第99話  不思議な男、妙な男

 




 アベルは袖の千切れた自分の服を見る。

 上等な仕立てだったのに、スターシャという馬鹿力の女に破られてしまった。

 思わず悔しさから呟く。


「大事なおべべが……」


 スターシャは副官と思しき初老の男にアベルの世話を命ずると、いずこかに去って行った。

 たぶん、明日の戦いに備えて準備をするつもりなのだろう。

 戦士はメンツを重んじるので、今度こそ勝って名誉を守るつもりなのだと想像がつく。

 それにしても強引すぎるが……。


 その後は鍛錬所に併設の、元々は裕福な商家の邸宅らしきところに案内されて監視下に置かれてしまった。

 ほぼ軟禁だ。

 食事や飲み物はふんだんに与えられるが、気分は良くない。


 それもそのはずで、すっかり武装した姿の兵士たちが緊張した面持ちで同室にいたらくつろげるわけがなかった。

 それなのにカチェは全く動揺する素振りもなく行動している。

 腹が据わっているというか何というか……。

 頼もしいと言えば頼もしい。


 シャーレのことが心配だが、ワルトがいるので大丈夫だと信じてみる。

 肝心なところではしっかりした犬なのだ……。

 ちょっと食い意地が張っているけれど。


 やがて日が沈み、夜になってしまう。

 厳重な警戒は相変わらずだった。

 夜、寝入ったところで攻撃される恐れがあるから、念のためカチェと交代で寝たが朝まで何も起こらなかった。


 夜明けと共に部屋の外に出ると兵士が見張りをしていた。

 アベルは許可を取って表に出ると、井戸で顔を洗う。

 それから兵士が食するような豆の煮込みとパンなどが出されたが、ほとんど口にしなかった。

 スターシャとの再戦は、もうすぐだ。


 アベルは訓練所へ移動して軽く運動をしていると、見物にきた戦士などが集まってきた。

 噂を聞いて来たのだろうか。

 すでに百人を超えている……。

 みな、興味深そうにアベルを見てきた。


 アベルは訓練用の武器の中から木刀を二振り、手にする。

 防備は何も身につけない。

 革の胴着、片方の袖が無残に破けた木綿の服……。

 鉄の覆いがついた長靴といった服装だった。


 しばらく待つと、入り口からスターシャが現れた。

 一人、濃緑の髪をした若い女性を伴っている。

 素性は分からないが、下級兵士でないのは見て取れた。

 ゆったりとした白絹の長衣を纏っていて、帯剣はしていないから戦士ではないのかもしれない。


 スターシャは相変わらず露出の多い装備だった。

 ブラジャーと大して変わらないようなデザインの布を胸に着けていて、あとは腰帯をしている。

 へそや腹筋が良く見えた。

 腕には金属製の籠手を着けているものの、肩やわきの下も丸出し。


 下半身も相変わらず惜しげもないほど露出していて、綺麗な太腿が晒されている。

 しかし、膝から下の装備は厳重だった。

 脛当てが着けてあって、革の長靴を履いていた。


 手にする武器は木剣で、かなり長い。

 二メートルの手前ぐらいだろうか。

 それを一振り肩の上に乗せている。

 本来、彼女が使う剣に近い大きさなのかもしれない。

 あるいは木剣だからと長い得物を選んだのか……。

 いずれにしても木製とは言え、打ちどころが悪ければ即死するような武器である。


 アベルはどう戦うか決める。

 今度は隠していた二刀流と夢幻流の技を使ってでも速攻で終わらせよう、と。

 スターシャがわざわざ翌日に再戦の要求をしてきたということは、何かの対策をしてきたのだろう。

 きっと、昨日の意図的に焦らした戦いを経験して今日は根気強く我慢してくるに違いない。

 かなり腕の立つ彼女がそうした心構えをしてきたのなら今度はその逆を突く。

 相手の予測を超えた動きで、一気に勝負を仕掛けてみよう……。


 スターシャは大きく息を吸い込んだ。

 周囲を見渡すと、噂を聞き付けた仲間たちが押し寄せていた。

 二百人ぐらいはいるかもしれない。


 アベルという名の少年と向かい合う。

 歳は十七才ぐらいに見えた。

 そんな年にしては嫌に落ち着いていた。

 印象的な陰影を含んだ群青色の瞳。

 眉目は涼しげに通っていて、容貌は貴族的だった。


 スターシャは数年前の決闘を思い出す。

 あのとき、愛する主人ガイアケロンは片腕を折られる重傷を負わされた。

 心から慕う王子を傷つけられた屈辱は忘れがたい。


 主であるガイアケロンの決して絶えない勇気、見る者の心を打つ闘魂、失われることのない深い優しさ。

 どんな苦境でも折れない、信じがたいほどの精神。

 骨の髄まで惚れ込んでいる。


 命がけでガイアケロンを愛していると言っていい。

 主の為なら死んでも構わなかった。

 抱いてもらったことはないけれど献身の働きを続けた己を認めてくれている。


 最も大切な男に手傷を負わせた亜人の女騎士。

 思い出すだけでも苛つく。

 その従者とて同じことだ。

 少なくとも一回は徹底的に、やり込めたい。

 そうでなくてはどうしても気が済まない。

 これはほとんど因縁であり私怨であった。

 スターシャは気合も猛々しく、アベルへ吼えるように叫ぶ。


「今日こそは負けねぇぞ! 勢いで殺しちまいそうだから遺言でも残しておけっ!」


 アベルは内心、呆れる。


――負けないって……。

  やっぱり自分でも負けたと分かっているんじゃねぇか。


 言ってやりたいことを飲み込んで、黙って相手をする。

 理屈の通じる女ではない。

 ただひたすら厄介なのは手加減できるほど弱くないところだ。


「そっちこそ約束を守れよ」

「……おい。お前、アベルって言ったな」

「ああ。そうだけれど」

「万が一、お前が勝負に勝ったら、あたいの体を好きにしていいぞ。犯したいだけ犯してくれよ。どんなことでもさせてやる」

「はぁ?!」


 何を言い出すと思った瞬間、スターシャが駆け込んで来た。

 急速に間合いが縮まりスターシャの上段斬りが仕掛けられた。

 動揺させての先手。

 初歩的だが、嵌められてしまった。


 アベルは、やや不利な体勢で斬撃に対応。

 二刀は必然的に片手で武器を持っている。

 受け止めてしまうとスターシャが力任せに振う剛剣には力負けをする予感。

 そこを狙ってきたのだった。

 実にしたたかな不意打ち。


 咄嗟にアベルは、いなすつもりで二刀を同時にスターシャの剣に当てる。

 凄い衝撃を予測していたのだが予想外。

 切っ先が柔らかく逃げる。

 スターシャは風車のように素早く剣を頭上で回転させて、間断なく再度の攻撃。

 冴えた連動。

 たまにイースが、よく似た技を使っていた。

 間違いなくスターシャの技術は達人の域だ。


 しかも、この技、自分の位置を変えなければ弾いても連撃で再び攻撃されてしまう。

 スターシャは最初の一撃で絶対優位に立ったわけだ。


 アベルは慌てて下手な攻撃などせずに、再び接近してきたスターシャの長大な木剣を見切り、鎬の部分を上段から渾身の力で打ちつける。

 同時に膝を沈み込ませて、足の筋肉を使ってバネ跳躍に移る姿勢へ変化。

 相手の木剣は柔らかく逃げる。しかし、軌道が僅かに下振れした。

 この機に乗じて前に跳躍。

 足元すれすれを木剣が横切っていった。

 距離が縮まる。


 今しかない。

 二刀を小刻みに連打。

 スターシャが防御的に操った木剣へ衝撃を加えてから、体ごと前進させる。


 スターシャが負けじと力を込めて押し返そうとした、その瞬間……空かす。

 相手の重心が狂う。

 彼女の頬が一瞬、引き攣った。

 素早いバックステップをして逃げようとした。


 アベルは地を這うごとくの低い体勢で突っ込む。

 下から掬い上げるようにスターシャの腹部へ二刀を突きこむ。

 だが、工夫のない攻撃では躱されてしまう。


 アベルは技巧を凝らすことに集中する。

 あえて二刀を上下重ねるようにして送り出してやった。

 上の刀身で下の刀身を隠した技。


 これと似た技が夢幻流にもあって「偽花にせばな」というものだった。

 夢幻流の場合は自分の腕で刀身を隠す。

 相手が腕を狙ってきたら、囮の腕は逃がして、隠していた刀を敵の予測できない位置へ突き込む。

 ヨルグから教えられ、それをさらに二刀流に変化させた。


 アベルの二刀が一振りの武器のように結合して突き進む。

 スターシャは機敏な反応。

 籠手をはめた腕で払いに掛かる。

 二振りのうち一刀はスターシャの右腕で弾かれた。


 もう一刀を木剣の柄で防ごうとしたが、隠剣で動きを陰にしたので対応が遅れる。

 アベルはさらに跳躍するようにして木刀を繰り出した。


 スターシャは癖技に嵌められたのを悟った。

 避けられない速さで切っ先が迫る。

 瞬間、相打ちを狙って体を前に出す。


 アベルを昏倒させれば引き分けの名目は成り立つ。

 木剣を捨てた。

 渾身の力を拳に込める。

 直後、木刀が腹に食い込む。激しい痛み。


 アベルは繰り出された拳を回避しようと顔を逸らせるが、スターシャの執念の一撃は追随してきた。

 顎、凄まじい打撃。


 激しい振動で頭が揺さぶられる。

 背後によろけた。

 意識が白くなりかける……。

 倒れる寸前で意識を繋ぎ止めた。

 スターシャは腹の痛みに耐えかねて、蹲っている。


「本当に殴るのが好きな女だな。でも、今度こそ僕の勝ちだ。木刀を先に体に入れたぞ」

「……」


 スターシャは無言のまま、険しい表情で睨み付けてきた。

 青い瞳から鮮烈な闘志が放たれていて、燃える燐光を連想させる。

 場違いかもしれないが屈服しない意思の強さが美しいと感じた。


 アベルは口内に血の味を覚えた。

 殴られた頬がジリジリと焼けるように痛んでくる。

 何があっても敵に一矢報いるという戦士の根性の味だった。


 見物していた兵士や戦士たちが歓声を上げた。

 興奮気味に大声で話している。

 もしかしたら襲われるかもと心配になったが、その様子はない。

 むしろ、面白いものが見られたというような陽気さがあった。

 これは決闘ではなくて、あくまで試合だからか……。


 アベルは魔力を掌に集めて、治癒のイメージを持つ。

 白く淡い光を自分の顎に当てた。


 スターシャが連れてきた若い女性が近づいてきて治療魔術を発動させている。

 それから痛んでいる彼女を癒し始める。

 二十代半ばで、美人というほどではないが理知的な顔をしていた。

 感情がほとんど表れていない。

 萌黄色の瞳。

 若草のような髪が肩の手前で律儀に切りそろえられていた。

 翡翠の耳飾り。

 スターシャとはまるで逆の雰囲気。


「クリュテ。すまない……」

「負けちゃったけれど、どうしますの。スターシャ」


 怪我から回復したスターシャは立ち上がり、胸を逸らして正々堂々とした態度。

 それからアベルに着いてこいという仕草で顎を振った。


「おい。今から表の馬小屋に行くぞ。ついてこい」

「なんで?」

「勝ったら、やらせてやるって言っただろ。これから今日一日、あたいのこと犯したい放題。いくらでも好きにしたらいい。その代わり気合入れて腰が立たなくなるまでやれよ。もし、あたいを満足させられなかったら笑い者にしてやるよ。腰抜けナメクジ男ってな!」


 周りの男どもが下品に囃し立てる。

 笑い声がした。

 スターシャは余裕を感じさせるほど嫣然と微笑んだ。

 アベルは口を半開きにさせて固まるしかない。

 あれは動揺を誘う嘘ではなかったのか。


 よく見なくともスターシャが凄い肉体をしているのは分かるし、過剰なほどの色気もある。

 何というか男好きする体の持ち主だ。

 ちょっとぐらいムチャしても、むしろ喜んで応じてくれるような気配がする。

 ロペスやモーンケなら喜んで相手をするところだろうが、全くその気にならない。


 むろんアベルは断るつもりだったが念のため、一応のことカチェの顔色を伺う。

 思わず、「ヒッ」という呻きが小さく出てしまう。

 眦は何時もよりさらに吊り上り、瞳には猛烈な戦意や敵意が感じられた。

 爆発寸前。

 火で炙られた火薬のごとしだ。


「あ、あああ……。スターシャさん。やめてくれ、やめてくれっ!」

「え?」

「あの。そう言うのいいですから。最初の約束通り、ガイアケロン王子様への謁見を取り成してください」

「なんでだよ? あたいの体、欲しくないのか。自分で言うのも何だが、すげーぞ」

「いや、それ見れば分かるから。ちと、事情がありまして」

「ふざけんなっ! てめぇ腐れ棒きれの不能か!」


 スターシャは酷くプライドを刺激されたらしく興奮している。

 だが、アベルこそ思わず頭に血が上った。

 顔を真っ赤にさせながら反論。


「ふ、不能なわけないだろっ!」

「それなら来いよ。やらないってんなら、約束はなしだ」

「あのさぁ……」


 周りにいる戦士たちは大声で騒いでいる。

 さっさとやれとか挑発している者もいた。

 またもや面白い見世物が始まったと言わんばかり。


 アベルは眩暈を起こしそうになる。

 怒りと、憤りと、スターシャの性悪ぶりと……。


 スターシャは困惑の顔で歯を食いしばっているアベルを観察する。

 交わりに持ち込めば、あとはどうとでもなる。

 油断したところで男根を噛み千切るか……。

 あるいは本当に主人ガイアケロンに敵意がないと見極めがついたら兵卒にしてもいい。

 

 たしかにこれほどの手練れ、惜しいことは惜しい。

 男の本音を引き出す方法は二つ。

 酒と女だ。

 これに溺れさせれば本性が出る。それから対応を決める。

 少しでも怪しければ殺してしまえばいいのだ。

 まずは誘惑しなければならない。

 それなのに、肝心の相手はどうしたわけかその気にならない……。


 ふと、連れの女に気が付く。

 麗しい、玻璃で出来たような紫の瞳。

 気の強そうな表情に自分への敵意が露わになっていた。

 そういうことか……。

 頷きスターシャは納得する。


 この二人、親密な関係なのだ。

 それで誘いを断った……。


「あんたが意地悪な女だってことは分かった。もう、頼まない」

「ははっ。童貞臭いこと言うじゃないか。意地悪じゃない女なんかいねーよ」

「カチェ様。行きましょう、他の人に当たります」

「そうね! それがいいわ」


 アベルはカチェを伴い、場を離れる。

 戦士たちがブーイングをするが無視して出口から表に出る。

 腰抜け野郎の罵声を背に受けた。

 勝利したはずなのに……手酷く敗北した気分だ。

 立ち去るついでに馬小屋を横目でちらりと見てみれば普通の作りで外から中が丸見え……。


――え~っ! ここでやる気だったの……?


 背筋が寒くなった。

 いくらなんでも、これは酷すぎる。

 もうちょっと、ちゃんとしたところで落ち着いてさせてほしい!


 カチェは憤激しつつ、アベルはぐったりとしながら敷地の外に出た。

 しかし……後ろからスターシャがついてくる。

 さすがに部下たちはいないが実に嫌な感じだ。


 倉庫街を抜けて商店街に入っても同じことだった。

 尾行というわけではないのかもしれない。

 ついて来ているのを隠そうともしないわけだし。

 アベルは振り返り、問う。


「なぁ。どういうつもりだ?」

「お前らみたいな不審者を放っておけるわけがない。あたいには治安維持っていう職務があるのさ」

「治安よりも公序良俗に気を付けたら?」

「ああん? 難しいこと言うなよ。意味が分からねーぞ」

「いや、分かってくれよ……。それで、ずっと後をつけ回すつもりなの?」

「まあな。どこで何をするのかと思ってよ」

「当てなんか無いから決めてないよ。っていうかさ、お願いだから、もう許してよ」

「……」


 スターシャは無言で近寄るとアベルの肩を掴み、引き寄せた。

 彼女の長い赤毛がアベルの顔をくすぐった。

 高く整った鼻梁、頬は戦士らしく引き締まっているが、それでも女性の色香を発散させている。

 鋭く輝く青い瞳。

 赤い唇に不敵な笑み。


 やっぱり飛びっきりの美人だ。

 至近距離なので女の匂いが、はっきり伝わってきた。

 でっかい胸の谷間をわざとアベルの腕に押し付け、耳元で囁く。


「なぁ、そこのお嬢さんがいるからさっきの誘いに乗れなかったんだろ?」

「えっ……いや」

「後でこっそり抜け出せよ。あたいに男らしいところ見せてくれ。すっげえ期待してんだ」

「……」

「とりあえずそこらの酒場で一杯ひっかけようぜ」


 びったりと接近しているアベルとスターシャは、もの凄い力で引き剥がされる。

 やったのはカチェだった。

 額に青筋が浮かんでいた。


「さっきから我慢していたけれど……ほんとに下品な女ね! アベルはそういう誘いには応じないからっ!」

「ぷはは……。お嬢ちゃん、男が分かってないねぇ。後腐れなく、パッと遊べる女がいたらやるに決まっているだろ」


 嫌でもカチェの脳裏に兄たちの姿が浮かぶ。

 まったくその通りの男たちであった。

 だが、アベルはそういうことはしないのだ。

 そうに決まっている。

 それでなくてはならない……!


「アベル! 言ってやったら! そのスターシャさんとやらに」


 はっきり断らなければ叩き潰す。

 そういう雰囲気をカチェはしている。

 反射的に素早く口にした。


「え~と! 迷惑だからやめてください。お願いします……」

「もっと強く言っていいから!」

「うっ」


 アベルは顔を引き攣らせながら速足で歩く。

 付き合いきれない。

 移動しながら考えることにした。


 なんとなく広場の方へ歩いていく。

 たぶんこれは癖だろう。

 かつて城の正門の前には広場があって、必ず通る場所だった。


 アベルはこれからどうするべきか、実際のところ途方に暮れていた。

 最初に接触したやつが悪すぎたのか……。

 いや、誰が相手でも似たようなものだったのかも。

 やっぱりガイアケロンやハーディアと接触すること自体が無理なのであろうか。


 広場の中に入ると城壁や正門が見渡せる。

 あらかた爆発で吹き飛んだポルトの本城は再建が進められているらしい。

 城に入る唯一の門は開け放たれていて、煉瓦や材木を乗せた馬車が中に入っていった。

 広場の空間は露店市場としても利用されているようだ。

 以前、ハイワンド家が統治していたころには処刑台が設置されていたが、それが無くなっていた……。


 露店では様々なものが売られている。

 山ほどの芋や野菜を持ち込んでいる農家の主婦がいた。

 木綿や麻の反物を販売している人も見かける。


 そうした人たちの中に、なんと薬を売っているシャーレがいた。

 敷物を広げて、その上に薬草や軟膏を並べている。

 ワルトも横に座っていた。

 しまったと思った。

 同行者がいることをスターシャに知られたくない。

 ところが向こうが気づいてしまう。


「あっ! アベル」

「ご主人さまだっち!」


 シャーレが笑顔で走ってきた。


「昨日は帰って来なかったから少し心配したよ! どうしたの」

「どうしたもこうしたも……」


 スターシャは興味深そうにシャーレを見ている。

 それから話しかけた。


「なぁ。お前はこのアベルって男の知り合いなのか」

「は、はい。私たち薬師の夫婦なんです」

「薬師? 夫婦? あれ、お前は結婚していたのか」

「……まぁね」

「ふ~ん。なんか嘘っぽいな」

「この子は本当にただの薬師だから……。シャーレ。僕たちの事はいいから営業を続けて」

「……はい」


 シャーレは何かを察したのか、追及はしないで露店に戻っていった。

 最悪の場合はワルトにシャーレを託して手紙と共にテナナへ逃がそう。

 そう考えてアベルは冷静を装い再び、歩く。


 舌打ちしたいぐらいだった。

 やっぱり運が良くない。

 それに慌てていたとはいえ、考えも足らなかった。

 シャーレは別れ際に薬師として活動していると伝えてきたではないか。

 だから行商や露天商が集まる広場にいることは想像できる。

 それなのに、そのことをすっかり忘れてスターシャに知られたくないことまで知られてしまった。


 歩きながら知恵を絞ろうとするのだが、これといって思い浮かばない。

 スターシャが再び声を掛けてきた。


「どこまで行くつもりだ。当てが無いんだろう?」

「関係ない」

「あるっての」

「もう、あんたみたいな意地悪に頼らないで、イチかバチか直接訪ねようか考えているところだ」

「はははっ。窮すれば鈍するだな。ガイ様に会わせてくれって城の門番に頼むのか。面白そうだからこれからやってみせろよ」

「うるせぇな、この女……。本当に」

「アベル。お前さんが意地張るからさ。妻帯してんか愛人がいるのか知らねえけれど、あたいと一発やってみろって。今度こそ勝ち負けをはっきりさせてやるよ」

「ちょっと! 誰が愛人ですって?」


 これまで黙ってくれていたカチェが再び怒りを滾らせている。

 何か分からないが、痛くプライドを傷つけられたようだとアベルは察した。

 この最悪に混乱した状況。目を閉ざしたくなる。

 どんどん目標から遠ざかっていく。

 凄い勢いで。


 スターシャは余裕のある、にやにや笑いでカチェを見ている。

 ほとんど嘲笑に近い。

 不穏な空気が濃密になっていく。

 今この二人が喧嘩を始めたら……お終いかも。


 アベルは慌てて間に割って入る。

 しかし、破局が回避できない予感。

 途方に暮れているとアベルの横に誰かが歩いてきた。


 艶のない、光を吸い込むような黒いローブを纏った人物。

 澄んだ空色の濡れた瞳がアベルを見つめていた。

 淡い金髪が風を受けて柔らかくなびいている

 魔女アスだった。


「えっ!? アス……」


 アベルはあまりに不意を突かれて絶句した。

 なぜ、よりにもよってこのタイミングで現れるのか。


 魔女アスは穏やかに笑っていた。

 カチェとスターシャも突然現れた闖入者にどう対応したらよいのか分からず固まっている。


 アベルは絶句。

 こんな時にこんな女まで出てきて。

 いよいよ収拾がつかなくなってきた。

 女の大嵐だ。

 どうしよう……。


 アスは軽やかに笑って言う。

 今日は不思議と貞淑で落ち着いた女に見えた。


「アベル。困っているみたいだから助けに来たわ。それにしても女性の扱いも勉強しておかないとねぇ」

「からかっているのか?」

「ふふっ。教えてあげる。求める者は、すぐ傍にいる」

「……えっ?」

「さっきの場所まで戻りなさい」


 そうとだけ告げると魔女アスは踵を返して、足早に歩いて行った。

 すぐに路地へと姿が消える。

 アベルは後を追ってみたが、建物の暗がりになっている道にもうアスはいない。

 カチェとスターシャも毒気を抜かれようになっていた。


 他に出来ることも無いのでアベルは言われた通りに道を引き返す。

 露天商たちが様々なものを広げている最中、広場の片隅でシャーレが薬を売っていた。

 客が一人いるようだ。

 大きくて広い背中が見える。

 向かい合っているシャーレと何か話しをしている。


「最近、不眠で悩んでいる者がいるのだが……良い薬はあるか」

「夜。寝られないのですね。本人に診察してみないと分かりませんが、不眠は体の病気か精神的な悩みが原因であることが多いです」

「まぁ……悩みだろうな」

「それなら薬ではなくて悩みの元を解決するほうがいいかもしれません」

「う~む。それは正論であるな。しかし、難事ゆえに時間がかかる。ここは少しでも不眠を和らげてやりたい」

「それなら……」


 シャーレは薬箱の中から小袋を取り出している。

 アベルは背の高い、がっしりした体格の男を眺めた。

 なんとなく見覚えがあるような……?


 客の男は大きめの両手剣を腰に佩いている。

 しかし、立派な体格をしているから得物とはバランスが取れていてちょうどいい感じだ。


 背中しか見えなかったのでアベルは横に並び立ってみた。

 口元を粉塵よけのためか布で覆っていた。

 旅人の中には埃を嫌って、そういうことをする者もいる。

 あとは単に顔を隠したい場合だ。


 革の胴着を着ていて服は木綿の旅装。

 足元は鉄の脛当てで、しっかりと保護している。

 普通なら旅人と思うところだが……どこか引っ掛かる。


 男はアベルに気が付いた。

 アベルよりも優に頭一つ分は背が高いので見下ろされるような形になった。

 互いの視線が衝突する。


 形のいい額と眼。

 鈍色に紺碧が混じった瞳だった。

 興味深いものを観察しているような視線を感じる。

 男が語りかけてきた。


「なぁ、きみ。前にどこかで会ったかい?」

「う~ん。貴方の顔が良く見えないから分からないのだけれど」

「おっと。これは失礼した」


 鼻と口元を隠した布を取る。

 そこから現れたのは整った鼻梁に爽やかな口元。

 風格と穏やかさを心から意識させる美男子の顔貌。

 荒々しさなど欠片もないのに強い意志の力が輝いているようだった。


 アベルの記憶が閃光を放つ。

 心臓が高鳴った。

 それから小声で聞いた。


「もしかして、貴方はガイアケロン様」

「……ふむ。俺の記憶が確かなら、君は片目になっているはずだが。名前はアベルと言ったか」


 そこに探し求めていた男がいた。

 かつて殺し合いをしたにも関わらず相手には敵意などどこにもない。

 悠然として、むしろ久しぶりに友人に出会ったというような雰囲気まで醸している。

 なんと不思議な男……。


「眼は治りました。あの、僕は貴方にどうしても渡したいものがあって来ました。手紙を読んでいただきたいのです」

「手紙? いいぞ」


 明快な、あっさりとした返事。

 スターシャが、やっと気が付いて慌ててアベルの肩を掴んだ。

 急いで間に体を入れて来る。


「ガイ様! どうしてこんなところに」

「おお。スターシャか」

「お一人で……またお忍びで遊んでいるのですか」

「遊んでいるわけじゃない。市内の復興や民の様子を見ている。あとは物価を調べたり。薬もいるからな」

「オーツェルたちから、あれほど単独行動は止めてくれて言われているのに。そんなことは部下にやらせてください」

「民は身分を明らかにすると本音を語ってくれない。仕方なかろう」


 そういうわりにガイアケロンは悪戯を見つかった少年のように笑っていた。

 あの傍若無人なスターシャが妙に畏まっているから面白い。


「それでアベルよ。手紙はどうした?」

「はい! ちょっと待っていてください」


 アベルは急いでワルトが守っている薬箱を開ける。

 シャーレは事態が飲み込めていないようで、きょとんとしていた。

 薬の入った袋を取り出して、決められた順番で格子状に嵌っている板を外していく。

 最後に底蓋を上げて、隠された隙間から手紙の入った革袋を取り出した。

 それを革袋ごとガイアケロンに手渡す。

 

 アベルは内心、歓喜する。

 任務成功だ。

 もっとも、これからが本当に大変なわけだが……。


「手紙はあとでゆっくり読んでください」

「いや。ここでいいだろう」

「……あの。人に見られないようにしてもらいたくて」

「我らのことなど誰も気にしていないさ」


 辺りは露店を見に来た人たちで活気に満ちている。

 おのおの売り買いに忙しくて、アベルたちにことさら注目している者など一人もいなかった。

 仮に見たとしても薬を売っているところだと思うに違いない。


 ガイアケロンは革袋を開ける。

 中から封蝋で留められた手紙が出てきた。

 蝋には印璽の刻印が鮮やかに残っている。


 皇帝国の皇子のものだと一目で分かった。

 この紋章は第二皇子テオのものだ。

 途轍もない物が飛び込んで来た。

 ガイアケロンは興奮してくる。


 ガイアケロンは念のため周囲を見渡す。

 監視をしている様子の者はいない。

 さきほど街を歩いている時、一瞬だけ背後に何か気配を感じた気がしたので振り向いた。

 しかし、気のせいだった。

 誰も居はしなかった。

 己の感覚には自信がある。


 スターシャが成り行きを心配げに見ていた。

 薬師の娘と獣人は、何が起こっているのか理解していない様子。


 アベルという名の少年は真剣な眼差しを向けていた。

 殺気は感じない。

 彼は手紙を渡した後、五歩ほど後退したので剣界には入っていなかった。

 間にはスターシャも入っている。

 連れの少女も静かに成り行きを見守っている。


 不意打ちの狙いは無いとはっきり分かる。

 城の中で読むよりも、早くここで手紙の正体を知りたい気持ちが勝った。


 ガイアケロンは封蝋を丁寧に剥す。

 こうした手紙の贋物を仕立てあげるのは考えられる以上に難しいことだ。

 例えば手紙に使われている紙。


 そこらの市場では絶対に売っていない紙だった。

 厚くて、しっかりとした質感。

 それに白さが際立っていた。

 縁には皇帝国皇室が好んで使う百合の紋章が入っている。

 以前、戦利品の中に紛れていたウェルス皇帝直筆の書類に使われていた紙と同じものだった。

 折り目を開く。

 意図的に、ごく短い文章で記されていた。




 -------------------------------------------


 アベル・レイを我が命により遣わす。

 皇帝国皇子 テオ・ヘリオ・アヴェスタ



 我が孫アベルを使者として派遣いたします。

 皇帝国公爵 バース・ハイワンド


 -------------------------------------------




 もし手紙が奪われても誰に対して何の目的でと言うことを不明にさせるため、最低限の事しか書かれていない。

 それぞれが流麗かつ気品ある貴族の字で記されている。

 署名もまた、調べれば贋物かどうか分かる。

 だが、既にガイアケロンは本物だと確信した。


 アベルを見た。

 彼は皇帝国第二皇子の使者だったのだ。

 危険な任務のために遠路やって来た男はどんな者なのか……。

 面相を改めて確かめる。


 王族としてこれまで数多くの人間に出会ってきた。

 会うなり殺し合いになった者たち。

 叩き伏せて服従させた者たち。

 話し合い、行動することで信頼関係を築いた者たち。


 聡明な者、愚かな者、狡賢い者、愚直な者、卑怯な者、勇敢な者……。

 人の数だけ人格があった。

 そして、一人の人間には幾つもの面がある……。

 裏表のない人間など、居はしない。

 居たとするならそれは奇人というものだ。


 かつて死闘を繰り広げた少年は時を経て青年になりつつある。

 均整のとれた伸びやかな体。

 くすんだ金髪が陽光を受けて鈍く輝いている。

 顔立ちは端正、累代に渡る血統の確かさが結実したような貴なる気配が感じられるのだが、眼に言い知れない昏さを宿していた。

 飢えるほどの欲望を感じさせるが、不思議と嫌な気持ちにならない。

 妙な男だ……。


 ガイアケロンはここのところ考えている。

 人に悟られないようにしているが、実際のところ懊悩しているといってよかった。

 自分とハーディアの人生は、ここ数年間で決してしまうからだ。

 恐るべき貪欲さでディド・ズマの結納金集めは急速に進んでいる。

 このまま行けばハーディアとディド・ズマの婚姻は、いよいよ現実味を帯びる。

 残酷極まり強欲さでもこの上ない男を夫として、妹は人間の限界まで追い詰められることになるだろう。


 また、長兄イエルリングの成功は、ゆっくりと確実に進んでいた。

 最高の相棒でもあるハーディアを失えば後継者争いで必然的に敗北する。

 そうなったとき、自分にある未来は暗い。

 辺境に配流か、牢獄に幽閉されるか。

 そうでなければ少数の部隊を与えられて、潰れるまで酷使されるか。

 その、いずれかだろう。

 

 そして、憎くて憎くて堪らないあの男。

 父にして王である、イズファヤート。

 あいつのせいでどれだけの人間が苦しんでいることか。


 実子を駒として弄び、兄弟姉妹同士を争わせ、戦に駆り立てる。

 餌に飛びついた貴族たちや大商人が狂ったように競い合う。

 それを軍鶏の賭け勝負のごとく楽しんですらいる男。

 大義名分……そんなもの以上に心の底から殺してやりたい怨敵。

 

 いまの状況を打破しなければ父親を殺すという望みも叶えられないまま、死ぬことになる。

 そのとき、どんな気持ちになるのか想像するだけで魂が震えた。

 絶望という言葉でも、まるで足りない。


 今日、この日この時の再会。

 神の采配か、悪魔の誘惑か。

 あるいは運命の導きか……。





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