第94話 祈りよりも遠く
イースは家から飛び出してきた荒くれたちを眺めた。
さすがに戦い慣れている。
早くも盾や剣を構えて、足並みを揃えようとしていた。
ざっと三十人はいる。
まだ増えそうだ。
ここからが正念場だ。
敵は強ければ強いほどよい。
数も多ければ多いほどよい。
死の瀬戸際、それも肌に触れそうなほど近づくほうが命を余すことなく理解できる。
そうでなければ探しているものが見つからない。
以前と違って魔術の援護はない。
かつては……アベルがいた。
アベルは魔力の動静を素早く読み取り、大気の動きなどから敵の魔術を正確に見抜いた。
いつでも対抗魔術を行使して、守ってくれたものだった。
まさに一心同体。
アベルと二人でなら誰にも負ける気がしなかった。
人生の過半を戦いに費やしてきたが、あれほど気心の合った従者は初めてだった。
誰も共に戦えなかったから、いつも一人だった。
それなのに引き剥がすようにして別れてしまった。
心から血が噴き出るとは、あのことだ。
現実に血こそ流れなかったが、胸の奥深くが音を立てて裂けたようだった。
なぜ、そんな苦しい道を選んだのか。
理屈ではなかった。
そうしないと……二人とも生ぬるい温かさの中で崩れていっただろう。
あいつの成長を邪魔するわけにはいかない。
アベルは己よりも強くなれるのだ。
そう信じている。
別れたのだから、独りでないと出来ないことをやらねばならない。
そうでなければアベルとの約束を破ることになる。
命を失う寸前にまで自らを追い込んで、見つけなければならない。
なにを?
なんだろうか……。
自分自身でも明確となっていない、強いて言えば、何かの果てのようなものだ。
イースは移動しながら全体を見回す。
部分に囚われてはいけない。
敵らの細かい挙動から、さらに群れとしての大きな流れまで、同時に全てを掌握する。
どちらかに集中していては対応が及ばず死地に至る。
大剣を振るうのに障害のない野外。
思う存分、力と技術を発揮できる場。
ここが最良だ。
手にするのは最果ての遺跡で手に入れた大剣、孤高なる聖心。
かつて所持したことのない業物だった。
切っ先から物打ちどころに至るまで、優美なまでの柔らかい曲線を描いている。
使えば使うほど素晴らしい斬れ味が、さらに増していく。
革の鎧や冑など紙のように引き裂いた。
迷わずイースは飛ぶように駆けて、接近戦に持ち込む。
傭兵たちが次々に手足を斬り飛ばされ、臓物を撒き散らして死んでいく。
剣戟にもならない。
傭兵の荒々しくも雑な攻撃をイースは舞うように避ける。
倒れた瀕死の男たちが呻く。
流れた大量の血で地面がぬかるむほど濡れていた。
赤黒い腸を踏んづけて足を滑らせた男が転んで悲鳴を上げる。
「
そんな指示が闇夜に響く。
イースは敵の手段を察知。
まだ逃げる段階ではない。
あくまで声の方に突き進む。
今こそ、もっと危険な戦いに飛び込む時だ。
大剣を振るう瞬間。
一振り一振りは常に新しく。
それまでの積み重ねでありながら、全く新しい未知の攻撃になるべく、古い感覚を捨て去る。
数万回と剣を振るった末に、一瞬だけ、黄金よりも美しく輝くような境地が開ける。
新世界が開けた如くの新たに生まれた技。
そして、惜しげもなく生み出した技は、また捨てる。
弩を構えた男がいる。
まるで当たらない角度を取っていた。
なんの脅威にもならない。
慌てて撃った矢は闇夜に消えていった。
何か喚きつつ再装填に取り掛かるが、その隙を見逃すはずもない。
イースは駆け寄り、一薙ぎで弩兵の頭を捉える。
頭蓋骨は砕けずに真っ二つになった。
新たな脅威。
イースは魔力の気配を感じ取る。
新たに家屋から走り出てきた男が二人。
魔光を頭上に出現させていた。
青白い光が、あたりを照らす。
二人とも急激に魔力を高めていた。
間違いなく魔法を使って来る。
イースは足元から拳ほどある石を掴んで、渾身の力で魔法使いに向かって投擲。
鋭い音を立てて石は、魔光を発現させている男の腹部に命中した。
鎧を着ていなかったらしく、肉の潰れる湿った鈍い音がした。
そのまま前屈みに崩れ落ちた。
魔光が、掻き消えた。
隣の男が炎の塊を幾つも出現させる。
イースは姿勢を限界まで低くさせ、地を這うように移動。
むしろ傭兵の群れに近づいた。
炎の塊が放射される。
爆発。衝撃。
熱風が荒れ狂う。
飛来した礫が鎧にいくつも当たる。
だが、それだけ。
イースは立ち上がる。
体のどこにも異常はない。
相手は混乱していた。
怒声、罵声が無数に聞こえた。
「こんな近くで火魔法なんか使うなっ!」
「てめぇ殺す気か!」
そんな叫び。
飛び散った爆発物を体に浴びて、何人もの男が悶えていた。
どこからともなく矢が放たれ、魔法を使った男の胸に突き立つ。
ふらふらとよろけ、直ぐに泡を吹いて倒れた。
「助司祭が二人とも殺された?!」
「嘘だろぉ!」
慄き動揺した声。
再び松明を持った傭兵の顔面に矢が刺さる。
悲鳴、松明が地面に落ちて火の粉が飛び散った。
いよいよ恐怖が荒くれた男たちを支配する。
研ぎ澄まされた殺気を帯びたイースがさらに敵中に突撃。
もはや誰も止めるすべを持たなかった。
上段からの斬撃は、奇妙に軌道を歪めて変化する。
屈強の傭兵が、まるで剣を打ち合わせることすら出来ずに頭を砕かれ、腹を引き裂かれた。
数を頼んで囲もうとしても動きが素早く予期できない。
すでに三十人ほど殺され、さらに闇夜から矢まで飛んでくる。
「も、もう駄目だっ!」
「逃げろ! いったん逃げろ!」
硬いものが砕けた音がした。
逃げろと叫んだ男の頭を、野太い棍棒で叩き潰した者がいる。
巨漢。
イースはその姿を認めて、かつて主であったロペスを連想する。
獣人や亜人との混血なのか、色黒で、なおかつ体毛が異様に濃い。
防具を身につけていなかった。
袖の破れた、襤褸服を着ている。
顔面はケダモノよりも狂暴そのもの。
「てめぇら! 逃げやがったら許さねぇぞ!」
「お、おかしら! でもよ、あの女……強すぎる」
「俺が殺してやる。こらっ! そこの大剣の女! 俺と一騎打ちだ」
「一騎打ちも何も元から私一人だ。相手をしてやる。来い」
歯を剥き出しにした傭兵団の首領らしき男が、棍棒を頭上、最上段に掲げる。
大振りだが、一撃で鎧も砕くような大威力となる。
イースは構えを止めて、ごく自然に相対する。
静かに敵を見詰める。
体内から、強烈な魔力の起こりを感じる。
身体強化が得意なようだ。
極めて強靭な四肢をしていた。
防具を身に着けていないから体術、俊敏さに自信があると見た。
かつて共に旅をしたワルトを思い出す。
まったく賢い獣人だった。何も言わず、黙って学習をしていた。
ワルトが得意としていたのは意表を突く、変則的な体捌き。
相手の男は力だけでなく、そうした動きを仕掛けて来る。
イースにその確信があった。
先ほどまでの騒々しさが嘘のように静まり、無言のまま相対。
イースは、ゆったりとした動きから、突然、踏み込む。
大剣を突きだす。
巨漢の敵はその大剣を打ち落とそうと、大上段から棍棒を振り落した。
見切って、棍棒を空かす。
棍棒は地面を打った。
イースはさらに接近。
あと一歩で間合い。
巨漢は、その図体のデカさを感じさせない機敏な動きで横に飛ぶ。
驚異的なほど意外な身軽さ。
距離を取ってから反動で、ふたたび素早い不意打ちをしてくるに違いない。
敵の挙動。
全ては予期していた通りの動き。
イースは懐から棒手裏剣を抜いてあった。
下手投げ。
まさに跳ね返るような跳躍を仕掛けようとしていた巨漢の太腿に、深々と突き刺さった。
痛みで巨漢の足が乱れた。
イースは間髪入れずに駆け寄る。
体毛に覆われた男の獣じみた顔面。
はっきりと恐怖が現れていた。
驚愕で開かれた口。鋭い犬歯が見える。
イースの横薙ぎ。
掠った。
相手は反射神経だけで回避した。
それでも、切っ先が捉えた毛むくじゃらの右腕が千切れかけた。
皮一枚で繋がっていた腕が、ぶらぶらと揺れる。
最後の抵抗。
眼を血走らせた男が拳を握ってイースに飛び掛かる。
もう、既にイースは最上段に大剣を構え直していた。
振り抜かれる。
巨漢の男は脳天から下腹部まで、真っ二つ。
爆発のごとく、血と内臓が飛び散る。
「わああぁあぁあ!」
首領が殺されたことで傭兵団は統制を失う。
恐慌状態に陥った十五人ほどの男たちが走っていく。
イースはその背中を追うことはしなかった。
助け出された村人たちが状況に途惑い、どうすればよいのか分からないでいた。
ザッハとポレオが駆け寄ってくる。
「信じられん! 勝ったぞ!」
「すげぇな、あんた! おかげで嫁と息子が助かった!」
親子の顔には驚嘆と喜びが溢れていた。
対するイースの相貌には、何の感情も現れてはいなかった。
「……油断するな。村の中を隅々まで捜索しておけ。隠れている者がいるかもしれない」
忠告に従い、村の男たちが傭兵の死体から武器を奪い、組になって村に敵が残っていないか調べ出す。
イースは焚火を作り、その傍で休むことにした。
助けた村人の男たちは怒り狂っていた。
それもそのはずで奴隷として価値の低い年寄りは既に殺されていた。
隠れている敵がいないか探すために一軒一軒と、徹底的に村内を動き回る。
連れ去ったとしても故郷や家族が残っていると奴隷から逃れたくなってしまう。
だから人間狩りをしたあと、年老いた家族は目の前で殺し、家は焼き払うのである。
明け方。
前夜までの重たい雲は薄れていた。
雲の合間から、黎明の空に星が見える。
小鳥が鳴き始めた。
やがて村人は一人の男を見つけ出した。
捕らえて、村の広場に連れてきた。
立派な服を着ている。
白を基調にした、貫頭衣。
赤い染め模様が二本、肩から裾まで走っている。
光神教団の祭服だった。
頭には法冠まで被っていた。
宝石の嵌った金の首飾り。腕輪も黄金だった。
「止めろ! 私を解放しろ。せ、聖職者を殺す者は地獄に落ちるぞ! 救われずに、永遠に苦しむのだ!」
見苦しく叫んでいた。
年齢は四十歳ほどだろうか。
髯は剃り落としてあって、わりと身綺麗にしてある。
殺した傭兵たちに比べれば、遥かに知的に見えた。
「いいか。聖司祭である私を殺せば、呪いが掛かるぞ。光神様の呪いだ!」
「……」
「嘘だと思うか!? 本当だ……」
ザッハやポレオ、村人たちは顔を見合わせる。
呪いの類は、真実と信じられていた。
魔素や魔力が満ちた世の中。
奇怪な魔法を操る魔術師や司祭が、至るところにいた。
光神教団の教義には、司祭を殺した者には永遠の呪いが掛かる、というものがある。
有名な話しで、信者ではなくとも多くの者が知っていた。
はったりだと思う反面、もしかしたらという恐怖も湧く。
ザッハは呼びかけた。
「こうしていても仕方ねぇ。こんな外道を生かしておく訳にはいかない。クジ引きで、こいつを殺す役を決めようか。気分は良くないが……」
「愚かなことは止めよっ! わ、私を殺すな! 永遠に救われない地獄に落ちるぞ。生きている間も、絶え間ない苦痛に襲われる。なんの得にもならないのだ! だいたい我々は村人を殺していない。やったのは傭兵どもだ。憎む相手を間違えるな」
イースは一つの単語に興味を覚える。
立ち上がり、聖司祭を囲む村人たちに近ずく。
「どいてくれ。その司祭と話がしたい」
村人たちは血相を変えてイースを通した。
怯えて顔面から汗を滴らせた司祭がイースを見た。
「今、救いと言ったな。私は救いという概念に興味がある。私の問いに答えられるか」
「い、言ってみろ。この聖司祭と聖典は正しく物事を導く」
聖司祭の顔に意欲が現れた。
死を回避する機会を見出した、という風情だった。
「私の……よく知る者は救いを求めていた。しかし、私にはその者は充分に自立し、力を持っている確固たる人間に見えた。いったい何を求めているのか分からなかった」
「その者こそ神を求めていたのだ! 間違いない。脆弱な人間は偉大な神に救われることによって安寧を得る。我々が人々を聖荘園に集めているのも、そのため。人は正しき場に集まることによって、正しい行いが出来る。迷いに満ちた者に必要なのは、まず迷いの生まれない場と指導者だ。聖荘園とは、まさにそうしたところである」
イースはアベルの言動を思い出す。
頻繁にではないが……たまに言っていた。
心底から神が嫌いだと。
だから神殿には祈りに行かなかったし、神像を拝んでいるところは一度も見たことが無い。
それではアベルは、どう救われるのだ……。
「それは違う。その者は神を嫌っていた。神を、憎んでいた」
「神を憎むだと? あ、哀れな。そして、罪深い。最悪だ。神を憎みなどするから混迷し、絶望に囚われる。救いを求めて、しかし報われぬ」
「神を信じないと救われないのか?」
「そうだ!」
「それは話が逆さまではないか? 神とはどんな生命でも救うから神なのではないか。罪深くとも助けるから超越していると言えるのではないか。なぜ、選別する」
「神とは契約しなければならない。神は賢く正しいものしか救わぬ。神を信じる者だけが死後に永遠の快楽を得られるのだ」
「解せないな。神が世界を創造した完全なるものならば、そもそも悪人は存在させる必要がない」
「それは違う。人は性善なのだ。原因は様々だが、誘惑に負けて悪人となるのだ。神が悪いわけではない。負けた人が悪い」
「性善とはなんだ? 殺さない事。奪わない事などか」
「そ、そのとおりだ」
「殺さず、奪わない生物など、どこにいる? 虫も獅子も人も、他の命を食べることで生きている。それは自然ではないか」
「人と動物とは明確に違う。神の教えを理解できる人間だけが神を信じることができる。よって人間以外の下等な畜生は神とは契約できない。契約できない生き物はそのように創られたのだ。人として生まれながら神を認めず、あまつさえ憎んで疑うとは畜生以下の行いぞ」
「しかし神と契約したというお前らは悪を為している。奪うというのは、まさにお前がやっている。自活している村人を奴隷にして荘園で働かせている。これは酷い略奪だ」
「ち、違う! それは違うのだ! 聖荘園は人々を正しい生活に導く土地だ。奴隷にしているわけではない。導きを与えるのは我らの義務。尊い行いだ」
「仮にそうだとしても人を殺して、民を攫って来る傭兵と取り引きをしている」
「それは方便のため。仕方がない。武力では奴らに敵わぬ」
「例え敵わなくとも抵抗するべきだろう。正しくないものと取り引きするのは、お前らでいうところの悪業や堕落であろう」
聖司祭の眼が泳ぐ。
必至に考えを搾り出そうとしていた。
「……我々には役目がある。人々を導き救う、聖職だ。聖典にも、そう記されている。よって、まずは私の言うことを信じるのだ」
「お前の言っていることは矛盾している。正しく生きると、死後に永遠の快楽とやらを神に与えられるのだろう。それならば、なぜ、殺されるとしても戦わない。死んで本望ではないか」
「お前は、いまだ知恵を持たず、教えを知らないから意味のない疑問が湧くのだ。それは妄想と同義である。人も世界も、神が御創りになったのだ。そうでなければ、どうして我々がここにあろうか。
この現実を前にして、神を否定するのは現実を否定するのと同じこと。
そんな根本において疑義を持ち、そこから逃れられない者は……救えぬぞ! 神の代弁者である司祭の言葉を信じよ!」
「……」
イースは考える。
いつか、アベルと再会したならば、あいつの持っていたらしい懊悩や欲求に答えてやりたい。
あいつの満足のために、体を与えようとしたが……受け取ってくれなかった。
では、何ならば満ち足りるのだろうか。
神でもないはずだ……。
だが、一つの結論は出た。
この聖司祭の言う、薄っぺらな教義などでは全く足りない。
「困ったな。いつかあいつと再会したら、救いというものがなんであるのか教えてやりたいのだが……。お前たちの教えでは無理だな」
聖司祭は激しく首を振る。
額から汗が垂れた。
「ええい! 無知な女め!
命も自然も神が御創りになったのだ。中でも別して神に仕えるよう運命づけられた司祭を、殺すなどと……。呪われろ。そうだ! 呪われるがいい!」
「お前、よっぽど死ぬのが怖いらしいな。それならどこか山奥の祠にでも隠居すればよいものを。どうして傭兵が駆り集めた人間を買い取りにきた」
「それは教祖様のご命令だ。聖荘園に一人でも多くの迷い子を導けとの、尊いお考えだ」
「教祖の命令か。とはいえ金を悪党に渡すのは感心しないな。取り引きをするということは、相手を認めたことでもある」
「人を救うためだ。か、金など惜しんでいられるか」
「……言葉正しくとも、行いは正しくない。お前のような者を、たくさん見てきた。神を騙るものに私は醜さを感じる」
イースから氷のように冷たい殺気が放たれる。
光神教団の司祭は、歪んだ笑みを浮かべた。
「神を信じず、我らを疑うものよ。永遠の罰を与えられるといい。ここで無慈悲に私を殺して、呪われるがいい……! 永遠に苦しめ!」
「手の込んだ擬態だ。ある種の蛾が、木の葉にそっくりな姿をしているように、お前らの教えは悪を隠した擬態である」
顔に汗を浮かべ、血走った眼でイースを睨む司祭。
本気で、呪いがあると考えているらしい。
呪文のようなものを呟き始めた。
成り行きを見ていたザッハが司祭を殴りつけた。
衝撃で頭に被っていた美麗な法冠が落ちる。
イースは大剣を振り上げた。
それをザッハが制した。
「ここからは俺の仕事だ。恩人のあんたに、これ以上の世話は掛けられねぇ」
「どうするつもりだ」
「俺がやる。こいつを生かしたら、光神教団にここであったことが知られる。完全に敵視されるだろうよ。答えなんか、もう出ている」
ザッハは喚き散らす聖司祭を背中から押さえつけて、首を小刀で掻き切った。
思い切りのいい、迷いのない一撃。
見事な手並みだった。
一瞬だけ慌てたように、もがいた司祭。もう、絶命していた。
ザッハは落ち着いて言う。
「鹿や雉を仕留めたときも、なるべく苦しまないように殺してやるのが礼儀だからな。苦しめば苦しむほど救われるって話しの光神教団とは逆だぜ」
「親父。呪いは?」
ポレオが心配そうに聞いてくる。
「いまのところは無いな。何も感じない」
「あ、あとから来なければいいけれど」
「ふん。何の理由で呪いの執行は遅れている? そんなものは、ないんだ。人を襲うやつ。攫われた者たちを買い取って過酷な労働をさせるやつ。みんな毒虫みたいなもんだろう。毒虫を殺すのに理由なんか一つだ。危険だから、潰すだけ。余計なことは考えなくてもいいのさ」
戦いは終わった。
村人たちはイースやザッハに感謝と賛辞を惜しまなかった。
何しろ、大きな危険を顧みずに戦ったのだから。
だが、イースは終始表情を変えない。
離れたところに置き去りにした雑嚢を拾い、もはや旅を再開しようとする。
ザッハが慌てて引き止めた。
「待ってくれ。アークさん。礼をしたい! このまま別れるなど非礼なことだ」
「気遣い無用。私には既に充分な収穫があった。やはり、あいつの求めているものは神ではない……」
「探しているものとやら、見つかったのか」
「欠片はな」
「と、とにかく朝飯ぐらいは御馳走させてくれ」
「……大げさな宴は遠慮する」
「ああ。分かった。直ぐ済むようなものにしよう」
イースはザッハとポレオの家に案内された。
猟師の家だけあって壁には熊、鹿、狐、貂などの毛皮が飾られていた。
中でも黒貂の毛皮などは質感が良いので、高値で売り買いされるものだ。
鹿角などから、細工物も作っているらしい。
なかなか精巧に削り込まれた根付などが棚に置いてあった。
そうしたものを見物していると、料理が出てきた。
助けたポレオの妻が作ってくれたものだ。
麦とチーズの粥。
羊肉の煮込み料理など……。
肉だけでなく、内臓の部位なども共に煮込まれたものだったが、臭みなどはない。
滋養の多い、体の温まる食べ物だった。
イースは黙って食事をする。
ポレオが戦いの興奮が冷めやらぬまま、あれこれとイースの経歴を知りたがったが、詳しい回答は得られない。
イースは不愛想だった。
受け答えは、極端に短い。
会話は弾むどころか沈んでいく。
やがてイースは料理を平らげた。
「上等な食事だった」
気まずそうに黙っているポレオの代わりにザッハが答える。
「受けた恩に比べれば、こんなことぐらい……。アークさん。これから、どうするんだい」
「東か北に行こうと思っている」
「ということはウルグスク地方か。あの付近こそ光神教団の勢力地がいくつもある。魔獣界にも近いから怪物も多いし、なにかと争いの絶えないところだぜ。それでも行くのか」
「探しているものが、ありそうなら」
探しているもの。
それは心だ。
ずっとずっと探している。
慈悲と残酷、善や悪すら超越した……。
言葉に変換することができない、自我と世界が隔たりなく結びついたような極地。
一瞬でいいから、見てみたい。
心から感じてみたい。
その瞬間に死んでしまっても、全てを肯定しながら消えることができる。
それなのに……あれからアベルのことばかり考えている。
険しい山を越え、荒野を歩み、暗闇に魔獣の息を濃厚に感じる夜。
いつもアベルが、そこにいるかのように、ほとんど実存に近い気配を持って思い出される。
幻というのとも違う。そんなもの見たことはない。
やがて大きな疑問が頭から離れなくなる。
アベルの欲していたものは、何だったのか。
時として自暴自棄なまでの戦い方をした。
それはハイワンド家に対する忠誠心からではなかった。
欲するものを手にしようとする足掻きのような……。
イースは鮮やかに思い出す。
アベルが持つ、あの危うさには異様な魅力があった。
強く強く魅かれて、いつしか己でも気づかないうちに激しく傾倒していた。
もし別れないまま皇帝国に戻り、アベルの奴隷にしてもらっていれば……どれほど楽しかったろうか。
自分で考える必要など何もない。
アベルが自分を粗末に扱うことなどあり得ないのだから。
何もかも全て、アベルの言うまま従えばいい。
そして何でもしてやろう。どんなことでも……。
肉体だって、あんな風に突然と渡さない方がアベルの好みだったのかもしれない。
自分の思いもよらない作法があったのかもしれない。
そこを弁えていれば、あるいは抱いてくれたのかもしれない。
後から、そのことに思い至った。
アベルと初めて会ったとき、まだほんの幼い子供だった。
人間族の六歳ぐらい。
可愛らしい男の子……そんな印象はすぐに破れた。
油断も隙も無い態度。
次々に魔法を行使して、地面に空けた穴から爆発物を噴出させる異様な魔術まで使ってみせた。
そして、あの群青色の眼。
何ものも信用していない……欲望が踊っているような瞳。
そうだ。
今だから分かる。
アベルは、あの年齢にして既に神を見限っていた。
矛盾しているようだが、救いを求めつつ、だが、救いを否定していた。
アベルのことが少しだけ理解できて、また分からなくなった……。
イースは大剣を背負い、雑嚢を持つ。
行ってしまうのかと、ザッハが聞いてきた。
「ああ」
「俺たち、下手したらここに住めないかもしれない。逃げた傭兵どもが、他の傭兵団を連れて来るかもしれねぇ」
「そうかもな」
「さっき皆と相談したのだが、王道国のガイアケロン王子が治める領地は安全らしい。それに移民を積極的に受け入れていると。もしかしたら村人全員でそこまで移動するかもしれないんだ」
「ガイアケロンは……信用できるかもしれない」
「できたらアークさんにも一緒に来てもらいたかったが……無理そうだな」
「目的が違う」
ザッハとポレオは、もう少し説得できないか考えていたが、無理だと悟った。
元は皇帝国の騎士だったというこの女のことは、何も知らないのだった。
探しているものがあるというのだが、それが何なのかも知りはしない。
「あんたの探しもの、見つかるように願っているよ」
「……ありがとう」
イースは家を出て、歩み始める。
村人たちが、もはや物言わぬ死体を一か所に集めていた。
誰も彼も自分が殺した相手だった。
振り返ることもなく、山道を進む。
進む先には何があるか。
行かねば、永遠に分からない。
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