第87話  消え去る男

 




 アベルの目が覚めた。

 夜明け直前といった感じがする。

 小鳥の鳴き声が聞こえた。

 時計が無くとも、だいたい感覚的にどういう時間なのか分かる。


 臨時の寝床としている居間の長椅子から起き上がる。

 ウォルターはそろそろ、しっかりした寝台を用意すると言っていたがアベルは断っていた。

 いずれにせよ秋が来るまでには出て行くだろう……。

 ここにいては安楽はあるだろうがイースに近づくことはできない。

 五年も十年もイースの方から訪ねて来るのを待つなどできはしなかった。


 いずこを目指して何をするのか、まるで決まっていない。

 当て所のない流浪の旅になるのだろうか。

 そんなことでイースと再会できるだろうか。

 考えたところで答えなどありはしない。


 アベルの悩みは他にもまだある。

 直近、ヨルグとの身を削るような稽古があった。

 死に瀕したヨルグの教えは途方もなく濃厚で、技術といい理論といい、学ぶべきものがあるのだが、そこには必ず狂気にも似た執着性が潜んでいた。


 ヨルグという男は、歪だ。

 生まれてきて、剣を振るうことしかやってこなかった人間。

 勝ち負けが全て。

 ヨルグは、どこでどうした者と戦い、どうやって勝ったかを克明に記憶していた。

 そういう男だからこそ、決してイースに負けたことを忘れられない。

 敗北を汚辱として心に刻み付け、いつか勝ってみせると執念を持ち続け……しかし、もうじき死ぬ。


 最近、ヨルグの体調はさらに悪化している。

 誰がどう見ても死期の迫っている人間。

 痩せた体躯。

 顔は青黒く、土気色。

 骨の周りに鍛え上げられた鉄のような筋肉が辛うじて残存している……、そんな有様だ。


 一日、一日……確実に衰えている。

 風船に小さな穴が空いていて、確実に萎んでいくところを見ている。

 そういう感じだった。




 アベルは起きた後、軽く運動をしておく。

 それから朝食の準備をアイラと一緒にした。

 少し遅れて目を覚ましたツァラが、アベルに挨拶をしてくる。


「おにいさま。おはようございます」

「はい。おはよう」

「朝ごはんは……」

「卵焼き。まるでワルトだな。食い物の事ばっかり」


 アベルがそう言うとツァラが恥ずかしそうにした。

 全員で食事をしてからアベルは表で来訪を待つ。

 しばらくした頃にヨルグとダンテが兵舎から歩いてきた。

 二人は一応、ハイワンド騎士団の所属ではあるものの、部隊に配置されていない。

 どうやらバース公爵の命令を直接受けて動く、独立隊のようなことを長く続けていたようだ。

 今はヨルグが病気なので休養願いを出しているのだが……。


 ヨルグは一歩一歩、力を振り絞るように歩んできた。

 だんだん近づいてくる顔。

 黄疸で濁った眼が不気味にギラついていた。

 猛禽類のそれを思わせるような顔つきになっている。


 アベルは思わず溜め息を吐いた。

 地獄の亡者が来たみたいだ。

 稽古といっても命を燃やすような遣り取りである。

 体を鍛えてあるアベルでも、へとへとに疲労してしまう。

 そして肉体以上に疲れるのが心だった。


 ヨルグは到着するなり、さっそく木刀を手にする。

 震える手で木刀を持ち気合を入れると、僅かな時間だけ体を自由に動かせるようになる。

 衰えた体を魔力で強引に操っているという感じ。


「今日は月心剣を教えてやる」

「はい」

「月心というのは水面に映った月に見惚れた心のこと。実物よりも美しい虚像へ敵を注目させる意と知れ」

「誘導……」

「そうだ。一見、隙のねぇような達人がいたとする。そいつは何年も何十年も剣を磨いてきた。確かに隙なんかありゃしねぇんだ。だったら揺さぶって、騙して、構えを崩すしかない。月心剣に謀り込めれば勝ったも同然だ」


 ヨルグは木刀を上段に掲げ、巧みな足捌きで近寄ってきた。

 摺り足だから挙動は少ない。つまり動きが予測し難い。

 ほとんど一直線に接近してくる。

 ヨルグと身長はだいたい同じぐらいなのだが、そうやって近づいてこられると、やたら大きく見える。

 と、アベルがそう感じていたら構えを変化させた。


 極めて鋭い動きで中段をとり、木刀を体の前に押し出す。

 体は直線の動きから、フワリフワリと向かって左側へ移動したと思っていたら、今度は右側から鋭く距離を詰めてきた。

 視線は左から今度は右に転じなくてはならない。

 ところが中段に構えていたはずの木刀は左側から同時に振るわれてきた。

 逆を突かれた攻撃。

 アベルは咄嗟に反応したが、不利な体勢で出遅れた防御など払われてしまった。

 呆気なく腕に木刀を当てられる。


――くそっ……!

  一本とられたか……。


 悔しがっても後の祭りだった。

 このたった一度の立ち合いで疲労しきっているヨルグ。

 肩で荒く息をしていた。


「全盛期の、俺なら……、もっと冴えた攻撃だった。腕どころじゃない、お前の、首筋に、突きをくれてやれた」

「……いや。充分に僕の負けです」

「いいか。視線を支配しろ。剣を打ち合う前に勝負は決まっている。どんな怪力の男でも視線が鍛えられていない者など取るに足らん。相手の目を奪うんだ」

「妙なふわふわした動きに……騙された」

「生き物は俺が知る限りどんな下等な生物でも、対象を眼で捉えるとまず眼球が追随する。目だけで追えなくなった後に首や体が動く。だから視線というのは眼球、それから体という順番だ。この動きを利用しろ。いよいよ体が眼球に同期して動いたときに、裏をかけ。重要なのは剣の構えだ。切っ先を相手の視線に合わせて、防御的なものと偽装しつつ動かすのだ。すべて計算しろ。予期しろ。敵に想定させるな。どんなときでも予測を越えた行動をするのだ」

「……理屈は分かりましたが、その狙い通りに動くのは難しいです」

「見ているから体を動かしてみせろ」


 消耗の激しいヨルグはふらふらと離れて、倒れるように切り株に腰を下ろした。

 ヨルグの鍛錬に望む態度は、まさに命懸けだった。

 残った命を燃え尽きろとばかりに減らしている。


 アベルは習ったばかりの月心剣の動きを真似て体を動かす。

 それなりに似ていると思っているのだが大声でヨルグは怒鳴ってきた。

 僅かに足りないところを見つけ出したらしい。


「何をしてやがる! いつ、俺がそんな動きをした! 見逃してやがったのか!」


 それからアベルではなくイースへの罵りを始めた。

 イースを貶めるとアベルが本気で怒ることに目を付けている。

 そうしてイースは売女だったとか、誰でも犯せる小娘だったとか、そんなくだらないことを言ってアベルを激しく苛つかせていた。

 あまりにも迫真の口調で罵るものだから、そういう手なのだと分かっていても本気でヨルグを殴って黙らせたくなってしまった。

 その心の動きを読み取ったのだろうか。ヨルグはますます煽る。


「アベル! ちょっといい眼つきになってきやがったな。イースがそんなに大切か? だが、あいつは自分より弱い者など認めはしないだろう。お前みたいにクソ弱い奴なんか相手にもしないさ」

「……うるせぇな。あんたにイース様の何が分かるんだよ。まともに父親もできなかったくせに」

「分かるさ。十五年間ぐらいは一緒にいたからな。あいつは冷徹な人間だ。そうだ。真に弱肉強食を理解している。人を助けたり救ったりすることに価値など置いてはいない」

「そんなことはない! いつだってイース様は俺を助けてくれたんだ!」

「お前のイースへの認識は、どうしたわけか酷く偏っているぞ……。お前はハイワンド家に連なる者で便利な従者だから面倒をみていただけさ。それ以上ではない。愛情なんかあれば、お前を捨てはしない。目を覚ませよ」

「違う」

「あいつは弱者を無価値と断じている。弱い者は、ただただ、くたばっていくのが相応だと信じているさ。お前も弱いままなら、いつか再会してもゴミと見なされるだけだ」

「……お前、黙れよ」

「おお……可哀そうにな。俺と同じだ。それほど届きたいと願っているのに、次に出会ったときは巨大な差があるだろうよ。イースは一目でそれを見抜き、お前を下等なものと認め、哀れむさ。とてもとても傍になど置かないだろう。尻尾を振ってすがりつくお前など目障りで邪魔なだけだからな」


 ヨルグの顔面。これ以上ない嘲笑を浮かべている。

 死にかけの痩せた、土気色の肌をした男の悪意や憎悪が浸み込んでくる。

 実のところヨルグの指摘にはアベルの心を切り裂くような鋭さがあった。

 嫌でも疑念が噴き出す。

 イースとの再会がなったとしても自分が何者かになっていければ……、並び立てないのではないか……?


 どこか否定しきれないから、さらに苛立ち以上のものが生まれる。

 頭の中でプツンと糸が切れる寸前。

 汚泥よりもドス黒い想い。

 殺意。

 頭痛がするほどの怒り。

 容姿は似ても似つかないのに、ヨルグと実父が重なっていった。


――こいつ……こいつも、糞親だよな。

  生きている価値なんかありゃしねぇ。

  子供を追い詰めて、あげく反撃され、殺されかけて憎しみを持つような。

  もう、今から本当に殺すか。

  イースへの侮辱なんか聞くに堪えない。

  こいつもただでは殺されないだろうが魔法も併用して俺が本気でいけば……。


 憎悪で全身が熱くなってくる。

 いくら病んでいるとはいえ達人のヨルグを襲うのは半端なく危険だ。

 理性でそれが分かっていても、どうやって攻撃するか具体的になっていく。

 まず、氷槍をぶちこむ。

 いかに死にかけとはいえヨルグは回避するだろう。

 だが、何発も撃てば別だ。奴は疲労する。

 そこで一気に二刀流で追い込めば……。

 ヨルグの頭蓋骨を無骨で斬り割る映像が鮮明に浮かび上がる。


 アベルが地面に置いた無骨に視線を向けたときだった。

 いつもなら微動だにしないはずのダンテ。だが、動いた。

 カチャリと音がして、見れば大剣の柄に手を掛けていた。

 

 アベルの背筋が凍る。

 ぞっとした。

 黙って攻撃されていたら窮地に陥るのはこちらだ。

 僅かな挙動で異常を察知したのだろうか。

 ヨルグの破綻者ぶりを目にしながら、それでも奴を守るつもりなのだろうか……。

 その意図を理解できない間にもヨルグの語りは続く。


「お前はイースを過大評価しているらしい。あいつは優れた戦士だが、それ以上ではない。俺もそうだが智者や将の器じゃない。広く世の中を助ける思想なんざ、これっぽっちもありはしない。ただの戦いと強さに憑りつかれただけのものだ」

「違う」

「違わないさ。あいつが戦闘を拒否したことがあるか。どんなに不利でも常に先頭で戦って、他者を殺し、状況を支配しただろう。騎士を続けていた理由は合法的に戦闘を楽しむためだ」

「……」

「戦いを愛してなければ出来やしない人生だ。そういう者に追いつこうというのなら自分もケダモノになれ。俺はそうしたつもりだっだが……とうとう追い付かないまま、もうじき、くたばる。アベル。お前には俺の夢幻流の後継者としてイースに追いついてもらうぞ。そして、お前が、あいつを屈服させれば……勝利だ。ついに、俺の、勝ち……」


 ヨルグは最終勝利の甘美な夢を思い描き、微笑みを浮かべた。

 やっぱりこいつは狂人だとアベルは思う。


――こいつは俺を自分と同一化したいんだ。

  技を伝え、それと同時にイースへの憎しみの塊を植え付ける。

  それで、もう一人の自分ができると……そう考えている。

  こんなやつ、癌に体を蝕まれながら消化できない想いを抱えて

  墓穴に落ちればいい。

  そうだ……そうだ。

  わざわざ殺してやる価値もない……。



 アベルは深呼吸をしてヨルグへの殺意を無理やり、押さえつける。

 そして、稽古を再開した。

 そんな日々が、さらに十数日も続くことになった……。

 ところが、まったく狂人としか思えないような面があるヨルグという男なのだが、ふとした瞬間、人間的な感情をのぞかせることもあった。


「もう少し時間があればな……。それなら本当に開祖以来千年の研鑽がある夢幻流の奥義まで教え込めた。俺でも会得しきれなかった技の数々を、お前なら覚えられただろうによ……」


 そう語るヨルグの顔には普段の醜さは無くて、まるで孫に語り掛ける祖父の顔付きだった。

 そのことに気づいたアベルは酷く奇妙な感覚になる。

 考えて見れば、肉体的には祖父と孫と言っていいほどの差があった。

 憎むべきであるのか憐れむべきであるのか、アベルは全くヨルグという男に対して判断がつかない。


 だが、そんな瞬間はもちろん長続きなどせずにヨルグはすぐに疑心暗鬼と怨念妄想の塊と化した。

 イースを罵り、アベルを嘲り、殺意すら滾るような鍛錬をさせる。


 アベルは稽古が終わった午後に鬱憤を晴らすために馬を駆けさせることがよくあった。

 そうでもしなければ、やりきれないというものだった。

 貴族区には大小の館がある他、人の手があまり入っていない森林や野原もある。

 そういう地域は厳密には皇帝領なのだが、事実上は貴族たちの憩いの場になっていた。

 アベルはそうした野原を一人騎行したり、川で泳いだりして鬱気を払った。

 季節はそろそろ初夏なので冷たい水が心地よい。


 そんなことを続けていると、ハイワンド家の執事ケイファードの下に他家から問い合わせが相次ぐようになった。

 最近、ハイワンドのお館に出入りしている、くすんだ金髪の貴公子はどなたかという内容であった。

 いわく、連日に渡って憂いを帯びた表情の少年が立派な馬を奔らせ、ときに川で泳ぐなどしている様子。

 通り過ぎた婦女子が何事かと大いに気にしている。少年の秀麗な容姿や、ただならぬ雰囲気に心を惑わされている令嬢もいるので事情を聞かせてほしいというものであった。


 一件二件の問い合わせならケイファードが対応したのであるが、やがて十件を超え、ついに恋文らしきものまで届けられるようになった。

 ここに至ってケイファードは対策を迫られる。

 とはいえ処理が難しい件でもあるので、近くにいたカチェに意見を求めると即座に恋文の差し込まれた花束は暖炉に放り込まれて火を付けられた。

 あまりにも素早い処理であった。


 ケイファードは盛大に燃える花や手紙を見詰めるしかない。

 中には子爵家の令嬢から届けられたものまであったというのに……。

 頬が痙攣した。


「ケイファード! アベルには、わたくしから言いつけておきます。出かける時には、わたくしを連れなさいと」

「そ、そうなさいますと状況はよくなりますでしょうか」

「少なくとも恋文は届きませんでしょう。女性連れとなれば妻帯者か婚約者と判断します」

「しかし、カチェ様が外を出歩くのは……。それにカチェ様は婚約者ではございませんし、その場しのぎではないかと」

「他に方法があるというの?!」


 ケイファードはカチェのあまりに険しい剣幕に圧されて、渋々ながら頷かずにはいられなかった。

 カチェは下唇を噛む。

 やはりアベルは放っておけないという思いを強くする。

 勝手にしておくと、どんどん別の方向に行ってしまう。

 自分から離れて行ってしまう……。

 そうはさせるものか。

 人知れずカチェの瞳には激しい意志が輝いていく。


 次の日、アベルが午前の稽古を終えて武帝流に行こうか、それとも馬を駆けさせようか考えているとカチェがやってきた。

 黙って見てくる。

 それからアベルの行く先に付いてくるのだった。


「……カチェ様。なんですか。稽古をしたいのかな」

「貴方が、どこにいくのかと思いまして」

「いや。どこってわけでもなく、ぶらっと」

「楽しそうね。わたくしも行くわ」

「……ええと。カチェ様はあまりお屋敷の外に出るなと言われているはずで、それはマズいかなと」

「いいから! 言うことを聞きなさいっ」

「……怖い」

「えっ? 何か言いましたか!」

「ごめんなさい」


 アベルは黙って赤毛の愛馬に鞍を乗せて、準備を済ませる。

 カチェは素早く支度をして、すでに騎乗していた。

 広大な庭を横切り、開門させて二人で表に出る。


 やや駆け足ぎみに馬を操り、アベルは最近よく行く場所に向かう。

 まだ、誰の領地でもない、強いて言えば皇帝直轄の野原を駆け、小川に到達する。

 途中、道路では無数の貴族たちと擦れ違った。

 だが、野原では人影もまばらだ。

 定期的に草地は刈り取られているらしく、騎行するには不便がなかった。


 アベルは上半身裸になり、小川に飛び込むと水練を始めた。

 カチェは自分もやりたくなったが他の貴族らしき人物が遠くにいるのでやめておく。

 二人きりならアベルと一緒に泳いでいただろう。


 ひとしきり泳ぎを終えたアベルが川面から上がってきた。

 鍛えられ、均整の取れた肉体に水が滴っている。

 少年と青年の狭間にある体は柔らかであり、それでいて鋼のように強靭な印象もあった。

 見詰めていたカチェは悩まし気に甘い吐息を出した。

 これは注目ぐらい惹くであろうと納得する。

 そういえば、ときどき行く武帝流でも、どことなくアベルに女性の訓練生が纏わりついている気がする。

 さらに思えば邸宅においてはアベルの傍を通り過ぎる女の小間使いが色目を使っていなかったか……。

 思い出せば思い出すだけ懸念が湧き出る。


 アベルが「熱温風」の魔法で体を乾かして、再び馬に乗る。

 帰路に着いた。

 カチェはこんな日々がどれぐらい続くのだろうかと心配になってくる。

 アベルにはどことなく、いまにも飛び立つ鳥の気配があった。

 それは単に女の勘であったが間違いないとカチェは確信している。

 直接、本人に聞き出すのも憚られた。

 そうだという答えが出て来るのが怖かった。


 イースを探しに行く。

 そう答えるに決まっているのだ……。

 確認するまでもない。


 そして、ケイファードの下には相変わらず他家から問い合わせの手紙が届き続けた。

 最近、御家より出入りされている若い男女はどなたであるのか。

 見るからに高貴な御姿、ハイワンド家にお仕えする貴族であるのか、それとも縁者であるのか。

 よろしげれば招待してお話しなど伺いたくあります。

 というような内容だった。


 帰還祝いまでカチェたちの生存は秘密にしておく方針なのだが、外に出掛けただけでこれほどの関心を惹くことにケイファードは頭が痛い。

 結局、二人に外出を控えるように長々と説得することになってしまった。





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 帰還祝いの宴を開くことになり、ここのところ物資の搬入が増えている。

 アベルはヨルグとの訓練がもうじき終わることを感じていた。

 もうヨルグは死に瀕していた。

 最近は水を飲むのがやっとで、もはや食事はできないという。

 アイラの薬も効果がなくなり歩くだけで激痛が走るらしい。

 朝方、兵舎を出て、えらく時間をかけて移動してくる。


 そんな有様なのに、命を搾り出して魔力を生み出し、木刀を手にして技を伝えてきた。

 アベルはただ、ひたすら、耐えて、我慢して、凌いだ。

 イースへの怨念を口にしたかと思えば、被害妄想なのか過去の手柄なのか判別のつかないヨルグの語りを聞く。

 アベルはまともに受け取りたくないのだが、あまりにも生々しい話しなので無視することなどできない……。


 その日、とうとう稽古が終わった後にヨルグは倒れた。

 手に砂を掴んで立ち上がろうとするが、どうしても起き上がることはできなかった。

 ヨルグが腐った臓腑の底を響かせるように苦悶の叫び声を上げる。

 それで状態が良くなるはずもなかった。

 もう限界が来たのだ。

 当然と言えば当然だ。

 末期癌で痩せ衰えた肉体を、無理やり動かしていた。

 むしろ、よく持ちこたえていたぐらいだった。


 アベルとダンテは、なにかうわ言を呟くヨルグを家に運ぶ。

 居間の長椅子に横たえた。

 柱の陰からツァラが悲しそうな顔で見ていた。


 急いでアイラが診察をするものの、首を振った。

 もはや薬も無意味。終わりだ。

 アベルはありったけの魔力を込めて治療魔術を施してやる。

 淡く白い輝きを腹に注ぎ込むが、ほとんど効果がないはずだった。


 重病を完全に癒す治療魔法はない。

 死人すら蘇らせる魔術があるのだという主張は、まことしやかに噂されているものの、そのことごとくが詐欺の手口だという。

 死んだら蘇らせるという約束をして金を受け取り、そして、何もしない。

 当人は死んでいるから文句も言えず……。

 死を回避する方法はこの世界にも無いのであった。

 生者必滅の理がヨルグに訪れていた。


「アベル……俺の弟子アベル……!」


 ヨルグが絞り出すように名を呼んだ。


「はい。ヨルグ様。アベルはここに」

「お、俺の両親は剣士だった。二人とも夢幻流の剣士……。ガキの頃から剣を叩き込まれて、俺は一端の使い手になった。チンピラを斬り殺しては悦に入っていた。誰も俺には敵わないと」

「……」

「だが、ダンテ様に出会って運命が変わった。まったく、手も足も出なかった……へへっ……。それでも、いつか超えられると信じて三年つきまとった。それで、ようやく従者にしてもらって……鍛錬を続けたが……とうとう……ちくしょう! 人に教えたことなんか無かったからよ……。お前にも上手く伝えられなかったかもな……。夢幻流の奥義書をお前にやる。俺の雑嚢の中に入っているから、読んで理解しろ。まぁ、読んだだけで使えるようになりゃしねえだろうが。助けにはなる」


 ヨルグという歪んだ師匠からの意外な親切。

 最後の贈物……。


「いいか。イースに再会したら、殺すつもりで勝負を挑めよ。俺の教えてやったこと、忘れるんじゃねえぞ。自分でさらに工夫しろ」

「イース様と殺し合いなんかするわけないだろう。お前じゃあるまいし」


 驚くべきことにヨルグは血走った眼を開き、力などほとんど残っていないはずなのにアベルの頬を張ってきた。

 バチンと遠慮ない打撃が与えられる。


「糞ガキめっ。甘ったれ! あいつが認めているのは強さだけなんだ。強さで凌駕するしか、あいつをものにする方法はないからな。でなければ一時の哀れみを頂戴できても最後はまた同じ……。突き放されるだけ……」


――そんなはずがない。

  そんなことにはならない。


 アベルはそう思おうとするが、完全には否定できなかった。

 もし、どうしようもなく堕落した姿で再会したら……イースはどうするだろう。

 五年も十年も会わないでいたら……、自分でも気が付かない内に弛んだ人間に堕ちているかも。

 そんな姿の自分をみたら無言のまま立ち去るかもしれない。

 ふと、アベルはそんな想像をしないわけにはいかなかった。


 ヨルグと意味の通じる会話ができたのは、それが最後だった。

 あとは意識が途切れ、譫妄状態になってしまった。

 アベルを誰かと勘違いしたり、ダンテの名を呼んだりする。

 義父は目の前にいるのに、それと認識できないようだ。


 夕方になってシャーレが来てくれたから疲れ切っていたアベルは看病の手伝い頼むことにした。

 シャーレは慣れた様子でヨルグの顔を拭いたりしてくれる。

 突然、ヨルグはシャーレの腕を掴み、叫ぶ。


「ソニア! 許してくれ……俺を許してくれ……」


 アベルは慌ててヨルグを止めようとしたが、シャーレは無言でそれを制した。

 看護を助けていたアイラが教えてくれる。


「もう死ぬ間際の幻覚を見ているんだよ。そっとしておけば、やがて落ち着くわ。今夜かしらね」

「……ソニア。俺は……俺は……、子が欲しかった。その子に後を継がせるつもりだった……。俺にできなかったことを……してもらいたかった……。それだけだった……許してくれぇ」


 錯乱して、苦しみ喘ぐヨルグをシャーレは黙って看病する。

 アベルは思わず唸ってしまった。

 あれは俺にはできないと……。


 きっとヨルグのことなんか見捨てて、離れたところで死ぬのを待っただけだろう。

 幼いツァラまで水を汲んできて、シャーレの手伝いをしている。

 隙を見てアベルは思わずシャーレに聞いてしまった。


「よく、あんな見ず知らずの気違いみたいな男を看取ってやれるな」

「……だって可哀想じゃない。ノラ犬じゃないのよ。人間なんだから。それにアベルに剣を教えていた人なんでしょう?」

「そうだけれどさ。腕なんか掴まれて、叫び声は上げているし……怖くないのか」


 シャーレは諦観を感じさせる微笑みを浮かべた。

 そして、言う。


「だって、もう死ぬのよ。許してあげましょう……」


 淡々とシャーレは看護を続けた。

 職業柄、こうしたことに慣れているのかもしれなかった。

 ダンテも効果のない治療魔術を無駄と分かりつつも掛けたりしている。

 彼は教えてくれた。ソニアというのは自分の娘で、つまりイースの母親のことだと。

 七回に及ぶ流産。度重なる産褥で、徐々に健康を失っていった娘のソニア。

 それでもヨルグの子を産むのを諦めなかったという。


 どうしてもヨルグとの子が授からなかったのに、行きずりの魔人氏族の男とはたった一夜で子が出来て、そうして生まれたのがイースだった……。

 ということは子が出来なかったのはヨルグのせいなのだろうか。

 それとも異種族ゆえの現象だったのだろうか。

 それはよく分からないが、どちらにしてもソニアの体が損なわれた大きな原因がヨルグということになる。


 意識が混濁したヨルグから泡のように溢れて来るのは、ソニアという女性に対する謝罪ばかりだった。

 イースを産んでから五年後にソニアは病死した。

 ヨルグがより陰惨な人間になったのは、それが原因だったようだ。


 ヨルグの煩悶は長引いた。

 鍛え抜かれた体は、あっさりとした死を最後まで拒んでいた。

 アベルとシャーレ、ダンテは夜通し看護を続け……明け方になった。


「ソニア……、俺はイースに負けた。死んでしまった俺の子たちとお前のためにもイースに負けるわけにはいかなかったんだ……。それなのに……」


 ヨルグは亡き妻の名を呟いて、何度も謝り、そうして死んだ。

 ぼろぼろの肉体から体温が失われていく。

 死んだら、怨念が渦巻いていた顔が意外と穏やかになっていた。

 表情というものを浮かべることの無いダンテだったが、義理息子の死体を凝視する顔には悲しみがあった。一筋の涙が流れている。


――こんな男にしては、ずいぶん上等な死に様だな。

  もっと悲惨な死に方のほうが、お似合いだったぜ……。


 アベルはそう思わずにはいられなかった。

 それから徹夜だったので少し寝る。

 起きるとウォルターが誰かを連れて来ていた。


「父上。何をしているのですか」

「葬儀の手配だ。ヨルグ殿はハイワンド騎士団の従者だからな。こういう場合は騎士団で弔うのだ。だから、弔事典長を務めている役職騎士を呼んできた」


 棺桶が運ばれてきた。

 着の身着のままのヨルグが納められる。

 ツァラやアイラが花を摘んできてくれた。

 それを棺桶に入れてやる。


 ヨルグが所持していた刀や、ほんの僅かな遺品があった。

 雑嚢の中からは死に際に言っていた奥義書とやらが出て来る。

 ダンテは、そうした遺品をアベルに託してきた。


「いいのですか? 道具なんかは僕がもらっても使いもしないし、保管しておくだけになりますけれど」

「そうしてくれ。我らに身寄りはない。持っていてもらえるだけで助かる」


 棺桶を馬車に乗せて、アベル、ダンテ、ウォルター、弔事典長の騎士と従者とで墓地に向かう。

 普通は葬儀があって知人友人などが集うのであるが、そうした者は誰もいないので即座に埋葬となったのだった。

 ダンテは密かな小声でアベルに語る。


「私とヨルグはバース様から直々に任務を授かっていた。亜人界で秘密の任務をしたこともある。悪いが、あまり詳しい説明はできないのだが、帝都でも人には言えない仕事をしてきた……」


 凄腕のダンテとヨルグは、きっと暗殺や敵地潜入のような、危険な任務をしてきたのだろうとアベルは想像する。

 ヨルグの身分は従者であり貴族ではないので貴族用の墓地には葬れなかった。

 そういった身分制度は厳格で、どうにもならない。


 貴族区を出て、平民区の外れに移動する。

 そこは貴族に仕えていながら身分は平民という人間が葬られる専用の墓地らしかった。

 墓守に案内されて、棺桶を運ぶ。

 急な事なので墓石もないし、墓穴も掘られていない。

 全員で素早く穴を掘っていく。


 誰も何も喋らない。

 急がないと日没になってしまう。

 アベルは額に汗を垂らしながら穴を掘り続けた。

 やがて棺桶が入るだけの穴ができたので、縄を架けた棺を降ろす。

 再び、黙々と土をかけていく。


 ダンテが墓石の代わりに、名を墨で書き込んだ木杭を打ち立てる。

 騎士ダンテ・アークの従者ヨルグ、ここに眠ると記されていた。

 あまりにも簡素な墓だ。

 ヨルグらしいといえた。

 全ての仕事が済み、アベルはこの世から消えたヨルグを想う。


 最後、ヨルグが神に祈らなくてよかったと……。

 人の名を呼ぶのは、きっと正しいはずだ。

 神に祈るという行為は、逃げではないのか。

 人が頼りにならないから最後の手で、神に祈る。

 人が虫けらみたいに無力なのを認めてしまったから、どこにいるのか分かりもしない神に祈る……。


 神なんか、嘘だ。

 ヨルグは、どうしようもない、錯乱した、執念と怨念の男だったけれど……最後には大事な人間の名を呼んだ。

 一生、忘れられないような痛切な声だった。


 気が付くと日没が空を赤く染めていた。

 墓地には静寂のみ。


「ダンテ様。帰りましょうか?」

「……アベル。ありがとう。お前がいてくれて、助かった。きっとヨルグの最後はお前のおかげで救われていただろう」

「そうかな……。寿命を縮めたのでは」

「アベルがいなかったら、きっと自殺していたはずだ。あいつは、そういう男だ」


 ダンテがそういうのなら、そうなのであろうとアベルは納得してみる。


「私の予想だが、アベル。君はバース様から近いうちに任務を授かるだろう。ヨルグの教えが役に立つはず」

「明日からは貴方の竜殺流を教えてもらうことはできますか?」

「悪いが、それだけは無理だ。私の息子はヨルグ一人。それに、もう、あいつの二の舞は見たくない」

「ヨルグ様は習得に失敗したのですか」

「途中までは上手くいっていた。しかし、イースの方が遥かに速く覚えた。それにヨルグが焦りを感じたのだろうな。その辺りから、おかしくなっていった。私が察して手を打っていれば良かったのだが、イースが天才でありすぎた。見ていただけなのに、ほとんどの技を吸収していった。一を授ければ十を得る。イースはそういう者であった。凡人は天才に嫉妬を感じてしまうと地獄に落ちることになる」

「……」

「あいつも努力していた。血の繋がらないイースを実の娘として扱おうとしていたこともある」

「分からない話ですね。僕からはイース様を憎み切っていたようにしか見えませんでした」

「人には理解できないことばかりだ。人の世はそうしたものであろう。心は見えないまま消えていく」


 アベルは、それ以上もう何も聞きはしなかった。

 ヨルグという男は死に、自分の中に技術を残して消え去った。

 

 アベルの心にはヨルグの叫びが繰り返される。

 弱いままなら、イースは一顧だにせず、お前を捨て去るだろう……。


「じゃあな、師匠……ヨルグ様。僕もすぐに旅立つよ。どうしても心の中から消えない、この餓えが満たされるようなものを見つけるために」


 アベルは振り返らずに墓から去った。





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