第97話 潜入なるか
アベルは風景を見渡す。
ここは既にリモン公爵領だ。
王道国の激しい攻勢に曝されている最前線にいよいよ近づいてきた。
警戒を強めながら街道を進む。
公爵領に入る際には検問官から苦しい戦いを続けている騎士団に薬を届けるとは有り難いと感謝までされた……。
通行する人は地元の人間を除けば、兵士や騎士ばかりになってきた。
手足を失うような大怪我をした兵士が、数名の集団で街道を歩いているところにも出くわす。
きっと傷痍除隊といった人たちだろう。
怪我人同士が互いを労わりながら、故郷への長い旅路を行く。
傷痍軍人には手を貸さないとならない法律がある。
馬車などは請われれば乗せないと処罰の対象になりうるはずだった。
風光明媚だが、どこか侘しい田舎をそうした者たちが歩いていく様は、戦士や騎士の活躍する華やかな戦場の裏側であった。
大地には広大な畑が広がっている。
そろそろ麦や豆を収穫する季節なので、農繁期にあたるのであった。
アベルは農民たちが鎌で大麦を刈り取り、麦穂をうずたかく積み上げる光景を横目に見る。
今年は幸いなことに、まずまずの豊作らしい。
せっかく育てた作物も収穫しなければ立ち枯れるだけなので、農民は寝る間も惜しんで農作業をする。
といっても夜間は刈り取りなどできないので季節労働者を雇うことも多い。
ところが戦乱で情勢が不安定な皇帝国東部では、そうした労働者の確保が滞っていて大問題になりつつあった。
現在、リモン騎士団は公爵の長男ファレーズに率いられている。
三男のリッシュとは武帝流で共に稽古をした仲であるし、祝賀会のときには話しもしたからアベルにとっては知り合いだった。
しかし、長男とは会ったことが無い。
リモン騎士団に接触するのは、あくまで秘密裏に越境するための下準備なので、さっさと薬を渡して情報を集め、すぐにでも次の行動に移るつもりであった。
アベルは移動しながら村々で情勢を問えば、リモン騎士団はさらに東部で部隊を展開しているという。
最近は大規模な合戦こそないが、もっと南の方では王道国の小部隊が威力偵察を繰り返している、という話しを兵士から聞けた。
それから酒場などでハイワンド領の様子を知っている者はいないか聞いて回った。
嘘は言わず、テナナの出身だから気になっていると理由を告げると、大方の者は同情したような顔をしてくれたものだ。
リモン公爵領の住民にしてみれば、明日は我が身の出来事である。
次の大戦に負けるようなことがあれば、リモン公爵領も王道国に占領されるだろうと噂されていた。
アベルたちはさらに東へと馬を駆って行く。
遠景には北部山脈の広がりが見渡せるようになってきた。
いよいよ皇帝国の周辺地域ということになる。
あの山脈を越えた北東側は、亜人界や属州となる。
このまま東に行けば旧ハイワンド領、その先は中央平原……。
雄大な沃野を通過すると王道国が栄えている。
カチェとシャーレ、ワルトは宿に残して、その日の夜もアベルは酒場で噂話を集めに行った。
話しの切り出しはいつもの通り、テナナのことを知っている者はいないか、というものだ。
時には酒を奢ったりしながら人から人へと渡り歩いていくと、商人風の二十五歳ぐらいの男が話しかけてきた。
相手も酒を飲んでいるが、どことなく抜け目ない視線をしている。
「なぁ。お兄さん。ハイワンド領のテナナに戻りたいのか?」
「ええ。嫁の実家がありまして。様子を知りたいのですよ」
「……元ハイワンド領は王道のハーディア王女が統治している。もちろんガイアケロン王子もそれに協力していて、かなり治安は良いらしい」
「はい。ちらほらとは、そういう噂を耳にしました」
「でな。せっかく領内は安定しているのに旧ハイワンドや中央平原は畑が豊作ってこともあって人手が足りないんだと」
「ははあ。まぁ、そうなるでしょうね。戦争で兵士や傭兵はいくらでもいるのに、農業労務者は足りてない……、まぁ、ここらも同じ事情です」
「ハーディア王女は寛大な方だ。領内に困窮した民衆が来た時は、保護してくださるらしい」
「本当ですか?」
相手の若い商人は頷いた。
それから小声で言う。
「俺は知っているんだ。北部山脈の麓にリモン公爵領からハイワンド領へと抜けられる場所がある。そこからハイワンドの難民が、もともと住んでいた所に帰るために越境しているのさ。もちろん禁じられた行為だが、生まれ故郷で生活したいのが人間ってもんさ。中には何度も往復して家族や親戚の道案内をしたような者もいる」
「安全な通行ができるってわけですね」
「いまのところはな。戦線と言ったところで水も漏らさぬ警戒なんかできやしないんだよ。特に険しい山岳と森ばかりの北部山脈なんかはさ」
「もしよければ、もっと詳しく知りたい話しなのですが」
「いいぜ。その代わり、あんたは帝都の話しやパティアの物価を俺に教えてくれよ……」
若い商人から、かなり具体的な話しを聞き出すことが出来た。
抜け道の場所、近くの村。
それから村にいるどういう者が、金次第で案内をしてくれるかなど……。
よくそこまで詳しく知っていると相手に聞けば、実は一度利用したことがあるというのだった。
どこまで本当のことかは分からない。
だが、危険を恐れていては先には進めない所まで来てしまった。
行くしかない。
三日後、アベルはリモン騎士団を訪ね、薬を届ける任務を成功させた。
ここでバース公爵宛てにリモン騎士団まで到達した旨の手紙を書いて、商人組合に郵便を頼んだ。
おそらく普通の手段で手紙を送れるのは、これが最後になるだろう。
文面には読めばカチェが同行していることが窺い知れる一文を入れておいた……。
やはりシャーレの笑顔が役に立ってくれて下級兵士から騎士団幹部まで、様々な人物と話しをすることが出来た。
むろん、処方の最中に色々と聞き出すのである。
相手は若い女性との会話に飢えている場合もあって、聞いてもいないのに次から次へと喋りまくる人物までいた。
労なくして情報が集まる。
戦況は皇帝国に苦しい情勢だった。
ディド・ズマが直接指揮をとる傭兵軍団の猛威が特に凄まじいという。
略奪のために街を目標にした攻撃と、奴隷を欲しての人間狩りが激しく、テオ皇子派閥の皇帝親衛軍が防衛に当たっているらしい。
ガイアケロン王子とハーディア王女は積極攻勢を控えているが、まったく油断ならないためにリモン公爵領には膨大な人員、主に伯爵盟軍の兵力が集められていて、他に移動できない状態だという。
王道国の主力を率いる第一王子イエルリングは皇帝国の属州に圧迫を加え、さらに南の地域で活発に行動。そちらはコンラート派閥の皇帝親衛軍が対応している。
最近、コンラート皇子は皇太子を名乗っているため、皇太子軍とも呼ばれているようだ。
パティアの街で出会ったノルト・ミュラーはなかなか有能なところがあるらしく、兵士や百人隊長などからは信用されつつある。
戦線はいくつにも分かれていて複合化しているのが実際、戦地に来てみると良く分かった。
そして、皇帝国は明らかに劣勢である。
王道国側には何かに駆り立てられるような異様なまでの攻勢意欲があった。
戦線から遠く離れた帝都では感じられなかった不穏な気配が濃厚に漂っていた。
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越境は徒歩でなければできないので、馬は全て売ってしまうことにした。
軍馬の需要は逼迫しており、驚くほどの良い値で取り引きができた。
アベルたちは徒歩で北上して、目的の村を訪れる。
遠くに見えていたはずの北部山脈が目の前と言ってもいいほど近い。
峻険な峰々の一つ一つまでもが、肉眼でくっきりと捉えることができる。
やってきたのはリモン公爵領のなかでも最も北部に位置する、人口三百人ほどの小さな集落だった。
まったく辺鄙な田舎で皇帝国の兵士も見当たらない。
家々は材木を組み合わせたものか土壁のもの。
アベルは、どことなく故郷テナナを思い出す。
情報に基づき村を過ぎ去り、さらに森の中に入ると作業小屋のようなものがある。
大量の材木が積まれていた。
そこで樵を生業にしている男たちが数人、働いている。
切り出した大木を鋸で切断していた。
木屑の発する独特の香りが漂う中をアベルたちは進む。
それから棟梁をしている男を見つけたので、率直に聞いた。
「あの。僕らはハイワンド領のテナナが生まれ故郷なのです。実は、ここに越境をさせてくれる人たちがいると聞いてきました」
「……」
中年の、肉体労働で鍛えられた体をした男は黙ってアベルを見てくる。
何も答えず、こちらを見ていた。好意も嫌悪も感じられない。
様子見だと察した。
「報酬は払います。僕たちは山歩きにも慣れていますから迷惑はかけません。お願いできませんか」
樵の棟梁に、いくつか質問をされた。
ハイワンド領内にある街のことや、どこの坂道が険しいとか、ポルトの街並みがどうしたとか、元住民でなければ知りえないようなことばかりだった。
アベルは淀みなく答える。
やがて相手は納得したようだった。
「どうやら本当の事らしいな。いいだろう……。一人当たり、銀で三十枚だ。全額先払い。食料は自分たちで用意しろ。途中、怪我をしたり獣に襲われたりした場合、ことは中止だ。俺らが請け負うのは道案内だけ。その他のことについては全部、自分でなんとかしろ」
「ハイワンド側に着くまで何日ぐらいですか」
「天候とお前ら次第だ。天気に恵まれて、お前らが早く歩けば片道二日だろう」
「急な話しで悪いのですが、今日これから頼めますか」
「……気の早い奴らだな。まぁグズよりマシだ」
棟梁は黙って頷く。
アベルは四人分の金を払い、素早く準備を終えた棟梁に連れられて森の中に入って行く。
シャーレは幼い頃から山に入り薬草を採っていたから、山歩きぐらい楽々とこなせる。
カチェに至っては人跡未踏の密林ですら踏破したので、まったく心配いらない。
山岳の間道は、ところによっては岩壁を攀じ登らなくてはならないようなものであった。
辛うじて人が進める隙間を縫っていくような感覚だ。
地元の猟師か樵にしか分からない地形。
とてもではないが重武装の兵士では通過できない。
夕暮れになったところで野営に入る。
ちょうど湧き水が岩壁から流れているところなので、小型の鍋に清水を満たした。
持ってきた肉や野菜を適当に煮て、皆で食べる。
樵の棟梁は熊の干し肉を食べていた。
交代で不寝番をして、翌朝、夜明け前に出発。
思ったよりも足が速いから、急げば夕方にはハイワンド領側に抜けられると樵は話す。
黙々と何も話さずに一行は山道を進む。
午後になり、いよいよハイワンド領に到達したあたりだろうか。
アベルは先頭を行く樵について歩いていると、ワルトが警告の声を上げた。
「人の臭いずら!」
アベルたちは立ち止まったが、森の中から次々に人が現れる。
総勢十人ほど。
重装備ではないが胸甲ぐらいはしているし、手槍や剣で武装していた。
一人、魔法使い風にローブを着た人物がいる。
アベルは注意深く彼らを観察すると、人相は別に悪くない。
どことなく傭兵というよりも正規軍のような印象がある。
あらかじめ、もし戦闘になった場合の打ち合わせはしてある。
シャーレに戦闘はできない。なので、ワルトは護衛に集中させる。
あとは二人で攻撃あるのみ……。
アベルはカチェと視線で意思疎通をした。
そうしてアベルは周りを囲んできた兵士に怯えるような素振りを見せた。
両手を上に上げる。
相手が何者であったとしても手紙を発見されたら、即座に不意を突いて戦闘だ。
緊張で汗が出てきた。
兵士たちを指揮する隊長らしき人物が声を掛けてきた。
装着している冑に羽根飾りがついていた。
「お前たち、質問に答えなさい。ハーディア王女様が統治する王道国の領地にどのような用件で進入してきたのか、正直に言え」
「僕たちは薬師の夫婦で、あと、こちらは知り合いの商人です。もとはハイワンド領のテナナ村の出身でして……。実家にどうしても帰りたくて、やって来ました」
「……薬師と商人か。荷物を検めさせてもらう」
「はい」
アベルはシャーレとワルトに目配せをする。
二人は荷物を地面に置く。
王道国の兵士たちは薬箱や雑嚢を開けて、中を調べ始めた。
大量の薬草や粉薬などが出てくる。
カチェやアベルも荷物を調べられたが、別段、変わったものは入っていない。
彼らが薬箱に隠された手紙に気が付くとは思えなかったが、発見された時はやらなければならない。
アベルは近くの男に斬りかかって、即座に魔法使いへ棒手裏剣を投げつけるイメージを持つ……。
心臓は太鼓のように律動する。
兵士が珍しそうに薬を調べていた。
中身をすっかり出し終えて、箱をしつこく調べる。
もういいという声が隊長らしき男から発せられた。
アベルは安心しかけたところで、二刀差しであることを相手の兵士に問われた。
「薬師のくせに二刀を使うのか」
「一振りは嫁のものです。重くてつらいというので僕が持っているわけです」
「そうか」
兵士はその嘘を簡単に信じた。
それでアベルへの質疑は終わり。
押し殺した息を吐く。
質問はカチェに集中するようになった。
商人というのに売買の物品を持っていないのはなぜかと問われていた。
カチェは同行しただけなので、売り買いが目的ではないという返事。
くわえて、できれば安否確認をしたい人物がいると答えた。
誰に会いに来たと問われれば、ポルトの街で商家を営んでいた店と主の名をすらすらと口にしていた。
何と言うことも無い。ハイワンド家の御用商人のことだった。
道案内をした樵の棟梁は慌てた様子もなかった。
それどころか無言ながら会釈をしている。
どうやら、わざと説明をしなかっただけで、こうした検問があるのは承知の上だったらしい。
アベルたちが取り調べに怯えて越境を躊躇えば、稼ぐ機会を失うと考えて黙っていたのかもしれなかった。
いずれにしても権力から遠く離れた民衆からしてみると皇帝国であろうと王道国であろうと、よく統治さえしてくれればそれでいいのだろう。
樵の男とはここで別れた。
彼は何もなかったかのように来た道を引き返していく。
そうして粗方、調べが終わると兵士たちは付いてくるように命じてきた。
断ることなど出来ないので言われるまま夕方まで移動する。
ここは下手に仕掛けないで様子見だ。
やがて山村に到着。
そこで名前と出身地、越境の目的を役人に申告させられる。
どうやら人頭台帳のようなものを作成して、きちんと管理するつもりらしい。
羽ペンで几帳面にアベルたちの名前を記した中年の役人は言う。
「ハーディア王女様ならびにガイアケロン王子様は、ことのほか善政を布くことで知られておる。お前たち薬師のような技能者は大歓迎だ。テナナまで行って用事を済ませたらポルトなどで活動してほしい。なお、ふたたび皇帝国側に戻ることは原則として許していない。無断で境を越えようとした場合は罰もあり得る。心しておけ」
アベルたちは同意し、その日は村の空家で夜を明かすことになる。
役人や村人たちは、こうした越境者に慣れている様子であった。
珍しそうにもしていない。
兵士たちは規律よく働き、村人たちと打ち解けているのも見て取れる。
これは占領政策が上手く進んでいることを察知させた。
日も暮れて、アベルたちは念のため警戒しながら過ごしていると尋ねてくる者がいる。
もしや再度、取り調べかと気を揉んだが、やってきた三人の兵士たちは薬を売って欲しいと頼みに来ただけだった。
アベルたちは旅を再開。
南東に進む。
勝手知ったるハイワンド領なので、どこにどんな道や地形があるか理解できている。旅足はさらに速まる。
アベルは、まず故郷テナナに向かおうと考えていたのだが、シャーレはポルトに行くべきだと主張して譲らない。
テナナへ行くと遠回りになるし、ここはアベルの用事を優先してほしいと訴える。
その様子は珍しくも必死なものだった。
シャーレとしてはテナナに行ってしまうとアベルが自分を置いていくと言い出しかねないのが怖かった。
こんな所まで来て、再びお別れなど……あり得ない。
できるだけ傍にいてアベルの役に立ちたかった。
戦闘はできないけれども、色々な手助けはできるはずだという必死な思いだった。
結局、縋りつくようなシャーレにアベルは根負けしてポルトへ行くことにする。
それに、どこに検問があるか分からないので依然として夫婦を装った方がいいかもしれないと考えた。
別れ辛いという心理も働いている……。
カチェは別段、何も意見を口にしない。
賛成とも反対とも。
任務に纏わる判断はアベルに一任しているようであった。
慣れたハイワンド領を迷うことなく進む。
道行く人は農民や運送業者が多い。
通り掛かった村などで話しを聞いてみると、ガイアケロン軍団の兵士たちは規律正しく、乱暴狼藉など全く働かないという。
傭兵も雇っていないことから治安は非常に安定しているらしい。
そうして、ついに何事もなく懐かしいポルトの郊外に到着した。
アベルは嫌でもイースのことを思い出す。
任務のたびにここから出かけて、時として二人とも血塗れになって帰ったものだ。
殺伐とした日々のはずなのに、イースの気高い精神や美しい容姿ばかりが刻印のように胸に残っている気がする。
「とうとうポルトに戻ってきたわ。大きい街だと思っていたけれど、今は何だかとっても小さく見える。わたくし、この街を守るために死ぬまで戦うのが義務だと思っていました。もし籠城のときに死んでいたら世界の広さにも気が付かなかったのね」
街に近づくにつれて増えていく人々を注意深く観察すると表情は明るい。
収穫した野菜などを荷車で運んでいる農民。
大工らしき職人たちが集団で歩いている。
ポルトの街に入る門は開かれていた。
兵士たちが警戒しているものの、取り調べはない。
ついでに入市税というのもなかった。誰でも自由に入れる。
そのせいか、かなり活気に溢れていた。
攻防戦で荒廃した街並みから比べれば、信じられないほど復興している。
店舗では様々なものが売られていた。
まずアベルは宿を探す。
ここからはシャーレやカチェを安全なところに泊めて、自らは単独で行動しようと考えていた。
やはり、相当に危険を覚悟しなければならない。
そうして良さそうな宿を見つけたので、大部屋を貸し切りにして仲間たちに考えを説明をしたのだが、今度はカチェが絶対に離れないと言い切って一歩も退かない。
「カチェ様。頼みを聞いてよ」
「いやよっ! アベルを一人にさせないために付いてきたんでしょ! なんで離れないとならないの?!」
紫の瞳を爛々と輝かせながら主張するカチェは、およそ説得不可能と思われたので仕方なくアベルは諦める。
それからシャーレに数日たっても戻らない場合のことを言い含めた。
「いいかい。僕らはもしかしたら二、三日は帰って来られないかもしれない。例えば……七日間経っても戻らなければ、ワルトとテナナの両親のもとに行くといい」
「もし……そうなったとして、それからどうするの」
「戦争が終わるまで静かに暮らすんだ。シャーレらしくね」
彼女は素直に頷きつつも非常に辛そうな顔をしている。
「アベル。何日もこの部屋に閉じ籠るのは苦痛ですから市場で薬師として商いをしています。それでもいいよね」
「ああ。そうしているといい。かえって本当の薬師と思われるだろう」
「いや、あたし本物の薬師だってば」
「ははは……そうだよな。ワルト。シャーレを守っていてくれ」
「分かったっち。ご主人様はカチェ様がいるから、きっと大丈夫だっち」
アベルとカチェは宿を出て、とりあえず懐かしい城下町をぶらつく。
今日、いきなり王子と会えるとは思えないので手紙はワルトに預けてきた。
「アベル。これからどうするの? お城に行ってガイアケロン王子に面会を頼むの?」
「なるべく目立たずに、できれば一対一で会いたいのです。それに城で取次ぎ役人に賄賂を渡したところで謁見は難しいと思います」
「じゃあ、どうするの」
「まずは王子の側近に接触して、信頼を得てから引き合わせてもらうという手筈を考えています」
「回りくどいわね」
「でも他に方法を思いつきません」
「じゃあ、とりあえずガイアケロン王子やハーディア王女の側近を探しましょう。そこらへんの兵士に上司の居場所を聞いて、どんどん遡って行けば、やがて将軍や側仕えに行き着くわ」
カチェは至って明るく単純にそう考えている。
アベルは自分の提案とはいえ首を傾げて思案した。
「そんな簡単に行くかな~」
「とにかくアベルは離れたところで見ていて」
とりあえずカチェのお手並み拝見といったところだ。
カチェには賢さと、不思議な勢いの良さがあるので任せたら上手く行きそうな気もする……。
少し歩き、カチェは広場にいた兵士に歩み寄ると何事か話しかけた。
その横顔には好ましい笑顔。
相手の若い兵士は、つられて嬉しそうに笑っていた。
それはそうだろうとアベルは得心いく。
カチェみたいな美しい女性から親し気にされたら、つい警戒心は緩んでしまう。
しばらく会話をしていたが、やがて二人は手を振って別れる。
アベルは物陰に移動してカチェを待った。
「どうしでした。カチェ様」
「収穫はあったわ。兵士たちを訓練している場所があるのですって。まあ、きっと鍛錬所のようなところだと思いますけれど。それで、そこにスターシャ・ソレイユという名の将がいて、ガイアケロン王子の配下でも名の通った武将らしいわ。王子とも親しくて、側近のようなものということよ」
「スターシャ……。どっかで聞き覚えがあるような……。はっきりとは思い出せないな」
「訓練所は市内の南側にあるそうよ。行ってみましょう」
「……」
カチェは、軽快にさっさと移動していく。
この素早さは、もって生まれたものだ。
アベルはもっと警戒したほうがいいのではとか疑念を膨らませつつも、あとを歩いていく。
すぐに倉庫街に到着した。
ここは元々、商人たちが物資を保管しておく建物が多いあたりだった。
今はガイアケロン軍団の兵士たちが宿舎のようにしているようだ。
しばらく探し歩いていると、やたらと兵士が出入りしていて番人が立っている建物を見つけた。
もとは大商家の邸宅と倉庫を兼ねていたようで、石造りの質素だが頑健な建築物だ。
カチェが番人に高名なスターシャ・ソレイユ様はおられるかと聞けば、ちょうどいるとのこと。
続けて面会は叶うかとの質問に、誰とでもお会いになるという返事がある。
アベルとカチェは顔を見合わせた。
――あれ?
意外と……何とかなる……?
挨拶をして建物の中に入ると、五十人ぐらいの兵士たちが訓練をしている。
木槍や木剣で打ち合いをしていた。
気合いの入った声が無数に木霊している。
奥の方に歩いていくが誰も制止しない。
アベルとカチェは奥の方で、腕組みをしながら立っている長身の女性を見つけた。
接近するにつれて記憶が刺激されていく。
巻き癖のある赤毛が胸元に流れている。
でっかい胸が、さらに強調されるようなビキニ風の胸当てをしていた。
おへそが丸見えで、素晴らしいほどよく発達した腹筋が目立つ。
ボディラインは豊満そのもの、胸や尻は豊かで女らしい曲線を描いている。
高く整った鼻梁。女性にしては引き締まった頬。
性格のきつそうな尖って伸びた眉。
鋭く青い瞳がアベルとカチェを見てくる。
「なんだ? お前ら」
「あの……。僕はアベルと申します。貴方はスターシャ・ソレイユ様ですか」
「そうだ」
「たしか、ガイアケロン王子様の側近でしたよね」
「……」
スターシャは二十歳を少し過ぎたぐらいの年齢ではないだろうか。
容姿は溌剌として美しい。
それだけでなく溢れるほどの色香があった。
ただ色気と言っても、どこか陽性なものだった。
向かい合うと背の高さがよく分かる。
カチェよりもさらに長身。
体内から強い魔力を感じる。
魔法が使えるのかは分からないが、雰囲気的には身体強化による剣術が得意なのではと思わせた
アベルはポルトの郊外で行った決闘を思い出す。
ガイアケロン、ハーディアと戦い……自分は片目を失うほどの重傷を受けた。
その際、イースが投げた大剣を奪って返さなかった女戦士。
たしかスターシャという名であったし、見覚えもある。
交渉の相手として適格だろうか。
とは言え、ここから誤魔化して逃げ出すというのは、かえって不審になるだろう。
正直に正攻法で行こうと決めた。
「あの……。かつてポルト籠城戦の際、ガイアケロン王子様とハーディア王女様の決闘のとき、貴方もその場にいませんでしたか? そして、皇帝国の女騎士が投擲した大剣を奪いましたね」
「んんっ! なんか、お前、見覚えあるな」
「あのとき黒髪の騎士の従者をしていたのは、僕です」
スターシャの瞳が、より一層ぎらりと光ったような気がした。
「憶えているぞ! お前か……。だが、目はどうした。たしか左の眼をハーディア様の魔法で潰されていたよな」
「治してもらったんです」
「分かったぞ! あのときの決着をつけにきたってわけか!」
「い、いや。違います」
「くだらない嘘を言うな。他にどんなわけがあるってんだ?」
「実はガイアケロン様に謁見を願いたいのです。でも、僕ら伝手が何もなくて。それで、側近の方を探しているのです」
「なんでガイ様に会いたいんだよ」
「それは……ちょっとここでは言いにくいです」
「……」
スターシャという女戦士は疑わしそうに睨んでくる。
「もちろん会わせてもらうときは、いっさいの武装はしません」
「お前、たしか魔法を使えたよな」
「絶対に襲ったりしないです。それにガイアケロン王子様にしてもハーディア王女様にしても、とてもお強くて僕では到底敵わないですから」
「……」
「あの。無理なら、帰ります」
「黙って帰すわけがないだろう」
スターシャは腰に佩いた両刃剣の柄に手を掛ける。
顔には好戦的な笑み。
戦いを望んでいる人間の表情だった。
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