第68話  離れぬ心を信じて

 




「私の父ヨルグは夢幻流の剣士だ。夢幻流は相手を欺き、意図を隠すことで勝機を見いだす術理が多用されている。対して祖父ダンテが会得していた竜殺流は主導権の奪取と維持に神髄がある。竜殺流はその名の通り元来は竜などの魔獣と戦うために編み出された。魔獣の力は人間族のそれを遙かに凌駕する。そういう相手に一歩でも退いて主導権を失ってしまえば、あっという間に圧倒されて殺されてしまうからだ」


 近頃、イースは寸暇を惜しむように技を教えてくれる。

 ただ、その教授の方法は実践的で言葉で伝えられることは少ない。


「私がなぜ説明を嫌うか。それは頭で理解しても体がそのように動かないからだ。下手に教えるぐらいなら何も教えない方がよい」


 イースが長い木の棒を構える。

 一点の曇りも無い姿勢は、相対しているとまるで巨大な山脈と対峙している気分になってくる。

 武術に疎い者にとっては、少女が身の丈に似合わない得物を手にしていると映るだろうか。

 アベルには絶対に動かすことができず、また壊せない、言い知れぬ神聖な結界に見えるのだった。

 

 イースの構えや所作、そして歩法には神秘性があった。

 それはどうしてだろうかとアベルは考える。

 武術に限らず何か芸事を極めんとすれば激しい欲念が湧いてくる。

 技を自分のものにしたい。

 誰も知らない高みに自分を上昇させたい。

 勝ちたい。

 

 そのような願望に塗れるうちに、いつしか泥沼に嵌ってしまう。

 ところが、イースにはそうした程度の低い欲が無かった。

 その俗世を離れた清らかな剣にアベルは平伏したくなる。

 

 イースの凄まじさは、隠れた技術の豊富さにもあった。

 普段は大剣を使っているが、実際のところ刀の扱いですら達人と呼んでも足りない。

 アベルは何十回と挑んで、ようやく稀に優勢で戦いを進めることが出来る。

 ところが、勝機を掴みかけた瞬間、今度はイースは格闘技を使ってくる。

 

 ガイアケロン王子と戦った時もそうであった。

 突如、全く異なる技を使ってくるのでそれまでの分析や対策が無駄になる。

 気が付けば関節を決められてアベルは地面に捻じ伏せられていた。

 イースの猛烈な圧迫。

 胸を足踏みされながら見上げると、表情ひとつ変えない冷然とした美しい顔がある。

 万が一にも勝てないと知り、アベルは陶然とした気持ちになる。

 毛先ほども悔しくなかった。

 何というか……完全な芸術を目にしたときの気分であろうか。


「戦場で取っ組み合いになり敵と共に倒れるのは非常に危険だ。だから組手は敵の関節を破壊することに目的を置く。いくつかの秘技を教えてやる。まず、指折り。それから腕折りだ。いずれも掴むまでが重要で、そのためにまず速度、それから相手を騙す動きを仕掛けるのがコツとなる」


 イースはカチェに教えることすら拒み、こうした訓練は必ず二人きりで行われる。 

 夜の森などで余人を交えず、数々の嵌め手を学ぶことが出来た。


「私は人に教えたことがない。だからこれで正しいのか間違っているのか、実は言うと良く分かっていない。アベルが死なずに、これからもずっと生き残れば上手くいった証になろう」

「イース様はもしかすると世界で最も優れた戦士じゃないかな」

「まさか。私とて数百人に攻められたら殺されてしまう。そういう時は戦わずに逃げるものだ。それより破壊力という意味ではアベルの方が上だ。お前の強力な魔力によって引き起こされる魔法でならば何百人とて討ち取ることが出来よう」

「でも、魔法があってもイース様には勝てないよ、きっと。だって当たらないからね」

「私のように魔法がほとんど使えない者は魔術師と戦う時には地形や気象が重要となる。まず、敵を正しく評価しないといけない。装備、年齢、体格、視線の動かし方、手足の動作。そういうものから敵の意図や技量、さらには弱点を見抜くこと」

「見抜いたとして相手の方が強いと感じたら?」

「そこを教えるのが一番難しいな。アベルは時々、平気で命を捨てる戦い方をする。戦士にとって勇気は何よりも力となるが単に無謀であるのと、理解したうえで戦うのとでは天と地とほども異なる。よくよく技を磨くことだ。この先、アベルなら信じられないほど強くなれる」


 だから死んではならない、そう諭すように言うイースからは優しさの感情が伝わってきた。

 




~~~~~~ 





 北方草原を離れてから、およそ百日。

 季節は夏から秋、そして冬に移り変わってきた。

 エウロニアに近づくほど森人氏族の姿が多くなる。

 人間族に比べると男女ともに、やや小柄で体の線は細い。

 以前、ハイワンド伯爵家の森を管理していたディーナ・リンドという森人氏族の女性をアベルは思い出す。


 彼らは主食として小麦や木の実を好む。

 肉も食するが、あまり大量に消費するということはないようだった。

 遊牧民と違って酪農はほとんどやっている様子を見ない。


 農業が盛んで葡萄酒などは自分たちで生産し、輸出もしているようだ。

 人間族に比べると寿命も長く、少年のように見えて年齢二十歳ということもしばしばだった。


 森人氏族の耳は長く尖っているのが特徴だ。

 ちなみに、森人の女性の耳は長くて優美なほど、美人と言われるらしい。

 裏を返せば人間族など、どうしようもない不細工ということなのだろうか……。

 アベルは今度、聞いてみようと思う。


 エウロニアの国境検問は厳重だった。

 切り立った渓谷に仮設橋のような縄と木板で作られた橋がある。

 橋の両側は砦になっていて、強引に突破した者がいたとしても渡った所で頑丈な扉がある。

 とてもではないが強行突破など出来やしない。

 少しでも不審な様子のある者や、隣接する自治地域から回ってきた犯罪者の人相書きに似た者は決して入国できないようになっていた。


 アベルたちは最初、かなり胡散臭げに見られた。

 武装した森人氏族の戦士が警戒しながら、すっかり周りを取り囲み、あれこれと質問をしてくる。

 また、彼らに雇われた人間族の戦士もいて、同じように抜け目なく見張っていた。


 当然と言えば当然といえた。

 武装した男たちが国内に入るというのは、それだけで危険の伴うことだ。

 少しでも怪しい者は排除したくなるというものだった。

 そこからはライカナの身分証明書と弁舌が非常に役に立った。

 ライカナがエウロニアの女王から発行された大学舎在籍を示す証書を出すと、相手の態度がはっきりと変わった。

 しばらく話し合いが続いたが、ついに全員入国の許可が下りる。


 アベルたちは入国税という名目で、一人につき王政銀貨で五十枚を支払う。決して安くないどころか非常に高い部類だ。

 これはつまり、外国人の入国をたとえ怪しい人物でなくとも制限しようという意図だと思われた。


 絶対に無くしてはならないと注意されて入国証明書を受け取り、いよいよエウロニアに入った。

 エウロニアの面積だとか地理などは、はっきりとは分からない。

 この時代、地図というものは軍事機密なので国が作製しても一般には出回らないのだった。

 だから、商人たちが手作りで書いた地図が高価な値で取引されている。


 エウロニアを西端まで移動したら、次はバルティアという自治地域になる。

 バルティアは皇帝国の属州であった。

 属州とは皇帝国本土の周囲に設けられた緩衝地域であり、あえて直接統治をしないで現地の豪族などに任せる制度だった。

 属州は皇帝国の庇護がある代わりに、亜人界や王道国から圧迫があれば防波堤として戦わなくてはならない。


 エウロニアの道路は歩きやすく整備されていた。

 山の斜面を耕地化した景色が頻繁に見える。

 小麦を育てていた。

 ただ、森林が多い土地柄、それほど農耕面積は広くないらしい。

 

 もうじきに冬が来るので農民たちが麦の刈り取りを急いでいた。

 アベルは故郷テナナを思い出す。

 平和な光景である。


 エウロニアに入ってから旅は絶好調であった。

 行く手を塞ぐ騒乱や得体の知れない傭兵連中は姿を消した。

 小さな宿場町では、安くて美味いものが食べられる。


 そして、入国してから二十日間。

 とうとうエウロニアの首都に到着した。

 首都を遠望すると、巨大な山城が見える。


 石灰岩を固めて作った壁が山城には何重にも形成されていた。

 山の中腹から頂上にかけて堅牢な石造りの本城がある。


 その山城の麓には、街が広がっていた。

 その街自体も、ぐるりと壁で囲まれている。

 アベルが見たところ、そうとう攻め難い地形と城だった。

 ライカナはアベルに説明してくれる。


「あの城に森人氏族の女王ルシエノール・エンケテリウス様が居られます」

「エウロニアの女王……。皇帝国では、ほとんど聞いたことがありませんでした」

「それはそうです。皇帝国は自分たち以外の外国というものを、そもそも認めていませんから。ですから女王などと呼ぶことすらできません。せいぜいが、蛮族の酋長というような表現になることでしょう」

「ふ~ん。やっぱり皇帝国ってダメな国だね。現実が見えてない。認めたくなくとも、そこに国があるのに」

「ウェルス皇帝の次に期待するしかありません。ですが、第一後継者らしいコンラート皇子は、どうやら愚物のようですね」

「ああ……。会ったこともないですけれど、部下を置き去りにして逃げるような人だから。ろくでなしですよね」

「愚鈍な王を賢臣が支えるというのは、まぁ良くあることです……。アベル。わたしは貴方に、そうした賢き政治家になってもらいたいです」

「えぇ……」


 アベルは、ただ困惑するしかなかった。

 ライカナは冗談を言っている風ではない。

 ごくごく真面目な顔をしていた。




 アベルたちは王都の内部に入る。

 街にいる人々の、およそ八割方は森人氏族であった。

 老若男女……様々な人が歩いている。


 季節が冬になっていることもあって、服装は厚手のものを着ている人がほとんどだった。

 武装はしていても、せいぜい剣を腰から下げている程度だ。

 アベルたちのように鎧兜まで装着している方が珍しい。


 街には人間族の旅人、商人もちらほらといる。

 ワルトのような獣人はほとんど見かけなかった。


 エウロニアの建築物は材木と漆喰を組み合わせたものが主流だった。

 屋根は粘土の薄板を瓦のような感じで葺いている。

 アベルは前世的な知識を、むりやり当て嵌めて、窓の多い蔵というような印象を持った。

 そうした建物は、ほとんど例外なく二階建てになっている。


 街の特徴として、樹が多かった。

 それも街路樹のように整然と植えられているのではなくて、もともと生えていた、あるいは新たに育成してきた樹が、そのまま手付かずで保護されているという感じだ。

 街も規格的に整理されていない。

 そのせいか道が入り組んでいて、望んだ方角に進みにくい街だった。

 しかし、ライカナにとっては良く知る場所なので、先頭になって馬を操り案内してくれた。


 ライカナは、やがて古い石造りの大きな建物に一行を連れてきた。

 壁には蔦が張っていて、何百年もの歴史を感じさせる古色蒼然とした趣。

 全体としては三階建ての長方体をしているようだ。

 中央部に高い尖塔があって鐘が設置されていた。

 まるで遺跡のようである。


「あそこがわたしの在籍している大学舎です。建物は大帝国時代、この地方の総督府のために造られたものです」


 カザルスが後を継いで喋った。


「皇立魔術学院、王隷魔術大学と並んで森人氏族の大学舎は有名な学術機関だよ。いまでは戦争のせいで交流が無くなってしまったけれど、五十年ぐらい前、まだ政治情勢が安定していたころは互いに留学生を受け入れていたらしいね」

「現在でも秘密裏に交流はあると言われていますが、か細いものです。あそこに、わたしの研究室があります。八年も帰っていませんけれど二十年間、放置しなければ大学舎が責任を持って管理下に置くという約束を交わしているので、たぶん何事もなく残っているはずです」


 アベルたちは、ライカナとの別れが近づいたのを感じ取る。

 ライカナは大学の近くにある、宿泊所と飲食店を兼ねた店舗に一行を案内した。

 ここは、もともと大学の関係者が多く利用するところらしい。


 葡萄酒を注文して、各人に杯を回す。

 ライカナが立ち上がって、皆を見渡した。


「わたしの旅に一つの区切りがつきました。貴方たちのおかげで魔女アス様に会うことができたうえ、貴重な書物を入手することができました。理想に近づくことができたのです。深く感謝します」


 ロペスが答える。

 驚いたことに、その顔には別れを惜しむ情緒が感じられた。

 普段は岩のように厳つい表情を絶やさず、敵を殺すときは残忍な笑みすら浮かべる男であるのに……。


「いいや。こちらこそ魔獣界、亜人界と案内してもらった。ライカナ殿。感謝する」


 短いロペスらしい言葉だった。

 乾杯して、あまり料理は頼まず、酒ばかり飲んだ。

 特にガトゥは、いつもより強い酒を次々に飲み干している。

 ちょっと、やけ酒に近い勢いだ。

 カザルスが珍しく饒舌にライカナへ語り掛ける。


「ボクは学者としてライカナさんを尊敬します。自分の身を危険に晒してまでも、探究に全てを捧げる。立派な事です。やはり物事は命懸けにならないと達成しえないのだと教えて貰いました」

「カザルスも皇帝国に帰ったら世の中を良くするような発明をしてください。貴方にはそうした才能がありますよ」

「……ボクは、まず御沙汰を受けなくてはならない。それが済んだら身の振り方を考えますよ」


 カザルスは伯爵家を騙して飛行魔道具に乗せた罪があるので、まずそれを赦してもらわないとならない。

 それはそれほど簡単なことではないはずだった。

 それからカチェが瞳を少し濡らしていた。


「わたくし、女性の友人がいないのです。伯爵家では女官に囲まれていたけれど、あの人たちは友ではないですから。馴れ馴れしいかもしれませんけれど、ライカナは師というか友のようにも思っていました」


 彼女はカチェの肩を抱き寄せて、優しく言った。


「わたしにとってもカチェは妹のような友のようなものです。三年ほども一緒にいましたからね……。貴方の良さもすっかり理解しています。カチェには悪いものに対抗する強い意志と力があります。それに勘も良く聡明。皇帝国に戻ってから貴方の本当の人生が始まるはずです。自分を信じて進んでください」


 アベルはガトゥの様子が気になった。

 陽気な、ある意味適当な男だが、酒の席では冗談を言って場を明るくさせてくれる。

 逆境にあっても余裕を失わないので、実のところ重要な働きを続けていた。

 たとえばロペスなどは我慢強さはあっても他人に対する気遣いだとかは無いに等しい。唯一、弟のモーンケに合わせるぐらいのものだ。

 そこを行くとガトゥは痒いところに手を回してくれるというか、意外なほど手回しが良いのだ。

 しかし、今日に限って彼は黙々と杯を重ねていた。

 結局、ほとんど喋らずに、意識が曖昧になるほど飲み続けた。


 やがてロペスが金貨や銀貨の入った袋を中身も見ないままライカナに渡した。

 おそらく全財産の一割か二割といった感じだ。

 大金だった。


「これは謝礼というか分け前だ。それだけの働きをライカナ殿はやってくれた。報いぬは貴族の礼に反する。受け取ってくれ」

「……頂戴しておきます」


 夜半前、店の営業時間が終わったので別れの宴は終わる。

 ロペスとモーンケは二階の寝室に移動していく。


 アベルはすっかり酔いつぶれているガトゥを起こそうとしたが、なかなか立ち上がらない。

 店の人が迷惑そうにしているのでアベルは強引に体を引き起こす。

 ライカナがそれを手伝ってくれた。


 ガトゥがライカナに気づき、肩を寄せると抱き締めた。

 けっこう強引な感じだったが、ライカナは拒否しなかった。

 ガトゥはライカナの水色の髪を名残惜しそうに撫でている。

 アベルは黙って、見て見ぬふりをした。

 何か妙に生々しくて、見ていると興奮してくるというか顔が赤くなってきた。

 カチェも、ぎょっとした顔で二人を見詰めていた……。


 ふらふらと歩みもままならないガトゥを部屋まで連れていき、寝台に横にさせてアベルは部屋を出る。

 ライカナが居たので思わず聞いた。


「全然気づかなかったんですがガトゥ様と、そういう関係だったのですか?」

「いいえ。まさか……。共に旅をしてる人と男女関係になると雰囲気がおかしくなるから、してないわ」

「そうだよね。仲がいいのは知っていたけれど、そういうのじゃなかったはずだから。さっきはビックリしました」

「不思議ですか?」

「うん……」

「男と女には、こういうこともあるでしょう……。アベルは大人びているけれど、そうした方は子供のままです。貴方にはどうしたわけか、そういう歪なところがありますね」


 黙っているアベルを見るライカナは、とても可笑しそうに笑った。


「アベルがもっと成長したら、わたしの好みになりそうな予感がします。凄く期待していますよ」





 翌日、早朝。

 ライカナはイースを人気のない所に呼び出した。

 以前から考えていたのだが今日こそ伝えなくてはならない。


「イース。別れの前に大事な話しがあります」

「そうか……言ってみるといい」

「わたしと共に理想を追いませんか? 皇帝国には激しい亜人排斥の法律があります。貴方が皇帝国に戻っても騎士として活躍できる場はないでしょう」

「だろうな」

「貴方ほどの者が不遇に身を落とすことはありません。どうですか。わたしと皇剣を探す旅をしませんか。危険な旅に貴方のような強者がいれば、これほど心強いことはありません」

「もし見つかったとして、皇剣は誰に渡すのだ」

「まだ、決めていません。それを見極める旅も、するつもりです」

「……魅力的な提案だ。しかし、いまアベルたちと別れることはできない」

「ええ。そうでしょう。ですから、皇帝国の手前まで彼らを送った後……ここへ戻ってきてください」

「すまないが約束はできない」

「貴方ほどのひとでも身の振り方を決めかねているのですか?」


 イースの脳裏にあるのは、今やアベルのことばかりだった。

 いつまでも支えてやりたい。

 アベルは依然、従者として自分に仕えているけれども、もはや心情的に主従は逆転していた。

 イースにとってアベルは従者以上であるどころか……。


 皇帝国に帰還すれば度重なる功績からアベルは騎士か、あるいはもっと上位の爵位を得ることも充分にありうる。

 ハイワンド家の一門衆に加えられるかもしれない。

 そうしたら今度は自分がアベルに仕えるのだ。

 それはそれで望ましいではないか……。

 甘ったるい想像に満ちた幸福な将来像だった。


 しかし、そうしてしまうことに激しい躊躇いがある。

 アベルと強く結びつき、さらに安定してしまえば、そこで己の心と強さを探す旅はある終わりを迎えるだろう。

 そうなったときアベルと自分に、さらなる成長はあるのか。

 無いとするならどうすればよいのか。

 思考は堂々巡りをしてしまう。

 こんなこと、かつて一度も無かった。

 答えが見つからないまま、どんどん皇帝国は近づいてきてしまった。


「ライカナ。考えさせてくれ……。結論が出せない。決心したら貴方を尋ねる」

「分かりました。待っていますよ。イース」


 ライカナはイースの決断を鈍らせている原因を感じ取る。

 アベルに決まっている。他にあり得ない。

 しかし、これ以上は何も言わないことにした。

 あまりにもイースの心の繊細な部分に干渉してしまう問いかけだ。

 親しくとも、触れてはならないことがある。



 アベルたちは旅装を手早く整えて出発する。

 観光する予定などあるはずもなく、首都を通過して次の街に行くだけだ。

 ライカナがずっと乗っていた馬は彼女に贈ってしまうことにした。


 別れ際、ガトゥがライカナの手を取り、甲にキスをした。

 ガトゥは、にやけ笑いを消した真剣な表情だ。


「ライカナ。ほんとにイイ女だ。俺がハイワンドに仕えてなければ求婚しているところだったぜ。だが、今度こそ俺は主家を裏切るわけにはいかない。まずはロペス様たちをお家に届けなくてはならない。命を掛けてもな」

「ふふっ。ガトゥ男爵様。貴方も、いい男です」

「名残惜しいが、湿っぽいのは嫌いだ。じゃあな!」


 ガトゥは頭を掻き、げひひと笑いながら立ち去る。

 陽気を装っていたが何か痛ましいものを見た気がアベルはした。

 思い返してみれば旅の最中、ガトゥはライカナを気に入っていて、いつも話しをしていた。

 戦闘でも、いつの間にかコンビになっていた。

 息の合った素晴らしい連携だった。

 あのような動きは、よほど互いの機微が分かっていないとできないことだ。


 男と女が何年も一緒に居れば……しかも、気が合うとなれば好意にもなるはずだった。

 求婚と言うのも満更、冗談ではなかったのかも……。

 だが、ガトゥは恩のあるハイワンド家のために働くことを選んだのだった。

 そうして最後にライカナはアベルに声をかける。


「アベル。貴方なら皇帝国でもきっと出世できることでしょう。国の悪いところを中から治すという考えもあります。また、真の医者は国の病を治すとも言われます」

「自分に出来るとは思えません」

「戦乱の時代に一つだけ価値があるとすれば貴方のような隠れた傑物を呼び起こすことです。離れても信じていますよ。アベル」


 ライカナは、にっこり笑ってアベルの頬に口づけをした。

 薄い水色をしたライカナの長髪がアベルの視界を覆う。

 女の香しい匂いがした。

 男女の情愛というより、温かい友情を感じた。

 女性とそうした関係になったことがないので、アベルはやけに照れる。


 恥ずかしさもあって、アベルは短く別れを言うとすぐに馬に乗った。

 かなり離れてから振り返ると、ライカナはまだこちらを見ていた……。

 アベルはライカナの理想を持った生き方に羨ましさを感じる。

 今の自分はどうしても気高い信念のようなものを持てない。

 信じられないと言うべきか。


 草原を生き生きと馬で駆け抜けていたウルラウとも別れた。

 今日は強さと優しさ、さらに広い知識を兼ね備えたライカナとも別れてしまった。

 もしかしたら、もう二度と会わず、再び声を聞くこともできない別れ。


 人生とは別離の積み重ねだと感じる。

 そして、その別離は、前世のものとは全く異なっていた。


 怨み極まる父親とは、殺害という形で別れた。

 冷たい、それでいて燃えるような殺意。

 その炎は、いまだに消えていない。

 むしろ、心の奥底へ深く根を伸ばしている……。


 アベルはイースと馬を並べる。

 イースはいつもの通りの美貌を湛えていた。

 横顔は完璧な彫刻のように整っている。


――もしかしたら、いつかイースとも別れることがあるのだろうか?


 ふとアベルがそう想像すると、胸が締め付けられるようだった。

 そんな日は絶対に来ないのだと、自分に言い聞かせた。

 激しい、爆発するような欲望に塗れた自分の心に、何らかの安静をもたらすイースがいなくなるなど……あってはならない。


 イースは長命族なのだから、自分は死ぬまでその傍で仕えればいい。

 きっとそれは幸福な日々だろう。

 アベルはそう信じ込むことにした。





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