第39話  戦局

 



 伯爵盟軍の戦列は、すっかり整っていた。

 後方から土煙を上げながら皇帝親衛軍が整然と進んで来る。

 興奮と緊張から激しく喉が渇く。

 アベルは水を飲みつつ、その様子を見ていた。


 時間にしてどれぐらいだろうか。

 三十分ぐらい……。

 伯爵盟軍、三万人以上が援軍を待つ奇妙な時間。


 アベルは頭で理解するよりも肌で感じた。

 こういうのって良くないな、と。

 さっきまで勝って勢いがあったのに変な冷却状態になってきた。

 勝機とか戦機というのは、こうしてクルクルと回転しつつ一瞬にして巡っていくものではないのか。


 いよいよ皇帝親衛軍が到着しそうになったとき、それは起こった。

 ずっと南東に控えていたガイアケロンとハーディアの軍団が突如として動き出した。

 それは、完全に無駄のない一斉行動であった。

 全ての部隊が、一糸乱れず移動を始める。

 遅滞なく、猟騎兵の群れが皇帝親衛軍の立て籠もる野戦陣地に突き進んでいく。


 アベルが望遠鏡で見ていると、どうやら馬で車を引いた騎馬戦車もたくさんいる。

 初めて見たが小型の二輪馬車みたいなものだ。 

 御者と、他に二人の兵士が乗っている。計三人。

 どのように運用されるのか見ていると、どうやら槍兵と弓兵が乗っているらしい。

 接近戦というより中距離戦に向いていそうだ。


 あっという間に野戦陣地のあたりで戦闘が始まる。

 魔法によるものか、爆発がいくつも発生していた。

 やがて見たこともないほど大きな閃光が爆ぜた。

 木柵や人間が、バラバラになって巻き上がるのが見える。


「なんだろう。あの魔法……?」


 アベルの知らない強力な火魔術らしい。

 その頃になってやっと五千人の皇帝親衛軍が到着した。

 軍勢は伯爵盟軍の最右翼の位置に着こうとしていた。

 アベルはこれで総攻撃かと思っていたら、なかなか合図がない。


 苛々しながらアベルはガイアケロンとハーディアの軍団が気になって仕方なかった。

 望遠鏡で見ていると、どうやら土嚢のようなものを堀に投げ込んでいた。

 土嚢は騎兵が馬で運んでいる。

 普通、騎士なら土工のやるような作業だとして、拒否する行動だ。


 やはりガイアケロンの軍団は、かなり変わっている。

 それに城攻め用の資材を大量に用意していたらしい。

 これでは防御陣地を急設して優位に立つ戦術が無効化されてしまう。


 堀が早くも埋まりつつある。

 歩兵が群がって木柵を倒そうと波状攻撃を繰り返していた。

 見る見るうちに陣地の南東側一角が防御力を失った。

 陣地内の皇帝軍は四周を木柵と堀に囲まれている。

 一端、敵に突入路を作られてしまうと、それは袋の鼠と化すのではないか……?


 攻撃命令の無いまま、時間が過ぎていく。

 アベルは陣地から狼煙が上がっているのを見つけた。

 赤い煙が上がっている。

 さっき来たままベルルの横に張り付いているラーン・カイトル男爵が叫ぶように言った。


「い、いかん。援軍を求めている。あれは援軍を請う狼煙であるぞ」


 アベルは開いた口が塞がらない。


「何だ何だ……? どうなっている?」


 到着したばかりの皇帝親衛軍が信じられないことに、とって返し始めた。

 来た道を戻っていく。


「何しに来たんだ……あいつら」


 アベルの疑問は全軍が感じていることのようであった。

 それと時を同じくしてリキメルの軍勢で動きがある。

 長く響く法螺貝の音がした。


 広く横になった戦列が、整然とゆっくり前進してきた。

 リキメル王子直轄の軍団、およそ三万五千人はいるのだろうか。

 状況の規模が大きすぎてアベルには実感が湧かなかった。


 ラッパの音がした。

 それから太鼓の音が始まる。

 待ちに待った伯爵盟軍の総攻撃の合図だった。


 なんとも締まらない感じで伯爵盟軍が前進を開始した。

 両軍の距離が縮まり、まず弓兵が射ち合いを始める。

 アベルの見たところ弓矢の応酬は互角に思えた。

 すぐに最前列の盾を持った槍兵が突き合いを始めた。

 極限的に粗雑な、暴力と暴力のぶつかり合い。


 アベルたちは、やや後方で騎馬突撃に備える。

 味方が突入路を抉じ開けたら、そこへ騎兵を突っ込ませるわけだ。

 あるいは万が一、味方のどこかが破れたら、そこへ騎兵が応援に行くということもあるだろう。


 眼前の戦いは拮抗している。

 ほぼ最前列で徒歩になったロペスが獅子奮迅の活躍をしていた。

 大槍を振り回している。

 斧のような刃も付いた武器だから斬撃を与えることもできた。

 ハルバートという武器なのかもしれない。


 ロペスの魔力による身体強化は以前よりさらに鍛えられていた。

 敵が次々に薙ぎ払われていく。魔法による反撃はロペスの傍にいる騎士団の魔法使いが中和なり干渉をして防いでいた。


 肉と肉がぶつかり合い、砕けていく。

 短いような長いような異常な時間。

 ふと、誰か言った。


「お、おい。皇帝親衛軍の様子がおかしいぞ」


 アベルが鞍の上に立ち上がって見てみると陣地に立て籠もっている親衛軍が、自ら木柵を破壊していた。

 攻撃に圧迫されて、やむなく逃げ道を作るためらしい。

 結局、取って返した五千の軍勢は合流できないまま、陣地の手前で戦闘に雪崩れ込んでいた。

 ガイアケロンの軍勢に押されて陣地まで戻れなかったようだ。


 ベルルと監督官ラーン・カイトル男爵のもとに親衛軍の使者が飛び込んで来た。

 馬上のまま、憔悴した声で言う。


「執軍官ムベルク様より伯爵盟軍に伝達。各伯爵家はそれぞれ騎兵百を選抜。至急、ガイアケロンとハーディアの軍勢へ攻撃をされたし」


 怒りとイラつきを含んだ声でベルルが問うた。


「それは援軍が無ければ負けるということか!」

「小官の判断できることではありません。ただ、お味方、残念ながら劣勢でございます。まさかガイアケロンめの軍団がこれほど素早く野戦陣地の障害物を排除するとは予想しておりませんでした」


 監督官ラーン・カイトル男爵がベルルへ叫ぶように言うのだった。


「監督官としてムベルク様のご命令、直ちに実行することを要求する。ハイワンド騎士団は至急、援軍を送るように!」


 ベルルは即断した。


「ここはロペスに任せる! 俺と騎馬隊長スティングは皇帝親衛軍の援護に行く。直属の百騎、ついて参れ! ああ、監督官殿はどうされる?」

「私の役目はハイワンド騎士団の監督ゆえ、ここは離れられない」


 ベルルは素早く騎士に下知して、疾風のように軍陣から飛び出していった。

 同じように各伯爵家から、だいたい百騎ぐらいの騎兵が急行していく。

 彼らが騎行しながら合流していく。


 なにしろ十五家もの伯爵家が連合しているので、たちまち千騎を超える軍勢に膨らんだ。

 ガイアケロン軍団の背後を突くつもりか、やや東に迂回していった。

 珍しくも途惑うカチェがアベルに聞いてきた。


「お父様……。行ってしまわれた。どうしたらいいのかしら?」

「いや。僕にもどうすればいいのかなんて分からないです。イース様、どうしましょうか」

「ベルル団長はロペス様に任せると命令された。ならば我々はロペス様を支えればよい」


 明快な答えが返ってきた。

 そのロペスは恐れを知らずに戦い続けていた。

 自慢の剛力で槍を振うたびに血飛沫が草原に散る。

 もはや装備の何もかもが血で汚れている有様は凄まじい迫力。


 指揮官が自ら突き進む姿に奮い立ったハイワンド騎士団が一丸となって突撃を繰り返した。

 やがてリキメル軍団の槍兵が前から五列まで崩されていった。

 その穴を埋めるべく背後の剣士部隊が代わり出てくる。

 ロペスが戦場に響き渡る大声で号令した。


「騎馬部隊! 突撃せよっ!」


 ついに騎馬突撃だ。

 待機していたアベルたちは馬に乗って突撃に加わる。

 味方の間をすり抜け、敵に突っ込む。


 繊細な技術はいらない。

 荒々しく馬を駆り立て、敵に馬体を衝突させるだけだ。

 剣士兵が吹き飛ばされ、馬蹄に踏みつけられた。

 ああなると、まず助からない。

 リキメル軍団の一角はパニック状態になりつつある。


 アベルは時々、炎弾や氷槍を適当に使った。

 だが、百人隊長クラスの者には必ず魔法使いが付いていて、攻撃は防がれてしまう。

 魔力をあらん限り注ぎ込んで、多様な魔術を連発すれば魔法使いを圧倒できるとも思うが、肝心の指揮官に逃げられてしまう可能性がある。

 先は長いので魔力を乱用したくない。

 アベルはイースやガトゥの支援、カチェの守りに徹する。


 ほぼ互角の戦いが続く。

 アベルは興奮のあまり時間の感覚を失う。

 数分の出来事のような気がしていたが、もう一時間ぐらい経っていたかもしれない。

 やや疲労してきたアベルたちは一端、別の攻撃部隊と交代して小休止することになった。


 水を飲んで呼吸を整えているときだった。

 後方の様子がおかしくなってきた。

 騎士たちが、ざわついている。

 アベルが何かと思って見ると騎士たちは南を見ている。


 アベルは驚き、呻いた。

 皇帝親衛軍が敗走していた。

 間違いない。

 辛うじて、防御列を形成しながら退いているが、ガイアケロンの軍勢は猟騎兵を巧みに運用して皇帝親衛軍を細かく分断していく。

 二つに割ってしまった皇帝親衛軍をさらにバラバラにしていった。


「どうなっている……?」


 アベルが呆然と眺めていたら、加勢に出ていたはずの騎兵の集団がこちらの方へ戻ってきた。

 どうやらハイワンド騎士団の騎士たちだ。数は半分以下にまで減っている。

 彼らはカチェを見つけると、叫ぶように報告した。


「ベルル団長……! ベルル団長、ガイアケロンの部隊に突撃したのち……本陣のごく近くまで斬り込んだものの、その後、行方不明であります!」

「え……。行方不明? そんなことってないでしょう! 近習の騎士が主を見失ってどうするのよ!」


 騎士が悔しそうに言った。


「我々とて最後まで戦うつもりでございましたっ! しかしながら、騎馬隊長スティング様が報告をせよと命じられたのです! ベルル団長の最後のご命令は、皇帝親衛軍が敗走の後は伯爵盟軍と図り、ハイワンド領内に後退せよとのことでございます」

「こんなことって……。後退?」


 普段はないことだが、さすがのカチェも動揺している。

 息荒く気色ばんで、逃げ戻って来た騎馬隊や戦場を交互に見渡している。

 どんな時でも冷静なイースが進言する。


「取り合えずロペス様と協議して伯爵盟軍の総指揮官リモン様に相談されるとよいでしょう。事ここに至り、心配は意味を成しません。ベルル団長が無事なのか捕虜になられたか、いずれ分かること」


 カチェが頷いた。

 父親が戦死した可能性については、考えないことにした。

 考えていると体が動かない。

 みずから最前線へ騎行していく。


 アベルはそれに追随する。

 カチェは味方に動揺を与えないため、ロペスのすぐ耳元まで迫って情報を伝えた。


 こんな異常事態に接しても素早く平静を取り戻したカチェにアベルは感心する。

 さすがは生まれついての貴族だ。

 

 報告を聞いたロペスは落ち着いた所作で黙って後退していった。

 その穴を埋めたのがイースとガトゥだった。

 二人は猛然と敵に攻撃をはじめた。





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 落下するような勢いで情勢は悪化していく。

 皇帝親衛軍がずるずると後退して伯爵盟軍は敵から挟み撃ちを避けるほかなく、抵抗部隊と後退部隊に分かれて撤退することになった。

 国境の街リオンで皇帝親衛軍と合流しようという目論見もあった。


 しかし、激しい混乱のなかで計画していたような高度な軍隊運用は上手く行かなかった。

 勢いに乗ったリキメル王子の軍勢が猛攻撃を仕掛けてくる。

 あとは、なし崩し的に各伯爵家は逃げ出していくばかりだった。


 潰走する有様は山崩れのようであった。

 連絡、報告のないまま小部隊に別れ、あるいは個人となり、先を争い西へと駆け出していく。

 アベルはイースに聞いた。


「負けですか?」

「ああ、負けだ。こうなったら、もう止まらない」

「さっきまで勝っていたのに……少なくとも互角だった」

「合戦とはこうしたものだ。そして、これからが本番だぞ。撤退戦はあらゆる戦いの中で、一番苦しい」


 ロペスが、もの凄い大声で叫ぶ。


「ハイワンド騎士団、これより国境まで後退する! 一丸とならねば、徒に討ち死にするのみであるぞ! 騎士は下馬せよ。負傷者を馬に乗せ、殿を勤めるのだ」


 ハイワンド騎士団が集まり、方陣を形成する。

 騎士や盾を持った従者が全方位を警戒し、内部で弓兵や負傷者を守る。

 その団結は強固で追撃をしてくるリキメル軍団を寄せ付けず、組織的な後退を始めた。

 アベルも負傷した名前も知らない従者を二名、ハヤテに乗せてやる。

 傷は治してやったのだが、精神的なダメージが大きすぎて腰を抜かして歩行できない状態だった。


 ハヤテの誘導はカザルスに任せた。

 カザルスも事態の急変に動揺を隠せない。

 憔悴した顔は汗と土埃で激しく汚れている。

 頬は引き攣っていた。


「カザルス先生。具合が悪くなったら言ってください」

「ま、負けてられないぞ! ボ、ボクだって皆やカチェ君の役に立って見せるからな!」

「男子の心意気ですね。信頼していますよ」

「ま、任せろぉ! 自分で志願して来たんだからなぁ。情けないとこ、カチェ君には見せられないんだぞ!」


 もう、最後のほうは自分自身への叱咤激励のように聞こえた。

 アベルは内心でカザルス先生がんばれと声をかけ、その場を離れる。


 アベルはカチェの姿を探す。

 カチェは気丈にも歪な方陣の最後尾付近にいて、次々に攻撃魔法を連発して敵の追っ手を蹴散らしていた。


 アベルはカチェの隣まで移動。

 その表情を見た。

 綺麗な紫色の瞳は、いつもの強気な力に溢れていた。


 アベルは思えばカチェとも長い付き合いだと感じる。

 我の強い性格だけれど、最近は雑用なども進んでやるようになって以前とだいぶ違う人間になった。

 良い方向に変化した。

 何としても助けてやりたい人間の一人だった。


「カチェ様。何が何でも僕やイース様たちとポルトまで戻りましょう」

「アベル。わたくしを守ってくれるの?」

「はい。でも、イース様の方が頼りになるかな」

「そんなことないわ……。わたくしの騎士様はアベルだけよ」


 カチェは顔を赤くさせて、そんなことを口にするのだった。

 こっちはまだ見習いなのに上手いことを言うなと感心する。

 そう言われてしまえば、それこそ命懸けで働くしかない……。


 カチェは隣に駆けつけてくれたアベルを頼もしく見る。

 単なる信頼を超えた愛情の籠もった視線。

 極限状態のさなか、アベルへの想いは強まるばかりだった。





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 撤退戦では意外なことにカザルスが誰よりも役に立った。

 カザルスの強力な鉱物魔法は、短時間で街道に大穴を開けた。

 それを巧妙に偽装して落とし穴にした。


 街道には意図的に狭隘部が設けられている。

 万が一にも攻められた時のための時間稼ぎや、少人数でも有利に戦える場所として設置されているわけだった。

 ハイワンド騎士団はそういう場所に数十人の防御部隊を配置して抵抗させ、その間に本隊は撤退する行動を繰り返した。


 敗走を始めてから三日目。

 アベルは、また敗報を聞くことになった。


 ベルギンフォン公爵領を防衛していた皇帝親衛軍の主力や公爵連合軍が敗れたという。

 相手は王道国の第一王子イエルリングと数万人に及ぶ傭兵たちの頭目ディド・ズマが率いる傭兵軍団。


 勢いに乗る王道国は損害を無視した力攻めを行い、対する皇帝親衛軍はコンラート皇子が不在とあって士気に欠け、粘り強く戦えなかったという。

 混乱のさなか、詳しいことまでは分からないが、ともかく負けたのには違いない。

 

 さらにリキメル王子に攻撃されていたレインハーグ伯爵までも降服したという報告も届く。

 あまりにも早い降服で、これを事実上の裏切りと言う者もあった。


 アベルは思考を巡らす。

 皇帝親衛軍の下手な戦いぶりや、何をやっているのか分からないコンラート皇子のことを考えてみれば降服というのも選択肢なのかもしれなかった……。


 ハイワンド領を目標としているガイアケロンとハーディアの軍団は国境まで素早く進撃したものの、領内に入ってからは極めて慎重に行動していた。

 村々へ事前に使者を送り、決して民衆に手を出さないから抵抗しないようにという触れを出して回っている。


 ロペスが真偽を確かめさせるために偵察隊を送ると、たしかに村を襲っている様子はないのであった。

 それどころか逆に食料や金を与えているという。

 戦争とは無縁でありたい民衆は寛大な征服者にほとんど抵抗しなかった。


 ポルトへ撤退の最中、逃亡を転進と言い繕ってどこにいるのかすら不明のコンラート皇子からは、しばしば実行不能の命令が来た。

 たとえば農民を一人残らず集団でハイワンド領から逃がせというものだった。

 しかし、旅装もなければ金もなく、食べ物もない者がどうやって逃げろと言うのか。

 だいたい農民は自分の農地に命以上の価値を感じている。

 そう易々と土地を放棄して逃げるということは、ないのであった。


 ガイアケロン軍団の行動は手堅いものだった。

 どうやら徹底的にハイワンド領を調べ尽くしていたらしい。

 地元の者しか知らないような間道、支道をも利用して着実に侵攻してくる。

 戦局は誰の目から見ても皇帝国に極めて不利だった。





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 気候は澄み渡るような晴天、時間は昼頃。

 ロペスに同行したアベルたちが、ついにポルトに逃げ帰ると街は混乱状態だった。

 逃げ出す者がいる一方で籠城のために物資を運び入れる者がいる。


 街の交差路には障害物が設けられて、馬一頭がやっと通れる広さしか無かった。

 城へ急ぐカチェとは一端別れてアベルがダンヒルの薬師店を訪ねると、家は既に封印されていた。


 張り紙があって、ダンヒル一家および従業員は帝都に避難するという旨が書いてある。

 移動先の住所まで書いてあった。帝都モンバール通り、テルマ薬品店……と記されていた。準備の良さから見て情報通のダンヒルはこんな日が来ることを予想していたのだろうか。


 これでシャーレが戦争を避けられたと安心するが、アベルは一抹の寂しさも感じた。

 もうあの優しい幼馴染と二度と会うことはないのだろうか……。




 アベルたちは街と城を隔てる城外門へ行く。

 何やら騒ぎが起こっていた。

 それは債権者の群れであった。

 ハイワンド伯爵家や騎士たちは戦費を用立てるために、方々から金を借りている。

 敗戦となれば借金が回収不能となるので、慌てて借金取りが押し寄せたのだった。


 命からがら、やっとのことで帰還した騎士が金を返せと捕まっている。

 命を狙われ、次は金……。

 安全な場所など地上のどこにも無い。

 最近まで従者風情だったアベルに金を貸してくれるような人などいなかった。

 結果的に借金がないアベルは笑いながら高みの見物。


「イース様。まさか借金とかないですよね」

「ないな……。そもそも亜人混血の私に金を貸すのは法律上禁止されている」

「そっか。そういう法律もありましたっけ」


 抜け道などいくらでもあるザル法ではあるのだが皇帝国とはそういう国だった。

 それからアベルはガトゥが、やばいって感じの表情をしたのを見逃さない。

 すると借金取りの一人が猛然と駆け寄るなりガトゥに肉薄する。


「ああっ。ガトゥ・トーゾ男爵さまぁ! お待ちしておりましたぁ! さぁ、今日こそは借金を全額返していただきますぞ。きっちり銅貨一枚とてまかりませんぞ」

「あ~あ。見つかっちまった……。ちょっと女たちに贈り物をするんで金を借りたんだよな。アベル。おれぁ戦利品を換金してくるから先に帰っていろ。少しでも高く売らねぇと足りないからよ、ちょっと手間取るかもしれねぇ」

「ガトゥ様も大変だね……」

「おれだけじゃねえよ。騎士は大抵借金をしている。ほんと、騎士ってのは因業な稼業だぜ。アベルもそのうち分かるだろうが馴染みの愛娼に泣きつかれて思い出の品が欲しいなんて言われてみろよ。気の利いたもん渡すしかねぇよ。そうでなけりゃあ、生きて帰っても大恥だぜ。死んだとしても最後の贈物が安物ならさらに恥だ。いいか、男ならこれを分かれよ」

「分かりたくない……!」



 死ぬ思いをして帰ってきた城の前でそんな遣り取りがあったものの、どうにかイースの部屋に戻ってくることが出来た。

 狭くて、生活感のある小さな空間。

 痛んだ部屋だがこれほど安堵したことはない。


 生まれて初めての合戦。

 敗北と退却……。

 あまりにも沢山の事が短期間にありすぎた。

 我ながら帰って来られたのが信じられない気持ちだ。


 嬉しい反面、犠牲も払っている。

 時間稼ぎのため要所で待ち伏せしている部隊は、今も厳しい戦いをしているはずだった。

 彼らのうち、ポルトまで戻って来られるのは何割だろうか。


 恐ろしいことにハイワンド騎士団の戦いは、これからが本番だった。

 籠城戦である。

 コンラート皇子からの命令。

 皇帝国が態勢を立て直すまでハイワンド伯爵家はポルトで可能な限り籠城をせよ。

 そして、援軍を待て……。


 もとより野戦では勝てないと考えていたロペスは本城ポルトで籠城戦をするつもりであって、渡りに船の命令だった。 

 だが、アベルは援軍なんか来るのかなと疑問に思う。

 なにしろ皇帝軍の主力、皇帝親衛軍と公爵連合軍が負けたのだから。


 しかし、この世界の物資補給力などを考えるとポルトが頑強に抵抗すれば、王道国は占領を諦めるのかもしれない。

 アベルは考えてみたが良く分からない。


 部屋に戻ったイースは血で染まった装備を外していく。

 アベルも自分の胸甲だとか革靴だとかを見てみれば、よくこれほど汚れたなと逆に感心するほど血や泥で染まり切っていた。


 お湯の準備をしているとイースは綿入りの上着を脱ぎ、さらに下着の紐結びを解いて襟を広げた。

 下着が足元に落ちる。

 滑らかな肩、背中が露になった。

 腰布の紐も外すと、丸く形の良い弾力を感じさせるお尻が現れた。


 美しい曲線を描いた乳房、桜色の乳首が揺れる。

 イースはしゃがむと湯に浸した布で体を清めた。

 毎度のことだが、惜しげもなく裸体を見せてくれる。


 アベルは我慢しつつも結局、横目で見てしまった。

 目に痛いほど白くて綺麗な肌だった。

 地獄みたいな戦場から帰って来たばかりだと、なおのこと特別な色気も感じる。


 しかし、だからといって手は出しにくい……どころではない。

 相手がどうでもよければ後腐れなくベタベタと弄り回せるかもしれない。

 ところが触れるのも憚られるのがイースだった。


 だが、今日に限っては頼み込んで、ちょっとだけ触らせてもらう……。

 そういう考えが消えない。

 イースも断らないのでは?


――いや、だが……。やはりだめだ。

  やっぱりイースを雑には扱えないし

  どうしたらいいのか分からないし……。



 結局、何も出来ないままイースは身支度を終えてしまった。

 金縛り状態のアベルは酷く消耗しただけだった。

 それから外でのろのろと体を洗い、清潔な服に着替えてイースと共に本城へ行く。


 本城の会堂ではロペスや留守を任されていたモーンケ、生き残った騎士団幹部が揃って命令をしたり決定を下している。

 そこにはカザルスもいたが騎士でもなく従者でもない彼に何かを命ずる人もいないため座っているだけだ。


 ロペスの隣にいるカチェは小奇麗な乗馬服に着替えていた。

 黒の上着、白いシャツ。紺のスカートを付けている。

 アベルはなんとなく前世の女子高生の制服を思い出す。

 少しだけ似ている……。


 後退中はさすがに乱れていた髪もすっかり整って、なにやらいつも以上に凛々しかった。

 戦場の極限体験は美しさも鍛えるのだろうか。

 そんなカチェに、つい思わず見惚れてしまう。

 

 家令のケイファードが会堂に入ってきたアベルを見かけると感動の面持ちで一礼をしてきた。

 いつも厳しいほど実直な男がそうした態度だと驚いてしまう。


「アベル様。よくご無事でお戻りになられました」

「ケイファード様まで……。僕に様付けはいいですから」

「そうはいきません。家門衆に加えるとベルル様がお認めになられたそうではありませんか。このケイファード。いつかアベル様にそうした日が来ると密かに思っておりました」

「……そういえば、ケイファード様。なんとなく僕のことを助けてくれましたよね」


 彼は家令の立場で出来る、ぎりぎりの援護をしてくれた気がする。

 ケイファードは黙っているが、アベルは真に有能な男を感じた。


 アベルとイースはロペスの前に出頭する。

 今度はポルト籠城戦である。

 任務は山ほどあるはずだった。


 ところが傍若無人なほど豪胆なロペスがイースを一瞥すると、珍しく怯んだような顔をした。

 本当にあり得ないようなことだ。

 アベルは不思議に思う。

 そのロペスは歯切れ悪く語り出した。


「イースか……。お前に残念な知らせだ。城に通告書が届いていた」

「残念な、ですか?」

「皇帝国が新しい法律を発布した。既に有効な法律だ」

「はい」

「新法律とは亜人や混血との取り引きを禁止するものだ……。皇帝国の全ての市民と貴族は、亜人の雇用を止めなくてはならない。正確に言うと、亜人の血縁であるところ二分の一以上の者が対象だ。お前が該当するのは登録戸籍で判明している」


 イースは無言。

 アベルが慌てて聞いた。


「え? すみません。意味が良く分からないです。雇用が禁止となると、どうなるのですか」

「イースは主従関係にできなくなった、というわけだ。亜人の奴隷はこれまで通り禁止されておらんから、奴隷ならそのままでよい。しかし、騎士の身分を持つイースは主従であるが雇用関係でもある。そのままにしておくことはできん」


 ロペスは法律の通告書をイースに渡した。

 イースは速読する。


「なるほど。確かにそのように書いてあります。しかし、不可解な法律です。亜人混血の貴族位を剥奪するとは書いていません。つまり、私は騎士のまま、しかしながら、どこの家でも報酬を得るような仕事は貰えなくなった、ということです」

「そうだ。お前だけではない。森林管理者のディーナだとか、他にも十数名いる亜人や混血は解雇だ……。正直なところ迷惑な法律である。お前のように有用な者もいるのにな」

「では、私は数日以内に退去ですか」

「その辺のことは任せる。好きな頃合いに出て行くといい。もっとも、ぼんやりしておれば敵に囲まれて出られなくなるがな」


 アベルはもはや黙っていられない。


「ちょっと待ってください! ロペス様。これから戦だってのにイース様がいなくてどうするのですか」

「どういう意味だ。イース一人がいなくなったとて成り立たない騎士団ではない」

「でも、たぶん騎士団で最高の使い手ですよ」

「法律は法律だ」


 アベルはロペスを諦める。

 この手の方向で配慮の働く男ではない。

 片やイースは冷然とした表情のままだった。

 動揺など、まったくしていない。

 アベルの方がよほど混乱していた。


「イース様はどうするの」

「……。法律では仕方あるまい」

「イース様。悔しくないの?」

「別にそういう気持ちは無い」

「僕は悔しいよ、我慢できないほど……。出て行くって、どこへですか」

「決めていない。しかし、私にとって皇帝国はハイワンドの庇護がないと住みにくいな」

「国を出て行くしかないってことですよね」

「そうだな」


 決めなくては、ならなかった。

 ハイワンドかイースか。

 ウォルターの言葉が蘇る。


――嫌になったら辞めていいぞ……。


 イースはいつでも助けてくれた。

 ずっと見守ってくれた。

 ウォルターとアイラを除けば、そんな人間はいない。

 今が、その時だろう。


「じゃあ僕もハイワンド騎士団を辞める。イース様と一緒に皇帝国も出て行く。もう、こんな国、ど~でもいいや。やる気を無くした」


 ロペスは口を結んで、寡黙に徹した。

 こういう男なのをアベルは知っている。

 理屈ではなく武断の男。

 舌は回さない。

 気に入らなければ拳で殴り、槍で突く。それだけ。

 出て行くのなら好きにしろ、ということだった。

 なら出て行くだけだとアベルは思う。


 事の成り行きを呆然と見ていたカチェは、慌てて立ち上がった。

 今にも出て行きそうなアベルの前に立ちはだかる。


「本気なの?!」

「もちろんです。イース様を差別する国は嫌いだ。止めても無駄ですよ」


 カチェは必死に思考を巡らす。

 アベルの顔は真剣だった。

 ここで泣いて縋っても、おそらくアベルの意志は変わらない。

 例えこの場で遣り込めても、後日、イースを追ってしまうかもしれない。

 アベルとの運命の糸が音を立てて千切れる寸前なのを悟った。

 何とかしなければ……。

  

 つまり問題はイースだ。

 イースがここにいないとアベルを失う。

 だいたいイースには籠城戦で働いてもらわないとならない。

 この状況で二人を失うなどあってはならない。

 であるならば、なんとか法律の抜け穴を見つけよう。


「その法律の通告書を見せてください」


 カチェは受け取り、熟読する。

 亜人に対して金品を報酬として払ってはならないという内容だ。

 無報酬の奴隷に対しては結果的に適用外となる。

 雇用だけではなくて、商法にも踏み込んだ法律であった。

 つまり亜人の商人とも取引が出来なくなる。

 ただし、それは直接取引をすれば、ということになる。

 中間に人間族の者がいればよいことになる。


 違反者には所有財産の十分の一を没収される罰金が科せられるらしい。

 それは報酬を払った側に適用される。

 貰った側に法律は触れていない……。


「分かったわ。イースのことは、わたくしに預けてください。無論のことイースにはこれまで通り報酬を渡します。イースの騎士位は剥奪されていません。ですから丁重に客人として扱います」


 イースの顔が曇る。


「しかし、それではカチェ様にご迷惑でしょう」

「今、出て行かれる方が大迷惑よ」

「ですが、法律違反です」

「悪いことを思いついたわ。一つは迂回させてイースに報酬を払う。つまり、わたくしが身分の低い者に一端はお金を渡し、再度それをイースに渡させる。姑息ね」

「ええ。そうですね」

「それは、わたくしの流儀ではないからしません。その代わりに、わたくしが所有している服と武具以外の財産。主に宝石や装飾品を全てイースにあげるわ。前払いね。たとえ罰則を適用されても、わたくしは服や武具をいくらか失うだけです」

「名誉を失います」

「ハイワンドがなくなるかもしれないのに気にしても仕方ないわ」

「名誉のために死ぬ貴族はいくらでもいます」

「……お願いだからイース、わたくしの頼みを聞いて。貴方やアベルがどうしても必要なのよ。助けてください」


 カチェは折り目正しく貴族の礼をした。

 頭まで下げている。

 あのプライドの塊のようなカチェが、きっちり頭を下げた姿を見ているとアベルは冷静になってきた。

 自分を投げ出す態度で引き止めている。

 しかも、犯罪者になるリスクを犯してでも、であった。


 アベルは気づかされる。

 考えてみれば、ここでハイワンドを去ればカチェやガトゥともお別れだ。

 それは間違いなく寂しいことだった。

 イースが少し考え込んでいる。それからロペスに向き直った。


「ロペス様。バース伯爵様はどうされました」

「ポルトに向かう準備をしていたらしい。ところが皇帝陛下から至急、伺候せよとご命令があったそうだ。俺には皇帝陛下が何をお考えになって、そのようなご命令を下したのか分からぬ……。もしかすると援軍をくださるつもりなのかもしれない」


 アベルは、たぶん違うと感じる。

 政争がらみのことだ。

 和平派のバース伯爵に敵は多い。

 陰謀ではなかろうか……。


 黙考していたイースが返事をする気配をみせた。

 アベルこそが緊張する。

 カチェは固唾を飲んだ。


「……。あくまで私の不作法でハイワンドに居残ったということにしてください。私が勝手に戦ったということにすれば違反には問われないでしょう。戦争が一段落したら、私はここを去ります。報酬はその時に払ってください」


 カチェが伏せていた顔を上げた。

 ほっとした表情をしている。

 一連の会話は法律に詳しい儀典長騎士スタルフォンや他の騎士の目の前で行われていたが、誰も聞いていないことにした。


 ロペスやモーンケすらも黙っていた。

 むしろカチェの捨て身の説得に内心は感謝しているように見える。

 実際のところ、イースとアベルが居ないと困るのだった……。


「イース。貴方は私の恩人だわ。これからも一緒に戦ってください」

「お気になさらず」


 悪法としか言いようのない皇帝国の差別政策に振り回されたが、アベルとイースは籠城の準備のため退室する。


「イース様は心が広いですね。僕なら皇帝国で働くのが馬鹿らしくなって辞めているな、きっと」

「別に私が寛容というわけではない。私には戦うことしかできない。探しているものも戦いの中でしか見つからないに決まっている」


 アベルは思い出す。

 イースの探しているものは心だという。

 死線に近づけば近づくほど一瞬の激情と感動が現れ、その時こそは喜怒哀楽に欠けた己の中に新しい気持ちを発見するのだという……。


「私には騎士の誓いとか思想とも言うのか。そういうのが無い。優しいわけでもない。ただ醜いと感じることはしたくないだけだ。カチェ様の頼みを振り切るのは、醜いな」


 どうやらイースは同情や連帯感ではなく美意識から協力してくれるようだった。


「だがな、アベルと国を捨てて放浪の旅に出るのも悪くないと思った。すぐに考え直したが。考えてみれば旅より、共に戦ったほうが有意義だ」

「そうかなぁ。気ままな旅も楽しそうですけれど」

「お前には私に無い何かがある。私にくっついて流されるままの旅などしてはならない」

「いつか世界を巡ってみたいものです。本当に欲しいものを見つけて満足するために」

「本当に欲しいものか」


 イースは黙考していたがアベルに向き直り、その顔を覗き込んでくる。


「アベルの瞳の奥で、神すら身震いするような欲望が踊っているように見える」


 それだけ言うと再び、歩き出す。

 アベルは驚き、芸術品より美しいと感じるイースの横顔を見つめた。

 しかし、イースは再び沈黙して何も語らなかった……。


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