第85話 秘した心
カチェではないが、身の置き場がないような気にアベルはなってきた。
ここは一人稽古ではなくて、誰かと一緒に訓練をしたかった。
真っ先に思いつくのはカチェだ。
シャーレは朝、アイラが店まで送ってくれている。
そのままアイラはダンヒルの店で手伝いをしてから帰りも共になるから任せていい。
ウォルターは騎士団で用事があって外出していた。
彼もぶらぶらしているわけではなくて、歴としたハイワンド騎士団所属の軍医というか、治療魔術師の位置付けである。
それなりに忙しく仕事がある。
ツァラはワルトと仲が良い。二人で遊んでいることが多い。
子供の仕事は遊ぶことである。
アベルは大邸宅に向かう。
取り合えずケイファードに挨拶をしようと執務控室に行ってみれば、ベルティエやギョーム、ユーディットなどがいた。
「あっ……。どうも」
アベルは頭を下げて挨拶。
ここに三人がいるということは、執務室にノアルト皇子がいるのだろう。
ベルティエは、まるで数年来の友人に対するような態度。
ギョームという顔じゅうが戦傷だらけの禿頭は軽く頷く程度の挨拶。
ユーディットという女性は、どうも格式のある高家の出身らしい様子がある。
姿勢よく座っていて、どことなく優雅であるのに隙も無い。
アベルに対して、僅かに目礼してきた。
「アベル! どうしたんだ。用事か」
ベルティエが雄々しい顔に好ましい笑みを浮かべ、親し気に話しかけてきた。
「カチェ様と訓練でもしようかと思いまして」
「よしっ。それなら、午後にまた武帝流の鍛錬所に行こうぜ」
「……いいのかな。だいぶ、失礼なことをしてしまったから……悪いみたいな」
「気にするなよ。クンケル様もお許しになっている。アベルにまた来てほしいと仰っていなかったか」
「はい。技を教えてくださるそうです」
「なら、決まりだ。ノアルト様はバース公爵様、カチェ様らと
こうまで言われたら頷くしかない。
ベルティエは誘うのが上手い……。
少し時間があるのでアベルは大邸宅の内部がどうなっているのか、調べるつもりで散歩する。
壁は基本的には白い大理石で造られていた。
床は大理石で造られている廊下と、色鮮やかな陶片が嵌め込まれた特に豪華な通路があった。
全体的には二階建てになっていて、執務に関係する部屋や寝室は二階に集中している。
一階には食堂や遊戯室、来賓室などがある。
どれも広い空間を必要とする部屋なので、そうしたものは一階に集められた構造らしい。
食堂に行くと、カチェ、ロペス、モーンケが勢揃いしていた。
ケイファードが午餐会の手筈を整えるために忙しそうに指示をしている。
「あ。皆さん、食事ですね。僕も手伝いましょうか。給仕は慣れてないけれど」
「なに言っているの。アベルの席も今日はあるわよ」
「僕の? なんで」
「アベルはハイワンドの一族でしょ。お爺様は貴方のことを認めているわ」
モーンケが軽薄な顔を歪めて嫌そうに言う。
「アベル。おめえは末席だ。ありがたく思えよ。端くれとはいえ公爵家の家門衆なんだぞ。だが、俺の方が兄で格上なんだからな。忘れんなよ」
この小者がと、アベルはイラつくものの口にしない。
こんな風にしか考えられない男なのだ、モーンケという奴は。
「分かったよ。モーンケさん……」
「モーンケ兄上でもいいんだぜ」
深呼吸をして、やっとのことで殴りたい欲求を抑えた。
本当に人をイラつかせる才能にかけては最高の男だ。
一番左端の席に座り、しばらく待っているとノアルト皇子とバース公爵がやってきた。
皆、席を立って待ち構える。
ノアルトはカチェの顔を見ると、あからさまに喜んだ。
神経質な性格が現れたかのように頬が削げていて、何か難しい悩みを抱えているらしきノアルトが笑ってくれると周りは助かる。
何と言っても皇帝の息子という、途轍もない立場の人物である。
そんな高貴な身分の客が不機嫌そうにしていたら、それ自体が陰険な暴力のようなものだ。
ノアルト皇子が上座に座り、相対する位置にバース公爵が着席する。
アベルが同席していることにノアルトは気が付いた。
意外そうな顔をしている。
「アベル・レイ。君もいるのか。で、なぜ君まで同席しているのか」
バース公爵が直後に口を出してきた。
「アベルはハイワンド家の類族であり重要な人間です。これから仕事をさせるつもりでおります。ノアルト様におかれては、是非にもアベルをお引き立て願いたいのです」
アベルは驚く。
バース公爵はどうにも腹の読めない古狸みたいなところがある。
皺の刻まれた表情は冷厳で、青い瞳には大抵、いかなる喜怒哀楽も映しはしない。
だが、今この場では明らかにアベルを厚く擁護していた。
ノアルトは僅かに考えるような仕種をしたが、黙って頷いた。
アベルはそうした皇子の態度に内心、疑問を持つ。
――どうも、このノアルトって人にはな。
微妙に嫌われているような気がする。
なんでだ?
料理が運ばれてくる。
綺麗な白磁の皿に野菜や酢漬けにした根菜の盛り合わせが乗っていた。
その次に鳥のスープが運ばれてくる。
ノアルトは、かなり上機嫌でカチェと会話を続けている。
カチェに旅の話しをするように求めていた。
もともと無口なロペスなど会話に加わる隙も見いだせないらしく、巨漢を椅子に沈めるのみだ。
モーンケは緊張しているみたいで愛想笑いをしているだけ。
下品な舌の出番はない。その方がいい……。
兎肉の料理が出てきた。
骨を丁寧に外して肉のみにしてからバターで香ばしく焼いてある。
そこに香草のソースがかかっていた。
コクと風味が一体になっていて、かなり美味である。
アベルは食べることに集中した。
穏やかな日光が差し込む食堂で、文化の極みのような料理が次々に饗される。
つい先ほどまでヨルグという怨念そのものと危険な稽古をしていたのが悪い幻みたいだった。
カチェはノアルト皇子の要望に応えて、旅の間にあったことで特に印象的なものを思い浮かべる。
壁に竜と勇者が死闘を繰り広げる場面を描いた絵が飾ってあった。
それで思い出したことがある。
「そうですね。次は友である学者ライカナから聞いた竜の話でよろしいですか。ノアルト様」
「ぜひ、聞きたい。語ってくれ。カチェ」
「魔獣界では幸いなことに凶暴な竜とは出会いませんでした。ライカナが巧みに竜の生息地を回避してくれたようです。竜の中には魔獣界だけではなくて、時に亜人界の人里まで侵入してきて人を食い殺す邪竜がいるのだとか。そうした邪竜の中には悪名轟くものが何匹か存在していて、中でも
ノアルトは真剣な顔で頷いた。
アベルはライカナの話を思い出す。
数えきれないほど色々なことを教えてもらった。
九十年ほどにおよぶ人生経験を惜しみなく与えてもらったものだ。
感謝と共に、爽やかな淡い青色をした長髪や知的な眼差しが思い出されるのであった。
ついでに大きなおっぱいも連想されたが。
本当に形が良くて柔らかいおっぱいだった。
なにしろ長い旅だった。途中で稽古やら水浴びやらがあり、別にわざとではなかったがあの乳房を見たり触ったり掴んだりした記憶もある。
わざとじゃないんだ。
いや、本当にそうか。
それなりに意図的に触った気もしてきた。しかも、ライカナは拒否しないばかりか、むしろ喜んで……。
アベルの意識が、ふと遠くに行く。
「黒鱗火炎ノ蛮竜は、最も古い記録で五百年前から存在が確認されているそうです。エシュタル王朝という当時、亜人界にあった歴史ある王国を襲って、千人余りを喰い殺したのだとか。以来、断続的に襲撃は続き、今日までいかなる討伐者をも退けた、伝説の邪竜……」
「私も名前ぐらいは聞いたことがあったような気がする。いや、思い出した。亜人界と魔獣界の境目で大暴れしているとか、村がいくつも全滅しているなど……そういう報告書を読んだことがあるな」
「三十年ほど前には魔人氏族の勇者グリンデルが討ち取りに挑み、しかし、敗れて喰い殺されたということです。ライカナは、かなりの遠距離からですがその竜を実際に目視したことがあるのだと言いました。鱗は黒曜石のように輝き、禍々しくも美しかったと……」
ノアルトは生々しい冒険譚に感嘆するばかりであった。
結局、午餐会はほとんどカチェとノアルトの会話で終わった。
ノアルトは最後、巨漢のロペスの鍛えられた肉体を認めて、武帝流の鍛錬所に誘った。
これをロペスが断るはずもなく、バース公爵を除いて全員が例の訓練所に行くことになった。
馬に乗って移動。
ノアルト皇子の周囲を、ベルティエらに加えてロペスたちも護衛する。
何事もなく、すぐに鍛錬所に着いた。
鍛錬所ではアベルが来た時と同じように百人ぐらいの若者たちが体を鍛えていた。
二人一組や、あるいは多対一という不利な状況での戦いも想定しての稽古をしている。
訓練生たちがノアルトに気が付き、礼儀正しく挨拶をしていた。
前回はノアルト皇子の正体を知らなかったので不思議に思っていたが、今は理解できる。
アベルの姿を見ると誰しもが注目してきた。
興味深々……という感じだ。
アベルは真っ直ぐ、椅子に座っている師範クンケルのもとに向かう。
ヴィム・クンケルは初対面のときには心の見えない無表情をしていたものだが、アベルの顔を見ると笑顔になった。
もう、ほとんど人の良いおじさんである。
席から立ち上がった。
「こんにちは。クンケル様」
アベルは丁寧に頭を下げた。
「おお! アベル殿。来てくれましたか」
「正直に言うと来づらいものがありました。あれほど侮辱してしまったものですから」
「戦いでは罵りなど常識ですぞ。そちらの方も筋が良い」
「いゃあ、へへへ。そっちは僕の従兄のモーンケっていうのがもっと上手なのです」
「今日は、ハイワンド家の方々が勢揃いですかな」
「はい。一応、まだ秘密なんですけれど、もうじきお披露目して公にするそうです」
話しをしているとクンケルの娘らしい女剣士もやってきた。
年齢は十八歳ほど、狐色の髪を短くカットした少年のような雰囲気。
黄水晶を連想させる瞳が美しい。
賢そうな顔で、眉が鋭く伸びている。
武道をやっているせいか颯爽としていて美少年的な印象も感じられた。
アベルを見て、やや驚きながら名乗った。
「アベル殿。私はルネ・クンケルと申します。師範クンケルの長女にして、武帝流の副師範を務めています」
「僕はアベル・レイ。先日は失礼しました……本当に」
「いくら公爵家の身内とはいえ酷い罵詈雑言でした。父を見栄えの悪い置物などと……。でも、謝ったので許すべきですね。今日のご用向きは」
「もちろん、鍛錬に来ました」
ヨルグのことを考えながら一人稽古というのは重すぎた。
ここは武帝流を利用させてもらおうと、アベルはそう考える。
クンケルが頷き、言ってきた。
「ならば娘のルネと立ち合いを。アベル殿でも簡単には勝てぬものと考えます」
アベルは了解して、壁に掛かっている木刀を手に取る。
夢幻流の会得に役立つような稽古にしなければならない。
二刀流はやめておく。
二刀流に関しては、ほぼ独学でやってきた。
今はまず、夢幻流を練り込む必要があった。
逸早くロペスは鍛錬を始めている。
相手はアベルも立ち会ったことのある髯面の第六階梯の男。
ロペスは得物に野太くて、ごつい木槍を選んでいた。
「ぐおおぉおぉぉぉ!」
ロペスの物凄い雄叫びで試合が始まった。
鍛錬所の気温が下がるような、血の凍る怒号である。
そして、のっけからロペスは手加減なし。
猛攻を始めた。
豪槍というのに相応しい威力と速さ。
さすがに実戦で鍛えられてきただけあった。
アベルから見てもロペスの槍捌きは凄まじいとしか言えない。
槍のような長物は攻撃範囲が広いものの、どうしても動作が刀剣に比べて鈍くなる。
しかし、ロペスは柄の握る位置を巧みに変えて、相手に付け込む隙を与えなかった。
嵐のような連撃で、ほとんど相手に何もさせない。
ついに木槍の突きが相手の腹に入り、それで試合終了。
ノアルトがロペスの強引でありながら技術もある槍捌きを称賛した。
お世辞と言う感じではなかった。
それだけの迫力があった。
次はアベルの番である。
クンケルの娘。ルネと向かい合う。
先日のこともあって、訓練生の誰しもがアベルを注目していた。
皆、訓練を止めて観戦をはじめる。
百人以上が見ている中でアベルはルネと対峙した。
ルネの背丈はアベルよりも少し低いぐらい。
どう見てもパワーで押してくるタイプには見えない……。
しかし、カチェのように魔力が豊富で身体強化も得意だと、見掛けによらない怪力なので油断はできない。
手に持つ木剣は、ごく常識的な大きさ。
それを両手握り、脇構えにしている。
試合開始。
アベルは積極的に前へ出る。
基本的には攻刀流の戦い方をして、要所で習ったばかりの夢幻流の技を仕掛けてみようと考える。
ルネは父親のクンケルと良く似た動きをしている。
まず歩法は摺り足ではなくて、ステップである。
その足捌きは非常に素早く、小刻み。
円を描くように移動したかと思えば、急に直線的にコースを変化させていた。
次の挙動が読みにくい。
接近してから、打ち合いになる。
ルネは木剣を大振りにしないで小さいが的確な突きと斬撃を繰り返してきた。
小振りといっても魔力による身体強化がされていて激しい圧力である。
そんなものが計算された動きで、緻密な連撃となって襲い掛かってくる。
アベルは負けじと打ち返し続ける。
機が熟したところで、夢幻流「蝶」の動きをした。
右構えから斬撃を繰り出すと見せかけて瞬間的に左構えに切り替える。
このとき腕だけを動かすのではなく、体を回転させながら、なおかつ敵の視線を偽攻撃で誘導しておくと、もう何時に構えが変わったのか分からなくなってしまう。
蝶がどこからともなく飛来する様にかけた技の名だという……。
アベルはルネが予測していただろう逆方向から横薙ぎに木刀を振る。
ルネは回避することができずに木剣で防いできた。
木刀がルネの木剣に衝突。
さらに渾身の力で全身を前に押し出す。
木刀の刃部を競り押して、ルネの頸部に掠らせた。
「勝負あり!」
クンケルが宣言した。
周りの訓練生からは、溜め息とも感嘆とも取れるような声が上がる。
ルネは納得いっていないようだった。
あからさまに不満の表情。
「師範! 確かに木刀が触れましたが、斬撃には及ばず」
「愚か者。鎧のない状況で急所に刃を当てられたなら、それは死を意味するのだ。ルネ。次はカチェ様のお相手をしろ」
待ちかねていた様子のカチェがルネと試合を開始した。
アベルはそれを見学。
二人の実力は激しい攻防戦から、ほぼ伯仲しているのが感じられた。
武帝流というのは、やはり相当に洗練された流派だとアベルは確信する。
形とか動きなどが厳密に規定されていて、まずはそれが体に染みつくまで鍛錬していると……そういう印象がした。
それに対してカチェは様々な流派の影響を見せている。
結局は自分に似てしまったのだろうなとアベルは思う。
一進一退の競り合い。
だが、ついにカチェはルネの攻撃を驚くほど絶妙に、いなした。
あれはライカナが得意としていた動きの真似だ。
魔人氏族である彼女は
それは絶対のルールというほど厳格に守られていた。
その代りに巧みだったのが相手の攻撃を逸らす動きだ。
決着が近づいてきた。
双方の気迫は絶頂。
お互いに勝ちを獲るべく力をぶつけあう。
攻撃を
カチェも、それに答えたかのような攻撃。
互いの斬撃が同時に胴と肩に入る。
二人の攻防戦は、相討ちの状況で終わりになった。
周りで見ていた連中から唸り声や感嘆の声が聞かれた。
短時間ながら密度の濃い名勝負という感じだったので、そんな反応なのだろう。
アベルは肩を少々痛めたカチェに治癒魔術を掛けてやる。
「ありがとう。アベル。治ったわ」
カチェは頬に汗を浮かべている。
表情は意欲に満ち、輝いていた。
やはり儀典の授業や礼儀作法より、こうした鍛錬の方が好きなのだろうと顔を見れば分かる。
アベルの元に二十歳ぐらいの青年がやってきた。
「私はシャール伯爵家の次男ロイクと申します。アベル殿。一手ご教授願えますか」
貴族らしい典雅な身のこなしで、そう頼んできた。
断る理由もないのでアベルは受けて立つ。
試合を始めた。
すぐにロイクという男の技術は高くないのを感じるが、それでも得意技や嵌め技を持っているかもしれないので油断ができない。
しばらく様子見的な攻防をしたあとにアベルは思いきって接近戦に持ち込み、相手の腕を取って足払いを仕掛ける。
それでロイクを転倒させることに成功した。
勝負ありだ。
アベルは手を貸してやって、ロイクを立ち上がらせる。
相手は悔しそうな顔も見せずに感心した素振りだった。
「アベル殿。さすがです! 師範とあそこまでやりあえるわけだ。これは頼もしい人が味方になってくれた」
笑顔のロイクは屈託なく、そう言ってきた。
アベルとしては別に武帝流に強い帰属意識はないのであるが、向こうからするとそういうことらしい。
その後も次から次へと立ち合い希望者が現れる。
アベルはその全てに応えていく。
ここ武帝流にいるのは全員貴族なので名乗りを上げる者たちは、いずれも伯爵家や子爵家、あるいは男爵家の者だった。僅かに騎士の者もいる。
中には長男であることを告げる人物もいた。
皇帝国は基本的には長男継嗣の風習なので、家の跡継ぎという重要人物も多数が加わっていると知れた。
まだアベルに若干、含むものを持っている人もいたが概ねの態度は開かれている。
先日のような、あからさまな敵意はない。
それはアベルがクンケルに謝罪したうえに、公爵家という貴族最高位の家柄に属しているからだろう。
貴族の世界は家格、家柄、まずはそこで決まる。
その後、アベルはベルティエや武帝流の上級者と体力を振り絞るように連戦をした。
あえて技を選んで戦ったので不利となり、木剣を体に入れられることもあった。
ノアルト皇子も木剣を持ち、訓練に参加している。
相手をしているのはクンケルだった。
どうしたわけかノアルト皇子には力を振り絞る必死さがあった。
皇族だから適当にやってもいい、というような余裕が全くない。
アベルは冷静に観察する。
剣には精神状態が現れるというのは、本当の事だ。
ノアルトには何か重圧があって、そうしたものを力で破壊したいというような、そうした気配を感じるのだった……。
アベル以上に稽古の申し出が多いのはカチェだった。
大勢の者が、我も我もと希望している。
カチェは十人まで順番を決めてから応じた。
相手が男爵家の者でも伯爵家の者でも、対等な態度で接する。
試合となりカチェは完全な本気モードになっているらしく、常に全力。
結局、十人抜きをして一敗もしなかった……。
稽古を終えた者たちは口々にカチェの見た目とは裏腹な、攻撃的で意外性の強烈な剣技を話題にした。
彼らにしてみると実戦で練り上げられた動きは驚異と映るらしい。
夕方までアベルたちは鍛錬を続ける。
一休みしていたアベルのもとにルネがやってきた。
「私、今度こそはアベル殿に勝ってみせます!」
ルネの顔には負けん気が表れていた。
少年のような雰囲気のあるルネがそういう表情をしていると、なんだか不思議な可愛さがあった。
カチェと同質のものを感じる。
そろそろ訓練が終わる時間であった。
門弟たちはクンケルに挨拶をして、帰路に着く。
クンケルは師範として尊敬されているのが、はっきり分かる。
単に技術があるというだけでなく、人望があった。
指導者として優れているのだろう。
良い師というのは、とにかく生徒の情熱を育てるのが上手い。
熱心なようでも、やる気を失わせるような教え方をする人物は結局のところ人を育てることができない。
同じ剣士でも例えばヨルグとは比較にもならない。
ノアルト皇子は、このまま鍛錬所で人に会うなど用事があるらしく残ることになった。
アベルの横にいるカチェにノアルトが別れの挨拶をしてきた。
普通は目下の者から声は掛けるものなのだが……。
「カチェ。残念だが今日は別件がある。バース公爵の邸宅には行けない」
「はい。またの機会をお待ちしております」
「うむ! 明日か、それが無理でも明後日には再びそちらへ行くからな」
「では、また訓練などをさせていただきたく思います」
ノアルトは訓練を終えてすっきりした表情をしたカチェを、どこまでも好ましい感情で見た。
カチェの態度は、もちろん丁寧なものであるが、それでいて媚というものがなかった。
洗練された敬意のようなものを感じる。
ノアルトにしてみればもっと砕けた態度でもいいのだが、そこまで求めるのは無理というものだ……。
一緒に居て、会話をして、これほど心地いい相手はいなかった。
陰険な者や強欲そのもの人間を相手にする政治。
少しも安らぎや喜びを与えてくれない婚約者カミーラ。
ここのところ、いよいよ健康を害してほとんど政務が執れない父、ウェルス皇帝。
悩みばかりの日々であったのだが、カチェと接していると爽快な気分になる。
別れが惜しい。
側近にして、ずっと手元に置きたいぐらいだった。
「私はカチェに、さんざん負けたからな。やはり一本ぐらいは取り返したい。鍛錬せねばな」
「立ち合いではこのカチェは手加減しません。それはかえって無礼です」
ノアルトは思わず笑顔で頷いた。
この正直さ。
これが欲しいのである。
「では、ノアルト皇子様。本日はこれにて失礼します」
カチェは貴族の礼をして、帰っていく。
ノアルトは背中をつい目で追う。
アベルと親し気に話をしていた。
二人はどういう関係なのだろうかと考える。
本当に恋人同士なのだろうか。
別に確認したわけではないのだった。
ただ、単に勘と言うか、二人からそうしたものを察している状態である。
願望が、もたげてくる。
二人は戦友のようなもので男女の仲ではないのではないか。
自分の早とちりではないのか……。
そう思い付けば、そうあって欲しいとしか考えられない。
アベル。
親が非嫡出子とはいえバース公爵の孫である。
頼りになる老臣の縁者に嫉妬などしてはならない……。
今日は再び、アベルの腕を確認した。
鍛錬なので色々と試しながら立ち合いをしているようであったが、それでも腕前はさらに知れる。
前日、クンケルと接戦をしたのは偶然などではない。
バース公爵が引き立てて欲しいと頼むのも理解できるものだった。
どう接するべきなのか……。
準備が整い次第、バース公爵は孫たちの帰還を祝う祝賀会を盛大に催すという。
それが済んだらバース公爵に頼んでみるのも手だとノアルトは考える。
カチェほど有能な者を手放したがらないはずだとは想像できるのだが、それでも欲しい。
もはや、これは恋慕の念なのだと、自覚はあった。
これからカミーラと正式に結婚をして、政治や戦争に注力しなければならない。
そんな矢先に恋は考えてはならない事なのだろうか……。
ノアルトに迷いが生まれる。
だが、心は情熱に炙られ、いつまで秘しておけるか己でも分からないのだった。
アベルたちはバース公爵の邸宅に戻った。
ロペスなどは久しぶりに思う存分、鍛錬できたので機嫌が良かった。
対してモーンケは暗い。
第四階梯の相手に厳しく打ち込まれてからは、もう稽古は止めてしまっていた。
「アベル。わたくし、今日もそちらに行きたい。アイラ様に挨拶しておきたいわ。ツァラとも遊びたいし」
「父上はカチェ様が来てくれて喜んでいましたよ」
「えっ! 本当に!」
アベルが思わず、おっと声を出すほどカチェは激しい反応。
満面の笑みで、瞳から喜びが溢れていた。
ちょっと唖然としてしまう。
「もう……やだわ。おとうさま、じゃなかった。叔父上様から認めていただけたのね。嬉しい……」
――なんだなんだ?
どうも女の子の喜ぶポイントは分からない……。
いや、分かったぞ。
ウォルターは渋い男だもんな。
気に入られれば嬉しいに決まっているか。
「カチェ様。今日はいい鍛錬ができました」
「そうねっ!」
「実は最近、ずっと前に一度だけ一緒に戦ったことのあるヨルグという人と稽古をしているのです」
「ああ。憶えています。イースの親戚でしたか」
イースは家族の秘密をアベル以外に語ってはいない。
カチェなどは詳しいことを知らないはずだ。
「それが、なかなか厳しい稽古で……。ちょっと精神的に辛かったのです。でも、カチェ様やベルティエと訓練できて良かった。気分がマシになりました」
「アベルって溜め込む性格だもんね。わたくしに出来ることなら……何でもしますよ」
カチェから柔らかな気遣いと優しさを感じる。
あのヨルグという男の世界は、血と憎しみに塗れていた。
それが死を前にして、ますます吹き荒んでいる。
奴の持っている夢幻流の技は凄まじい。
しかし、怨念に終始した生き方までも、そのまま受け取る気はない。
だが、ヨルグはそうした念をも技と共に託してくる。
それは凄まじいパワーでもあるが、対処を誤ると狂気の世界に突入してしまいそうだった。
そこに引き摺りこまれるわけにはいかない。
――俺は正義の人間になろうという気はないけれど。
でも、優しさを失った人生にも価値を感じないんだよな。
ウォルターを見ていればそれがよく分かる。
イースだって内面には優しさと美意識があって……。
いつも俺を守ってくれた。
ヨルグとの師弟関係は、一つの勝負なのだ。
そう気が付く。
怨念と妄執に染まり切った男の教えに飲み込まれるか……それとも消化できるか。
隣にいるカチェに感謝の念が湧いてくる。
ヨルグが粘りついた暗闇とするなら、こちらは爽やかな風のようだ。
カチェはいつになく情熱の籠った視線で見詰めてくるアベルに気が付いた。
間違いじゃない。
心臓が高鳴ってきた。
アベルはどこか陰鬱な視線をしていることが多いのに、今に限ってその気配はない。
どうしたのだろうか……?
これは、ついに心が通じ合ったのだろうか……。
アベルはイースのことを忘れられずに、苦しんでいるはずだった。
問うて確かめたわけではない。しかし、悩んでいないはずがないのである。
自分にできることなら、何をしてもいいとカチェは思っている。
最悪なのはイースを追ってアベルがどこかに行ってしまうことだ。
それだけは止めてほしい。
「カチェ様」
「はい」
「ありがとう」
何に対しての感謝なのか、カチェには分からない。
だが、アベルが心から口にした言葉なのは伝わってきた。
続きはないのかと待つ。
愛の言葉は……。
だが、アベルは家路を促した。
先へ歩いていってしまう。
肩透かし。
不満はあるが、今はただ一緒に居られることに感謝しようとカチェは思う。
恋心は秘しておくしかない。
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