第24話  故郷に帰る

 



 カチェと街で楽しんだ翌日のことだった。

 アベルは、一通の手紙を渡される。

 渡してきたのは城の手紙係り。

 一応、戦時下なのでスパイ対策として手紙類は検閲がある。


 手紙の差出人はウォルターだった。

 急いで内容を確かめる。

 内容は……もう従者として勤め出してから三年以上経つのだから、そろそろ一度帰ってきてほしいというものだった。

 それから無事成長している妹も見に来いという。


――ああ、そうか。そんなに経ったんだ。

  アイラとウォルターに会いてえな。

  それから妹。 

  新しい家族。

  俺が家族に会いたいなどと思うとは……。

  どうしたんだろう、俺。



「イース様。父上が一度、帰ってきてほしいということです。休暇ってとれますか?」

「長期休暇か。今は難しいだろうな。よほどの理由があれば別だが。自分自身の結婚か親の葬式とか。アベルの故郷はテナナだったな。馬なら往復十日以内で帰れる」

「はい。テナナに滞在が二日か三日で……行けるでしょう」

「ガトゥ様に相談しよう。こじつけでもテナナ方面に巡回任務をするという名目があれば休暇申請など出さなくてもよい。申請などしたところで却下なのは分かり切っている」


 アベルはイースの機転の効きように驚く。

 なんて素晴らしい上司なのか。

 休みを取らせてくれるかどうかはその重要な基準だ。


「イース様。融通が利きますね」


 イースが珍しく微笑しながら言った。


「帰る場所があるのは、よいことだ」

「……ではイース様の帰るところはどこですか」

「私に戦う機会を与えてくれるのはハイワンド家だ。強いて言えば、ここだろう」


 アベルは複雑な気持ちになった。

 なにしろイースは騎士ではあっても魔人氏族の容姿をしているために、様々な冷遇を受けていた。

 まず、ほとんどの騎士から挨拶とか基本的なことを一切されない。


 それから稽古などに誘われるという機会も皆無だ。

 もっともそれには理由があって、稽古をやったところでイースに勝てる者がいないからだそうだ。

 だからこそ挑んでも良さそうなものだが、やはり差別の対象である亜人に負けるというのは耐えがたい屈辱と感じるらしい。


 騎士や貴族は面子とかプライドに異常なほど拘るので、自分よりも強いイースを無視することにしているらしい。

 有形無形の差別があって、決して素直に受け入れられているわけではないハイワンド騎士団にしかイースの居場所はないのだろうか……?

 それは正しい状態ではない気がする。


 アベルはそんなことを考えたが、国家政策や制度が原因なのでどうすることもできないのが現実だった。


 その後、ガトゥに事情を説明すると彼は大いに賛成してくれた。

 直ぐにでも発つべきだと言ってくれる。

 ガトゥにワルトの食事を頼んだ。といってもワルトは勝手にピエールのところへ餌を貰いに行くから、別に面倒をみてもらう必要はなかったのであるが。

 一応、念のため……餌がないとワルトが凶暴化しかねないので。


 アベルは家令のケイファードにも一言、言い残しておく。

 戦士ではなのに怖いほど鋭い雰囲気を湛えた家令へ、しばらく任務で城を空けると報告すれば一瞬、微妙な顔をしたものだ。


 たぶんカチェの機嫌のことだろうと察する。

 しかし、アベルは従者であり、当然ながら任務が優先であるのを理解しているから、それ以上なにも言わずに黙って頷いた。


「アベルよ。カチェ様には私から報告しておきます。気を付けて任務に行ってください。帰ったら、まずカチェ様にご挨拶するのですよ」

「はい、分かりました。それではケイファード様。従者アベル、行って参ります」


 ケイファードは背筋を伸ばし謹厳な態度で見送ってくれた。

 命がけの任務に送り出す心境でいてくれているのかもしれなかった。


――本当は、里帰りなのだけれどな……。


 だが、全て正直に話せば良いというものではない。

 黙っていた方が上手くいく物事があるのだ。こういう時のことだ。

 そうしてアベルは城を後にした。




~~~~~~~~~~




 アベルとイースは並んで騎行する。

 速さではハヤテの方が上だが、長旅なので馬を疲れさせないように進む。

 たしか、三年前は徒歩で片道六日間だった。

 あの時はリックと一緒だったのを思い出す……。


――リックのやつ、どうしているだろうか?


 彼から何も連絡を受けていない。

 ときおり病気や怪我で帰還して来た出征兵士にリックのことを尋ねてみたが、名もなき下級兵士の詳細など誰も知りはしなかった。


 音信不通だが、どうすることもできない。

 もしかしたら……。

 戦死という嫌な可能性がチラつく。


 指揮官のような高い立場の者ならば戦死したとしても報せぐらいは必ずある。

 しかし、リックのように親戚や伝手も無い中で最下級兵士になってしまうと、本当に僅かな手がかりも無いまま消えてしまうことがよくあるらしい。

 アベルの気持ちは沈むが、どうしようもないことだった。


 旅の途中、小雨が降った。

 油を塗った革製の外套を羽織って移動を続ける。

 季節はもうじき秋だが、気温はさほど低くない。

 雨が降って、空気が濛々とけぶっている。


 宿場町の雰囲気は、やはり良くない。

 得体の知れない風体の男たちが、うろついていた。

 動物の毛皮を加工した服や粗末な皮鎧を装備して、槍などで武装している。

 仕事をしている様子もなく、昼間から酒を飲んでサイコロ賭博に興じていた。

 喧嘩も頻繁にあるようだ。


 彼らは戦場に近いハイワンド領へどこからともなくやってきて、しかし戦場そのものの中央平原にまでは行こうとしないのである。

 旨い儲け話がないかと、当てもなく徘徊しているというのが実態であった。

 これは治安も悪くなるというものだ。


 夜は宿場町で適当な宿に泊まる。

 一つの個室をアベルとイースで利用した。

 小さいベッドが二つあるだけの部屋。

 騎士や従者らしい仕事など何もしないで、さっさと寝てしまった。

 イースは目的をわきまえているので、余計な仕事を増やさないようにしてくれたようだ。

 アベルも、それをわざわざ問うたりはしないが……。




 やがて街道から外れ、景色は田舎そのもの。

 徐々に風景が見覚えのあるものになっていく。

 森林地帯を抜けると、広大な畑の畝が姿を現す。

 テナナ集落に帰って来た。


 時間は昼前だった。

 アベルが診療所に入るといつもの通り、ウォルターが診察をしていた。

 薬草を煮たり擂るなどすると独特の匂いが出る。

 懐かしいその香りが鼻腔を刺激した。

 

 アイラが別れた時と変わらない美しい姿で薬を煎じている。

 豊かな金髪は馬の尻尾のように縛って纏めてあった。

 洒落っ気のない白い作業着を着ているが妙な色気が漂っていて、本当にいい女だなとアベルは改めて感じた。

 母アイラの青い瞳と視線がぶつかる。


 瞬間、アイラが驚きの表情を露にさせた。

 満面の笑顔。

 走ってきて、抱きしめられた。

 温かくて柔らかい胸が顔面を占領した。

 アイラの、甘い女の匂いがする。


「アベル! おっきくなったわねぇ! びっくりしたわっ」

「母上も……そのう、胸がまた大きくなってませんか」

「そりゃそうよ。赤ちゃんが生まれたから! まだ、たまにオッパイ飲ませているからね」


 それからアベルは久しぶりでどうしたらいいのか良く分からなくて、結果的に奇妙なほど丁寧な挨拶をウォルターにもした。

 ウォルターは小さく頷きをくれると、すぐに仕事に戻った。

 勤務に私情を持ち込まない男だ。


 アベルが診察室を見渡すと、幼児が寝ていた。

 妹だ。

 以前、届いた手紙に名前は書いていなかった。


「母上。名前は?」

「ツァラにしたわ。幸運を齎す渡り鳥の名前なんだけれど。この辺りには生息していなくて私の故郷の鳥ね。綺麗な青色をしているのよ」

「……ツァラ・レイか。素晴らしい名前です」


 ツァラは血色のいい顔で寝ていた。

 なんとも不思議な、これまで感じたことのない気持ちになる。


 家族。

 家族が増える……。

 両親が愛し合ってないと家族は増えない。


 ツァラは、ぷくぷくしていて実に可愛いのだった。

 妹が出来ただけなのに奇跡みたいだった。


 仕事の邪魔をしたくないのでアベルは一端、外に出る。

 イースは表で待っていた。


「家で休みましょう」


 アベルはイースを伴い、庭を歩く。

 家がある。

 懐かしい、帰るべき家。

 アベルの核にいる男は凄く不思議な感じがした。

 家に帰りたいとか懐かしいなんて、前世で一度も思ったことがない。



――子供の頃から、いつもいつも嫌だった。家ってやつが。

  家というのは地獄のことだ。

  帰ったって良いことなんか何もなかった。

  罵倒され、殴られ、愚痴を聞かされ、何一つ良い思い出なんかない。

  帰ったらあの糞がいて、何も言わないでいきなり顔を殴ってきた。

  理由はいつだって何か些細なことだ。

  朝、ゴミを捨ててなかったとか、コップを洗っていなかったとか、

  そういう理由だ。

  理由なんか何でもいいんだ。

  とにかく説教したいのだ。そうして二時間、四時間と続く説教。

  それから、ぶん殴りたいだけ。

  あの小男……。

  死ねばいい、早く死ねって、いつもいつも思っていた。

  結局、俺が殺した。

  簡単に死にやがった。

  人のことはさんざん殴ったくせに……。

  自分は一升瓶で殴られて蹴飛ばされたら、あっさり死んだ。

  そのせいで俺は二十代のほとんどを刑務所で過ごす破目になった。

  本当の敗残者として生きた。

  あの蛆虫。あのゴミ野郎。

  どうせ殺すんだったら、簡単に殺すだけじゃ足りない。

  もっと苦しめてから殺したかった。

  一度殺しただけで満足なんかできるわけがねぇ。

  


 ふと、アベルは視線を感じる。

 隣のイースからだった。


「どうしました。イース様?」

「いや、アベル。さっきは嬉しそうにしていたのに、今は恐ろしい眼つきをしていたな。どうしたのかと思った」


――分かってしまうのか……。


「珍しく冗談ですか。イース様に恐ろしいものなんかないでしょう」

「いや、あるぞ……。私はアベルが怖くなるときがある。今のような一瞬だ」

「僕が怖い? どうしてですか。イース様の方が遥かに強いのに」

「そういうことではないと思う。……アベルはいつか常識を大きく超えたことを仕出かしそうな気がする。それに周りの人間を皆殺しにしてしまうような魔力というか、気配を……上手く説明できないが」


 珍しく言い淀むような、歯切れの悪い言い方だった。


「ちょっと嫌なことを思い出すんです。家族ってやつには」


 イースは思案気にした。


「家族……家族が嫌いなのか? アベルの両親は良き親のように見えたが」

「アイラとウォルターは最高ですよ。本当に俺なんかには勿体ないぐらいの……。何でもないんです。俺、頭がおかしいから。たまにこうなるんです。許してください」


 イースはそれ以上、何も言わなかった。

 アベルは家の扉を開ける。

 人の気配がある。

 誰かと思ったら懐かしい幼馴染のシャーレだった。


 振り返った顔、綺麗なエメラルドを想わせる瞳がアベルを見た。

 表情が固まっていたが、パッと笑顔に変化する。

 駆け寄って、抱きついてきた。


「アベル!」

「大きくなったね。シャーレ」

「アベルの方が凄いよ。大人みたい。背が伸びるの早すぎるよ!」

 

 シャーレはアベルより頭半分ほど身長が低い。

 彼女の頭を撫でた。

 色素がやや薄い金髪、さらさらと手に心地よい刺激があった。

 抱いているシャーレの体温が熱いぐらいだった。

 ふわふわと体は柔らかくて、だが、もう女の気配が芽生えていた。


「シャーレ。そちらが僕のお仕えする騎士。イース・アーク様だ」


 言われてシャーレは初めて気が付いたようだった。


「あの、あたし、シャーレ・ミルって言います。アベルの幼馴染で、命を助けられたこともあるんです」

「そうか。よろしく頼もう」

「あ、あれ? あの……」

「シャーレ。イース様の見た目は亜人のようだけれど誰よりも素晴らしい騎士だ。正確には混血の方だけれど、だからって警戒しないでくれ」

「あ、はい。ごめんなさい。あたし、亜人の方は、その、会うのも始めてで」


 イースが淡々と言った。


「気にしなくていい」


 シャーレはウォルターたちが昼に食べる軽食を準備していた。

 アベルはまずイースを座らせて、一緒に食事の支度をする。


「アベル。休んでいてよ。あたしがやるよ」


 困り顔のシャーレ。


「僕は従者だからね。イース様のために働くのが仕事だから。やらせてくれ」


 アベルはお茶の用意から簡単な料理まで、急いで取り掛かる。

 食材は豊富にあった。ウォルターはテナナばかりでなく近隣の村からも尊敬されているから村人が色々と届けてくれるからだ。

 鳥肉、野菜、芋、香草、卵、茸、油、酢、葡萄酒……、何でもあった。


 アベルは火魔法を併用して、勢いよくどんどん料理を作る。

 料理というものはまず段取りだ。

 素材は新鮮な方がいいに決まっているが冷蔵技術など無いに等しく、いちいち魔法で氷を作って冷やしておくなど貴族か大商人ぐらいしかできない。

 よって、手に入るものを塩や油、ハーブなどでどれだけ美味しくできるかが重要である。


 鶏肉は酢、塩、葡萄酒、大蒜を混ぜたものに軽く漬け込んで、それから小麦粉を振りかける。次に油で程好く揚げる。

 野菜炒め。香草入りのオムレツも作った。

 シャーレが練った小麦粉を窯で焼いた。

 薄っぺらいナンみたいなものが出来上がる。

 香ばしい匂いが食欲を刺激した。


 それらの準備ができたところで、ウォルターたちが昼休みになった。

 料理を食卓に並べる。

 イースには家で一番上等な銀製の杯を出して葡萄酒を注いだ。

 ウォルターたちは午後の診察があるから酒は飲まない。


 ウォルターとイースが向かい合って座る。

 それからアイラと抱っこされたツァラ。

 シャーレ、ドロテア、最後にアベル。

 家族全員に友人、幼馴染、客人……。

 全てが揃っているという感じ。


 アベルの核にいる男は、これが家族と友人の細やかな宴というものかと、改めて思う。

 前世では一度たりとも、こうした場面はなかった。

 家族も友人も、いないも同然だった。


 まずは簡単に挨拶、それから乾杯して食事である。

 アベルは席を立ち、皆に言う。


「父上。僕はイース様のような素晴らしい主に出会えて幸運です。嘘ではありません。父上が言われた通り、僕は亜人だとか混血だとかで差別しません。いや、差別する気なんか少しも起きません。イース様は、そこらの人間族などよりよほど優れています」


 アベルはさらに言葉を重ねる。


「イース様は剣の腕では、たぶん騎士団でも一番と思います。独特で凄すぎて僕には真似できないことばかりですが。戦闘方法など常日頃、鍛えて貰っています。でも、それ以上に凄いのは、イース様の精神です。高潔で静かで、他人を侮辱することない、清い水のような心をお持ちです」


 イースと一緒に過ごしてきた日々。

 特別な時間だった。

 体の芯まで凍えるような冬、枯れ葉が積もる秋、暑い夏や花咲く春にも、どこまでも連れ立ち行動していた。

 いつの間にか、離れている方が違和感なほど……。

 

 そういう感じていた思いの丈は、いったん口にしてしまえばこうなってしまう。

 イース以外、みな、ぽかんとした顔をしていた。 

 憑りつかれたように語る息子を見てアイラは顔が引き攣ってきた。

 実際のところアベルの頭が少しおかしくなってしまったのかと心配になってくる。

 まだ言い足りないアベルがさらに言葉を連ねようとしたが、ウォルターが制止した。


「ああ、それぐらいでな。せっかくの料理が冷めてしまうから。さぁ食べよう」


 みな、アベルの料理を口にする。

 一様に顔を輝かせた。


「美味しいっ! これ凄く美味しい」


 シャーレの言葉は大げさでなかった。

 アイラもやけに驚いていた。

 従者になる前、唐揚げなんか作らなかったからアイラも食べるのは最初だ。


「これ騎士団で習ったの?」

「あ、うん。まあね」


 本当は前世の技術だ。

 アベルは自分の料理を食べてみる。良く出来ていた。

 それから気分がいいので葡萄酒を一杯だけ飲む。

 飲酒に関して法律はない。

 誰でも好きなだけ飲むものだし、水が不潔だったり不味い地域だと代わりに葡萄酒を飲む。

 

 考えてみればアベルは転生後、初めて飲酒した。

 顔が赤くなってくる。なんだか気分が高揚してきた。

 しばらくしてからウォルターがよほど気になっていたのか騎士団での様子を聞いて来た。


「ハイワンド騎士団はどうだ。上手くいっているか?」

「いや……虐められてましたね」


 いきなり空気が重くなった。

 虐めを親に言わない子供は結構いる。

 恥ずかしいし面倒くさいから。

 我慢すればいいかとか思って……。

 でも、今回は親がすでに複雑な事情を知っているのでアベルは隠さずに言ってしまうことにした。


「最近は、だいぶマシになりましたけれど。罪人と決闘させられたり、いきなり蹴っ飛ばされたりね……。イース様の従者にしたのも嫌がらせのつもりだったみたいです。イース様は危険な任務しか命じられないから、それが嫌になって逃げ出すと思われていたみたいです。まぁ僕にはむしろ良いことでしたけれど」


 ウォルターとアイラが眉根を寄せて顔つきを変える。

 シャーレとドロテアが二人して全く同じ仕種で、大げさなほどのリアクションをしつつ口に手を当てた。

 双子かよってぐらいそっくりだった。

 アベルはそれを見たら何か笑ってしまった。


「そうか。やっぱりそんな扱いか……」


 ウォルターが肩を落とした。

 首を振る。


「いや、ところが虐められているだけじゃないです。これ見てください」


 アベルは懐から家紋メダルを出す。

 大鷲が毒蛇を掴む意匠が精巧に刻み込まれていた。


「どうしたんだ、それ」

「バース伯爵様から直々に貰いました。僕のことは家中の者としては扱わないけれど、遠縁の者として待遇するとか言われました。それから給金にも色を付けて貰っています。とはいえ、もともとが安い給料だから、ちょっと増してあっても単純に感謝したりしないですけど。そういうブラックの良く使う手には騙されませんよ。ちょっと役職手当つけたから過労死するまで働け、みたいなさ」


「アベル。ちょっと酔っぱらったか?」

「……、僕はいつでも真面目です」

「アイラ。水を飲ませてあげてくれ」

「はい」


 水を飲んだら酔いが醒めた。

 イースが食卓に着いてから初めて口を開いた。


「もし、アベルが私の元では騎士になれる見込みがないのならば、私の従者を辞めればいい。そうするべきだ。アベルには十分に騎士の素養がある」

「絶対に辞めませんよ」


 アベルは断言した。


「どうせ、モーンケとかロペスは僕がイース様の従者を辞めさせてくれと言ってくるのを待っているんですから。そうして、根性無しとかって決めつけて僕をもっと奴隷みたいにする気なんだ」

「アベル。主家の方を呼び捨てにするな」

「……はい。イース様。でも、僕はイース様にしか仕えたくありません。だから、辞めませんよ」

 

 アイラやウォルターは、我が息子の眼がどうにも言い知れない迫力でギラギラと光っているのを見た。

 主人に対する忠誠と見るか、狂的な何かと見るべきか……。

 ウォルターは、従者の道を勧めたのを少しだけ後悔したほどだ。


 ウォルターは憂鬱だった。

 伯爵一族のことを考えると気持ちが沈む。

 アイラは陰湿な貴族の世界にウンザリしたのか、辛そうに顔を振った。


「アベル。かわいそう……」


 悲しそうな表情をしたシャーレが呟く。


「かわいそう? 大したことないよ。強がりじゃなくてさ。僕、こういうの慣れているから」


 前世でね……とアベルは心の中で付け加えた。

 ウォルターたちは午後の診療があるので、シャーレまでもが働きに行ってしまった。

 家にイースとアベルが二人だけで残された。

 満腹になって、家にいるという心地よさが眠気を誘う。


 アベルは長椅子に横になった。

 猛烈な眠気。

 旅の疲れと安心感が重なる。

 意識が闇に落ちた。


 アベルが目を覚ましたとき、時刻は夕方に近かった。

 イースはアベルが眠りについた時と、全く同じ姿勢で座っている。

 まるで千年間も微動だにしない美しい彫刻のようであった。


「イース様。お風呂を用意しましょう。それからナナとハヤテを馬小屋に繋いでおきます」

「そうか。頼む」


 イースと共に庭に出る。

 家の陰になったところに風呂はそのまま残っていた。

 アベルが「土石変形硬化」で作った風呂。

 水魔法で埃を洗い流して、改めて綺麗な水を満たす。

「加熱」によって適度に温めた。


 やってきたイースは、惜しげもなく鮮やかに服を脱いだ。

 全裸。

 白い肌が露になる。


 こんなところ両親やシャーレに見つかったら大変だ。

 アベルは未練があるものの、さっさと離れる。

 体を拭く布を用意して、程よい頃合いに持って行った。

 イースは湯船に漬かっている。


「イース様。湯加減はどうですか」

「いい具合だ。風呂など贅沢なことだ」

「お城では許可が出ませんでしたからね。勝手に施設を増やすなと。体はこの布で拭いてください」


 戻ってきた湯上りのイースは質素なワンピースに着替えていた。

 シャーレとドロテアは自宅に帰っている。


 アイラが診療所を早めに切り上げて夕食を作りだしていた。

 母親の足にツァラがしがみついている。

 子守唄を歌いながら包丁を使っていた。

 家族の風景という感じだった。


 アベルはイースにと一番上等な葡萄酒を杯に満たして渡す。

 イースは出されれば何でも飲むし食べる。

 好き嫌いはたぶんないと思う。

 イースは黙々とアイラの手料理を食べていたが、食事の終わった後、美味しかったと言ってくれた。


 イースには診療所のベッドで寝てもらう。

 そうしてアベルも自分の部屋に入った。

 寝具はよく乾いている。

 いつ帰ってきてもいいように、準備されていたようだ。

 アベルは寝る前に思う。


――家ってこういうものだったんだ……。

  それに妹が生まれて良かった。

  イースも招待できた。

  今日はいいことばかりだったな。




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