第81話  君の名は

 



 これほどまでに自分を翻弄し続ける、まだ年若い男女は何者なのだろうかとノアルトは考える。

 一つだけ分かっていること。

 ハイワンドの血縁者らしい。

 追求しなければならない。

 ノアルトは絞り出すように言う。


「もっと証しを出せ。信じさせてみろ」


 ノアルトが名すら知らぬ少女は答える。


「では、バース公爵様のお屋敷に行きましょう。公爵様に真偽を確かめられてください」

「いいだろう! 馬を用意しろ!」


 カチェは家紋メダルをノアルトから引っ手繰るように取り戻すとアベルに返した。

 もし、少年に手を出したならば命を懸けて戦うぞ、という気迫に満ち満ちているのをノアルトは、まざまざと感じた。

 どうしようもなく胸が痛んだ。

 命を捨てても守り合う仲とは……。


 馬に乗り、一行は急いで貴族区の道を進む。

 師範クンケルと隣に控えていた女剣士の二人も只事とは思わなかったらしく後を追ってきた。

 互いの屋敷はそれほど離れていたわけではない。すぐに公爵家の門に到着した。

 ノアルトは苛立って、叫ぶ。


「開門! 早くしろっ!」


 そのまま輝くような大理石で作られた大邸宅へ直行。

 ノアルトは馬を馬丁に預けもせず、そのまま扉を開けさせて中に飛び込む。

 逸る気持ちのまま邸内を駆けた。

 女官や警護の者が、何事かと見ていた。

 二階にある公爵執務室の前、控室に飛び込んだ。

 家令のケイファードがいた。


「バースはいるか」

「今、お呼びします」


 素早く家令ケイファードが扉をノックして、中の声を確認する。

 こうした機敏な取り次ぎができるところ、ノアルトはハイワンド家の家令を気に入っていた。

 重厚な扉が開かれる。

 ノアルトは執務室に入るなり、叫ぶように聞いた。


「紫の瞳をした少女。彼女はバース公爵の孫か?」


 いささかも表情を変えずにバースは頷いた。


「さよう。孫です」

「戦死したのではなかったのか!」

「つい先日、帰ってきました。儂も意外に思った次第にて」

「アベルという名の少年は」

「やつも……血縁者です」


 ノアルトは思わず老臣を追及するように質問した。


「なぜ、私に隠した!」

「隠すつもりなどありません。ただ、いささか礼儀作法を忘れていた様子でしたので、教育をしておるところです。しかる後に公表する手筈でございました。もう数日以内にはお知らせするつもりでありましたぞ。儂の孫、ロペスとモーンケも帰ってきております。こちらは……もともと最前線の荒れた気風に耐えられるように教育したつもりが、いささか行き過ぎてしまったようでございます。もう、まったく山猿か流浪の武人のごとしで」

「そうか。……なるほど。事情は理解した。名前は、いや、いい。私から聞くとする」


 ノアルトは踵を返して執務室を出る。

 控室に全員が待っていた。

 決して名前を教えない少女の前に歩む。


「今、バース公爵から確認が取れた。さあ、私に名前を教えろ」


 真っ直ぐに少女から気高い視線で目迎されて、帰って来た言葉。


「貴方こそ、誰なのですか」


 ノアルトは言いよどむ。

 この者もまた、ウェルス皇帝の息子と知れば態度を変えるだろう。

 心に壁を作り、態度を装い、さらには媚びる。


 悔しかった。

 この快活で生き生きとした少女も自分を皇子としてしか見なくなる。

 黙ったノアルトをユーディットは複雑な心境で見つめる。

 何を迷っているのか、長年の付き合いだけに理解できた。

 哀れだった。

 カチェは首を傾げて答えようとしない相手に、もう一度聞く。


「どうしたのですか? ……別に言いたくないのでしたら結構です。確認は取れたのでしょうから、わたくしたちはこれにて失礼します」


 少女は淡々とした様子で去ろうとしていた。

 ノアルトは掠れた声で慌てて呼び止める。

 策も話術も何もない。

 このまま別れるぐらいならば権威を拠りどころにひれ伏せさせた方が、まだいい。

 話しぐらいはできるのだから。


「待て。私は全世界にあって唯一正統なる国家。皇帝国における第三皇子、ノアルトだ。その真名まなたるところ、ノアルト・ヘリオ・アヴェスタ」


 カチェは自分でも冷静だなと感じる。

 心臓が高鳴るわけでもなく。

 自然と、ああそうかと考えるだけだった。

 何も怖くはない。

 自分とアベルは一つも悪いことはしていない。


「もっと驚くかと思ったのだが」


 知的な褐色の瞳がカチェのことを探るように見ていた。


「皇帝国の貴族として皇族の御方に見えること叶う名誉の日、いずれは来ると思っておりました。わたくしはカチェ・ハイワンドでございます。ハイワンド家、嫡男ベルルの長女です。父ベルルは王道国との戦の最中、行方不明でありますが」


 アベルも一応、畏まって貴族の礼をして名を言う。


――皇子様? マジかよ……。


 ノアルトはアベルの名乗りに、なにやら引っ掛かるものを感じたようである。

 明るい褐色の瞳に疑念の色を浮かべて聞いてくる。


「アベル・レイ? なぜ、ハイワンド氏を名乗らない。バース公爵の孫であろう」

「僕の父親はバース公爵様の非嫡出子です。よって正確にはハイワンド家の者でありません」

「では、公爵家の者であるという説明は半ば嘘になるな。私を謀ったか」


 アベルの立場が悪くなりそうなのを察したカチェが慌てて説明に入る。


「アベルはハイワンドに貢献抜群の者です。複雑な内情があり、家の秘事でもあります。どうかご容赦ください! ご気分を害されたなら全てこのカチェの責でございます」


 カチェの必死の顔色を見ているとノアルトはそれ以上追及する気になれなかった。


「まあ、いい。許す。ただし、アベルとやら。今はお前をハイワンド公爵家の者として扱わない」


 アベルは沈黙のまま頭を下げた。

 貴族の世界とは、かくも堅苦しいものか……。


 それから失礼にならない程度にノアルト皇子を観察する。

 賢そうで、なおかつ尊大であるが、それでも十分普通の範疇に入る男のような気がした。

 隠しているだけかもしれないが。

 例えば、どうしても記憶から蘇る人物たち……。

 イエルリングやガイアケロン、ハーディアらが持っていた破格の何かは感じないのだった。


 ノアルトの興味はカチェに集中していた。

 半ば祈るようにノアルトはカチェに話しかける。

 頼むから、へりくだらないでくれ。

 利益を狙っておもねらないでくれ。

 さっきまでように、自由に振る舞ってほしい。


「カチェ。君のことを知りたい。聞かせてほしい」

「わたくしの何について、でしょうか」

「戦死したと聞いていた。バース公爵の息子も孫も」

「説明が難しゅうございます。できればノアルト様のみにお伝えしたくあります」

「いいだろう! だが、俺の側近たちは外せない。全員、子供の頃から私を支えている」

「ここで、今から話せばよろしいのでしょうか」

「立ち話で済ませるつもりはない。遊戯室に行こうか。あそこならば、ゆっくり話せる。ベルティエ。赤の葡萄酒を用意させろ。香りの華やかな飛び切り上等のやつがいい」


 アベルはついて来いとも去れとも言われなかったので、どうしようかと考える。

 ちょっと逃げたい気持ちもある。

 するとバース公爵が執務室から出てきて、命じるように言うのだった。


「アベル。お前もノアルト皇子様を接待するのだ」

「こ、公爵様。接待と言っても、僕は作法など何も知らないです」

「給仕をやれという意味ではない。お傍に控えて、何か聞かれたらお答えするのだ。頼むぞ」


――はぁ~! めんどくせぇ!


 アベルは仕方なしにカチェの後に続く。

 大邸宅の内部は、まだほとんど歩いていない。

 いったいどこにどういう部屋があるのか、未知の状態であった。


 色とりどりの陶片が散りばめられた廊下を歩く。

 このように美麗に飾られた床などアベルは始めて見た。

 一階の南側に遊戯室があった。

 遊戯室と銘打たれただけあって、サイコロや駒を取る遊びのためだけに使われる専用台が複数もあった。

 いずれも上等な木材を優雅に加工した作りになっている。

 遊戯室の壁にはモザイク画があって、男女が踊りを楽しんでいる様子が表現されていた。


 布張りのソファに、ノアルトは鷹揚に座った。

 カチェには相対する位置に座るように促した。

 アベルは部屋の隅の方で、目立たないようにする。


「まず、ポルト籠城戦からお話ししたらいいのかしら」

「好きなように語って聞かせろ」


 カチェはハイワンド騎士団がリキメル軍団と死闘を繰り広げたポルトでの戦いから説明する。

 アベルとイースが王道国の王族と決闘をしたことも伝えた。


 決闘の話しを耳にしたベルティエとギョームという側近は、本当に驚いた様子だった。

 王道国に輝く二人の英雄、ガイアケロンとハーディアとの決闘を引き分けた者がハイワンド騎士団にいたというのは、そこそこ有名な話しだった。

 しかし、決闘をした者はその後、早々に戦死したというので、すぐに消えた話題でもあった。

 その決闘をした者こそアベルだという。

 ベルティエは改めてアベルを感嘆と共に眺めた。


 カチェの説明は続く。

 語り口に緊張は無かった。

 過剰に畏まるわけでもなく、普段より少しだけ礼儀正しいというぐらいの態度。

 ノアルトはそんな様子のカチェに安心した。

 どこにも媚がないのが、特に好ましい。


 説明は、いよいよ城の壁が崩されて落城寸前というくだりになった。

 悲壮で緊迫した情景が目に浮かぶような、上手い語りであった。

 アベルも思わずあの時のことを思い出す。

 懸命に戦って時間稼ぎをしているのに、援軍は全くなくて……。

 とうとう明け方、城壁が崩されてしまい、そこからリキメル軍団の将兵が押し寄せてきた。

 ロペスは本城に騎士団員を集めて、秘密の地下道から脱出させたのだった……。


「そのようにして、わたくしたちは死守命令をやり遂げました。お城に敵兵が何千人も押し寄せてきたので自爆の用意を整えてから、飛行魔道具に乗ってリキメル王子の本陣に突撃を仕掛けようとしたのです……。しかし……、やはり飛行魔道具という複雑なものは思っていたように動きませんでした」


 カチェはカザルスについて伏せることにした。

 彼がロペスたちを騙していたと余りにも強調されれば、せっかくの許しが危うくなってしまう。

 本来、穏やかな研究者であるカザルスを巻き込みたくなかった。


「信じていただけないかもしれませんが、暴走した飛行魔道具が着いた先は大陸の東端。それも海を越えた島だったのです」


 ノアルトは頷いた。


「もの凄い話しだ。だが、私はカチェが嘘を言っているとは思わない。それから、どうなったのだ」

「島には先着者がいました。双子の老人で、共に魔道具の製作者であったようです。やはり同じように飛行魔道具が制御不能になり、誘導施設というものが現存する遺跡まで飛ばされたのでした……」


 海にも密林にも奇怪な魔獣がいたことや、見たことも無い珍奇な生き物と植物の生態などを語る。

 それから、島で協力しながら食べ物を獲り、船を作って大陸に移動することになった。

 しかし、船を作るのは苦労したこと。

 ライカナという考古学や歴史の分野では高名な学者の協力があって、やっと完成したことを語る。

 いよいよ出帆したときの興奮は今でも忘れられないとカチェは笑顔で説明した。


 ノアルトはカチェの話しに、たちまち夢中になった。

 どれもこれも普通なら疑いなしに信じられるような説明ではなかったのだが、直感的に真実と思える。

 それにカチェの見聞は具体的かつ明確で、刺激に満ちたものだった。

 子供の頃に読んだ魔獣界の探検記とも一致するような話しの内容でもある。

 とても疑えるようなものではなかった。


 とりおり葡萄酒を飲み、長い話しは続く。

 ノアルトは時間を忘れた……。


 密林を越え、アスという名の魔法使いに出会ったこと。

 その人物の協力を得られて巨大な飛竜に乗り、砂漠を横断したというくだりで日が暮れてしまった。

 開けられた木戸から見える庭園は華麗な様子を、すっかり暗闇に沈めていた。

 ユーディットが、そろそろ戻らなくてはならない時間だと告げる。

 ノアルトは子供のように頭を振った。


「私は、まだ話しを聞きたいぞ! 帰りたくない!」

「ですが、直衛隊の者やテオ様が心配なさいます」

「拒否する!」


 さすがに語り疲れていたカチェは、いい機会だと思った。

 その説得に加わる。


「ノアルト皇子様。食事のこともありますから今日は仕舞いにして、続きは後日にいたしませんか」

「食事はここで食べる。バースが断るはずがない。寝室の手配もしてほしい。兄上にはギョームが連絡してくれ」

「……」


 カチェは絶句した。

 冷静なように見えてノアルトは聞き分けのない子供じみた一面があった。

 よく言えば熱心だが皇族としては軽々しい態度だ。

 アベルも呆れる。

 これだけ相手をしてやっているのに今度は飯を食わせろと来たものだ。

 それに寝室ということは、泊まっていくつもりか……。


 ベルティエは素早く動いた。

 聞き分けのない状態になったノアルトは上手く包んでやらないと深刻な不機嫌に陥る。

 数日間、苛立つノアルトに付き合うのは骨折りにすぎるというものだった。

 それにノアルトが、これほど楽し気な様子を見せるのは久しぶりのことであった。

 なんとかしてやりたいとベルティエは考える。

 とにかく、語り部であるカチェを了解させないとならない。


「カチェ様。ノアルト様のご意向を汲んでいただけないでしょうか。バース公爵様には、これからこのベルティエめが事情を伝えてきます」

「ベルティエ! 貴方……」


 ユーディットが非難の声色でベルティエの名を叫ぶ。

 だが結局、ギョームもノアルトの希望を叶えるべきだと賛成に回り、ベルティエが遊戯室を出て、ケイファードへ食事と寝室の用意を頼んでしまった。

 直ぐに返事があり、バース公爵は断らなかったためノアルトの要求は通ってしまった。

 ギョームはさっそく直衛隊に伝えて来ると言って、部屋を去っていく。


 カチェは内心、困惑していた。

 今日こそはアベルとゆっくり過ごすつもりであったのだ。

 シャーレという娘にも邪魔されないようなところで……。

 それが、全く狂ってしまった。

 どうして、こうなってしまったのか……!


 カチェは銀杯の葡萄酒を飲む。

 話し続けていたから喉が嗄れてきてしまった。

 少し休んでから、お話し再開。


 砂漠の壮大な景色、奇怪な巨大蠍との戦い、ホロンゴルンという亜人界の街に着いたときのことを説明した。

 現地では香辛料の取り引きが盛んで、価格は非常に安いということなど……。

 ホロンゴルンではそこらの居酒屋で、皇帝国では貴重極まる香辛料がふんだんにかけられた肉料理などが味わえる、というような事を伝えた。

 ノアルトはどんな味であるのか、ひどく興味を掻き立てられる。


「どんな風味の料理であったのか。言ってみろ」

「味の表現は難しゅうございます。皇帝国ではほとんど出回っていない香辛料をいくつも混ぜた肉料理であったかと。ノアルト皇子様は肉の串焼きなどを立ったまま食べたことはありますか」

「軍陣ではだいぶ粗野に物を食べたものだが、さすがにそういうことはないな」

「あの、街の露店でよく売っているのですけれど。そういうものに舌や鼻を心地よく楽しませる香辛料が混ざったものです。たぶん、ソースを塗ってあるだけではなくて漬け込んで肉を柔らかくさせていたのだと思います。他には煮込み料理もありました」

「う~む……。食べてみたいぞ!」

「では、今度、わたくしとアベルが再現してみましょう」

「カチェは料理までするのか」

「旅の間に覚えました。大した物は作れません。肉を捌いて焼いたりするぐらいです。それでも少しはコツというものもありますが。料理はアベルの方が遥かに上手です。カツレツという珍しい料理が作れます。本当に美味しいのですよ」

「……そうか」


 話す内容はまだまだ尽きないのだった。

 なにしろ様々なことがあった旅だ。

 北方草原に到達してユーリアン氏族のウルラウと出会ったあたりでは、特にノアルトは興味を示した。

 戦争やディド・ズマの配下について、強い関心があるようだ。

 ウルラウの率いる部族に合力して傭兵たちと激しい戦闘をしたときの話しをしていると、ケイファードが食事を知らせてきた。


 一端、食堂に行く運びとなった。

 遊戯室の前でクンケルと女剣士が直立不動で立っているのをアベルは見かける。

 声を掛けた。


「警護、ご苦労様です」


 二人は直立不動で答える。

 クンケルの表情は岩のように厳しい。


「いいえ。私たちはアベル様に謝罪をするため、お待ちしておりました」


 そう言うや師範クンケルと女剣士が共に頭を下げた。

 アベルは途惑う。


「え。謝罪?」

「ハイワンド公爵様の御親戚とは知らずに、危害を加えるような素振りをしました。これは罪であります」

「話しを聞いていたとは思うけれど僕は正式にはハイワンドの人間じゃないので。気にしないでください。だいたい、こちらの方こそ挑発をして勝負に持ち込むとは失礼なことでした。でも、どうしても第八階梯の人と戦ってみたかったのです」

「だいぶ、卑怯な手を使いました。あの試合、アベル様の勝利でございました」

「いえ、僕の負けです。あるものを使うのは兵法というものです。予測しておくべきでした……。凄くいい勉強になりましたよ」

「お許しはいただけたと思ってもよろしいのですか」


 師範クンケルは、それまでの顔を一変させて柔和な表情になった。

 そういう顔をすると性格のいいおじさんのような雰囲気になる。

 つい、油断してしまいそうな……。

 

 しかし、盾を使うことを計算の上で動いたり、かなり策謀的に戦うのを得意としている男のような気がする。

 一筋縄では通用しない人物だろうとアベルは想像した。


「お許しも何も初めから怒ってなどいません。僕など取るに足りないものです」

「なにを言われますか! アベル様、貴殿には天稟を感じます。なにとぞ、また鍛錬所に来てくだされ。武帝流の神髄を娘ともども力の限りお伝えさせていただきます」


 女剣士はクンケルの子だったようだ……。

 狐色をした髪を少年のように短くさせた娘は、畏まった態度でいる。

 緊張しているらしい。

 大人びているが、まだ十八歳ぐらいのようにも感じた。

 流派の神髄を教えてもらえるというのは本当のことなら、またとない良い話しであった。

 ただ、アベルはまだ裏に何か考えがあるかもしれないと感じる。


 アベルは目礼をして別れた。

 大貴族の血筋と分かっただけで、クンケルのような強者も態度を変えなくてはならないのが封建社会というものだ。

 似たような状況は、前世の一族経営の会社でもあったけれども……。

 

 アベルはカチェの行く先、晩餐室へ向かおうとした。

 ところが皆の姿はすでになく、目的の部屋へは行ったことが無かったので場所が分からない。


「まったく、なんて広い屋敷だよ……」


 歩いていた女官に場所を聞き出し、やっとのことで辿り着く。

 扉を開けると数十本の燭台に火が灯されていて、なかなか明るい。

 カチェとノアルトは広い机の中央に向かい合って座っていた。

 バース公爵もいる。カチェの隣に座っていた。

 当たり前であるが、バース公爵はこの屋敷の主でノアルト皇子は大切な客だから、同席していなければおかしい。


 ベルティエたちは部屋の隅の方で待機している。

 戦争の最中なら騎士と従者が同じ食物を共に食べるということもあるが、普段なら従者と主人は食卓を共にしない。

 従者は主人の食事においては給仕をするものだ。

 葡萄酒を注ぎ、料理の出番を調節し、さらには肉を適切に切り分けたりなど、かなり忙しい。

 また、場合によっては毒見もする。

 アベルが見渡すと、室内に女官などはいない。

 極力、人払いしているらしい。

 バース公爵はノアルト皇子をよほど大事に扱っているのが感じられる。


 カチェは不満だった。

 今日はアベルと二人で食事をするつもりだった。

 ところが、食卓にはバース公爵、ノアルト皇子と自分の分しか席は用意されていなかった。

 ノアルトは席に着くなりカチェに話しの続きを促した。


「ええと。それでは、友誼を結んだユーリアン氏族のウルラウという女性のことを話します。ウルラウは非常に聡明な人物でした。わたくしたち外来の者でも、正しい意見を述べれば即座に採用しました……」


 カチェの冒険の語りは、細かく説明すれば数日あっても足りない。

 あまり長引かないように端折らなくてはならなかった。

 ところが話しの中にはアベルの話題が避けられない。

 カチェは、いつしか自分でも気づかないうちにアベルがどれほど強くて機知に敏いか、身振り手振りを交え笑顔で熱心に伝えた。


 ノアルトは複雑な心境になる。

 十歳近く年下の、それも目下の者を妬んだことなど一度もない。

 皇族の誇りとして、そんなことはしたくなかった。

 だが、カチェが喜びと共にアベルの話題を口にすると……心は揺らいだ。

 つい、酒が進む。


「バース公爵。私は飲み足りない。付き合ってくれるな」

「もちろんでございます」


 バース公爵は普段の厳めしい表情を嘘のように消している。

 今は人当たりの良い微笑を浮かべていた。

 会話にはほとんど加わらず、カチェの語るままに任せていた。

 どうやら皇子はカチェの話しに興味があるので、それを邪魔しないようにしていたようだとアベルは察した。


「ベルティエ。次は口当たりのいい白が飲みたいぞ。エンテリウス産のものがあるだろう」

「はっ。探してきます」


 部屋を出ていくかと思えたベルティエがアベルに話しかけてきた。


「ちょっと来てくれないか。手伝ってくれよ」

「分かりました……」


 そう言いつつアベルとベルティエは晩餐室を出た。

 慣れた様子で、ずんずん歩いていくベルティエにアベルは付いて行くだけだ。

 これなら手助けなどいらないのでは……とアベルは不思議に思う。

 ベルティエが振り返って、からりとした笑顔で言った。


「今日は忙しい一日だったな。もう一度名乗っておこうか。俺はドット・ベルティエだ。ベルティエ伯爵家の三男坊。アベルとは同格ということでいいか?」


 赤褐色の長髪に、すらりとした身の丈、雄々しくも整った相貌の彼がそうした気さくな態度を取ると、実に優雅かつ洒落ていた。

 よほど心の捻じれた男でもなければ気を許してしまうだろう。


「同格っていうか……僕の方が完全に格下ですけれど」


――本当はただの騎士見習いなんだよ。

  会社で言えば、せいぜい契約社員だぜ。


「そんなことはないさ。アベルはハイワンド家の郎党だろう」

「貴方の方が年上でしょう。先輩でいいですよ」

「そうか! まぁ、よろしくな!」


 ベルティエは勝手知ったるという態度で、まず食器室に行った。

 無数の皿や器が、整然と棚に収納されている。

 この世界、葡萄酒は硝子のボトルに入っているわけではない。

 大小の樽や甕に入れられて、保管というか熟成されている。

 それを素焼きのデカンタなどに移し替えて、あらためて杯に注ぐのである。

 ベルティエは棚から銀製の首の長い器を取り出した。

 それから銅製の杯がいくつか納められた箱を取り出した。


 次にアベルとベルティエは葡萄酒の保管庫へ行く。

 地下にあるらしいのだが、階段を降りた先は完全な暗闇であった。

 アベルは「魔光」を唱えた。

 あてやかな、やや紫色を帯びたアベルの魔光が地下蔵を照らす。


「珍しい色の魔光だな」

「そうみたいですね。普通は青白いから……」


 高価で味の良い葡萄酒は使用人などから盗まれやすいため保管庫には鍵が掛かっている。

 ベルティエは鍵をちゃんと持っていた。


「鍵をいつも持っているのですか」

「さっき、ケイファードさんに借りておいた。今日はたくさん飲む気配があったからな」

「ははぁ。気が利きますね」

「皇子の側付きは長いからな。だいたいのことは、分かるさ……。今夜は珍しいぐらい上機嫌なんだ。ここのところずっと嫌な報せばかりでな。なんとか気晴らしをさせてやりたい」


 中に入ると三段になった大きな棚に葡萄酒の樽が並んでいる。

 一抱えはある大きさの樽が全部で五十はあるだろうか……。

 ベルティエは白を用意しろと言われていたのに、赤の葡萄酒の樽ばかり見ていた。

 樽に色と産地、年代が書かれているから間違えないはずだ。


「ベルティエさん。そっちじゃないと思いますけれど」

「いいんだ。これで」


 ベルティエは葡萄酒樽の栓を引っこ抜き、持ってきた銅製の杯へ注いで飲み始めた。


「毒見という名目の、ちょっとした役得さ。ベルンカ産の上等品だ。美味いぞ。アベルも飲めよ」


 笑顔になったベルティエは同じ杯を渡してきた。

 断りにくい雰囲気を作るのが上手い男だった。

 アベルは赤い葡萄酒を飲む。

 たしかに、濃厚で深い味わいの酒だった。

 安い居酒屋などで出てくる水で薄めたような葡萄酒とは、わけが違う。


「どうだ。いい香りだろう」

「はい」

「アベルは物凄く強いな。クンケル様と……引き分けだった。君の年頃で武帝流第八階梯の師範と、あそこまで遣り合える者など俺は始めて見た。驚いている」

「しょせんは僕の負けですよ。全然、足りません。僕の目指している人は、もっと遠くまで自分を高めています」

「おお。志があるな。アベルならきっと皇帝国を支える人材になるぞ」

「……」

「ノアルト皇子はご気性に強いところもあって……その……色々とお悩みがあり、今日のように我儘を言う時もある。しかし、本質的には素晴らしい御方だ。アベルもよく仕えてほしい。まぁ、バース公爵様の身内の君に言うほどの事でもないのだが」


 貯蔵庫の暗がり。

 ベルティエは誠意の感じられる表情で、そんなことを言ってきた。

 アベルは内心、複雑になる。

 自分が皇帝や皇族のために忠誠を誓う。

 そして、どんな命令も実行していく……。

 そういう将来は、どうも描きにくい。

 だいたい亜人を差別しているような国だ。

 あのイースを迫害するなど……許すことは絶対にできない。

 アベルは曖昧に頷いて、濁した。


 頼まれていた葡萄酒を見つけたので、銀の器に移し替えてアベルたちは食堂に戻った。

 ベルティエが良く磨いてある新しい杯を用意して、カチェとノアルトの前に置き、酒を注ぐ。


 ちょうど子羊の肋骨付き肉料理を食べ終わったあとだった。

 その後、白パンが少し追加されて、温野菜の料理となる。

 ノアルトは、せっかちなのか料理を次々に持って来させていた。

 こういうところにも性格が現れる。

 そして、晩餐の最後が蜂蜜を使った甘いお菓子とお茶。

 ノアルトはお菓子もお茶も断って、酒を飲み続けていた。


 食事が終わった後に室外で控えていたケイファードが晩餐室に入ってきて、いつもならば就寝の時間だと告げた。

 カチェは疲労を訴えると、それでやっとノアルトは納得して解放したのだった。



 アベルとカチェは一礼して部屋を出る。

 しばらく、無言で廊下を歩いた。

 もう、すっかり夜だ。

 僅かに青白い月光が感じられる。

 間隔を置いて燭台が壁に設置されている。

 蝋燭の代金も毎日となれば大きな金額になるので普通は限られた場所にしか灯りはつけない。

 このバース公爵の大邸宅でも事情は同じであった。

 ところどころ廊下の角だけに、蝋燭が設置されている。

 よって魔光の使える者は魔法を発動させて歩く……。

 二階に上がり何度か角を折れると、樫材で作られた木目の美しい立派な扉が現れる。


「ここが、わたくしの部屋です。内部は四部屋に別れていて居間、衣裳部屋、寝室、個室になっています」

「さすが公爵家! 僕は狭い部屋が一室で充分かな。そんなに部屋があっても使い切れないし……」

「今日は、なかなか面白かったわ。まさか皇族の方とお話しするとは思いませんでしたけれど」

「はい。僕も驚きました。それじゃ。僕は家に帰ります。食事もできなかったから、腹が減りました」

「あ、あの、アベル……ここへは、いつでも好きな時に来ていいんだからね」


 カチェは勇気を出して、俯きながら口にした。

 いつでも、来ていいのだ……。


 アベルは手を振って答え、速足で家に戻ってしまった。

 深い意味は、通じなかったらしい。

 カチェは鼓動が早くなった胸に手を置き、しばらく扉の前に佇んでいた。

 すると、廊下の奥からガチャガチャと音がする。

 何かと思って見ていると全身鎧を装着した女性騎士のクラリス・ラインだった。


「カチェ様。夜警に入ります! どうかゆるりと休んでください」

「……はい。ごくろうさま。……クラリス。ちょっと質問があります」

「なんでありますか」

「例えば、わたくしの部屋に夜、男性が訪ねてきたらどうしますか」

「それは無論、追い返します。というか、ほとんど犯罪でありましょう」

「わたくしの許しがあってもですか?」

「たとえ婚約者であろうとも正式な結婚をしていない公爵家令嬢の部屋に夜間、密かに訪ねるなど許されることではありません。カチェ様、そんな許しは決して与えてはいけませんよ」


 カチェは思い出す。

 そういえばガトゥはベルギンフォン公爵家の息女と密かに交際をして……信用を回復不能なほどに失墜させたのだ。

 本来なら重罪人のところ、戦死したガトゥの兄の功績を汲み取って追放程度で済んだのだった。


 カチェは扉を開けて、部屋の中に入る。

 アベルと会えるのは昼間だけのようだ。

 やはり、旅をしていた頃の方が、ずっと楽しかった。

 帰ってきてからは堅苦しいことばかりだ。

 星空を天幕にして、アベルやイースと共に眺めた天の川の美しかったことを思い出すのだった……。




 

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