第69話 近づく皇帝国
アベルたちはエウロニアの西へと移動する。
領内は安定しているので旅も順調。
いよいよ隣接する皇帝国属州バルティアまで一日という距離まで来た。
バルティアを越えれば、ついに皇帝国となる。
アベルは宿屋を手配して、ついでに宿の旦那にバルティアについて話しを聞いた。
バルティアは地理的に皇帝国が近いことから、皇帝国に服従するかわりに自治権を獲得している地域だ。
皇帝国にとって統治しにくい場所をわざわざ征服する必要性はなく、親皇帝国の立場をとらせる代わりに圧迫を加えないでおく政策をとっていた。
緩衝地域という言い方もできるだろうか。
ところが現在、バルティアの情勢は激変しているという。
王道国が強力に干渉をした結果、バルティアは皇帝国派と王道国派に分裂。
一年ほど前から血で血を洗うような抗争になっているという。
アベルは頭の禿げあがった宿屋の旦那に聞いた。
「そんな状態なのに皇帝国は何もしないのですか?」
「さてねぇ。旅の商人に聞いたんだが、皇帝国は戦争よりも後継者争いが凄まじいらしいぞ。詳しくは知らないがなぁ」
「はぁ? 跡目争い……。国内で手一杯というわけですか。それで直ぐ傍の隣接地域にまで王道国の勢力が伸びているのも放っておいていると」
「貴族様にとっちゃ跡目こそが一大事なんでしょうな。バルティアなんか皇帝国にとっては無数にある属州のひとつというわけで」
アベルはガトゥと顔を見合わせた。
無精髭をさすりながら、ガトゥは口を捻って考えている。
「もしかするとバルティアへの越境は、まずいかもな」
「ですが他の方角だと、どうなんですかね? 僕ら亜人界の道にはそれほど詳しくないです」
「俺も亜人界でよく知っている地域は限られている。バルティアやエウロニアのことは分からん」
「迂回したところで似たようなことになっている恐れがあります」
「あり得るな。だいたい迂回路も不明。そっちの方が危険かも知れねぇ。それなら最短距離の方がマシだが。とりあえず国境まで行ってみるしかないか」
バルティアと皇帝国は、すんなりと地続きになっているわけではない。
大河ドナという北部山脈を源流とする大きな河がある。
その流れが事実上、皇帝国と外界を隔てる境となっていた。
大河ドナは非常に川幅が広いという話を、アベルは幼い頃にウォルターから教えられた。
河には意図的に橋が架けられていない。
もちろん、自由な往来を阻害するためだ。
だから、皇帝国に行くには役所で許可を取ってから、渡し舟を使って渡河するのだという……。
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アベルたちは正午前に皇帝国属州バルティアとの国境に辿り着いた。
武装した国境警備兵が百人ほどいるようだ。
理由は分からないが騒然としていた。
言い争いと思える大声が聞こえる。
アベルたちは馬で近づける所まで行ってみる。
道の両側は険しい斜面になっていて、その切り通しに格子状の頑丈な柵がある。
柵には門が二つあって、入国と出国で別になっていた。
エウロニア入国の門で騒ぎが起こっている。
アベルは傍にいる役人風の男に聞いてみた。
「すいません。あれ、何の騒ぎですか?」
「ああ。バルティアの連中がエウロニアに逃げようとしているのさ。昨日からあそこで騒いでいる」
「何で入国させないのですか」
森人族の男は小馬鹿にしたように言う。
「我々エウロニアが戦争に巻き込まれないためだ。逃げてきたのは皇帝国派のゼノ家の者たちだ。戦に負けて追われているらしい。奴らを入国させると王道国がうるさいからな……。とにかく今はバルティアが荒れているから、誰も入国させられない」
「えっ。入国は禁止。じゃあ出国は?」
「出るぶんには構わないぞ。人間族がバルティアで何をしようと我らには関係ない。というより不穏人物はエウロニアから出て行ってもらった方がいいな」
国境役人はアベルたちをじろじろと胡散臭そうに見ていた。
商人とて、いくらかの武器は必ず所持している。
だが、鎧冑で身を固め、刀槍を携えるアベルたちはどう見たって商人というより武装集団だった。
状況を確かめねばならないので下馬して柵の方へ向かう。
入国の門も出国の門もエウロニア側から閉ざされて、かんぬきが架けられていた。
太い木材で厳重な格子状に作られた柵の向こう側。火事にでも追い立てられているかのような必死さで男たちが騒いでいる。
「頼む! 金ならやる! エウロニアに入れてくれ!」
金貨をチラつかせてのなりふり構わない賄賂交渉をしている。普通は秘密裏に渡すものなので既に断られているのかもしれない。
それでも頼むあたり、よほど焦っているようだ。
格子を隔ててエウロニアの役人が罵声に近い返答をしていた。
「だめだ。国境は封鎖している。諦めて戻れ!」
「我々はゼノ家の者であるぞ。通行許可書ならここにあるではないか!」
「お前ら人間族の争いに巻き込まれないためだ。皇帝国に親しいお前たちゼノ家の者を入国させられない」
「お前では話にならない! 上役を出せ!」
「責任者は私だ。その私が拒否する、ということだ」
「お前らの女王にどれだけ献金していたと思っておる! こんなときのためだろうが!」
「金がどうした? 戦争しているのはお前らの勝手、好きなだけ殺し合え」
エウロニアに入れろと騒いでいるのは三十人の集団ぐらいだった。
老若男女が入り混じっている。
戦士風の男もいるが、よく見ると中には十代前半ほどの少年もいる。
エウロニアの役人と交渉していたのは文官らしい壮年だ。
ざっと眺めたところ、集団の中で目を引く人物がいた。
十四、五歳ほどに見える人間族の女の子。
丸腰で防備もしていない。荷物も持っていない。
服は白を基調にした絹を纏っていることから、かなり身分の高い人物なのが窺い知れる。
明るい栗色の髪に柔和な顔。
瞳も薄い褐色をしていた。
優しげなその顔は、やや不安で途惑っているが気丈な態度を保っている。
その傍には三十歳位の女騎士と女官が一人ずつ控えていた。無論、護衛であろう。
アベルはガトゥとロペスに聞く。
「どうしますか? こんな有様ですけれど。出国するのは構わないってことなんでバルティアには行けますが……。でも、いったん出国してしまったら、もうエウロニアには戻れませんね」
「俺ぁ、ちょっと様子見するのも手だとは思うが。けどエウロニアの役人ども、俺らのことを怪しんでいるみたいだ。さっきも早く出国しろと催促してきやがった。ロペス様はどう思います」
ロペスは考える素振りも見せず、ぶっきらぼうに言い放つ。
「ふん。これまで通ってきた土地に比べて特別危険とは思えないな。皇帝国まで、あと僅かだ。一気に押し通りたい。王道国の部隊がいるというなら襲って首級でも上げてから国へ帰るか」
これまで治安など最悪の場所を乗り越えてきたので、ロペスにしてみると別に考慮するほどのことではないらしい。
それに、いよいよ皇帝国が近いとあって気が逸っているようだ。ついでに敵を襲おうというのも復讐心からの発言であり冗談などではない。本気だ。
一行の主であるロペスがそうと言うのならこのまま越境となるが、その前に一回ぐらいは相談しようとしていた時だった。
騒ぎが、さらに大きくなった。
「き、来たっ! 王道国の追っ手が来たぞ!」
「もう戦うしかない。やるぞっ!」
「槍は前に! 剣を抜け!」
「シフォン様をお守りせよ」
ゼノ家の者たちが慌てて戦闘の用意を始めた。
武器を持っている者は一斉に刃を露わにさせる。
荷物持ちの奴隷などは事態を呑み込めず、ただ佇んでいる。
馬に乗った武装集団が接近してきた。
あれが王道国の部隊らしい。
アベルは久しぶりに見た敵国の騎士や戦士を思わず凝視する。
下馬するなり二十数人の男たちが槍や白刃を光らせて駆け寄る。
名乗りも警告もなしに、流れのまま戦闘が始まった。
交渉もなく、相手を殺し尽くそうという強い意志を感じた。
「さぁ、ゼノ家の誇りを見せろ!」
獣じみた絶叫が飛び交った。
剣戟の鋭い音が響く。
唐突に始まった戦闘に対して、森人氏族の警備隊長が叫ぶ。
「双方とも! エウロニア領内に危害を加えれば容赦しないぞっ! 魔法を使うな!」
そんな制止の声がするものの、殺し合いをしている連中に届くはずもなかった。
複数の魔力が発散されていた。
アベルたちは危険を感じ、身を伏せる。
激しい爆発。
破片が飛び散り、煙が舞い上がる。
木柵が部分的に壊れていた。
戦闘が激しかったのは短い間だけだった。
あっという間に形勢は王道国の追っ手が圧倒していく。
ゼノ家の者たちは、次々に斬り倒されてしまう。
彼らは逃亡者の寄せ集めで、まともな戦士は十名ほどしかいなかったようだ。
それとは逆に王道国は手練れ揃い。
勝負は始めから見えていた。
しかも王道国の戦士のなかに一人、抜きん出て目立つ者がいる。
上半身裸という異常な姿で、申し訳程度に腰布だけを付けている男。
筋骨隆々、岩のごとき肉体が威圧感を発していた。
野蛮としか言いようがない。
アベルは驚き、呆れる気分でもあった。
あえて防具を着けないとは自信があるにもほどがある。
それに手に持つ武器は大鉈だ。
本当に鉈を大きくしただけの武骨極まる道具。
いったい、どんな戦士なのだと訝しむしかなかった。
ゼノ家の女騎士が両手剣を大上段に掲げて、素肌の戦士と相対していた。
女騎士は劣勢に怯むことなく、堂々と待ち構える。
直後、裂帛の声。
女騎士が仕掛けた。
素早く踏み込み、敵の頭へ剣を振り下ろす。
かなり鋭い攻撃だったが、あっさり大鉈に弾かれた。
「あっ」
思わずアベルは驚きから声が出る。
もう裸の戦士が女騎士の左腕を掴んでいた。
アベルですら良く見えない早業。
「けっこう美人だが鎧とは不粋だ。お嬢ちゃん」
裸の戦士が発する嘲りを含んだ声。
女騎士は無言のまま、右手に握った剣を振り上げた。
直後、グシャ、という卵が潰れるような音がする。
戦士が女騎士の顔面に頭突きを食らわしていた。
強烈な一撃。
女騎士はもう意識を失っていた。
地面に崩れ落ちて動かない。
「あーあ。つまんねぇの。もう気を失ってやがる」
迷わず大鉈を掲げ、そして、振り下ろした。
女騎士の首が飛ぶ。
戦士が首を拾うと敵味方に見せつけるようにブラブラと振る。
「首だけになっても、なかなかイイ女じゃねぇか。頭突きのせいでちょっと顔が潰れているけどな。生きている内に一発お願いしておくべきだったぜ」
挑発に激怒したゼノ家の者たちが飛び出す。
めちゃくちゃに剣を振り回した。
裸の戦士は少しも慌てない。
たった一人で戦い、次々に殺していく。
鉈が両腕を斬り飛ばす。
地面に転がる自分の腕を驚愕の表情で見詰めているのは、まだ十代らしい男の子だった。
そして、叫んだ。
「シフォン様! 逃げてくださ・」
両腕を失くした少年の最後の訴え。
直後、消える。
頭蓋が潰れていた。
裸の戦士。すでに血塗れになっている。
実に愉快そうに笑っていた。
戦いの決着は、ほぼついていた。
一人、武器を捨てて降服した者がいる。
やはり、まだ年端のいかない少年だった。
アベルは賢い判断だと思う。
そうだ。降服するべきだ……。
だが、両手を上げていた少年は殴られ、倒れたところを滅多刺しにされていく。
止めてくれという悲鳴。止まらない攻撃……。
「一人も逃すな。捕らえる必要はない。全員、殺せ」
そんな声が追手の中、灰色のローブを纏った男から聞こえてきた。
身分の高そうな少女の足元が濡れていく。
小便を漏らしていた。
全身が震えている。
頼みの大人たちは殺されて、死体を見せつけられ……気絶しないだけでもマシだ。
少女は最後の気力を振り絞って、身を翻すや爆発で壊れた木柵の隙間に身を捻じ込む。
だが、それに気が付いたエウロニアの警備兵たちが何本もの槍を押し出して追い返した。
これで命運は尽きた。
殺されて終わりだ。
「誰も助けないか……」
アベルは呟いた。
喉がひりつく。
背筋が粟立った。
――あんな子供が殺されるのを見捨てる人生でいいのか。
それで欲しいものは手に入るのかよ。
自分自身に対する問い掛け。
答えより先に真っ黒な怒りが噴き上がって来る。
衝動が理性を塗り潰していく。
イースはアベルの変化を察した。
たまに見せる、あのギラついた怖ろしいほど凄みのある眼だった。
周囲の何もかもを破壊しそうな気配。
「イース様。前に言っていましたね。命は大切にしすぎるなと」
「ああ、そうだ。命は安全なところに閉じ込めておくものではない。命は使うものだ」
――よし、決めた。
戦うぞ。
アベルは魔力を猛烈に加速させる。
身体強化を意識した。
エウロニア側で戦うと大変なことになる。
あくまでバルティアで戦わなくてはならない。
「みんな、僕だけ行く!」
槍を突きつけていたエウロニアの警備兵を押しのけた。
アベルは壊れた木柵を潜り抜ける。もうここはバルティアだ。
絶望の表情を浮かべている少女を背中に守る。
「動くなよ」
「えっ……」
二刀を抜いた。
王道国の戦士たち。
アベルという闖入者に注目してくる。
アベルは二刀とも下段に構えて、無造作に距離を詰める。
慌てた相手はアベルの顔面に目掛け、横薙ぎに剣を振った。
誘いに釣られた分かりやすい攻撃。
左手に握る白雪で攻撃をいなすと、相手の体勢はガラ空き。
逃さず防具の隙間、太腿の付け根へ「無骨」の切っ先を突き入れた。
ずるりと滑りこむ刃先。
即死こそしなかったが筋肉を深く傷つけられて片膝を付き、呻く。
これで戦闘能力は失われた。
さらに敵に向かって前進。
戦いでは動きを止めてはならない。
誘うつもりもなく静止していると、敵に先手を与えるだけとなってしまう。
短い遣り取りで、さらに一人の敵を殺した。
王道国の戦士たち。
その数、二十数名といったところ。
全員が、なんだこいつ、という顔をしていた。
当然だった。
一人で戦って勝てるはずがない差。
わざわざ安全地帯から飛び込んできた自殺志願者。
アベルは少し笑う。
良く聞こえるように大声で彼らに話しかけた。
「寄って集って子供を殺すのは楽しいか。なぁ? 俺がもっと面白くしてやるよ。一緒に踊ろうぜ」
「おめぇはゼノ家の協力者だな! 一人でこちらに来るとは愚かな!」
「ああ、そうだな。俺、狂っているんだ」
アベルの背後で足音がした。
ワルトとイースだった。
「あっ、二人とも」
「アベル……」
「ご主人様の行くところなら、どこでもついていくずら」
アベルの両隣に二人が並ぶ。
そして、多勢無勢を完全に無視して敵に襲い掛かる。
相手の魔法使いが「炎弾」を仕掛けてきたが、アベルは術を見抜き対抗。
ワルトは左右に振れたトリッキーな跳躍。
変則的で素早い動きに敵は対応できない。
たちまち不利な体勢へ追い込むと、ワルトは強烈な蹴りを食らわせた。
倒したところで首への一撃で殺した。
イースが凄まじい。
剣の打ち合いすらさせない。
まるで見抜けない偽攻撃を駆使して相手を術中に嵌め込む。
直後、信じられないような軌道で大剣が振られる。
腕を切断された戦士が酷い悲鳴を叫んで転げ回った。
怒り狂った敵たちが罵声を咆えた。
一斉に駆け寄ってくる。
アベルは炎弾と氷槍を乱射する。
瞬間的だが、激しい攻防戦。
たちまちイースが三人の手足を斬り飛ばす。
アベルも力任せに無骨を振り下ろせば、意外なほど簡単に冑を割り、頭蓋骨まで刃が食い込んでいた。
アベルたちが、さらに五人ほどを倒したところだった。
背後で門の開く音を聞いた。
大きく重たい足音。
ロペスだった。
もう、すでにハルバードを構えていた。
「ロペス様まで……。すみません。付き合わせて」
「アベル、お前の為なわけがあるか。こんな楽しそうな戦いを黙って見ていろだと? 王道国の戦士どもと戦うのはポルト以来よ。穂先が血肉を欲しておるわい」
ぞっとするほど獰猛な笑みを浮かべたロペスの後に続いてカチェとガトゥ、モーンケ、カザルスもやってきた。
血相を変えたカチェがアベルに詰め寄る。
「アベル! 一人で行かないでよ!」
「すみません。自分でやるしかないと思って」
「バカ……! みんな放っておくはずないでしょう」
もはや止まる要素など何一つなく、求めるままの激しい乱戦となった。
ロペスがさっそく愛用のハルバードを巧みに操り、敵を槍玉に上げる。
噴き出した血を浴びて、愉快に笑う姿は凄惨そのものだった。
敵味方が入り乱れるなか、アベルは敵の動きがよく見える。
力の入れ方、姿勢、表情、そういうものから出足が瞬間的に読み取れた。
アベルの前に騎士風の敵が現れる。
慎重かつ速い動き。
厳重な防具で身を守り、長剣を掲げていた。
一目で強敵と分かる。
アベルは摺り足で接近。
一刀は敵の視線を誘引するように動かした。
動いているものに視点が追随すると、視野は狭くなる。
そこに隙が生まれる。
アベルは敵の血走った目線を観察。
尽かさず、死角から残る一刀で予測を超える速さの攻撃を叩きこむ。
アベルの斬撃。
敵の腕に吸い込まれ、そのまま上腕が切れ飛んだ。
驚愕で仰け反る相手に、あえてとどめを刺さない。
その方が敵の邪魔になるはずだった。
乱戦の最中、少女と距離が離れてしまった。
生き残っていた女官が少女を守ろうとナイフ一振りで抵抗を試みる。
アベルはとりあえず少女を助けるべく駆け出す。
しかし、王道国の屈強な戦士が振り下ろした両手剣に、女官が成すすべもなく斬られる。
裂けた服から白い肌が見えたと思ったら、次には鮮血で真っ赤になる。
即死だ。
戦士はさらに少女へ詰め寄る。
文官らしき老人が両手で盾を持ち、体当たりするような勢いで戦士に駆けこむ。
だが、強烈に蹴飛ばされて仰向けに倒された。
少女が何か叫びながら老人にしがみつく。
戦士の手にする剣先が少女の喉に届く直前。
アベルの斬撃が籠手を斬り割る。
剣を持ったままの手首が落ちる。
「ひあぁぁぁぁぁ!」
敵が悲鳴を上げた。ほとばしる血飛沫が少女の頬に飛び散る。
アベルは力任せに刀を横なぎにする。
面頬ごと敵の顔が割れた。即死だ。
殺される寸前で助けた少女は、放心に近い状態だった。
倒れていた老人が、うめきながら起き上る。
アベルと視線が合った。
「そこにいてください。王道国の奴らは僕らが何とかしますから」
イースは上半身裸で大鉈を持った奇妙な戦士と相対している。
異様で、途轍もない手練れだった。
大鉈の戦士は、なにやら物凄く楽しそうに笑っている。
アベルに侮蔑の気持ちが生まれる。
――なんだ、あいつ?
余裕を気取りやがって。
イースの強さを知らないから……後悔して死ね。
イースは中段に小さく構えて、滑らかな足さばきで前進。
間合いが迫るや突如、飛ぶように踏み込み、四肢を広げて大上段に変移。
全ては一瞬だ。
アベルはイースの勝利を確信するしかない。
あの急激な転変に対応できる者など見たことが無い。
たとえ不用意に反撃を仕掛けたところでイースに刃は届かないのだ。
殺った……と思った瞬間。
上半身裸の男は大鉈を絶妙に振る。
イースが繰り出す必殺の斬撃を弾き返した。
金属と金属が衝突。
火花が散った。
アベルは信じられない思いでその光景を見る。
なんと大鉈の男はイースの力と技に追随していた。
しかも、逆襲すら仕掛けてくる。
イースの大剣を巧みに弾き、距離を詰めて片手で黒髪を掴もうと掌を突きだす。
跳ねるようにイースは後方に移動、距離を取った。
代わりに出てきたのがロペスだ。
「ぐおおぉおぉぉぉ!」
響くような雄叫びと共に凄まじい豪速で槍を突き出した。
狙いは裸の上半身。
それも体幹を、ぴたりと狙い澄ましている。
単純で、それだけに避けにくい攻撃。
体幹を狙われると半身を移動させてもなお攻撃を避けきれない。
アベルも息を飲む見事な突きだった。
――入った!
ところが相手は大鉈を上手く使って、ロペスの穂先を逸らせた。
そればかりでなく、間髪入れずに踏み込むと大鉈をブン投げた。
意表を突いた攻撃。
「避けろ!」
アベルの警告。
だが、小回りの利かない長物を持っているロペスは対応できない。
ロペスの冑に大鉈が直撃した。
鉄の砕ける激しい音。
ロペスは片膝を付き、ぎりぎりで倒れない。
流れるような動作で上半身裸の男は跳躍して、猛烈な飛び蹴りをロペスに食らわせた。
鎧が出来の悪い鐘のような音をたてる。
あの怪力自慢、巨漢のロペスが派手に飛ばされて、とうとう地面に倒れてしまう。
あんな無様な姿を見るのは初めてだ。
上半身裸の男は足元の大鉈を拾い上げた。
ロペスにとどめを刺そうとする。
「わああぁぁぁ!」
モーンケが叫びつつ防迅流、盾前の構えで飛び出した。
ロペスを守ろうと裸の男に向かって駆ける。
――モーンケが殺される!
それは必死だが稚拙な突撃だった。
上半身裸の男は巧みに足さばき、横に移動する。
モーンケは急激な変化に対応しようと体を捻るが、足が付いていっていない。
敵がそこを見逃すはずもなく、距離をつめて素手でモーンケの盾に張り手を食らわせた。
それだけでモーンケの体が宙に浮いて後方に弾き飛ばされた。
そこへイースが大剣を振りかぶり、男の頭蓋に目掛けて斬撃を繰り出した。
相手の男は打ち合わせずに、横っ飛びで回避する。
イースがしつこく追随して敵を自由にさせない。
隙が出来たのでアベルは倒れたままのロペスに走り寄る。
頑丈な黒鉄の冑が割れ、外れていた。
顔を見て、ぎょっとした。
まるで砕けた果実だった。
額から頬にかけて、大きな傷で裂けていた。
顔面といえば太い血管も通っている急所。そこに深手を負っている。
血が溢れるように出てくる。
ロペスは意識があるものの脳震盪でも起こしているのか立ち上がれずに、もがいていた。
「ロペス様! 動いたらダメだ! いま治すから……」
アベルは掌に魔力を集中させる。
すぐに白い輝きが零れるように湧き出た。
ロペスの怪我に掌を近づけようとした直後。
黒い霧のようものがアベルの体を過ぎ去った。
――なんだ? いまの……。
アベルは驚き呻く。
掌に集まっていた魔力が雲散霧消している。
理解不能。
なにが起こったのか分からない。
もう一度、試す。
しかし、ふたたび同じ現象が発生した。
せっかく発動した治癒魔法が、風で飛び散る花弁のように消え去ってしまう。
ロペスの呼吸が、いよいよ乱れてきた。
出血が多すぎる。血だまりが広がっていく。
這い寄ってきたモーンケが焦って悲鳴を上げていた。
「兄貴が死んじまう! アベル! 早く治せっ!」
「魔法が邪魔されている! なんだこれ!?」
ガトゥが戦闘を止めて走り寄ってきた。
とりあえず止血だと、ロペスの深手を一目見て判断する。
戦場ならいの圧迫止血を試みる。清潔な布で傷口を強引に押えた。
「ガトゥ様。どうですか」
「このまま押さえているしかない。放っておいたらすぐに死ぬな。どのみち治癒魔術を掛けなければ長くはねぇぞ」
アベルは周囲を見渡す。
カチェとワルトが複数の敵と戦っていた。
カザルスはその二人を援護できる位置についている。
強烈な斬撃をカチェが繰り出すと、敵は力負けして後退するがカチェは逃さない。
容赦なく追い込んで、強引に刀で冑をぶっ叩く。
冑が割れた。
頭部に重傷を負った敵は、よろめいたあと倒れた。
ワルトは考え無しに戦っているかと思いきや、しっかりカチェと連携をとっている。
しかも、巧みに包囲されないよう戦っていた。
あちらに援護は無用とアベルは判断した。
イースは大鉈を持った上半身裸の男と対峙していた。
アベルは改めて男の顔を観察する。
年齢……二十代後半か。
乱れた蓬髪は肩まで伸びている。
獣じみた、狂相の浮いた顔。
たぶん人間族なのだろうが、人というより鬼というかケダモノと評した方が的確だ。
角ばった頬に頑丈そうな顎、潰れた鼻。
褐色の瞳は興奮で瞳孔が開き、濡れていた。
口は横に大きく開いている。
笑っていた。
戦いに酔いしれた者の表情だ。
アベルの頭の中、危険信号が鳴り響いていた。
イースと渡り合える男。
物凄く強い。
早く治療しないとロペスが死ぬ。
まだ敵のほうが数的に優勢。
しかも、援軍すらあり得る。
さらに逃げ道もない。
まずい。
これほどの危機はかつて出会ったことがない。
さらによく見ると敵のずっと後方に、
顔は良く見えない。
灰色のローブを着ていた。
複数の戦士が厳重に護衛していた。
敵は数で優っているのに、どうして全面的に襲ってこないのかと不思議に思っていたが、どうやら頭巾の人物から離れたくないらしい。
十人ぐらいが、びったりと張り付いていた。
アベルの勘が働く。
なんか怪しい……。
攻撃されたくないようだ。
相手の嫌がることは、まず何においてもやってやるのが戦場というものだ。
アベルは「爆閃飛」の詠唱を開始。
頭上に魔力が集まり、たちまち炎の槍が創生されていく。
――あの頭巾野郎を吹き飛ばしてやる!
狙いを定めて、今まさに魔法を発動しようとした瞬間。
頭巾の男が、何かをした。
男から黒い霧状の波動というべきものが放射される。
治癒魔法の時と同じように、火魔術「爆閃飛」の魔力が解消されてしまう。
アベルは強力かつ遠距離にまで効力のある特殊な魔力干渉だと確信した。
治癒魔術、攻撃魔術と手段を潰され、追い詰められてきた。
それでも次の手を考えねばならない。
考えるまでもなく結論は出ていた。
ぼやぼやしていたらロペスが出血多量で死ぬ。
短期決戦。
それしかない。
敵の中で最高の手練れらしい、大鉈の男へと歩いていく。
イースと機を探り合っていた。
奴を殺せば形勢は決するとアベルはふんだ。
「イース様。僕がまず出るから、あとは任せます」
「アベル! やめろ。こいつの強さは本物だ。私より強いかもしれない。まだ仕掛けるな!」
「早くしないとロペス様が死んでしまう」
「それでもだ。囮なんかやめろ!」
そう口にしたイースは自分自身に驚く。
主家嫡男のロペスと家来にすぎないアベル。
どちらが優先か考えなくとも分かるはずなのに。
大鉈の男とアベルの視線が繋がる。
相手は、やはり面白そうに笑みつつ見てきた。
睨むとは違う視線。
好奇心と興奮に満ち満ちた
まるで、これからどんな楽しいことを見せてくれるのだ、という顔つき……。
アベルは緊張から固唾を飲む。喉に物が詰まったような感じは消えない。
あの堅牢頑健なロペスに致命傷寸前の手傷を負わせた敵だ。
イースとすら互角で戦う相手に中途半端な攻撃は無意味。
むしろ、下手な攻撃はカウンターを招き、一瞬のうちに斬殺されるに違いない。
アベルは二刀の内、右の無骨を相手の視線に合わせて突きつける。
こうすると見える刀の面積は極小となり、距離感や間合いを測るのは困難となる。
もう一振りの白雪は頭上へ掲げ、大上段に構えた。
「アベル! 動くな! 私がやるから」
もはや必死の気迫が籠ったイースの制止。
「僕が吹っかけた戦いなので。自分で始末つけなきゃ……」
仮に自分が深手を負ったとしても敵の防御を崩し、イースさえ無事なら反撃を仕掛けて勝負は決まる。
殺されるかもしれないがイースが死ぬよりましだ……。
アベルはさらに摺足で近づく。
緊張で頬が痙攣した。
いよいよ剣戟に移ろうとした時。
「双方とも戦いを止めろ。私が話したい」
そんな声がした瞬間、大鉈の男が飛ぶように後ずさり、あっという間に距離を取った。
カチェたちと戦っていた戦士らも同じくだった。
いったい何が起こったのかとアベルは途惑う。
声を上げたのは、頭巾の男。
黒い霧のようなもので魔術を打ち消してしまう正体不明の人物だ。
「お前たち、イースとアベルという名なのか。珍しい黒髪をした魔人氏族の女騎士、イース。聞いたことがあるぞ。もしやポルト郊外でガイアケロン王子と決闘をしたことはないか」
イースが一呼吸、間を置いてから答えた。
「間違いない。王道国ガイアケロン王子とハーディア王女。この騎士イース・アークと従者アベルが決闘をした相手だ」
頭巾から僅かにのぞく口元が笑みで歪んだ。
「これはこれは……。こんなところで勇者と巡り会えるとは何たる奇縁! いったん戦いを止めないか。話したい」
「それなら、まず治癒魔術を使わせてほしい。それから子供を殺すな。争いに負けた一派を根絶やしにするつもりなのだろうが不愉快、醜悪だ」
「大人は殺しても良くて、子供は殺したらいけないと? 戦争ではよくあることだが。知らんわけでもあるまい」
「戦士の矜持だ。受け入れられないのなら我ら死力を尽くして戦うのみ。
お前たちが皆殺しになるか、我らが及ばす倒れるか。勝負だ」
イースは冷たく言い切った。
張ったりも駆け引きもない。
だから混じり気なしの覚悟を感じさせた。
僅かな思考の時間。
頭巾の男は答える。
「いいだろう……解呪はもう使わないでやる。仲間を助けるといい。ただし、こちらは一つ譲ってやるのだから、騎士イース。お前も私の頼みを聞け」
「頼みとは?」
「素直に話を聞かせろ。まぁ、ここでは落ち着けない。ゼノ家の者も含めて、しばらく移動した所までついて来い」
「イース様。罠かも」
「そうだとしても選ぶ余地はない。アベル。早く治して来い」
アベルは駆け足でロペスのもとまで行き、即座に傷を治し、意識を回復させた。
手早く事情を説明する。
成り行きを聞いたロペスが顔面を歪ませる。
もともと厳つい面相だったものが、もはや激しい怒りと悔しさで狂ったような表情。
「不覚を取った!」
叫び、地面を拳で叩きつける。
張り出した額の奥にある眼が恐ろしく血走っている。
モーンケが慌てて宥めた。
「あ、兄貴。落ち着いてくれ。あいつらと交渉だ。バルティアさえ通過すれば皇帝国に帰れるんだ。堪えてくれよ!」
ロペスは顔を真っ赤にさせて口を堅く引き結び、岩のように黙った。
それから、ごたごたになった越境を済ませなくてはならない。
アベルは柵の向こう側へ呼びかける。置き去りになっている馬を連れて来てくれと。
無視されたら厄介だと危惧していたのだが、案外とエウロニアの兵士たちは黙って協力してくれた。
戦いを見物していた彼らだが、あまりに凄惨な殺し合いに恐怖しているようであった。
返り血だらけになったアベルの要求を断れば何をされるか分からないと思ったのかもしれない……。
王道国の戦士に包囲されつつアベルたちは馬に乗り、移動する。
助けた少女と老人は二人乗りで馬に乗せた。
貴族階級だけあって馬は操れるようだ。
年齢十五歳ぐらいの、栗色の髪をした少女は憔悴した様子で息が荒い。
アベルは声をかける。
「なぁ。助けてやるから安心しろ」
少女は心に受けた衝撃が大き過ぎたのか、上手く返事ができなかった。
アベルを見て、口をパクパクさせている。
無理もないかと思う。
数十人の仲間は老人一人を残して全て殺されて、今も周りを敵に包囲されているわけだから……。
移動をしていると、やがて大きめな街の郊外に辿り着いた。
例に漏れず街は壁に囲まれている。
異様な光景が広がっていた。
街道の両脇に、処刑された死体が並んでいる。
その数は、ざっと見た感じで五百ほどはありそうだ。
ある死体は斬首され、ある死体は杭で串刺しにされて、高々と掲げるように打ち立てられていた。
勝者による敗者への仕置き。
見せしめである。
アベルは事情を知っていそうなゼノ家の老人に聞いてみる。
「この状況はなんですか?」
「負けた者が皆殺しにされておるのじゃ……」
「つまり皇帝国に親しい人たちが?」
「そうじゃ。属州バルティアは皇帝国に忠誠を誓った二つの名家。ブリガン家、ゼノ家の連合が長らく治めていた土地じゃ。しかし、それに反感を持っている者もおってな。数年前から王道国がそうした者たちを取り込み、ついに反乱を起こさせた。我々は皇帝国に援軍を頼んだが助けはなかったのじゃ。それに対して王道国は少数ながら強力な軍勢を送ってきおった。戦いに負けた我らは潜伏する者、外部に逃げる者と散り散りになったわけじゃ……」
「あんたらはエウロニアに逃げようとして、門前払いを食らっていたと」
「そういうことじゃ。エウロニアの女王とは長年、友好的に関係を結んでいたつもりであったが……非情よな。それに比べて貴方がたには、いくら礼を述べても足りませぬ。わしはゼノ家の家令、ハンジャと申します。こちらの少女はゼノ家の長女、シフォン・ゼノ様」
シフォン・ゼノという少女は死体の連なりを視界に映らせまいと、つらそうに眼を閉じていた。
家令ハンジャはアベルに聞いてきた。
「貴方がたは名のある武人とお察しします。よろしければ家名を教えていただけませんかのう」
「ロペス様。どうします?」
「ポルトの決闘を知っている奴らには、もうバレているから隠しても意味がないだろう。俺はロペス・ハイワンド。皇帝国伯爵家の者だ」
「なんと! ハイワンド家といえば皇帝国でも武門の誉れ高いと聞き及んでおります……」
やがて頭巾の男に誘導されてアベルたちは陣幕の張られた丘へと辿り着いた。
丘には兵士や騎士が千人ほど駐留している。
いつでも戦闘ができるような、整然とした戦列を編成していた。
少数ながら、極めて練度が高そうな集団だった。
アベルは舌打ちする。
――もし、あいつらから一斉に攻撃されたら勝てないぞ。
やっぱり罠かな。
「イース様。どうしよう」
「ここまで来てしまったら今更だ。約束を信じるしかあるまい」
ロペスも同意する。
「イースの言う通りだ。もし我らを殺すつもりなら既に軍勢を動かしているはずだ。本当にイースに話があるのだろうよ」
頭巾の男は馬を降りた。
馬丁が飛ぶように走ってきて、口取りをした。
同じように警護の戦士たちも下馬する。
頭巾の男は短く伝えてきた。
「騎士イースのみ来い」
「待ってくれ。従者は外さないで欲しい。騎士としての頼みだ」
「ふふっ。まぁな。従者もいない騎士では格好がつかないものな。いいだろう」
滲み出る尊大な物言いには、どうにも人を従わせる風格があった。
そうしてイースは黙って馬を降り、歩いていく。
アベルはその後ろを歩く。
居並ぶ鎧を装着した騎士たちが、頭巾の男に儀仗を捧げていた。
そろそろアベルはあの正体不明の人物が、とてつもない高位の人物であるのを感じ始めた。
導かれるまま陣幕の内部に入る。
中には移動式の立派な椅子が一脚、用意されていた。
重厚な紫檀に精密な文様が刻み込まれていた。
頭巾の男は迷わず椅子へ座る。
上半身裸の大鉈の戦士や、数名の魔法使いが椅子の周りで護衛についた。
「そこで止まれ」
大鉈の戦士がアベルとイースを制止した。
椅子に座った頭巾の男が覆いを取り払う。
アベルは、やっとその素顔を見ることができた。
美男子だった。
年齢、二十八歳ぐらいか。あるいは三十歳ぐらいなのかもしれない。
髪の毛は、暗い青色をしていた。
インディゴブルーをさらに落ち着けたような……。
瞳も髪に近い色合いをしている。
鼻筋はすっきりしているし、顔の輪郭は端正そのもの。
視線は柔和というほどでもないが、少なくとも険しさなど微塵もない。
敵意がないのは本当のことらしい。
口元には優しげな微笑すらある。
人格の歪みを感じさせるような気配は、どこにもない。
むしろ狂暴性を感じさせない洗練された物腰だった。
男がアベルに視線を合わせて、語りかける。
「さて、少年。せっかく来たのだからまずは君に問うておこう。王というもの、その正体はなんだと思う」
唐突な質問。
いかなる意図なのか分からないが、何か答えないとならない。
アベルは一瞬考えて、ひねりのない回答を口にする。
「……権力者の頂点」
「常識的な答えだな。正解だが、不十分だ。世の中には重臣の傀儡、佞臣の操り人形と化した形だけの王がいくらでもいる。王というだけで頂点とは限らない。俺の考えは、こうだ。
王とは全てを演ずる者だ。ゆえに実像など持ってはならない者でもある」
そう語る男の眼は奇妙だった。
熱意もなく、敵意もなく……、いかなる種類の情熱も感じられない。
だが、それに反して男の語らいは止まることはない。
アベルもイースも口を挟む隙は無かった。
「王というものは何か。王は全てだ。全てになりきればよい」
「王は善を求められた時には善王に見えればよい。真実などはどうでもいい」
「残虐に見せねばならぬ時は、とびきり惨い行いを演ずればよい。これが一番簡単。民衆を制御する手軽な方法だ」
「哲学が必要ならば哲人のように振舞えばよい。哲学があるかのように人に思わせれば事足りる。分かった風の哲人気取りがいくらでも書を残している。読んで真似ればいい」
「芸術を必要とするならば……腕の確かな職人に注文すればよい。素晴らしい彫刻、雄大な建築。それらが最も美しく輝くように配置するのが王の役目だ。上手くいったときには王は職人を使い切ってみせた、真の芸術家となる」
「強く見せねばならぬ時。これは苦労いたす。たとえば優秀な弟や妹に負けぬよう、最前線で敵の残党狩りなどに興じて見せる。ゼノ家、最後の生き残りを討ち取れば分かりやすく勝敗を説明できるわけだ」
「つまり、王は人ではない。王とは行為と結果だ。そして、全てを演ずる。どんな残虐も、どんな慈善も。ゆえに王とは虚ろ。何か一つになりきったとき、王は愚鈍な一人の凡人となる……」
アベルは唾を飲み込み、聞いた。
「貴方は何者ですか」
男は先ほどから変わらぬ微笑。
しかし、何に対しても笑いかけていなかった。
「私は、イエルリング。王道国の王子だ」
高位の人物だと察してはいたが、あまりの立場に意表をつかれる。
王道国のイエルリング。
ガイアケロンの兄。
やはり王道国の王族は変わっている。
こんな最前線で、自分みずから行動するのだから。
アベルは、それとなく周囲を観察する。
イエルリングの周りには大鉈の男を始めとして、六人の護衛がいる。
戦士も魔法使いもいた。
イエルリング王子自身、あの魔法を無効化する強力な魔力干渉を使ってくる。
形勢は完全に不利、というよりも死中にある。
もし襲われて戦闘となれば、イエルリングを人質にするぐらいしか手はないだろう。もっともそんな芸当が出来るかどうか……。
皇帝国は目前、あともう一歩でカチェを家へ届け、ウォルターとアイラに再会できるかもしれない。
こんなところで殺されるわけにはいかない。
アベルは拳を強く握った。
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