第80話 アベルの挑戦
武帝流第八階梯の師範ヴィム・クンケルが試合の準備を始めていた。
反対する声が方々から上がり、うるさいぐらいである。
およそ百名の門下生。
皆、血気盛んな男女だ。
熱気や怒りが漲っていて何が起こるか分からなかった。
「静かにしろ! 落ち着け」
怪我から回復したベルティエは混乱を治めようと、大声で制した。
沈黙していたノアルトではあるが内心の動揺を必死に押さえつけていた。
全く予想外の展開である。
クンケルは、この鍛錬所を任された武帝流の師範。
師範が負けては武帝流の名声は地に落ちることになる。
武帝流は第二皇子テオと第三皇子ノアルトが数年前に立ち上げた流派だ。
つまり二人にとって反コンラート派としての重要な機関でもある。
この武帝流鍛錬所に出入りしているのは厳選された自派閥かつ貴族階級の者のみ。
みなテオとノアルトに忠誠を誓っている。
いよいよ激しさを増すコンラート派閥との戦いで必要な人材を育てる牙城と言ってもいい。
そこを守る師範クンケルが破れるなど、決してあってはならない。
さらには些かも傷などついてはならなかった。
つまり、本来は師範クンケルは戦ってはならない男だった。
クンケルが動くことなく、異物は叩き潰さなくてはならない……。
誰しもが、そう思っている。
それゆえに自分の命を犠牲にしてでも、突然現れたアベルという少年を止めてみせると、そんな主張が誰からも叫ばれていた。
皆の眼つきはギラギラと光り、殺気が渦巻いている。
ノアルトは自分が失策したのかと悔しさが込み上げる。
女戦士にこの鍛錬所の力を見せて反コンラート派に取り込むつもりだった。
いずれは自分の腹心にしてもいいと、そんな想像までしていたのだが。
しかし、現実と言えば師範クンケルに試合を決意させてしまった。
ノアルトは師範の様子を見る。
体を動かして、準備をしていた。
もう、ここまで動いてしまった師範を止めることは誰にもできない。
たとえ地位では上であるノアルトでも……。
クンケルは剣の師匠であり、ただの家来ではない。
戦士が誇りを守るべく試合に臨もうとしている。
どうしようもない。
ノアルトは猛烈に怒りが込み上げてくる。
自分の意図を、あのアベルという少年がバラバラに引き裂いてしまった。
目も眩むような思い。
だが、正当な勝負だったことには間違いない。
それにしても少年のなんという罵りだろうか。
クンケルに向かって宣伝用のじじい……などと。
命が惜しくないのか。
ノアルトはアベルという少年の無謀さに呆れるが、冷静な人間に見えていたので不審にも思う。
隠された意図があるのか、それとも本当の愚か者なのか、さっぱり分からない。
クンケルは木剣を手にする。
軽く素振りをしていた。
アベルはその様子を、じっと観察する。
体に固さが無かった。
それから不自然な動作もない……。
やがてクンケルは道場中に響く声で、一喝。
まだ、抗議している弟子たちをそれだけで鎮めた。
鍛錬所は、しんと静まり返る。
クンケルが近所の知り合いに、ちょっと声でも掛けるような感じでアベルに聞いてきた。
「少年。年齢を教えてもらえるかい」
「十六歳です」
「おおっ。若いな」
若年とは感じていたがノアルトやベルティエもその返事に衝撃を受けた。
しかし、嘘を言っているようには思えなかった。
「夢幻流の技を使っただろう。少年は夢幻流の門弟か」
「いいえ。門下生になったことはありません。師の一人が……使っていたのを真似ました」
イースと血の繋がりのない父親ヨルグは夢幻流の剣士だった。
その父の技を、いつしか体得したイース。そこからさらに受け取ったアベル……。
脈々と続く、技の伝達だった。
「不思議な少年だな。夢幻流だけでなく、他の流派の臭いもしたぞ。例えば攻刀流や他にも……」
これは言葉で揺さぶりをかけているとアベルは感じる。
お前の手の内は読めているぞ、というわけだ。
何度も目の前で戦ったので、それなりに観察され、手の内を知られてしまった。
すでに不利なのである。
もう黙って、首だけを振った。
それから構える。
心のスイッチを入れ替えた。
本当に殺すつもりで挑む。
そうでなくては勝ち目など絶無の相手だ。
「心を閉ざしたか。なんだ。その程度なのか?」
その問いかけをアベルは無視する。
ついにクンケルは運動を終え、自然な動作で構えて、向かい合った。
アベルは改めてクンケルの顔を見る。
四十代半ばから後半ほどの年齢。
褐色の目には、感情がない。
強いて言えば穏やかだった。
顔にも強張りはない。
身長はアベルより頭半分ほど大きいから、百八十センチぐらいだろう。
肩幅は圧倒的にクンケルの方が広かった。
体は極めて鍛えられている。
袖から覗く腕など筋肉で引き締まっていた。
単なる運動でならば十代、二十代が有利なのであろう。
しかし、武器を使った殺し合いとなれば話は別だ。
剣を振るう技術。相手を騙したり、動揺させる技術。
生命の危機に怯えない精神。
そうしたものの総合力の勝負。
体力だけが物を言うわけではない。
物言わぬ二人の男が相対する。
クンケルは木剣の柄を両手で持つ、素直な構え。
柄の位置は喉の辺り。やや上段に構えていた。
対するアベルは二刀とも上段に構える。
右手は頭上、最上段。
左手は斜め上。
試合が始まった。
アベルは攻撃に徹しようと決める。
相手の嵌め技が、どうしたものなのか分からない。
待つよりも敵の攻撃の下に活路を見出そう。
小細工に過ぎないかもしれないが、ワルトがやるような小跳躍を繰り返す。
普通の相手なら、まずこれだけで途惑わせることが可能だ。
それに対してクンケルは、ある種の舞踊のようなステップを踏んでいた。
規則的にも思える運動。
円を描いたと思えば、一瞬だけ直線の動きをして……。
じっと見ていると、引き込まれそうになる。
クンケルの手に載せられそうだと感じたアベルは打ち込みを決意。
前方に跳躍。
左の木刀を、するすると伸ばす。
ノアルトから見たアベルの木刀は、まるで毒蛇のようだった。
直線であるはずの木刀が歪んだがごとく、奇妙に軌道を歪めてクンケルの頭部に伸びていく。
ノアルトは冷や汗を掻きながら戦いを見詰める。
クンケルを信じようとするが、アベルという少年の駆使する異常な剣の気迫に呑まれそうになってしまう。
アベルはクンケルが防御と移動に集中しているのを悟る。
意図を見抜いた。
誘いだ。
そして、あえて後手を取り、勝機を掴む戦法。
後の先とも言うだろうか。
不用意な攻撃をさせて回避、しかる後に必殺の一撃を入れるつもり。
アベルは逆手にとってやると決心する。
賭けに出た。
間合いを詰めて、左右の木刀をしつこく振るう。
クンケルは一定の距離を保てるようにステップと防御を繰り返す。
アベルは仕掛ける。
焦って下手な攻撃をしたと見せかけた。
クンケルの体が対応するように変化。
後の先を狙ってきた、その瞬間。
アベルは大上段の木刀を持つ腕に力を籠め、振り下ろす。
投擲した。
豪速で放たれた木刀の切っ先。クンケルの顔面に目がけて飛ぶ。
クンケルは半身、仰け反って飛んできた木刀を避けたが、態勢が乱れた隙を逃さない。
接近したアベルは渾身の一撃を振り下ろす。
アベルの木刀とクンケルの木剣が激しく衝突。
双方の距離は至近となる。
もはや長い得物を振るえるような間合いではない。
クンケルは巧みにアベルの木刀をいなすと、木剣の柄をアベルの腕にぶつける。
そうした攻撃のために柄の先端は尖らせてあった。
アベルは腕に痛みを感じながらも、蹴りをクンケルの足首に食らわせた。
鉄の覆いが付いた長靴の蹴りは強烈なはずだった。
足を痛めれば、得意のステップは踏めなくなる。
クンケルはバックステップで後退。
アベルは追撃。
やはり蹴りの効果はあった。
隠しているが、クンケルの動きに僅かな歪みがあった。
アベルの心が獰猛に尖っていく。
あいつを追い詰めてやるという、ほとんど殺意に近い気持ち。
達人は勝負において心静かだという。
現にイースがそうであった。
しかし、己はまだそんな域ではないという強い自覚がある。
戦闘の時、相手が強ければ強いほど心は半ば狂ったようになり、力を振り絞ろうと躍起になる。
ノアルトを始め、鍛錬所の者たちは歯を食いしばりながら試合を凝視していた。
もしかすると師範が押され気味なのではと誰しもが感じる。
少なくとも互角だった。
師範の負けは、自身の腕と誇りの敗北である。
どうなっているのだと、皆、困惑と興奮の極みだった。
アベルは機が熟したのを感じる。
摺り足で近寄りつつ、竜殺流の極意を念じる。
イースが一度だけ説明してくれた。
竜殺流とは、もともと魔人氏族が邪竜を殺すために磨いた剣術だと。
邪竜は生命力が比類ないほど強力なゆえに最初の一撃で絶命させなくてはならない。
それが転じて竜殺流の本懐は、再撃なしと思い決め、初撃に全てを込めるものとなった。
イースの声が蘇り、脳裏に再生される。
たった一振りに真理を宿す。
それまで沈黙のまま木刀を振っていたアベルは、腹の底から雄叫びを上げる。
「うおおおぉぉおぉ!」
激しい魔力が篭ったような声の張りに皆、心臓を叩かれた。
クンケルは舞踏のようなステップを続けていた。
距離は、もうすぐそこ。
あと一歩で間合い。
壁際に追い詰めたとアベルが思ったとき。
クンケルは立てかけてあった鉄製の盾を取るや、間髪入れずに前進。
アベルの得物は本物の刀ではなく、木刀である。
盾を砕くことはできない。
アベルは卑怯な策に嵌められたと悟ったが、後退の隙は与えられなかった。
魔力を燃え上がらせて、大上段から竜殺流、渾身の斬撃を食らわせた。
アベル、神速の攻撃は誰の目にも捉えられなかった。
わずかにカチェやベルティエなど数名だけ、アベルの攻撃に合わせてクンケルの盾が動いたのを見た。
鉄製の盾が半ばまで、紙のようにひしゃげる。
しかし、そこで止まった。
クンケルが木剣をアベルの腹に突き入れた。
アベルは腹部に強い衝撃を感じた。
木刀を捨て、木剣を掴むと力任せに引き寄せる。
クンケルはあっさりと木剣を手放したので、勢い余って後ろにバランスを崩した。
アベルはクンケルが蹴りを入れてきたのを目で追った。
腹への打撃のせいで体は動かなかった。
左足に衝撃。
無様に石畳へ倒れた。
アベルは立ち上がろうとしたが、背中を踏みつけられて息もできない。
――やられちまった……。イース……。
訓練生たち、ノアルトですら歓喜の雄叫びを上げる。
あまりにも危険な、本当に限界の勝負だった。
しかし、師範クンケルが確かに勝った。
訓練生たちは誰しも思う。
とっさに盾を使うのは自由だ。
壁に掛かっている得物なら好きなものを好きなように使えとノアルト皇子は親切に教えてくださっていた。
それを見逃した奴が悪い。
そして、師範クンケルは見事に勝利し、傲慢な挑戦者の背中を踏みつけている。
相手のアベルという少年は地面で伸びている。
いいざまだ……。
クンケルは盾を持っていた手と腕に感覚がない。
手首を強く痛めていた。
辛うじて盾を落とさないでいた。
鉄製の盾が、激しく変形していた。
恐るべき斬撃だった。
もし、これが実戦で相手は業物の刀を持っていたら……盾ごと体を切り裂かれていたのは己だ。
クンケルは足元で悶えているアベルという少年に底知れない天稟を感じる。
さらに気になるのは表面的な技術ではなく、精神だ。
この、必死な、一途な行動。
罵詈雑言は明らかに試合へ引っ張り出すための挑発だった。
どういうつもりなのか、戦士としてクンケルは興味を持つ。
カチェは黙って歩み、アベルを踏みつけているクンケルに横薙ぎを与えた。
クンケルは回避するが腕の痛みが邪魔をした。
盾を取り落とした。
がらんと、大きな音を立てて床に落ちる。
美しい少女から炎の塊のような戦意が湧き立っていた。
「試合はもう終わったのでしょう。貴方も足と腕の治療をされてはいかが?」
その言葉でノアルトや訓練生たちは師範クンケルの左腕が、だらりと力なく垂れているのを見た。
信じられないが、師範は手傷を負わされていた。
アベルは治癒魔法を発動。
痛む腹に押し当てて魔力を注いでいると、やがて呼吸が楽になっていく。
ようやく立ち上がり、息を吐く。
雰囲気が、険悪を超えていた。
一線を破ってしまったらしい。
木剣を持った訓練生たちが十重二十重に囲んでいる。
後ろの方からはガチャガチャと金属音が聞こえた。
本物の武器を用意していた。
アベルとカチェは完全に包囲され、そこへギョームと呼ばれていた、いかにも歴戦の古強者という風情の中年が歩み寄ってきた。
身長はアベルよりも低いのに、妙な凄味がある。
古傷だらけの顔には凶悪とも見える笑み。
「おみごとでやんした! お世辞じゃねぇですよ」
「わたくしたち帰ります! どいてください!」
「そういうわけには、いかねぇんです。お嬢さん。あっしら、帝都ではそこそこ名の通った流派でやして。師範とそれなりの勝負をした方とあっては是非にも門弟になっていただかなくてはいけません。そうでないと、おかしな噂が流れるかもしれねぇんです。武帝流は大したことがねえって。そうなると、こっちは命懸けで汚名を雪ぐことになりやす。血の雨が降ることになっちまうんでさ」
アベルは何となくその理屈を理解した。
この世界の人間、特に武人は面目を極めて重く見ている。
そこに命を賭けていると言ってもいい。
たとえ勝負に勝っていたとしても師範が傷つけられたなど、恥の上にも恥という感覚。
流派の体面を守るには、師弟関係を結ばせて勝負の結果を明確にしなくてはならない。
そういう考えなのだろう。
「わたくしたちに入門しろと」
「師範と手合わせしていないお嬢様の方は嫌でしたら結構でございやす。でも、アベル殿の方は、そうはいきません。誓紙を用意しますからご記名を願いやす」
「わたくしたちは貴方たちに降るつもりはありません」
ギョームの声は底冷えするようなものだった。
「あんたら、やりすぎた。ここにいる全員で動けなくなるまで稽古いたして手形を誓紙につけやしょうか。手形なら死体からでも取れやす」
ノアルトが堪らず口を出す。
少女まで殺させるわけにはいかない。
「二人とも聞け。初心者として入門などさせはしない。アベルという少年の方は副師範にしてやる。それだけの腕だ。毎月、金貨を支給してやる。いい条件であろう」
「わたくしたちには家の事情があります。それに門弟になっては身の自由を失ってしまいます」
ノアルトは苛立ちと共に必死で説得をする。
「頑固もいい加減にしろ! 殺したくないと言っているのだ……。頼む」
頼むとは、つい口が滑った。
皇族が人に頼むということは無いのである。
当然、ノアルトの言葉を聞いて皆は驚く。
カチェは怒りで体が燃え上がりそうになる。
「なんて勝手な言い草なのですか! 安心しろと言って招いたのは貴方ではなかったですか! それを殺したくないから、契りを結べと? 嘘吐きめっ」
尊敬する主を侮辱されて、ますます訓練生たちは殺気立つ。
ノアルトとベルティエは止めろと叫んだ。
緊張と膠着。
張り詰めた細い糸が切れそうになる雰囲気。
カチェはアベルの胸元に手を突っ込んで、家紋の印章を引っ張り出した。
「カチェ様」
「いいから」
カチェは鈍色の印章を頬の削げた男に放り投げた。
ノアルトは受け止めて見る。
精緻な、手の込んだ一流の仕事で家紋が刻まれていた。
翼を広げた大鷲が毒蛇を掴んでいる意匠。
ノアルトの血が逆流したようになる。
二人はハイワンド家の縁者だったのだ。
だが、考えてみれば納得もできる。
「お前たち、正体を言え!」
「バース・ハイワンド公爵の孫です。皇帝国公爵家の身内を殺すとは、なにごとですか!」
カチェの鋭い言葉に場が静まり返る。
裏は取らねばならないが、ノアルトは直感として嘘ではないと感じた。
この二人を手なずけて、配下にできるだろうか。
計算する……。
表面だけ従わせても意味はない。
欲しいのは裏切らない本物だ。
しかし、感情が理性を上回る。
どんな取り引きをしても少女の方だけは、手元に置きたかった。
ノアルトの気持ちは熱を孕み、胸の中を焼き焦がすようであった。
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