錬金術師と芳香石鹸

(1)家事の喜びと苦しみ

 雲一つなく晴れ渡った春の青空の下、先日戦いで負った傷が癒えたことをようやく認められ、家事をしてもいいことになった少年は、早速朝から洗濯に励んでいた。

 少し伸びてきた金の髪に白い頭巾を巻き、褐色の肌に汗の球を浮かばせながら、細い腕に力をこめて一心に衣類の汚れを洗濯板でこすり落とす。

 八つの時にこの家の主である錬金術師に拾われてもう五年。飲み込みがよく、頭もいい彼は洗濯だけでなく掃除や料理などにも慣れ親しみ、すっかり万能家事少年になっていた。


 しばらくおおざっぱな主人に任せていたせいで、アトリエのある家の流しには食器が積み上がり、洗濯物はかごにいっぱい、大事なアトリエの机にすら、あまり手を触れないところにはうっすらとほこりが積もっている。

 常に掃除整頓しておきたい性分の少年は、自分にとっては怪我をおして家事をすることよりも、この状況に手を出せないことのほうがかえって心身に悪いような気がしていた。事実、普段は無心にやっているさまざまな家事に、今日の彼は喜びすら覚えている。


 だが、暖かい春の日差しの下でたらいを前に泡まみれになっていた少年の、見方によっては少女にすら見える美しい顔は、作業を進めるにつれ次第に最初の輝きを失い、不機嫌そうに沈んでいった。


 もう一度井戸から水をくみ上げ、石鹸の泡をゆすいで落とす。力をこめて水を搾り、ぱん、と、勢いよく振って洗濯物のしわを伸ばしてから干し紐にかける。昼前までかかって溜まっていた洗濯物を粛々と片づけると、少年は不機嫌そうな顔のままもう一杯井戸から水をくみ上げ、井戸のそばにある勝手口から家の中に戻った。


 そして、洗い物が多すぎて流しの上に置けない水桶を床に置き、洗濯物を詰め込んでいた籠を肘にかけたまま浴場のほうへ向かった少年は、廊下で裸同然の女性に出くわした。

 美しくたわわに実った胸元と優美な曲線を描く尻を薄手の白い下着に包み、亜麻色の髪をかき上げた彼女は、かけていた眼鏡のレンズを通さぬ流し目を彼に送る。


「……あら、フェレス。おはようですよ」


 そして彼女は少年の名前を呼ぶと、ふんわりとした、だがどこか艶っぽい笑みを彼に向けた。フェレスはその姿を見た瞬間頬に朱を登らせつつも、いかにも興味なさそうに素早く目をそらしたが、彼女はその仕草を見てくすくすとおかしそうに声をこぼす。


「あん、赤くなっちゃって可愛いです」

「なってない」

「ふふ。そんなぶすーっとしてたらせっかくの可愛いお顔が台無しですよ」

「……可愛くない。あと、僕の機嫌が悪いのはお前が何回言ってもちゃんと服を着て出てこないからだ、フランシア」


 歩み寄り、彼と視線を合わせようと正面へ回り込んでくるフランシアから頑なに目を背け続けるフェレス。二回転ほどの攻防のあと、んふふ、と、短く笑って体を引くと、彼女は相変わらずそっぽを向いている少年に声をかける。


「今日はほら、まずはお風呂に入ろうかなって思ったですから、服はそれから着るつもりだったんですよ。あとフェレス、わたしを見る前からご機嫌斜めな顔してたじゃないですか。他に理由あるですよね?」


 少し得意げな顔で、フランシアはそう言った。眼鏡などかけているくせに目はいいし、観察力にも推理力にも優れている主人の言葉にふっとため息をつくと、フェレスは彼女の鼻先に、まだあまり大きくはない手のひらを開いて突きつける。一瞬怪訝そうな顔をしたフランシアは、だが次の瞬間その臭いに顔をしかめて後ずさった。


「んく……っ! なんの臭いです? これ……」


 若干酸味の増した獣のような脂臭さに、鼻と何故か腹を押さえるフランシア。そちらを見ないまましれっとした顔で手を引いて、フェレスはその問いに答えた。


「石鹸だ。これでもゆすいだから洗濯の最中よりはましになっているんだぞ」

「石鹸だったですか……。おなかが空っぽの時にその臭いはこたえるですよ……」


 このえた獣脂のようなひどい臭いのせいで、石鹸というものはあまり使われることがない。服や食器の汚れは基本的には水洗いだけで、それで落ちない場合には木やわらの灰を使うのだが、それでも落とせない汚れに最後の手段として使われるのが石鹸だった。家事に熱心でないフランシアには、あまりなじみがないものである。


 若干顔を青ざめさせ、涙目でぼやくフランシアの様子に、フェレスはふんと短く笑った。その拍子に思わず向けてしまった目を閉じ、彼はそのことをごまかすように少し早口に彼女に強めの言葉をぶつける。


「ちゃんと朝起きて食事をとらないからだ。痴れ者め」

「だって今日は久しぶりに家事お休みだったんですもの……」

「家事がなくとも朝はちゃんと起きろ、ぐうたら者め。昨日までは頑張ってくれて……あ、まあ、その。ちゃんと、起きていたんだから」


 不意に言いよどんだフェレスに、フランシアは眼鏡の奥で目をまたたかせる。目をつぶったままその彼女にフェレスは勢いよく背を向けた。そして彼は斜め後ろに手を伸ばして家の奥を指さすと、また早口に続ける。


「も、もういいから入るならさっさと風呂に入れ! その間に食事を作っておいてやる」


 そう言ったフェレスの細い背中を、フランシアはじっと見つめた。洗濯で汚さないためにか、袖のないシャツにハーフパンツという軽装の少年。背を向けた彼の背中に静かに忍び寄ると、彼女は唇を尖らせ、細くした吐息を彼の耳の後ろにそっと吹きかける。


「ふぅー……っ」

「ひゃああああっ!?」


 驚いて跳び上がりながら振り返ったフェレスを見て、またおかしそうにフランシアは笑った。怒りと恥ずかしさに真っ赤になったフェレスが、大きな声で怒鳴る。


「急になにをする! 痴れ者め!」

「だあって。フェレスったらさっきから全然わたしのこと見てくれないんですもの」

「服を着てないからだ! 早く風呂に入れ! それで服を着ろ! 着てこないと食べさせないからな!」

「ふふ、はーいです。それじゃ、行ってくるですよー」


 笑いを止めないまま、先日蘇らせた温泉を引いている風呂場のほうへ駆け去っていくフランシア。その後ろ姿から顔を背け、ふーっ、と、長く息を吐いて気持ちを落ち着けると、フェレスは流し台を見て、今のやり取りの間は忘れていたその惨状に肩を落とす。


 食事を作り始める前に、まずはこの食器の山を片付けなければならない。少し前のものもありそうだし、また石鹸を使わなければならないな、と、もう一度ため息をつくと、フェレスは流しに歩み寄って汚れものの攻略に取り掛かった。



―◆◆◆◆◆―



 洗いたての食器のうち、石鹸を使わずに済んだものにサラダと目玉焼きとベーコンにパンを盛り付け、それを風呂上がりのフランシアに出したフェレスは、自分の皿にはトマトスクランブルエッグを添えたパスタを盛りつけて彼女の前に座った。


 フランシアが快い歯ごたえに焼かれたパンをかじりつつ窓から外を見ると、天道をゆっくりと進む太陽の下でそよ風に吹かれて洗濯物がはためいている。いい天気ですねえ、などとぼんやりと考えている彼女の前で、黙々とフェレスはスクランブルエッグを口に運ぶ。


 向かい合って少し早めの昼食ととても遅い朝食をとっていた二人の間の静寂を破ったのは、先に皿を空にしたフェレスだった。フォークを空になった皿に置き、彼はフランシアの視線を追うと、ぽつりと呟くように言う。


「なんとかできないか」

「……何がです?」


 視線をフェレスのほうに向けてのんびりと問い返したフランシアに、彼はすっと開いた手のひらを向けてそれを近づけた。瞬時に先ほどのことを思い出したフランシアは慌ててさっと手を突き出し、彼がそれ以上自分のほうに手を近づけないよう首を横に振る。あの臭いは空腹にもこたえるが、食事中にはなおこたえる。


「いいです。ごめんなさい。わかったです」


 その様子にフェレスは小さく笑いながら手を引っ込め、一度席を立って自分の皿を流しへと運んだ。ざっと井戸水でそれを洗った彼が席に戻ってくると、フランシアはサラダの中の野菜をフォークでまとめて突き刺しながら彼に告げる。


「実は、昔なんとかしようとしたことはあるですよ。作る時に香水を混ぜたりして」

「どうなったんだ?」

「あの臭いと香水の匂いが混ざって、それはもうひどいことになりました」


 言ってから、フランシアはフォークの野菜を口に運んだ。ぱり、さく、と、新鮮な野菜を小気味よい音をさせながら口を動かす彼女を見ながら、ひどいことになったというその臭いを思わず想像し、フェレスは不快げに眉をしかめる。

 あの臭いさえなければ、あの石鹸というものはとても素晴らしいものだとフェレスは考えていた。石鹸を使えば水だけより明らかに強力に、そして簡単に汚れを落とすことができる。しかも用途は服に限らず食器や、臭いさえ我慢すれば体にも使えるのだ。


「そもそも、石鹸と言うのはなんであんなひどい臭いなんだ?」

「単純に材料の臭いですよ。石鹸はもうあの臭いそのままなんですけど、主に獣脂からできてるんです。それに蒸留水と秘薬を混ぜて乾かせば石鹸になるですよ」


 野菜を飲みこんだフランシアが問いに答えると、フェレスはふーむと唸って腕を組んだ。湯気を立てる紅茶のカップを睨んで、彼は難しい顔で眉を寄せる。

 そんな彼をほほえましげに眺めながらパンにベーコンと一緒に焼かれた目玉焼きを乗せると、フランシアはそれにかぶりついた。カリカリの香ばしいベーコンと、見事なとろみを保っている目玉焼き、そして快い歯ごたえのパン。本当にお料理が上手になってくれましたねえ、と、フランシアは目を細めた。


「まず思いつくことだが、他の油は使えないのか?」

「んー」


 フランシアの口が丁度空いたタイミングで問うたフェレスだったが、彼女は油断していたのかそこで二口めをほおばってしまい、その問いに対して返したのは無意味な唸り声だけだった。少しの間をおいてそれを飲み込むと彼女は手の中に残っているパンを皿に置く。


「比較的安定して手に入る動物の脂のなかで、一番ましなのがよく使われてる牛の脂なんです。まあ個人の好みもあるかもですから、わたし的にですけど」

「動物じゃなくてもいいだろう。鉱物油とか植物油とか」

「鉱物油の臭いって、動物のよりひどいんですよね。植物油は悪い匂いじゃないですけど香りが強すぎますし、ほんの少ししか採れないですし……」


 フランシアの言葉に、フェレスは不思議そうな顔をした。その顔を見て首を傾げながら、フランシアはパンの最後の一口をほおばる。ぱりぱりと音をさせる彼女を見つめて、フェレスは真顔でまた問いかけた。


「こちらでは、パームやココから油を採らないのか? あれは臭いも薄かったし、水瓶一杯のが油いくつも並んでいるのを見たことがあるぞ」

「……んぐ。ふぅ。この辺りには、たぶんそのパームとかココっていうものがないですよ。どんな植物です?」

「ないのか……。ええと……茶色の固い鱗に覆われているような幹で、枝がなくて、幹から直接緑の葉が出ているような……」

「ああ、見たことあるですね、それ。……やっぱり、こっちにはないですけど」


 口頭で苦心して植物の見た目を説明するうちに無意識に手の動きを伴わせているフェレスを眺めていたフランシアは、そう答えてから首を横に振った。さすがに、そのためにパームやココの生えている隣国サラージンやイェ・ハーンには、フェレスの事情もあってうかつには遠征できない。

 再び難しい顔で眉を寄せるフェレスの前で、少しぬるくなった紅茶のカップを口元で傾けながらフランシアは考えを巡らせた。パームやココは結構大きな木だったが、どのように油を採るのだろうか。彼女はカップを置くと、まだ考え込んでいる少年に問いかける。


「パームとかココの油ってどうやって採るです?」

「……実や種を搾るのだと聞いたことがある。見たことはないが」

「身や種を搾るですか……。蒸留抽出じゃないですね。それなら確かにたくさん採れるかもです」

「種……そうだ、種だ。花の種を搾って油を採るところは見たことがあるぞ。花の名前はわからないが、黄色くて背の高い花だった」


 少し懐かしさと悲しげな色を含んだ視線で遠くを見てフェレスが言うのを眺めながら、フランシアは彼を慈しむような表情を浮かべた。手元に置いたカップからは、もう湯気は立っていない。飲み頃からはだいぶ冷めてしまったそれを一気に飲み干すと、彼女は静かに立ち上がった。


「黄色くて背の高い花っていうだけだと森で探すのも大変ですから、今回はお店に頼ってみましょうか。確か関所の街サンズウォールにあるですよね? 種とか苗のお店」

「……ああ、あるな」

「じゃ、早速行くですよ。今から行けば、たぶん泊まらなくても夜には戻ってこられるです。ふふ、なんだかちょっとわくわくしてきちゃいました」


 新しい発明の予感に、フランシアは好奇心と喜びに満ちた輝くような笑顔を浮かべた。

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