第95話  想いを目指して

 




 祝賀会の翌日。早朝。

 すっかり旅装を整えたアベルとシャーレ、ワルトが小屋の前に揃う。

 妹のツァラがワルトに、しがみ付いている。


「ワルト。いっちゃうの?」

「くうぅぅぅん……。何があってもご主人様についていくのが、おらの仕事だっちよ」

「わたし、ワルトともっと遊びたかった!」

「……」


 なにやら種族を超えた友情を結んだ幼女と獣人は、離れがたいらしい。

 アベルは、こういうの苦手だなと思う。

 もともと別れたくない人間なんか一人もいないはずだった。

 それなのに、今はそうではない人が多過ぎた。


 長旅を共にした赤毛の愛馬はウォルターに任せた。

 最前線を越えるときは、おそらく徒歩でないと無理だからだ。

 慣れ親しんだ馬を現地に捨てるのはあまりにも忍びない。


 薬師に偽装しているので重武装だと奇異な姿になってしまう。

 全身鎧を纏って、私は薬師ですと説明するのは間抜けなことだった。

 そこで上半身に鋼の胸甲、背甲を身につけただけで、あとは旅装にする。

 革の胴着、麻の下穿き、鉄の覆いが付いた長靴。

 光沢のある革で作られた広いつば帽子も被った。

 物騒な世の中なので、軽武装の姿なら見咎められないと想像する。


 刀は、ずっと使っている「白雪」と「無骨」の二刀を携える。

 素人が二刀を使うということはほとんどないので、剣士から見るとこれは奇妙に感じられることだろう。

 だから、どちらか一振りはワルトに預けておくのがいいかもしれない……。


 それから袖の裏に棒手裏剣を隠し持って、あとはごく小さな折り畳みナイフをポケットに入れておく。

 武装は、だいたいそれで終わり。


 着替えや食料などは雑嚢に入れる。

 密書や金貨を隠してある薬箱は、あえてワルトに運ばせることにした。

 急な襲撃にもワルトなら対応できるし、馬以上に臨機応変に動いてくれる。

 もし戦闘が必要になったらワルトにシャーレと密書を任せて、みずからは戦いに専念しようという狙いもあった。


 シャーレは汚れに強い、実用的な麻の上下を身につけていた。

 萌黄色に染められている。

 足元は脚絆を巻き、丈夫な革のサンダルを履いていた。


 ワルトはウォルターのお古の服を与えられたので、それを着ている。

 ジーンズのような紺色の作業服だった。

 飽食のせいで毛の艶が、もの凄く良くなっていた。

 灰色の毛並みがピカピカしている。

 それに毎日、ブラッシングをしてもらっていたせいもある。

 野犬から飼い犬へ、みたいな。


 アベルは両親に相対する。

 再会の望みも叶い……再び出て行く。

 皇帝国の運命を託した陰謀を伝える密使のために。


 しかし、アベルは自分の内面を探ったところで、どこにも皇帝国への忠誠心などありはしなかった。

 混乱した世の中が少しでも良くなれば……という気持ちはあるが、しかし、それすら本懐と思えるような動機ではない。

 誰にも言えたことではないが、もっと個人的な動機のほうが圧倒的だった。


 餓えた心の欲するまま世界を巡ってみたいと、ずっとそう感じていた。

 そして、脳裏に甦る、長く美しい黒髪。


「それでは、行ってきます」


 ウォルターは、いつもと変わらない態度。

 落ち着いて、大らかな表情をしていた。

 やっぱり、ああいう大人になりたいなとアベルは思う。


 アイラは少し寂しそうな、しかし何かを諦めた優しい顔つきをしている。

 妹は美しい瞳に涙を溜めていた。


 もしかしたら、戻れないかもしれない。

 もしかしたら、二度とは会えないかもしれない。

 だが、行かねばならなかった。

 

 アベルは心の中で両親に感謝した。

 そうして手を振り、別れた。


 アベルとシャーレは、それぞれ馬に乗っている。

 厳めしい正門のところまで移動して、つい辺りを見回した。

 カチェのことが頭から離れない。

 昨晩の、あの酷い別れ。

 どうしたって、嫌な感じになるのは避けられないと分かっていた。


 それでも予想以上だった。

 カチェの、いつもなら好奇心に輝いている顔が悲しみに歪んでいた。

 それを思い出すと心が痛む。

 あんな顔をさせたのは自分のせいなのかと思ってしまう。


 考えてみれば、あまりにも長い付き合いだった。

 初めてポルトに出仕したとき以来なので、かれこれ八年ぐらいになろうか。

 アベルは何だか酷く変な感じがした。

 大事なものを置き去りにしてしまったような……。

 

 カチェがいてくれたら、何かと楽しくなるだろう。

 だいたい、あれほど頼りになる旅の相棒など、そうはいない。

 賢くて教養と礼節を身につけていて、戦闘も一流。

 ときどき訳の分からないことをしてくることもあるけれど。


 それからガトゥやロペス、モーンケなどのことも連想する。

 なにかにつけて経験豊富なガトゥの助けは、もうこれからはない。

 少しばかり心細くなってしまう。


 ロペスは武骨で短慮だったが戦闘においては誰よりも勇敢だった。

 それは、ほとんど暴勇と呼んでも良かった。

 巨大な拳骨を振り回して、素手で敵の頭を砕き割り、撲殺したところを何度も見た。

 共にしなくなって初めてわかるのだが、やはり頼りになる男だった。

 それにロペスは不満というものを口にしたことが無かった。

 一行の主だったわけだが暴風に晒されようとも、恐ろしいほど冷たい川を渡ろうとも、一言も不満を吐かなかった……。


 それからモーンケ。

 軽薄で、性格の捻じ曲がった男。

 欲深く、金にはうるさく、だから商人などといつも交渉をしていた。

 おかげで亜人界では騙されて大金を失うということもなかった。

 あんな男でも居ないとちょっとだけ物足りないから不思議なものだ。


 事前に通達がいっていたらしく、門番たちは黙って開門する。

 アベルたちは門から外に出る。

 公爵家を後にした。

 早朝だが、すでに貴族区の道路は移動する人々がたくさんいた。

 

 アベルは一度だけ大理石で作られた大邸宅を振り返り、それから馬を進ませた。

 シャーレとワルトは黙ってついてくる。

 どうした道程で行くのか、すべてアベルに任せる態度だった。


 アベルは帝都までやってきた街道や、事前に公爵から教えられた地理について思い出す。

 この帝都は、皇帝国のほぼ中央部にある。


 今から千年前。

 まだ大帝国が存在していた頃からこの付近は、河などを使った運河の便もよく、交通の要所であることから大きな都があったという。

 その後、分裂戦争の最中に勃興した王国の王都があって、それが滅んで皇帝国が建国された。

 王都はそのまま帝都になった……。


 帝都の付近や、さらに西側などは戦火にまったく曝されていない。

 安全地帯を領地としている貴族にとって、戦争はまだまだ他人事である場合も多い。

 そんな貴族たちこそ、内輪揉めのような権力闘争に明け暮れていた。

 こんな状況がいつまで続くのかアベルにもよく分からない。


 本来は国を健全に統治しなければならないウェルス皇帝はもともと執政能力が低い人物だった。

 たまに強硬な主張をする反面、感心のない事柄については大臣や貴族議会に任せてしまうなど、ちぐはぐな態度が多かった。

 そして、もっとも重要な皇位継承については、明言を避け続けているという。


 皇帝国の習慣に従えば長男継嗣ということになるのだが、肝心の長男コンラート皇子は愚かだということで人気はない。ただ、噂によるとコンラート皇子は次期皇帝には自分以外あり得ないと公言しているという……。

 

 戦争や派閥争いは激しさを増し、暗殺や言葉による権謀術数が皇帝国の貴族社会に吹き荒れている。

 大規模な内紛になっていないのは、王道国の攻勢という共通の敵があるからだけ。

 

 ウェルス皇帝が死んだ場合、国がどうなるか誰にも分からない。

 そして、その皇帝の死期は一年以内の可能性が高いとバース公爵は密かに伝えてきた。宮廷主治医からの確かな見立てだという。

 事は急がねばならなかった。


 アベルは方角を見定めた。

 進む方角は基本的に東方向を取っていれば良い。

 およそ四十日ほどでリモン公爵領に到達するはずだった。

 途中、検問などがなければもっと時間は短縮できるのだろうが、それは有り得ないことだ。


 地名が思い浮かぶ。

 アカドゥールまで十日。そこからベリコまで二十日。

 さらに東にあるパティアは皇帝国東部最大級の都市なので、そこで取りあえず情報収集などもしてみよう……。

 西方商友会の集会所や、商人組合が経営している宿の場所は下調べをしてある。


 アベルたちは貴族区と市民区を隔てるピレス門を通過。

 猥雑に満ち満ちた帝都の商業街を進む。

 あいかわらず夥しい数の乞食、浮浪者が目につく。


 ただ、ひたすら誰かがお金を恵んでくれるのを待っている者。

 弁舌を駆使して、アピールしまくっている年齢不詳の男など……。

 とりあえず荷物を大量に乗せた馬車の群れに合わせて進むしかない。

 間を縫って馬を操るのは危なかった。





 ~~~





 カチェは公爵邸を抜け出して、馬をとりあえず東へ進ませる。

 閑静な貴族区の道。

 物乞いなど、当然だが一人もいない。

 道行く人は貴族か使用人、あるいは御用商人などが多い。


 カチェは何が必要か、あれこれと考える。

 半日の遅れは、そうそう取り戻せないだろう。

 アベルを追うにも準備がいる。


 やはり旅装は早急に手に入れたい。

 いま着ているのは革の胴着、絹の服という軽装であって、旅に必要な道具がまるでない。

 愛用していた刀すら置いて来てしまった。


 それから一か所だけ、どうしても寄りたい場所があった。

 それは自分の母親、ティファニアの職場だった。

 帝都に帰還して以来、どうしても会いたかった実母。


 しかし、ハイワンド公爵家には住んでおらず、その居場所をケイファードに尋ねた。

 だが、有能な家令である彼は易々と教えてくれなかった。

 健在ではおられますが公爵家とは関係を絶っているも同然、という答え……。


 しつこく何度も頼むように聞けば、母親は商人の真似事などをしていて、貴族からは程遠い暮らしをしているという。

 帝都の中でも高級服を扱う服飾街で、一件の店を経営しているというではないか。


 完全にハイワンド家は母ティファニアを見放していた。

 ハイワンド姓を名乗らないことを条件に少額の年金を与えて、あとは好きにさせているらしい。

 この機会を逃せば、母とは二度と会えない気がした。


 急げば日没までに目指す服飾街に到達できるはずだった。

 それに方向も東方面で、そう遠回りになるわけでもない。

 カチェはピレス門に到着。

 貴族区に入ってくる人、逆に出て行く人で混雑している。

 検問があって、特に武装にはうるさい。


 カチェは貴族区への出入り許可書を持っていないことに、今更だが気が付いた。

 西方商友会が発行した金属製の登録票だけがある。

 偽名でレーチェ・ハイベルクと名が刻まれていた。

 なんとかなるだろうと考え、カチェは正々堂々と検問官の前で下馬した。

 それから首飾りのようにした登録票を武装した中年の役人に渡す。


「西方商友会の者です。通してください」

「通行許可書はどうした?」

「旦那様が持っています。わたくしはお使いで戻るように言われました」

「武器は……」

「持っているわけないでしょう。商人ですよ」

「どこのお家に御用だったのだ」

「ハイワンド公爵家です。女官長モールボン様。家令のケイファード様、ならびに儀典長のスタルフォン様にはお世話になっております」


 カチェが淀みなく答えると、検問官は手で進んで良いという仕草をした。

 そうして門を無事に通過。

 入るのは難しくても、出るのは緩いのかもしれない……。


 馬車が列をなす道路を服飾街の方角へ進む。

 しかし、帝都の地理には詳しくない。

 出歩くのはせいぜい貴族区の中で、それも武帝流の鍛錬施設がある場所の往復だけだった。


 帝都に帰還して以来の市民区に途惑う。

 大通りには無数の支道が走り、さらに裏路地へと続く。

 道路の両脇には、二階建て、三階建ての建物が延々と続いていた。


 一階部分は店舗や倉庫、馬小屋になっている場合が多く、あるいは職人が様々なものを製造している。

 鞄、靴、袋、食器……。

 ときおり、大商人の屋敷らしきところがあり、あるいは神殿なども点在している。


 考えてみれば一人で出歩くなど初めてのことだ。

 内心、興奮してくる。

 カチェは隣の馬車に併走して、その御者に声を掛けた。


「すみません。貴族用の服を扱っている服飾街はこの道でよいのですか?」

「ああ。このまま進んで、それからブルセー通りに入って、突き当たりを左へ行くといい」

「ありがとうございます」


 カチェは言われた通りにブルセー通りに進入。

 標識などはなかったから道行く人に、再び尋ねた。

 そうして馬を操っていると、やがて街の雰囲気が変わる。


 猥雑な印象が薄らいで、通りに面した石造りの店舗では衣服を商っていた。

 それも庶民用ではなくて、金持ちの商人や、あるいは貴族などが着る服を扱っているらしい。

 特売品を店先に並べるようなマネはしていない。

 落ち着いた店構えで、身なりの整った使用人が入り口に案内のために立っている。


 目指す店はティファニアと、分かりやすく自身の名のみを冠しているらしい。

 日没までに見つかるだろうか……。

 不安になってきた。


 今夜の宿すら、全く目途がついていない。

 夜の帝都は危険に満ちているという。

 市民区のいたるところで強盗殺人が頻発しているらしい……。


 通り掛かった店の入り口には、まだ二十歳ぐらいの男の使用人が立っていた。

 カチェは下馬して、ティファニアの店を知らないかと聞いてみた。

 露骨に嫌そうな顔をすると他店の場所など知らないと言われてしまった。

 当然と言えば当然の反応かもしれなかった。


 一つ思いつく。

 こうした場所に店を出すには組合に加盟していないと、難しいはずだった。

 そこで聞いてみよう。


「ねぇ。それなら組合の場所ぐらい知っているでしょう!」

「まぁ……」

「教えてください!」


 カチェの勢いのある明るい態度に気おされて、使用人は組合がある建物の場所を説明した。

 すぐ近所だった。

 二つ通りを越えたところにある。


 カチェは程なくして「高級服飾組合」という看板の掲げられた、三階建ての建物を見つけ出した。

 煉瓦造りで、歴史を感じさせる趣。

 木製の扉を開けると、中は事務室のような雰囲気だ。

 男ばかりが八人ほど机で何かを記録している。

 布の類も多量にあった。そうした記録を取っているのかもしれない。


「すみません。お店を探しています。ティファニアという女性店主が経営している所なのですが……知りませんか」


 突然、入って来るなりそう言ってきたカチェを、じろじろと男たちは眺める。

 禿げ頭に白髪が僅かに残った初老の男が口を開いた。


「紫の瞳のティファニアさんかい?」

「そうです」

「あんた、似ているね。もしかして娘さんかな」

「……親戚です」

「どうりで。大した別嬪さんだ。ティファニアさんの店ならこの通りをあちら北に百メルほど進んで、右手にあるぞ。いつも紫の布を掲げているから分かり易い」


 カチェは優雅に一礼をすると組合の建物を出た。

 逸る気持ち抑えつつ馬を曳く。

 もはや騎乗する必要もないほど近い。


 既に夕方になりつつある。

 もし母親と再会できなければ、急いで宿を探す必要があった。

 明日はアベルの追跡に戻らなければならないので、今日、母を見つけられなければ再会は諦めないとならない。


 紫に染め上げられた羅紗の布が飾られていた。

 カチェは馬の手綱を、その店の前の杭に括り付ける。

 すると従業員らしき若い男の使用人が愛想笑いを浮かべながら聞いてきた。


「ティファニアの店にようこそ。馬は私が見ていますから、どうかゆっくりとお店に居てください」

「あの。店主のティファニア様はいらっしゃいますか」

「店主ですか。一階の売り場か、不在でしたら二階の仕立て室の方にいるのではないかと」

「分かりました」


 カチェは胸を押えて入店する。

 心臓が太鼓のように打っていた。

 採光の為、店の窓は広く開けられている。

 壁は白い漆喰で塗られていて、清潔感があった。

 婦人用の服ばかりが、数十点と並べられていた。


 落ち着いた色合いのものもあれば、かなり派手な紅色をしたドレスなどもあった。

 それらはそのまま着て、具合が良ければ買い取ることもあるのだろうが基本的には見本のようなもので、より細かい好みに合わせて仕立て直した新品を注文に応じて縫い上げる仕組みになっているはずだった。


 女性の店員が数名、働いている。

 客が何組もいて、それぞれ熱心に服を見ていた。

 騒がしくないが、熱気のようなものがあって繁盛している気配がある。


 入店したカチェに店員の一人が丁寧に挨拶をしてくる。

 面白いことに店員でありながら店の服を着ていた。

 まるで上流階級の令嬢のようだ。

 一見して使用人とは分かり難いほど、似合っていた。

 思わずカチェは好奇心から聞いてみた。


「教えてください。その服、お店のものでしょう。売り物を店員が着るなんて……おかしくない?」

「はい。初めて来店される方はそう仰います。しかし、これは店主の信念なのです。つまり、服を着たらどんな姿に見えるかをこうして、お伝えしているのでございます」

「なるほどね……。貴方、似合っているから、さぞかしその服が欲しいと言われるでしょう」

「はい。さように要望していただけることもございます」

「あの、不躾で恐縮なのですが……店主のティファニア様に会わせていただけますか。わたくし血縁者なのです」


 若い二十歳ぐらいの女性店員は驚いたような顔をしたが、カチェの顔をよく見てから深く頷いた。得心いったのだろう。

 それから二階に上がっていく。


 しばらくすると、店員が一人の女性と共に階段を下りてきた。

 カチェは現れた人物の顔を祈るように見る。

 そこには、約十年ぶりに再会した母親がいた。

 

 間違いない。

 自分と同じ、紫水晶のような瞳。

 やや眦が上がった、鋭い印象を人に与える相貌。

 顔の造作。

 どれをとっても、よく似ていた。


 そろそろ三十代の後半になる年齢だが、妖艶なほどの美貌だ。

 癖のない紺色の髪を肩まで伸ばしていた。


 カチェは歩み寄る。

 ティファニアは驚きから目を見張って、僅かに仰け反る。


「カチェ! カチェなのっ!」

「はい! お久しぶりでございます」

「信じられない! 生きていたの……。お城で戦死したと聞かされて……」

「そんなことすら公爵家から伝えていないのですね。生き延びたのです。それで、二カ月ほど前に帝都に戻ってきて、公爵家に滞在していました。お母……ティファニア様こそ、どうしてこんなところで商売などを。わたくし……会いたかったのに、どこで何をしているのかケイファードは簡単には教えてくれませんでした」

「話せば長いわ。もともとやりたかったことをしているとだけ言っておきます。今日は……お店を早めに閉めましょう。貴方は二階で待っていてちょうだい」


 カチェは言われた通りにする。

 アベルの追跡は、どのみち今日はできない。

 夜間も移動して距離を稼ぐというのも手だが、日が暮れてからの帝都の治安はあまりにも最悪だという。

 武器もない今、なるべく危険は避けたい。


 カチェが二階に上がると、そこでは女性のお針子が三人も働いていた。

 作っているのは、もちろん店で売る衣装である。

 晩餐会のときに貴族の女性が着るような服から、外出用の上下まで、かなり多様に仕立てていた。

 そうした服が作られているところを見るのは、とても面白かった。

 

 お針子たちはカチェのことが気になったらしく、やがて何者か聞いてきた。

 親戚だと答えれば、頷いたものだった。

 それから素性を詳しく知ろうとしてきたがカチェは何も教えなかった。

 やがて日没前に店仕舞いとなる。

 店員たちは帰宅を許されて、カチェは母親と二人きりになった。


「お腹空いているでしょう。近くに美味しい店があるから、そこで食事をしましょう」

「はい。あと、わたくし今夜の宿がないのですが」

「何言っているのよ。お母さんの家に来なさい」


 カチェは嬉しくなって笑顔を浮かべる。

 ティファニアは小さく頷く。


「それにしてもカチェ。綺麗になったわね。わたしの若い頃よりも美しい。黄金よりも貴いわ」

「そんなことはないです。お母様のほうこそ、十分に美しいです」

「わたしは、この顔と才知で伯爵家の跡取り息子を射止めた。貴方なら、もっと途轍もない獲物を狙えるわよ」

「……」


 カチェの脳裏にノアルト皇子の姿が思い出された。

 とんでもない大物というところか……。

 大迷惑としか言いようがないが。

 カチェは困り顔で苦笑を浮かべた。


 それから店の外に出て、カチェは乗ってきた馬の手綱を取る。

 馬が盗まれないように番をしていた使用人に、ティファニアはご苦労様と声を掛けて、彼もまた帰宅させた。


 ティファニアは、まず近所の商家に案内してくれた。

 その馬小屋でカチェの馬を預かってくれるように頼む。

 相手は快く応じてくれる。

 次に飲食店へと歩いて移動した。

 もう、ほとんど陽は沈みつつある。空が茜色になっていた。


 ティファニアに連れられて、それほど歩かないうちに一軒の飲食店に到着した。

 二階建て、石造りの建物で間口が広い。

 中からは弦楽器の楽しそうな演奏が聞こえた。


 店の中は大きな食卓が十組ほどあり、すでに大部分は人で埋まっている。

 カチェとティファニアは二人用の食卓に案内された。

 葡萄酒が満ちた素焼きのデカンタと空の杯が運ばれてきた。

 母親が注いでくれる。

 乾杯して、赤い液体を飲み下した。

 公爵家で出された高級品には及ばない味わいだったが、そんなことはどうでもよいことだった。


「ねぇ。カチェ。どうやって生き延びたのか教えてちょうだい」


 当然ともいえる母の問いかけにカチェは頷き、ありのままを語った。

 それは、相当に端折らなければ一晩かけても説明しきれないことだった。

 まさに、自分の価値観が全て組み直されたような旅の日々……。


 あらましを語り終えたとき、出された料理はほぼ食べ尽くされていた。

 母ティファニアは、感嘆しながら首を振る。


「世界旅行をしたようなものね。ちょっとだけ羨ましいわ」

「はい。とても楽しかった!」

「それで? その仲の良かった従弟のアベル君を追いかけているってこと?」

「はい。わたくしが居ないと、あいつ何をするか分からないし。このまま公爵家に残ったら一生後悔すると思ったから。あんなところに閉じ込められるのは我慢ならない」

「……そうね。後悔はしたくないものね。でも、それにしても惜しいわね。貴方なら大商家にだって嫁げるのに」

「家に寄りかかるような生き方はしたくありません」

「子供だったカチェには説明しなかったけれど、わたしの家。つまり貴方のお祖父さんについて話しましょうか」

「えっと、確かお爺様の名前はティル・ストラウス」

「そう。わたしの父ティルは騎士でした。凄く強い人でね。魔法も使えましたし、それは重宝がられて次から次へと任務を授けられました」

「わたくしが生まれる前に亡くなったと聞きました」

「ええ。身を粉にして働いたあげくに、とうとう病に倒れてしまったの。高いお金を払って掛けた治療魔法も効果が無かった」

「はい」

「騎士の家なんて、貧しいものよ。わたしだって子供の頃からお針子の手伝いで僅かな給金を稼いで生活の足しにしていた。貧乏は絶対に嫌だと思ったわ……。それでね、服を作るのは好きだったから、これを武器にして上に登ろうと考えたの。溜めたお金で布を買って、自分で綺麗な服を作ったわ。次に父の主のグローズ伯爵に頼み込んで、本来なら入り込めないような上流貴族が出入りする舞踏会に参加させてもらったの」

「……そこで、父上に会った」

「そうよ。当時、帝都に出仕していたベルルと出会って、向こうが一目惚れ。わたしは十九歳で、自分で言うのも何だけれど周りに及ぶ者のないほど美しい容姿をしていたわ。だって服から化粧から、すべて計算して磨き上げたのだもの。当たり前よ」


 カチェは母の野心に燃えた来歴に共感した。

 現状に不満を感じつつも、つい流されてしまうことは多い。

 しかし、抵抗しなければ現実は良くならないのだ。


「ベルルは既婚者だったけれど伯爵家の次期当主よ。お金も地位もある。最高の、これ以上ない相手だと思ったわ。それに父の病状は悪くて、このままいけば生活が困窮するのは目に見えていた」

「それで、愛人になったのですね」

「そう。ベルルは正妻様とは愛情なんて欠片もない生活だったみたいで、わたしに夢中になったわ。もう、すぐに恋に落ちたの。わたしの方も満更でもなかった。ベルルは逞しくてなかなか美男子だったからね。性格の方は、ちょっと激しかったけれど武人なんてあんなものね……。

 そういうわけで、しばらく帝都で幸せに暮らしていたところ、ベルルはポルトに戻ることになってしまったの。わたしも一緒に行かなければならなかった。だって愛人だもの、傍にいないと意味ないわ」

「はい」

「ところが到着した厳めしいお城には、怒り狂った正妻様がいて、わたしの味方はベルルだけ。身の置き場がないまま肩身の狭い毎日を送っていたら、とうとうベルルと正妻様は大喧嘩をして別居になってしまった。その頃、わたしのお腹には貴方がいた……」


 カチェは複雑な家庭事情に憂鬱を感じる。

 父ベルルは、いずれはティファニアを正式な立場にするつもりもあったというが、正妻は離婚に応じなかった。


「貴方を生んで直ぐに、ベルルは中央平原へたびたび出征するようになって、領内も物騒で……相変わらずお城はしっくりこなくて、お母さん、もう無理だと思ったの。ごめんなさいね。貴方のこと、捨てるようになってしまって。

 けれど、貴方の教育はすべてハイワンド家が仕切ったから、わたしが口を出せる状況ではなかった。育児もさせてもらえず、友人もいなくて、ベルルもいない。正妻様の陰湿な嫌がらせも続いていたし……限界だった」

「……昔はどうして母上は自分を置いて帝都に行ってしまったのか分かりませんでした」

「上流貴族の家庭に、わたし一人が逆らったところで無駄だもの。それに手紙もあまり書かない方がいいと思った。貴方は相続権を認知してもらっているのに、愛人という立場のわたしに引っ張られてはならないからね」


 カチェは思い出す。貴族の子弟として教養を身につけるために朝から夕方まで習い事の毎日。

 唯一、体を動かすことだけが欲求不満の捌け口だった。


 やがてアベルに出会った。

 初めて出来た友達。

 そして、初恋の相手だ……。


 店を出ると、すっかり暗くなっていた。

 母親は頭上に「魔光」を出現させた。


「そういえば母上も魔法を使えましたね」

「これと清水生成ぐらいだけれど。父さんに習ったわ」


 暗い夜道。

 しかし、膨大な人口がいる帝都では夜歩きしている者も少なくない。

 人の姿はいくらでも見えた。


「母上。夜は治安が悪いと聞きます」

「その通りよ。ここら服飾街は組合が自警団を作って夜回りしているから、まだマシですけれど。朝になったら強盗に襲われた死体がそこらに転がっていることも珍しくないわ」


 二人は速足で移動した。

 それから間もなく三階建ての集合住宅に到着した。

 その二階に母親ティファニアは住んでいるという。

 独居だった。

 中に入ると、居間に相当する部屋は衣服の試作品や型紙が、あふれるほど積んである。


「全部、貴族や商人の婦人に売る服よ」

「お店、繁盛しているみたいだった」

「まぁまぁね。仕事が楽しいの。男を頼りにしているだけの人生は駄目よ。わたしは人生でそれを学んだわ。女だって自分の力で生きていかなければ」


 カチェは服を脱ぎ、足や体をお湯で拭って清潔にした。

 寝台で母親と一緒に寝る。

 子供の時以来だ。

 変な気分だった。悪い気はしないけれども。


「明日はどうするの」

「急いで旅装を整えて、出発します」

「名残惜しいわね」

「はい。わたくしもです」

「十年以上も放っておいて、今更どうしろとか言わないわ。貴方の好きにしたらいい。でも、せっかく拾った命は大切にしてね」


 命よりも大切なものがあるのでは……カチェはそう思ったが黙っていた。

 説明しようにも、上手にできることではなかった。

 やがて睡眠に落ちる。


 翌日の早朝。

 母親は料理というものをしない主義だった。

 朝食も近くの食堂で済ませると言う。

 いつもの店に連れられて、二人で豆と豚のスープや蕪の入った大麦の粥などを食べる。


「ねぇ。カチェ。買い物に付き合ってあげる。店の場所とか知らないでしょう」

「はい! 助かります。市民区には疎くて。でも、仕事は?」

「番頭がいるから平気よ。旅装が欲しいのだっけ」

「あとは武器とか。刀が必要です。鎧は軽装のものでもあれば充分かな」

「裏通りの変な店に行って掘り出し物なんか狙っても無駄よ。変な店には変な物しかないから」

「じゃあどうするのですか」

「表通りの一流店に行くのよ。そういうところは面子や誇りがあるから、下品なものは売らないものよ。もちろん高いけれど、安物買いの銭失いにはならないわ」


 カチェは母に感心した。

 さすが商売の才覚があるだけあって説得力がある。


「お金はあるの? お母さん、武器には詳しくないけれど名刀が物凄く高いのは知っているわよ。それこそ金貨千枚ほどもする剣があるって」

「そういうのは買うつもりありません。持ち合わせは金貨が十枚ぐらいです。それで充分に上等な物が買えるはずです。あと、換金したい指輪が三つほどあります」

「指輪? 見せて」


 カチェはモーンケから奪った指輪を取り出して母親に渡した。

 母親は熱心に調べる。


「あら……これはなかなか凄いわ。かなり手の込んだものよ。台座は金だし、宝石も大きくて濁りがない」

「キップ・ヤップという鉱人族の作った一級品だって」

「お母さんの知り合いに、こういう装飾品を専門にした商人がいるからこのあと売りに行きましょう。いい値段になるわ」


 食事を終え、預けていた馬を受け取ってから母親と買い物に行く。

 カチェは心が浮き立つ。母親とこうして街を行く日がこようとは思いもしなかった。

 やはり寄ってみて正解だった。

 これを逃していたら、母は娘が生きていたことにも気づかないままだったかもしれない。


 知り合いの商人の店は、すぐ近くにあった。

 そして、指輪の換金は円滑に進む。

 中年の宝石商は良い物だからぜひ売ってほしいと穏やかな笑みを浮かべて頼んできた。

 面倒な交渉など必要なかった。相手の言い値のまま、金貨十九枚で承諾した。


 カチェは旅で金銭感覚も身についたから、それがどれだけの大金かは理解できる。

 装飾品に強い興味はないので、こんな高値になったのが不思議なほどだった。

 モーンケの趣味が良かったということなのだろうか……。

 換金を終え、そのまま急いで表通りにある有名な武器屋に向かった。

 馬で親子、二人乗りである。


 ティファニアが方向を指し示してくれるから迷うことも無い。

 帝都は今日も、信じられないほど人がいる。

 大通りは馬や馬車が行き交い、行商人が物を売っていた。

 労務者、大工、石工などが集団で歩いて、どこかの現場に向かっている。

 

 それなりに進んだところで街の雰囲気が変わってきた。

 武人の姿がやけに目につく。

 武器や防具を扱う店、馬具の専門店などが軒を連ねていた。

 やがて四ツ路の一角に、三階建ての大きく立派な店がある。

 母はそこが目的地だと告げた。


「ここは武器に疎い者でも知っているような一流店よ」

「看板に屋号が書いてあるわ。鉄の獅子」


 重厚な石造りの店で、開け放たれている扉は鉄で作られていた。

 屈強な門番が二人。

 中には数えきれないほどの武器がある。


 まず店の手前では刀剣類が並べられている。

 数百の刃が鋼を輝かせながら、静かに持ち主を待っていた。

 品物は壁に掛けられて自由に触れるものと、店の使用人に頼まないと手に取れない棚の中に飾られているものに別れていた。


 当然、奥に飾られている物の方が高かった。

 壁に掛かっている物は、安物とまでは言えないものの数打ちものと呼ばれる大量生産品らしい。

 時間が惜しいのでカチェは刀の棚を、ざっと見まわして、あとは直感に従う。

 長さと反り具合が良さそうな一振りを棚に見つけた。


「店の御方。あの刀を見せてください」

「あれでやすか……」


 カチェが頼んだのは三十歳ぐらいの、傭兵でもやっていたことがありそうな強面の使用人だった。

 刀を手に取ると刃長、柄の長さ、均衡バランスなど、どれをとっても具合がよかった。

 もう一度、棚を見まわすが、他にピンと来るものは無い。


「こちら拵えも不備なく揃っていますね」

「もちろんでさ。一流の職人に仕事をさせていやす。それにしても、その刀。わりあい新しいものですが、ものはしっかりしていやす。銘は星影って言うんでさ。刃紋に、よく見ると星のような輝きがございますでしょう」

「いくらですか」

「なにしろ物は確かなんでやして。金貨十枚に銀貨三十枚となりやす。申し訳ありませんが値引きは一切ご遠慮してくだせえ」

「分かりました。買います。あとは小刀と棒手裏剣が欲しいのだけれど」


 店員は棒手裏剣と聞いて露骨に顔を歪めた。

 それから探るように聞く。


「ありやすけれど……お嬢さん、投げ道具なんて扱うようには見えませんぜ。どうするんでやすか」

「……余計なことは聞かなくてもいいでしょう。必要だから買うと言っているのです」

「おっと失礼。暗奇術の方とは思いもよりませんで」


 強面の店員は十数種類の棒手裏剣を持ってきた。

 これまで使っていたものに一番近い、丸棒の形状を選んで五本ほど購入する。

 小刀にも金を惜しまなかった。

 金貨五枚を支払う。

 室内など狭い場所では刀よりも重宝する武器で、良いものを使いたかった。


 防具、鎧の類を買うのは止めた。

 アベルと合流してからでも遅くはない。それまでは身軽でいたかった。

 調度、隣の店が旅に使う衣服や道具を商っている店なので、そこに入って麻で作られた丈夫な服を買う。

 それから雨避けの外套、革の帽子と揃えた。

 母ティファニアは酷く嫌そうな顔をしている。


「野暮ったい服ねぇ。真珠が襤褸を纏っているわ」

「そう? わたくしは動きやすい服の方が好きです」


 母親は哀れな者を見たという表情をした。

 雑嚢も買って、衣類などを中に入れる。

 青銅で作られた水筒と器を買うと、もうこれで準備は整った。

 店を出て、母に言う。


「準備が整いました。母上を家まで送りますね」

「ここでいいわ。急ぐのでしょう」

「……」

「十年ぶりなのに、もうお別れね。残念だわ」

「……ごめんなさい」

「謝らなくてもいいのよ。謝るのは、わたしの方。結局、人生の為に自分自身を賭けて、男のものになって……、それでも上手くいかなかったから娘を置いて逃げたのが、わたしよ。けれど人生を切り開くにはそれしかなかった。

 後悔していないし、ベルルにも感謝しているわ。もう一度会いたかったけれど、それも叶いそうにないわね」

「カチェは母を恨んでなどいません。こうして話が出来て満足しています」

「貴方は武家に嫁ぐのは止めた方がいい。わたし、お城が攻められて貴方まで行方不明になったと聞かされて、大きな失敗をしたと思ったわ」

「わたくし、生きていたのだから失敗ではないですよ」

「……どうか無事でいて。生きて帰ってきて」


 カチェは荷物を鞍に括り付けて、馬に跨った。


「それでは母上。いってきます。もしかしたら、二度と会えないかもしれないけれど……。でも、こうして会えてよかった」

「カチェ。来てくれて、ありがとう」


 ティファニアは自分とよく似た娘が、晴れ晴れとした一点の曇りもない笑顔で別れを告げたのを見て、大きく頷いた。

 娘は何か大きな目的のために、一心不乱になっているのだ。

 迷いのない人間は、それだけで美しいものだ。


「貴族が嫌になったら、いつでも逃げなさい。わたしが今度こそ貴方を守るわ」

「もう貴族は捨てているつもりです。それに、わたくしは守られるよりも守りたいのです」


 気の強そうな母であるのに、少し泣きそうな顔をしている。

 カチェは手を振って、母と別れた。

 あえて振り返りはしなかった。

 馬を進ませる。


 地図を買った。情報も仕入れた。

 首尾よく西方商友会の加盟店や組合の場所を聞き出してある。

 これで、だいぶ捗ることだろう。


 真っ直ぐに去って行く、その背中をティファニアは見守る。

 自分よりも美しく成長した娘は、あえて危険な道を選んでいた。

 だが、信じて進む者を止めることなどできない。

 行く先に幸福があることを一心に祈った。




 ~~~~~~~~




 カチェは東へ東へと迷うことなく進む。

 宿は必ず商人組合の加盟店を使った。

 割高でも、安全な方がいい。

 安宿など絶対に使う気は無かった。


 郊外に出ると交通渋滞は減り、ずいぶん馬を進ませ易くなった。

 アベルたちも、この付近まではそう速度は出せなかったはずだ。

 むしろ、安全を考えてゆっくり進んだかもしれない。

 ここから急げば距離を詰められると予想する。

 カチェは馬をバテさせない程度に速めた。


 大邸宅を飛び出して五日目。

 カチェは夕方前にルバックという街に着いた。

 どうやら染料の取り引きが盛んな街らしい。

 そこには西方商友会の組合が経営している宿があった。

 カチェは中に入って自分の所属登録票を見せる。

 五十がらみの女将は、カチェを素性の確かな商人と認めて愛想よく迎え入れてくれた。


「すみません。ここに何日か前、薬師の夫婦と獣人の旅人が来ませんでしたか」

「ああ。まだ若い夫婦の?」

「男はくすんだ金髪をしていて、獣人の方は灰色と黒が混ざった毛」

「そうそう。そんな人たち。昨日の早朝、出て行きましたよ」

「男の子は登録票を見せませんでしたか。名前はアゼル・レイル」


 女将は名簿を読むと、頷いた。

 確かにそういう名だと答えてくれた。

 カチェの胸は高鳴り、喜びに震えた。

 あと、一歩だ。


 一晩、宿に泊まらず移動すれば追いつける可能性が高い。

 カチェは急ぎ旅だから早朝、食事はとらずに出発すると女将に説明する。

 宿泊料金は前払いなので、文句を言われることはなかった。

 それから夕食を簡単に済ませ、明日の為のパンとチーズを購入しておく。

 少し興奮しながら寝台に寝転び、熟睡できないまま翌朝を迎えた。


 飛び起きて、馬具を馬に付け、夜が明けるか明けないかという頃合いに出発。

 草原氏族たちと共に戦っていたときのように、馬上で食事をする。

 舌を噛まないようにゆっくり食べる。

 今日は夕方まで進み、それらしき宿屋を調べて、それでもアベルがいなければ夜間移動をしようと決心した。


 あたりは穀物を栽培する畑が多くなった。

 それから果樹園などが点在していて、農家ばかりになる。

 こじんまりとした街に小貴族の館があって、道行く人は農民や運送業者が目立つ。

 カチェは、もしアベルたちがいたらと見逃さないように注意深く人々を見た。


 集中力が高まってくる。

 遥か遠方に姿を見たとしても、もしアベル本人ならば分かる気がする。

 五感を働かせ、目だけでなく、臭いなどにも敏感になってみた。


 確信がある。

 そう時間の経っていないうちに、アベルたちがここを通過していると。


 カチェの追跡は休みなく続く。

 馬は滴るように汗を掻いていた。

 しかし、主の精神に反応しているのか、少しも水を欲しがらない。

 カチェは勢いのまま先を急ぐ。


 カチェは清水生成で掌から水を発生させて、喉を潤す。

 下馬することなく夕方になった。

 頭上に「魔光」を発現させる。


 皇帝国の主幹道路なので舗装はしっかりと施されている。

 足元の危険はないはずだ。

 それでも夜間、移動している人などいなかった。


 よほど急いでいる人ぐらいしか夜には出歩かない。

 そうでなければ、後ろ暗いことがあって密かに行動しているような者ぐらいだろう。


 やがて宿場町に辿り着いた。

 並ぶ家々の木戸は閉ざされているが、飲食店と宿屋だけは明かりが灯っていた。

 さっそく期待に胸を弾ませながら飲食店に入ってみる。


 一軒目には居なかった。次、その次と素早く回った。

 カチェは再び見つけた店に入る。

 扉は開放されていて、肉を焼く煙が漂っていた。

 香ばしい、食欲をそそる匂い。

 薄暗い店内を見渡すと、カチェの心臓が激しく鼓動する。


 獣人がいて、くすんだ金髪の男性が背中を向けて座っていた。

 相対するように、可愛らしい女性が笑顔で何か話しをしている。

 癖のない、流れるような金髪をした少女。シャーレ・ミルだった。


 カチェはゆっくりと歩み寄り、アベルの後ろに立つ。

 その気配に気が付き、アベルが振り向いた。

 群青色の瞳。

 綺麗な色をした眼なのに、どこか陰が宿り、それでいて離れられない魅力を感じる。


 カチェは達成感に包まれた。

 とうとう追いついたのだ。

 気も狂いそうなほどの恋心を糧に逃がさないと決心して、実際に捉えてみせた。


 アベルは絶句し、驚愕の顔をしている。

 信じられないというような。

 だが、次第に困惑は薄らいでいき、ついで安心したような笑みが浮かぶ。


 アベルは自分をどう思っているのだろうとカチェは真剣に考える。

 やはり恋人でないのは確かだ。

 悔しいが……今は抑えるしかない。

 

 大切な任務のために行動しているアベルを惑わせるわけにもいかない。

 それに愛というものは告白してしまうと、そこで一つ形が定まってしまう。

 それが惜しくもあった。


 現にあるのは愛より友情でも、そこに希望を見出そう。

 お互いがお互いを必要とするような熱い友への想いは愛にも劣らないのだと自分を納得させる。

 その代わり、いつまでも一緒にいるのだ。

 いつまでも、いつまでも……。





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