第86話  陰謀と少女

 




 シフォン・ゼノは少女の姿でありながら意外なほど達者な手綱さばきで馬を操った。

 もともとバルティアを支配する家柄として乗馬は嗜んでいたうえ、長旅で鍛えられた。

 栗色の髪が風を切って揺れる。

 褐色の瞳には儚さなど微塵もない。

 

 皇帝国の属州バルティアからアベルたちと共に逃亡してきたシフォンは家令ハンジャと二名の供を連れてハイワンド公爵邸に戻ってきた。

 今日も朝から夕方まで貴族区と平民区を往復した。

 見ず知らずの人間に会って、バルティアの惨状を訴える日々である。

 楽ではない。

 それどころか慇懃無礼な者や、あからさま迷惑という態度を取られることの方が多い。


 大理石で造られた大邸宅から少し離れたところにある、こじんまりとした家をシフォンは貸し与えられていた。

 食事はハイワンド家の使用人が作ってくれる。

 移動に必要な馬や生活に必要な細々としたものも提供してもらえた。

 

 それだけでなく、さらには帝都の地理に明るい者を二名ほど案内兼護衛としてつけてもらっている。

 シフォンはハイワンド家によって手厚く遇されていると実感していた。

 どれほど感謝しても感謝したりない状況に、ひたすら申し訳なく思うのだった。


 案内のうち一人はナームという名の女性で、ちょうどシフォンの母親と同年代ほどの人物だった。

 彼女は実に親切な性格をしていた。

 シフォンを丁重に扱うだけでなく、その苦境に強く同情してくれる。

 しだいにシフォンはナームを深く信用するようになった。

 近ごろでは何事についても相談をしている。


 ナームはシフォンの話を静かに聞き、それでいて差し出がましいことを言いはしなかった。

 控えめに、こうした方法がある、こんな考え方がある、どういった習慣がある……そのような忠告をくれるのだった。


 もう一人の供はセブという名の三十歳ほどの男性で、剣術を嗜んでいるらしく頼りになる護衛である。

 やはり治安の良くない場所があるので戦闘もできる男性がいると心強い。

 こうした細やかな配慮をしてくれるハイワンド家にシフォンとハンジャは、ひたすら恩義を感じる。


 シフォンはまず、商人ラフドックから身売りに近いような養子契約までして借り入れた金貨を両替することになった。

 銀貨や銅貨がなければ不便どころではないからである。

 貴族区で商売は禁じられているため、両替商のいる平民区に移動した。

 しかし、悪質な商人が相手だと誤魔化されることもある。

 シフォンはナームに相談すると彼女は的確に答えてくれた。


「それでしたら信頼のある両替商を知っております。シフォン様のお持ちになっている金貨は旧皇国金貨でございます。二年前の改鋳で発行された貨幣よりも金が多く含まれておりますので、新金貨に変える時には上乗せする両替商がいます」

「親切な方ですね……。新旧はあっても額面は同じでしょう」

「これは本当はいけないことなのですが、こっそりと旧皇国金貨を熔かして金塊にしてしまうのです。そして、金そのものとして亜人界との取り引きなどに使うのですよ。亜人界で皇帝国の新金貨は価値が低いので、その方が得なのです。こうした抜け道があるので改鋳など、よほど法律や準備を整えなくてはやっていけないことですのに、コンラート皇子様の派閥が主体となって断行してしまったのです。嘆かわしいことです」

「……皇帝国の安定を願うしかありませんね。属州は従うのみなのですから」


 シフォンは父親と付き合いのあった貴族や商人を何人か帝都で見つけ出すことに成功していた。

 ところが彼らは同情をしてくれるものの、しかし、深く関係しようとはしなかった。

 亡国の復興になど携われば、資金も人材も莫大なものとなるのを察知しているからだ。

 そうして判で押したように同じことを言う。

 属州総督官ルグート・ゲラン公爵に相談するしかないと。


 これが大問題であった。

 ルグート・ゲラン公爵はハイワンド家と政敵の関係にある。

 ゲラン公爵は第一皇子コンラートの派閥であり、必然的にハイワンドとの関係は最悪なのであった。


 シフォンがハイワンドの庇護下にあると知られては、ほぼ敵と見なされるはずだった。

 そうなってはバルティアへの救援派遣など実現不可能になってしまう。

 だからシフォンはハイワンド家の庇護下にあるということを隠しつつ皇帝国属州総督官ルグート・ゲラン公爵に接触を図らないとならなかった。


 ところが、ゲラン公爵との面会。まず、これが大変な難事であった。

 最初、訪問したときは門番に紹介状の有無を聞かれた。

 無いと答えれば、取り次ぎすら断られた。

 仕方ないのでシフォンは父親と付き合いのあったレヴェル子爵という人物に相談をした。

 レヴェル子爵というのは、今のところどの派閥にも属していない人物なので政争がらみで断られることはないだろうと、そういう期待もあった。


 ところが、相手は渋った。

 紹介状というものは保証人になることを請け負う意味もあるため、シフォンが酷い無礼を働きでもしたら火の粉が飛んでくることを危惧していた。

 しかし、レヴェル子爵以外にこれといった伝手もない。

 家令ハンジャは金で解決することを提案した。

 いくら口で頼んでも相手が動かない時には、これしかないのである……。

 レヴェル子爵は金貨一枚を要求してきた。

 かなり安くしてやっているというようなことを強調していた。


 翌日、レヴェル子爵の紹介状を持って、再びゲラン公爵邸に赴く。

 ルグート・ゲラン公爵の邸宅は貴族区の北東側にあった。

 西側にあるハイワンド公爵邸からは、かなり離れている。

 朝の内に馬に乗って出発しないと昼前に到着できない。


 やがて到着したゲラン公爵の大邸宅はハイワンドのものと遜色なく、厳めしい壁に取り囲まれている。

 まずは門番に用向きを伝える。

 門は警戒厳重で、騎士や従者が何十人も見張りをしていた。


 門番に銅貨を渡すと、取次ぎ役人に案内してくれた。

 取次ぎ役人は用向きを問うてきたのでシフォンは属州バルティアについて訴えたいことがあるので面会させてほしいと、率直に伝えた。

 中年の取次ぎ役人は言う。


「まずは筆頭執事様に要件を伝えなさい。それが通れば総家令様に話しが行きます。総家令様の覚え宜しければ公爵様にお伺いとなろう。言っておくが私も含めて全ての方に礼儀を尽くすのです。礼儀と言うのは口だけに留まらず、手数料を出してください。失礼ながら貴方のような縁故のない属州の人物に公爵様が面会する理由などないのですから、我ら家臣はとても苦労してしまいます。そのための正当な対価なのですから」

「差し当たって、まずは貴方ですね。おいくらなのですか」

「こういう場合、私には銀貨十枚を渡してください。忙しい最中、手続するのですから」

「……取次ぎ役、さぞかし苦労のあることとは思います。しかし、高すぎではありませんか。銀貨の二、三枚というのでしたら分かりますが……」


 取次ぎ役人は、険悪な顔をして言い放った。


「お帰りになりますか?」


 シフォンは悲しい気持ちになった。

 誰も彼も金であった。

 ふと、金など無関係に命を助けてくれたアベルを思い出す。

 あんな人こそ珍しいのだと自分を言い聞かせ、背後に控えるハンジャに銀貨を出すように指示した。


 ここで供のナームとセブは待つように取次ぎ役人から言い渡される。

 シフォンとハンジャの二人は、城のような石造りの大邸宅の中に入れてもらえた。


 そうしてようやく執事に面会が叶ったものの、総家令には会えないという。

 初対面であり、それも皇帝国の貴族でもない者では簡単に通せないということだった。

 四十歳ほどの、どこかシフォンを見下したような態度をとる執事が言うには、面接をして確かに不審な者でなければ総家令とは話しもできないらしい。

 仕方がないのでシフォンは貴族の礼儀に則って、執事を相手に事情を説明した。

 相手は僅かな綻びも見逃さないとばかりに、シフォンの話しを追求した。

 シフォンはハイワンドのことを隠しながら巧みに説明を続ける。

 これはやはり政争に絡んで警戒が厳しいのかもしれないとシフォンは察した。


 幸い、執事はシフォンの説明に納得して、それから作法や服装に落ち度ないかを執拗に調べだす。

 シフォンはナームから服装について忠告を受けて、それに従っていた。

 皇帝国の帝都にいる貴族は上級になればなるほど服で人を見る。

 貧しい服など着ていては、人間扱いされないと。


 だからシフォンは平民区で貴族の令嬢のために作られた絹の服を買っておいた。

 裾が足首まである長衣、品よく青に染められている。

 それに刺繍の施された高価な頭巾で髪が乱れないように押さえてあった。


 執事はじろじろとシフォンを遠慮なく見分したのち、総家令に会わせるには手続きがいると言ってきた。

 しかも、返答は翌日以降だという。

 シフォンは再び銀貨を支払って、総家令への取次ぎを頼み、その日はそれで帰った。


 次の日、天候は悪い。

 暗く厚い雲がたれこめ、小雨が降っていた。

 シフォンたちは雨避けの外套を羽織り、馬に乗って出かける。

 ゲラン公爵の邸宅を訪ねると昨日の取次ぎ役人に執事へと案内された。

 手数料の銀貨は、また払わなくてはならなかった。

 シフォンは溜め息を殺してハンジャに支払いを命じた。


 執事は複数ある客間のひとつにシフォンとハンジャを導き、そこで待つように言い放つ。

 それから、ひたすら客間でシフォンは待機を続けた。

 やっと呼ばれたのは正午も過ぎて昼下がりのことだった。

 シフォンはゲラン公爵家の執務控室に案内される。


「貴方がシフォン・ゼノ嬢ですか。私は公爵家の総家令ハーゼ・ラルバです」


 年齢は五十歳ぐらいだろうか。

 中背で、やや太り気味。

 どこかシフォンを低く見た、小娘程度に思っているのが透けて見える顔をしていた。

 シフォンは懸命に用向きを説明した。

 いよいよ公爵と面会なるかとシフォンは期待したのだが、そうならなかった。


「多忙な公爵様へ面会するというのは簡単なことではありません。それなりの献金をする準備はおありですか」

「はい。無論のことです」

「具体的にいかほどで?」

「金貨があります。詳細な額などは、せめて一度だけでもお目通りが叶ってから直接に伝えたいのですが」

「ふむ……。取り合えず面会の願いを手紙に書いてください。公爵様に渡してあげます。どのような返事になるかは貴方の態度次第でございます」


 シフォンはその場で手紙を書いて、渡してくれるように総家令ハーゼ・ラルバへ丁重に依頼した。

 もちろん相応の銀貨を渡した……。

 雨中、尾行などされていないか警戒しながらハイワンド家にシフォンは戻る。

 これで上手く行くのか、全く分からない……。




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 それが先日のことで、今日はいよいよゲラン公爵に面会できるか返事を聞きに来たのである。

 シフォンの内心では不満が膨れあがっていた。

 皇帝国に服従するバルティアの苦境を助けてほしいという要望を、どうしてもっと簡単に受け取ってもらえないかと。


 だが、これが政治というものらしい。

 そろそろ願望は失望に変わり、理解しつつある。

 いかに属州が服従していたとしても皇帝国にとっては外部勢力でしかない。

 

 わざわざ「外部」としているのは、いつでも切り捨てや処断ができるようにしておくため……。

 それが政治的配慮というものらしい。

 シフォンは狡猾で打算的、血も涙もない現実を一身に浴びせられていた。


 公爵家の総家令ハーゼ・ラルバが執務控室にいた。

 相変わらず冷たい顔をしていた。

 金を払うから、仕方なく会ってやる……そんな心の声が聞こえてくるようだった。

 少女の洞察力や勘は低くない。

 むしろ、必至なだけに研ぎ澄まされていた。


「お願いでございます。僅かな時間で構いません。今日こそは属州総督官であらせられるルグート・ゲラン公爵様にお目通りをさせていただけないでしょうか」

「うむ。公爵様におかれましては慈悲深きお考えから、本日、短時間ながらシフォン・ゼノ嬢との面会を承諾するというありがたいお言葉を頂戴しております。公爵様が辺境の貴族に会見を許すということ自体、ほとんど有り得ないご厚意なのです。これより案内しますが、くれぐれも失礼のないように。無礼な振る舞いがあれば従僕らが黙っていないことは、よく知り置いてください」

「承知のことでございます……」


 控室を進み、執務室に通された。

 豪華絢爛な空間であった。

 部屋と言うより、会堂ほどはある空間。

 床は大理石、壁には美々しい錦が飾られている。

 執務室にしては贅を尽くし過ぎていた。

 バース公爵の執務室はもっと実用的で簡素だったことを思い出す。


 奥に巨大な机があって、椅子にはかなり太った人物が座っていた。

 シフォンはゆっくりと、なるべく優雅に動作で歩いた。

 この日のために衣装も新たなものにしてある。

 みすぼらしい姿をしていると、それだけで見下されてしまうので絹の礼服を誂えたのだった。

 金貨を必要とする出費であったが、これもまた仕方のないことだった。


 ルグート・ゲラン公爵は立ち上がりもせず、椅子に身を預けていた。

 脂肪で体が膨れ上がっていた。

 金糸を施した絢爛な貴族服で、その体を包んでいる。

 頬の肉は弛んでいた。

 年齢は肥満のせいで、はっきりとしない。

 たぶん四十歳ぐらいなのではないか。

 垂れ目気味の顔貌をしているが、少しも優しげではない。

 不審そうに様子を窺う中年の男がそこにいた……。


 シフォンは貴族の礼をする。

 それから名乗った。

 ゲラン公爵は小さく頷く。

 シフォンは、バルティアがどうなったのか説明を始める。

 属州バルティアで内乱が起こったこと。

 それはゼノ家とブリガン家によるバルティアの統治に反発していた者たちを、王道国が焚き付けたことに端を発していた。

 なんとか反乱を押えていたが王道国からの干渉は強まり、ついに戦乱状態になったこと。

 激しい戦いが続いていたが王道国は王族自ら精鋭を率いて、急襲してきた。

 これに敗北して、バルティアは陥落してしまった……と。


 何か悔みの言葉があるかと思い、シフォンはゲラン公爵の返事を待つ。

 しばらく沈黙したあとゲラン公爵は口にした。


「それで? バルティアの内乱がこの私に何の関係があるというのですか」


 そのあまりにも素っ気ない返答にシフォンは非難の気持ちが湧くが、抑えつける。

 なんとかして、この男を説得しなけければならない。


「属州は皇帝陛下に忠誠を誓っております。それが証拠に一族のほとんどが殺されるか捕えられるまで戦って王道国に抵抗しました。属州総督官様におかれましては、管轄の属州における事態を憂慮なさいませぬのでしょうか」


 ゲラン公爵は実に嫌そうな顔をした。


「まぁ、なんとも非常識な話ですねぇ」

「非常識とは……」

「属州が、どれほどあるかご存知かな。大小で十六州もの属州を皇帝国は持っているのですよ。中には毎年、私に多額の進物を欠かさぬ州もあるというのにバルティアは何をしましたか。私は名前ぐらいしか知りませんよ。バルティアのことなど……。ましてやゼノ家でしたかな? どういう人たちなのか、全く分かりません」

「その……。これは父から聞いただけのことですが、ウェルス皇帝陛下に朝貢を欠かすことは無かったと。その際、皇室顕職長こうしつけんしょくちょう様より労いの言葉があり、属州総督官様へも宜しく伝えておくと……そのような遣り取りがあったと聞いております」

「あああ、驚きました! 私はあまりのことで震える思いです! 朝貢などと。朝貢は属州の義務。やって当然のことです。その当たり前のことをして恩義の問題にするつもりですか! さらにはなんと! 顕職長殿に責任を負わせるとは……貴族侮辱罪に問われますぞ」

「い、いえ。そのような……あの、では皇室顕職長様に面会して経緯を伺って参ります」

「おやおや! 全く何も知らないお嬢さんですねぇ! もう、呆れるばかりですぞ」


 いよいよゲランは声を張り上げ、さらに大仰に驚いてみせた。

 顔を振れば、ぶるぶると弛んだ頬が揺れた。


「皇室顕職長殿という高位の方は、それなりの紹介状もなくお会いするなど絶対に不可能なことですよ。レヴェル子爵などの紹介状では、とてもとても……。少なくとも伯爵家の紹介状が必要です。だいたいですねぇ、普通ならこの私のように慈悲深く奇特な者でなければ、貴方のような素性自体が不確かな者など会うことすらできないのです。皇室顕職長殿にお会いしようなどと、おやめなさい! 身の程知らずで無礼極まる!」


 畳みかけるような、ほとんど強要に近い物の言いようであった。

 シフォンは怯みそうになったが、諦めなかった。

 血の流れる戦場から命を拾ってここまで来たのだ。

 ここで負けたら全ては無駄になってしまう。


「あの……それではゲラン公爵様に紹介状を用意していただくわけにはいきませんか」


 シフォンの目の前にいる太った男は心底からバカにしたような、愚か者を見たという表情をした。


「貴方のような礼儀知らず、そのうえ敗北した属州の落人に紹介状ですと。とてもではないですが出来ません。まぁそれでも私は寛容ですから常識を知らない者の戯言として許してあげます。実際、属州などという野人の地から来たわけですから、貴方の態度も仕方のないことでしょうねぇ……。さぁ、礼儀知らずな主張を忍耐強く聞くだけは聞きましたよ。そろそろお帰りください。私は忙しいのです」


 シフォンはバース・ハイワンド公爵のことを思い浮かべる。

 あの御方に頼めば紹介状を書いてもらえるだろうか。

 しかし、激しい政争の最中なのである。

 皇室顕職長という人物はハイワンド家と敵対関係にあるかもしれない。

 あるいは、そうでなくても働き掛けをしにくい事情があるかもしれない。

 頼ることばかり考えていては、迷惑になってしまう。


「あ、あの。バルティアの処遇はどうなさいますのでしょうか。それだけでも教えてください」

「処遇も何も、もう敗北してしまったのでしたら、そういうことでしょう。皇帝国を守る盾にもならず情けないことでございます。鉄の盾ではなくてボロ板であったということですねぇ。せっかく皇帝国の属州にしてやったというのに、ろくな働きをしないとは。国にとって不幸なことです」

「援軍はいただけないのですか。せめて国境を超えた地点まで進軍していただければ圧迫交渉が可能なのではと。ゼノ家とブリガン家の生き残りも、僅かにはおりましょう。私がそれらを束ねて、王道国に与する連中と交渉をします」

「はぁ~! お嬢さん、分かっていませんねぇ。皇帝国は王道の奴らの主力部隊と日夜激戦を繰り広げているのですよ。いち属州に裂ける戦力など……この私が本気で将軍やコンラート皇子様に働きかけなければ動員できないでしょう」

「そこを本日はお願いに参ったのでございます」

「田舎者は知らないでしょうが、働きかけるということは金と手間が必要なのです。諦めることですなぁ」

「その……。献金ならば、いくらかは可能です」


 いよいよ本題になった。

 シフォンはこれまでの会話は駆け引きに過ぎないと察している。

 まずは脅して、相手に精神的な余裕を失わせようという試みだ。

 献金と聞いて、はじめてゲラン公爵の顔色が変わった。

 少し微笑む。

 弛んだ頬を歪めた醜い笑顔だった。

 よほど金が好きらしい。


「献金! それは殊勝な心掛けです。属州というのは、そうでなくてはいけません。で、いかほどですか」

「旧皇国金貨で八十枚ほどになります」

「ふむ……。まぁ、ようやく物を知り、態度が改まったということなのですね。遅いことですが、そこだけは認めてあげましょう」

「……その、やはり献金ということでございましたか。必要なことは」

「重ね重ね無礼なことを言わないでください。何をするにも金がいるのです。それこそ道理ではございませんか。数々の要求に私は日ごろから身銭を切って対応しているのです。しかし、そんなことを続けていれば、さすがの私も破産してしまいます。昨日今日に突然やって来た辺境のお嬢さんの要求には、さすがに無条件で答えることはできませんよ。貴方の献金など、しかるべき手続きで無くなってしまいます。私が得することなどありません。そういうことでございます」

「バルティアの運命が掛かっているのです。献金をすれば軍勢でもってバルティアを救援してくださいますか。敵は王道国の部隊とそれに協力しているマーゼル氏族という勢力なのですが」

「可能性はあります。折を見てコンラート皇子様にバルティアが敵に敗北したことを伝えることはしてあげましょう。それからコンラート様の配下にある親衛軍の将軍と私は懇意です。将軍らにバルティアへの進撃を促すこともできます。属州総督官からの正式な依頼ということで」


 シフォンは迷ったが、他に方法はなかった。

 右も左もわからない皇帝国の複雑な政治情勢の内部にあって、自分など何の力もないのだと思い知っていた。

 そして、思い知ったからといって出来ることは、ほとんど無いに等しいのだった。

 ハイワンド家に守らているだけでは何も解決しない。

 唯一の切り札である金貨を使うしかなかった。


「控室に私の家令がおります。その者がお金を持っているので、ここへ来るように伝えてください」


 ほどなくしてゲラン公爵の従者がハンジャを連れてきた。

 金貨の入った袋を従者が受け取った。

 中身は机の上に積み上げられ、贋金でないか調べられた。

 ゲランは並べられた金貨を横目に見て言う。


「金貨はこれで全てなのですか。陥落したとはいえゼノ家は属州の支配者であったのでしょう」

「なにしろ命を守ることで精一杯でした。逃亡の最中に王道国の襲撃を受けてしまって、手形ですとか財宝は失ってしまったのです」

「いささか少なくはありますねぇ。最低でも百枚……いいえ、百五十枚は欲しいところでした」

「旧皇国金貨八十枚といえば、決して少額ではないと申し上げさせてください。これが現状、全ての手持ちでございます」

「ふ~む。私は慈悲深い貴族です。お嬢さんの依頼は承りました。結果が出次第、そちらへ使者を送ります。お住まいはどちらに」

「……あの、なにしろ人を迎えられるような住まいではありません。恥でありますので、こちらからまた参上させてください。三日後でも宜しいでしょうか」

「ふん。三日後ねぇ。急かすものですねぇ」

「……」

「まぁ、いいでしょう。五日後にまた来なさい。結果はそのときに」




 そして、約束の日が来た。

 シフォンは不安に胸が潰されそうであった。

 それを察した付き人のナームが優しく肩を撫でてくれた。

 彼女には相談のような形でゲラン公爵との遣り取りを、全て話していた。

 ゲラン公爵の傲慢な態度、隙のない物の言い方、それでも属州総督官であるから交渉しなければならないこと……。

 とてもではないが信用などできないが、それでも他に働きかける人はいないので仕方がないと。

 ナームは同情の顔つきで励ましてくれた。


 昼前にゲラン公爵家に到着。

 今回は約束によって招かれたわけだから係りの者に金は渡さない。

 それに、もう金は底をついていた。手持ちはほとんどない。

 執務控室に到着。

 総家令のハーゼ・ラルバがいた。


「先日のお約束の結果を聞きに参りました」

「シフォン・ゼノ嬢。その件では公爵様より言付けをいただいております」

「言付け……」

「畏れ多くもコンラート皇子様にバルティアの現状を伝えたところ、なぜ敵に対して早期に敗北したのかお叱りがあったとのこと。また、将軍へバルティア進撃を打診したところ、長期的には戦略目標になりうるとのことでございます」

「長期的というのは、いったいどういうことでしょうか」

「愚問です。なぜ、私にそのようなことを聞くのですか。私は将軍ではありませんので答えようがありません」

「それでは、ゲラン公爵様に面会させていただきたいのですが」

「今日はご不在でございます。それよりも、ゲラン公爵様の辛い立場をもっと理解しなさい」

「どういうことですか」

「コンラート皇子様は属州の失態を叱られたのでございますよ。それというのもバルティアの敗北が原因。コンラート様のご不興も恐れずにバルティアの有様を伝えたゲラン様のご苦労、いかほどか。当家といたしましても、とてつもない迷惑でございます」

「そんな……! 我ら属州の者は皇帝国に忠誠を誓っております。実際に主たる郎党は死ぬまで戦いました。武運拙く敗れはしましたが、それでも心に変わりはありません。それなのに見捨てるのでございますか」

「とりあえず本日はお帰りください。それとも、さらなる献金のご希望がありましたら承りますが?」

「……献金。あの、あれほど多額の献金は、もう……無理です」

「お帰りください。それともお茶の一杯でも飲んでいかれますかな。もはやお会いすることもないでしょうし、当家からの心尽くしでございます」


 シフォンは絶句したまま、しかし、どうしようもなく控室を後にした。

 ハンジャも沈黙している。

 大邸宅の玄関を沈痛な気持ちで通過した。


「ハンジャ。こうなることは予想していましたか」

「僅かには考えました。しかし、他に方法はありませんので……。この老いぼれにできることがあれば良かったのですが、どうしようもなく……。シフォン様。申し訳ない」

「あなたのせいではありませんよ……」


 シフォンの考えは纏まらない。

 広大なゲラン公爵の邸宅から離れた場所でナームたちが馬を曳いていた。

 騎乗して、失意のうちにその場を後にした。


 長期的な戦略という言葉が頭から離れない。

 長期ということは、年単位なのではないか。

 そもそも強力な拘束力のある契約というわけでもない。

 下手すれば十年経ってもバルティアの解放はならないかもしれない。

 シフォンは囚われている両親を思うと暗闇にいるようだった。


 ハイワンド公爵家に戻り、貸し与えられた家に入る。

 力を使い尽くしたシフォンは倒れるように横になってしまった。

 ナームが優しく接してくれる。

 かなりお疲れのようであるが、いったいどうしたのかと聞いてきた。

 今日、ゲラン公爵邸であった出来事を全て話した。

 ナームは酷く憤り、また同情してくれた。

 もう、お金もなく当てもない。

 気分が落ち込み、沈んだ気持ちの最中で眠った。


 次の日、ハンジャは金策をしてくるという。

 帝都は広大で中にはバルティア出身の人物もいるであろうと。

 そうした者にはゼノ家に親しみを持っている人物もいるのではないか……と言うのだった。

 シフォンも付いて行こうとするとハンジャは断ってきた。

 金策にゼノ家の令嬢であるシフォンが同行するなど、下品なことであるということであった。

 もしかするとラフドックの時のようにシフォンを巻き込むことになるのを恐れたのかもしれない。

 忠実な家令を問い詰めることはせず、シフォンは気力体力を使い尽くしたこともあり、休んで待つことにした。

 それからというものハンジャは連日に渡り帝都を彷徨い、主に西方商友会に出入りしている商人の縁故を頼って活動しているようであった。

 そんな日々が八日ほど経った頃……。

 夕方になり戻ってきたハンジャは妙に元気がなかった。

 なんと言うか、乾燥させた果実を思わせる皺と顔色である。


「ハンジャ。あなた、体調が悪いのではないですか」

「いささか疲れが……大したことはありませぬ。今日はいくらか金の都合がつきました。バルティア出身の商人で、シャーリ・マーシュという男です。西方商友会に所属しておりました」

「また、お金を借りたのですか」

「銀貨を五十枚ほど、無利子で貸してくださりました。親切な男でした」

「借金ばかり膨らみますね。返すあてもありませんのに。こうしていては、一年など直ぐに経ってしまうでしょう……」


 一年後にはラフドックから借りた金貨の返済期限がくる。

 利息分も含めて返済できなければ、シフォンの身柄はラフドックのもとに送られることになる。

 そうなったら、もはや命運は尽きたと思うべきであった。


「シフォン様。明日から、また人を探しましょう。バルティアを救ってくれるような……」


 ハンジャの体はふらついていた。

 そのまま椅子に座るというよりも、ほとんど崩れるようになってしまう。

 名を呼ぶシフォンに答えることは無かった。

 急いでナームを呼びに行った。

 意識が混濁したハンジャをどうにか寝台に横たえて、それから治療のできる人物を連れてくるとナームは言う。

 明らかにハンジャは健康を害していた。

 うわごとを呟いている。


 シフォンが祈るような気持ちで待っていると、しばらくしてナームが人を連れてきた。

 四人の人物が現れる。

 そこにはシフォンの最も信頼している男女がいた。

 アベルとカチェであった。

 シフォンは溜め込んでいた感情が噴き出てきた。

 無理に無理を重ねてきた。

 名家ゼノの出自という誇り、故郷と両親を救うと言う矜持だけで苦痛を乗り越えてきた。


 信じられないほど残忍な戦闘を経て、やっとのことで皇帝国に逃れ、長い旅の末に帝都に着いてからも必死に活動する毎日。

 その果てがゲラン公爵の血も涙もない、侮蔑に満ちた態度だった。

 多額の金を受け取っておきながら誠意の欠片もない。

 事実上、属州総督官であるゲラン公爵は二度と会うつもりがないのだろう。

 借りた金は全て無くなり、これといった方策も見つからないまま……。


 アベルはシフォンが震えているのを見つけた。

 すぐ近くに滞在しているとは聞いていたが出会わないまま時間が過ぎていた。

 ここのところヨルグや武帝流との修練だけでなく、帰還の祝賀会に関連する用事で忙しい。

 忘れていたわけではないのだが接触しないままだった。

 声を掛ける。


「久しぶりだね。シフォン。具合の悪い人がいるって聞いたのだけれど……」


 シフォンの褐色をした瞳から涙が溢れた。

 それからアベルの袖をつかみ、ハンジャの元に連れて行く。

 いつでも自分を助けてくれたアベルなら何とかしてもらえるかもと甘ったれた考えが浮かんでしまう。


 アベルと共に来てくれた人物は、なんと彼の両親だという。

 母親が薬師であるということは知っている。

 父親のウォルターは見るからに信頼できる人物だった。

 実に落ち着いていて、怪我や病気に詳しい。

 それからアイラという美人の母親も手早く介護をしてくれる。

 アベルの両親による手厚い治療のおかげでハンジャは重篤になる寸前で助けられたが、とてもではないがしばらくは休養している他ないという診察だった。

 シフォンは心配と安堵を行ったり来たりして、疲れ切ってしまった。

 アベルはその様子を見てカチェに言う。


「シフォン。助けがいるみたいだね。一人で看病なんかできないだろう」

「そうね。ケイファードに頼んでおきましょう」

「今日のところは僕が世話をするよ」

「わたくしも手伝うわ……」


 ナームという使用人はカチェのことを知っていたらしく、公爵家令嬢が自ら看病などしなくてもよいのではと控えめに制止してきた。

 だが、カチェは困っているシフォンを放っておくようなことは出来ずアベルと共に残る。


 シフォンはゲラン公爵との間であったことを全てアベルに話した。

 せっかく助けてもらったのに借金を返す当てもないので、いずれ商人ラフドックの元に行かねばならないだろうと告げる。

 会話を聞いていたカチェが怒っている。


「酷い話しね! あんまりよ! お金を受け取っておいてシフォンが悪いと言い掛かりをつけて追い返すなんて……。下劣な人間。お爺様に相談しにいきましょう。今から」

「カチェお姉様。バース公爵様にご迷惑となりませんか? 私、こんなにお世話になっていて、そのうえさらに情けをいただくのは礼儀に反すると思うのです」

「そんなこと気にしなくてもいいのよ。わたくし、もっと貴方のこと見てあげればよかったわ。こんなに大変な状態だったとは思いもしなかった」


 ハンジャの看病はナームに任せて、三人は大邸宅に向かう。

 ナームは歩いていく三人を見届けた。

 シフォンの活動については仔細に渡って主であるバース公爵に報告してある。

 状況は全て把握されている。

 あとは、あの哀れな令嬢にどのような御沙汰をするか……それは主人の考えることであった。


 アベル、カチェ、シフォンは執務控室に行く。

 中ではケイファードとスタルフォンが何やら事務処理をしていた。

 二人は、もうじき開催されるロペスらの帰還祝いの為、連日大忙しの状況であった。


「ケイファード。お爺様にお話しがあります。手短に済ますから、なるべく早めに面会させてほしいの」

「カチェ様。それでしたら、只今よりのお伺いをしてみます」


 カチェの頼みは了承された。

 三人は執務室に通される。

 バース公爵は重厚な紫檀の机の奥で待ち構えていた。

 別段、いつも通りの態度であるのだが、それでも他者を圧倒する迫力に満ちている。


「どうした。何の用だ」

「お爺様。カチェからお願いがあります。シフォンの助けになってあげていただけませんか」

「詳しく事情を聞かせなさい」


 状況の説明はシフォン本人が必死に行った。

 借金をしてまで政治工作に必要な資金を用意したことなどはアベルが伝えた。

 言い難いことであろうと助け船を出したつもりだった。


 バース公爵は一言も発しないまま表情を変えずに説明を聞き、ときおり頷いた。

 あらましを聞き終わり、少しだけ考えたあとに口を開いた。


「まず、解決できる問題とできない問題があるな。できないものはゲランについてのことだ。奴の態度や考え方は、もはやどうにもなるまい。献じた金を取り戻すこともできない。逆にできることは、まずシフォン・ゼノ嬢の身辺を整理することだ。借金を片付けなくてはな。アベルとカチェが肩代わりするというのはどうだ」


 アベルは答える。


「バース様。そうしてやりたい気持ちはありますけれど現実的に手持ちがありません」


 アベルとカチェは顔を見合わせた。

 無いものは無いのである……。


「では、儂が金を出すしかないな。いくら皇帝国公爵家といえども他人の借金を反故にすることはできない」

「お爺様。ごめんなさい」

「大事な人間を助けたいと思う気持ちは分からなくもない。しかし、自分で責任の持てる範囲を弁えることだ。その範囲を超えても助けたいとするならば、身を切るようなことになる。金の切れ味は本物の刃物より鋭い場合があると知れ」


 シフォンの顔は真っ赤になった。

 我ながら信じられないほどの巨大な恥であった。

 これほどまでに世話をしてもらったハイワンド家に対して、多額の負担を与えてしまった。

 しかも、尊敬と好意の対象であるアベルとカチェを思い切り巻き込んでいる。


「あ、あの……! とてもではありませんが、このシフォン。申し訳なくて……そのようなご厚意に甘えることはできせん」

「痩せ我慢しなくていいよ。シフォンはさ、僕が見た感じでは限界だな。無理なときは降参していいんだよ。金なんか後で返せばいいさ」

「そうよ。アベルの言う通りよ」


 シフォンは二人の温情に涙が出そうになってしまった。

 そのときバース公爵は重々しく切り出した。


「シフォン・ゼノ嬢。安心せよ。儂は貴方に価値を見出したからこそ、こうして力を貸しているのだ。アベルとカチェは席を外せ。これより二人で話しをしたい」


 アベルたちは言われた通りにする。

 バース公爵から説教でもあるのではとも考えた。


「さて。シフォン嬢。儂は貴方にある仕事を依頼したい」

「は、はい。仕事ですか」


 時間は既に日没後である。

 燭台に灯りは燈されていているが、執務室は薄暗かった。

 濃い陰影のついたバース公爵の表情は、まるで岩そのもののようだった。

 隙というものが、全く無い。

 群青色の瞳はアベルに似てなくもないが、さらに沈着な知性を感じる。


「信頼できる者にしか頼めないことです。これはハイワンド家にとって重要な役目となるでしょう」

「なんでも仰ってください。このシフォンにできることでしたら」

「貴方には、さらに金を渡します。そして、その金をもってしてゲラン公爵に再度、接触を図るのです。奴めは強欲な人間。献金をすると申し出れば断るわけがありません」

「その……。有難いことでございますが、まったくの無駄になるのではないかと」

「貴方には、こう申し出てもらいたい。献金にも限界がある。もう金が無くなるので最後の御慈悲として、ゲラン公爵邸で働かせてもらえないか、と」

「あそこの使用人になるということですか」

「そうです。貴方は貴族の礼儀作法を身につけています。それを売りにするのです。ゲラン公爵には八人の子供がいます。その内、六人は女ですから家中で貴方のような働き手は必要とされているはずです」

「仮に上手くいったとして、それからどうするのですか」

「奴の屋敷に誰が訪ねて来たのか、ゲラン公爵が何時に出かけて、いつ帰って来たのか、そうしたことを記憶しておくのです。客人の名前などは分からないこともあるでしょう。特徴を憶えておくのです。しかる後に、手紙で情報を伝えてもらいたい。すでに受け渡し役は潜入しています」

細作さいさくのような仕事ですね。どうして私なのですか」

「信頼のおける者にしか頼めぬゆえに。人を潜入させるだけなら、さほど難しくはない。問題は買収されない真の忠誠心を持った者の報告である、という点」

「つまり、私は嘘の報告を流さない者であると。また、金でハイワンド家を売らない者であると」


 バース公爵はゆっくり頷いた。

 シフォンの脳裏に両親が現れ、次に自分を守るために死ぬまで戦ってくれた家来たちが思い出された。

 最後にカチェとアベルが浮かんでくる。

 誰も彼も恩人だった。

 それらの人々に助けられて、ただ守られているだけの自分に嫌気が差す。

 ここで仕事をしなければ自分が腐っていくような気がした。

 何かの役に立ちたい……。


「バース公爵様の陣営が政争に勝利すれば、属州総督官は交代されますか」

「無論です。ゲラン公爵などより遥かに有能な者が官位に就くことでしょう」

「バルティアの解放に動いてもらえるでしょうか」

「絶対の約束など政治の世界にはあり得ません。しかし、現状よりは可能性が高まると断言しましょう」

「細作の技術など全く持ち合わせていないことが残念です」

「いいですか。そんなものは必要ないのです。洞察力、記憶力、人の機微を見抜く感性。そうしたものは既に貴方の中にあります。儂は貴方の賢さを認めている。上手く立ち回り、使用人の中でも重用されると信じています。そうとなれば手に入る情報も価値が高くなるでしょう」

「それほどまでに期待していただけるとは光栄です」

「……それと大事なことですが。もし身の危険が迫ったり、あるいは純潔を奪われるような要求があれば、即座にゲランの元からお逃げなさい。その場合は改めてハイワンドが貴方を助けます」

「そこまでのお気遣いまでいただくとは、感謝の極みでございます。承知しました。このシフォン・ゼノは属州から逃げ延びて、どうしようもなくゲラン公爵様の情けに縋った哀れな小娘として明日、出向きます」


 バース公爵は微笑を浮かべた。

 それから工作資金として金貨十枚をシフォンに渡す。

 借金の方はケイファードに命じ、西方商友会を通じて返済手続きを取らせればよい。

 概ね自分の狙い通りになったとバースは確信した。

 シフォンは当然の結果としてゲラン公爵に恨みを持ち、なおかつハイワンドにこの上もない恩義を感じるようになった。

 裏切る可能性の少ない優秀な細作を手に入れることが出来たわけだった。

 金はかかるのだが、こうしたことにこそ投資すべきであった。


「シフォン嬢。儂はバルティアとハイワンドの命運を賭けた戦いをしておるつもりです。頼みましたぞ」

「バース様にそこまで信頼していただけるとは光栄なことです。その……カチェ様とアベル様には命を助けられたも同然なのです。ハイワンドの勝利がゼノ家復権と同意義だと、信じています」


 バースは決意を湛えた少女に頷き返してやる。

 翌日の夕刻。シフォンから期待通りの結果が報告された。

 金貨を渡し、哀れっぽく這い蹲るように使用人として働かせてほしいと頼めば、ゲラン公爵はさんざん恩着せがましく傲慢に振る舞った後に承諾したということだった。

 役目は貴族の作法を身につけていることから、ゲラン公爵の長女マロルの侍女という立場らしい。

 これからゲラン公爵の動向を掴みやすくなるかもしれない。

 コンラート皇子は暗殺を極度に恐れ、所在を隠して行動することが多い。

 ゲラン公爵の行動を通じて、そのコンラート皇子の行動規則を推測できるかもしれなかった。




 シフォンは病床のハンジャに、しばらく用事があり離れると告げた。

 ナームに世話を相談するとバース公爵様から手厚く介護するようにお達しがあったと教えられた。

 その気遣いにシフォンは深く感謝した。

 それから徒歩でアベルのもとに向かう。

 アベルは大邸宅から少し離れた場所にある、小屋のような慎ましいところで両親と暮らしていた。

 シフォンの視線は目的のアベルが薪割りをしているのを捉える。


「アベル様」

「あっ。シフォン。どうしたの? ハンジャさん、具合が悪いのかな」

「いいえ。ハンジャの容体は落ち着いています。今日はご挨拶に来ました。私は、アベル様に借りばかり作っていますので……」

「借りなんかないさ。気にしなくてもいいよ」

「バルティアでは命を助けられて、此度はお金まで。何かお返しができないものかと考えたのですが、私は何も持っていないと知りました。あったとしても体一つです」

「……」

「ということなので、ちょっと働きに出ることになりました。バース公爵様とよく相談して決めたことです。そして、なにより自分が望んだことなのです」

「あっ、体ってそういう意味。働くということだ」

「そうです。その方が腐らなくていいと思いました」

「どこで何をするの? カチェ様の付き人みたいな感じかな?」

「お屋敷の外なのですが、どんな仕事になるのか詳しいことはまだ分かりません。ですがバース公爵様の大恩に少しでも報いたく思います」

「そっか……。頑張ってね。でも辛くなったらさっさと辞めていいよ。仕事で体を壊すなんてバカらしいからさ」

「ふふっ。アベル様は優しいですね」


 シフォンは別れの前に一度だけやってみたかったことをしてみる。

 アベルに近づいて、それから抱き締めた。

 少年の、しなやかさだった。

 自分の心臓の音が聞こえるほど高鳴る。


「あら、アベル様。お顔が赤い。それでは失礼いたしました」


 シフォンは、こういうところがこの人の可愛いところだと嬉しくなる。

 笑顔で手を振り、立ち去る。

 これから陰謀渦巻く、貴族の世界で戦うのだ。

 表面は華やかで裏では欲望が煮えたぎった場所である。

 剣は持たないが、その代わりに知恵で敵の命を奪う戦場となるだろう。

 だが、勝たなくてはならなかった。



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