できないぞ。もし、皇帝国がディド・ズマの排除に成功すれば状況は大いに変わるだろう」
「分かりました。王子にそのような意思があること、バース公爵にお伝えします」
「いや。それはまだ待ってくれ。その前にアベル。君が有能かどうか我らに証明してみせろ。適任ではない人間を重要な物事に使うと命取りになるからな」
「……それは、どのようにしてですか?」
「当面はディド・ズマの邪魔をしてみせろ。間違っても我々との関係は悟られないように、皇帝国か第三者の仕業だと思わせられればいい」
「奴は多くの恨みを買っている男ですから……相当なことがあってもガイアケロン様の差し金とは思わないでしょう」
「だろうな。……はっきり言ってな。俺はああいう残酷で欲深い人間は……大嫌いなんだ。できることなら、すぐにでも殺してやりたいぐらいだ。それこそが王族の義務ではないかと思うほどにだ」
ガイアケロンは穏やかなまま、そう言ってのけた。
澄んだ灰色と氷のような青の混じった瞳の奥に……、真実の殺意を見た。
こんな優しそうな男が心の底から怒っているのをアベルは理解した。
そうして理解するや急転直下して、己と同類の気配を意味不明なままも強烈に感じ取る。
それは動物的なほど本能の部分、人間の根っこから何かが共振しているようだった。
不思議な感覚。
「そうですね。僕自身は善人になるつもりなど、これっぽっちもないのですが……。子供を殺したりするような奴は許さないことにしています。理屈ではなくて感情で動くこともあるから、それが仇となり愚かな死に方をするかもしれませんが……。いや、そうなるでしょうね」
「……」
「密使としては妙なことを口にしましたが本心です」
アベルという少年の瞳に奇妙な力が漲っていた。
ガイアケロンは己が見てきた様々な人間たちを思い出す。
戦争という極端な場面では、命を惜しまず行動できる者は強かった。
そして、恐ろしい。
そのことを何よりも知っているからこそ、自分がそう振舞った。
どんなときも剣と槍が火花を散らす先頭で血路を切り開いた。
仲間はそうしているうちに自然と増えていった。
ガイアケロンは真の仲間にしたい者には必ず聞く。
金も名誉も、命すらも捨てられるかと。
出来ると答えられる者は意外と多い。
けれども実際にそれを行えるものは少ない。
人間なんてそんなものだ。
殊更に裏切られたとは思わない。
「ディド・ズマ本人は取り巻きもいて、狙いにくい。しかし、周囲の幹部はそうでもない。十傑将と呼ばれる将軍格や会計……あるいは取り引きのある奴隷商人とか光神教団でもいい。どこでも誰でも構わない。襲ってみろ。どいつもこいつも金と権力に群がる畜生以下の下賤だ」
「分かりました。ディド・ズマについては、さほど詳しくないのですが調べます」
「……成果を急かすつもりはないが時間も惜しい。さしあたって、七日後にディド・ズマ本人がここポルトを訪れることになっている。関係者が出入りするから機会はあるかもな。ただし、ハーディアの領内で奴らを襲うことは絶対に止めろ。我らの責にもなる。スターシャをお前の目付けにしておくぞ。細かいことも彼女に聞くと良い。スターシャは元傭兵だから事情に詳しい」
「どうりで品が無い」
「ははは。勇敢な頼りになる仲間さ。それとアベル。逃げたくなったらいつでもそうしてくれ。下手なことをされるぐらいなら、静かに帰ってもらったほうがいい」
「できるだけのことはします。僕は皇帝国に戻らないつもりで出発しました」
「……ところで話題は変わるが、君の主だった騎士イースはここに来ているのか。いるなら是非会いたい」
それは本音だった。
自分に重傷を負わせた魔人氏族の女。
あれほどの使い手、滅多なことでは出会えない戦士だった。
「……イース様とは袂を別っています。皇帝国の騎士もお辞めになりました」
ガイアケロンは素直に残念そうな顔をした。
「そうか。あやつは仲間にしたかったのだがなぁ。どうして騎士を辞したとは聞くまい。皇帝国はあれほどの戦士が働ける国ではない」
「そうかも……しれないですね。皇帝国には亜人を差別する悪法がありますから」
これに関してはアベルも賛同を抑えられなかった。
悪い法律がイースと別れることになった遠因だと、恨みにも似た気持ちが残っている。
ガイアケロンはアベルから皇帝国に対する不信を感じた。
演技ではないはずだ。
俄然、アベルに興味が湧いてくる。
祖国に不満を懐きつつも命懸けの使命のためやって来た男……。
「アベル。スターシャから聞いたのだが、君は妻とここまでやってきたのか。市場で会った若い女だな」
「すみません。正直に言いますがそれは偽装です。そのほうが検問を越えやすいですから。あの子はシャーレという幼馴染で本物の薬師です」
「そうだろうな。俺も話をしていて薬師にしか見えなかった。実はな、ハーディアが不眠で悩んでいるのだ。それであの子をポルトの城に招きたい。薬を作ってもらいたいのだ」
「それでしたら専属の薬師がいるのでは?」
「いたのだが事情があって先日、解雇せざるを得なくなった。どうだろうか。まずはこういう小さなことで協力していかないか」
「シャーレに聞いてみます。断ったときにはご容赦を」
「いいだろう。では、今日のところはこれで別れようか」
ガイアケロンとハーディアは身支度をする。
短い時間での会合が終わろうとしていた。
アベルは状況が激流のごとく動き、危険な戦いに身を投じなければならないのを感じる。
ガイアケロンとハーディアを信用させようというのだ。
並大抵のことでは不可能なのは分かっている。
望むところだった。
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