(6)三枚の〈不可視の衝槌〉

 数時間の後。

 ハンマーや斧の代わりに木や葉で作った大きなうちわを担いだドワーフたちを連れ、フランシアとフェレスは再び洞窟の奥、元は作業場だった広い部屋の前にやってきていた。

 ひしゃげた鉄の扉から少し離れたところに積まれたネムリイバラは、昨日より体感できるほどまで上がっている温度のおかげでほどよく水分が抜け、燃やせば催眠成分を含んだ煙をよく上げそうに乾いている。

 そのネムリイバラの横を迂回し、扉の陰から中の様子を伺っていたゲオルグが戻ってくると、しゃがみ込んだフランシアは小さな声で訊ねた。


「どうでした?」

「大丈夫だ。起きてる」

「よかったです。それじゃ、始めますか」


 ネムリイバラの毒で眠っているのか、ただ眠っているのか。見分けるためには溶岩蛇竜ラーヴァ・ワームが起きている時に仕掛ける必要があった。ゆえに、もし眠っているならしばし待機するつもりでいたのだが、そうする理由のなくなった一行はさっそく襲撃の準備に入る。

 大うちわを持ったドワーフたちをネムリイバラの前に弧を描くように並ばせて、フランシアがフェレスに視線を送ると、彼はひとつうなずいて片手を積んだイバラに向けた。

 目を閉じ、こめかみに汗を伝わせながらひとつ、ふたつ深呼吸し、フェレスがかっと目を開くと、ぱち、と、音がしてイバラに赤い火が灯る。


「あら……。ふふ、成長が早いですね」


 簡単な〈点火イグニッション〉とは言え、つい先日にはできなかった無詠唱発動を成功させた少年の成長に、フランシアは驚いたように目を見開き、そして嬉しそうに微笑んだ。そんな彼女に一瞬だけ得意げな視線を送ると、フェレスはドワーフたちと一緒にうちわでネムリイバラを扇ぎ始める。勢いを増した赤い炎に照らされ、茜色の催眠毒煙はうちわの起こした風に乗って作業場へ流れ込んでいった。

 皆が燃えるイバラよりも自分を扇ぎたいという衝動と戦いながら、風を送ることしばし。そして、それがほぼ燃え尽きてから、彼らは残った煙を吸い込まないようにごみを片付ける。

 全員で扉の向こうを覗き込むと、赤い蛇竜は溶岩溜まりの上で長いとぐろを巻き、いびきをかいて眠り込んでいた。


「よし、行くぞ。皆、さっきもらった〈睡眠抵抗レジスト・スリープ〉の札を貼れ」

「申し訳ないですけど、急作りなせいで質が悪くて持続時間がたぶんあんまりないですから、ご家族は急いで助け出してくださいね」

「おゥよ!」


 抑えてはいるが威勢よく返事をしたヨルグを先頭に、ドワーフたちは魔法符を貼り付け、足音を殺して次々と作業場へ駆け込んでいく。そんな彼らを追おうとフェレスも魔法符を自分の体に貼り付けたが、しかしその細い肩をフランシアがそっと押しとどめた。


「フェレスはここで待っててくださいです。しっかり眠らせましたけども、急に起きてこないとも限らないですし、ここで様子を見て……何かあったらここから牽制してください。はい、これ。使い方は大丈夫ですよね?」


 そう言って差し出された三枚の魔法符カードを受け取ることをためらうかのように、フェレスはフランシアの顔を不満げに見上げた。眉を下げて困ったように笑うと、少年の額に自分の額を寄せ、フランシアは彼の金色の髪を漉きながらその頭を撫でる。


「少し遠くにいるほうが、全体の見張りに便利なのは知ってますよね? それに、この〈燐光描画ルミナス・ドロー〉の符はちょっと式が複雑ですから、フェレスにはまだ難しいです」

「……そうだけど」

「あん、そんな機嫌悪い声出さないでください。フェレスが見張っててくれれば、わたしもドワーフさんたちも安心なんですから。ね?」


 囁いてフェレスの前髪を優しくかきあげ、フランシアはその額に唇で触れた。改めて差し出した魔法符を少年が受け取ると、彼女はにこりと微笑んでもう一度その頭を撫でる。


 そして、フランシアはゆったりとした足取りで作業場への入り口をくぐりつつ自分の体に〈睡眠抵抗レジストスリープ〉の呪符を貼り、ポーチから金色の金属符を取り出した。フェレスを通してドワーフたちに作ってもらった空の魔法符は、できれば霊銀でとは言ったものの、やはり突然の事で材料がなかったのか真鍮製で、見た目は派手だがとても軽い。


 フランシアはここに突入する前、この四枚の真鍮魔法符に〈燐光描画ルミナス・ドロー〉の魔術式を封じた。指先や杖を使って空中に光の軌跡で文字や図を描くこの魔法で呪紋化した術式を描くことで、作業場全体を巨大な『あまのじゃくの鍋』にしようというのがフランシアの計画である。描くものはもちろん昨晩ほぼ徹夜で描いた魔術式で、彼女はこれを魔法が描く図式として四枚の符に分割転写していた。


 作業場の奥から仲間を担いで出入口へ向かうドワーフたちを横目に、以前には彼らの設備だったであろうものの残骸の間を駆け抜け、フランシアはまず一枚の真鍮魔法符を壁に貼り付けた。一瞬遅れて溶岩質のごつごつとした黒い岩壁から逆側の壁に向かって金色の光が走り、もう一枚を貼るべき位置を指し示す。


 そこで何かの気配を感じたフランシアが出入口を見やると、先ほど出て行ったドワーフたちが再び作業場へまた戻ってきていた。次の魔法符を設置するために地面に散らばった残骸をかわしつつそちらへ向かい、彼女は最後尾で入ってきたグンターに並んで小声で尋ねる。


「どうされたです? できたら宝物とかは後に……」

「それが煙吸って奥の連中が寝ちまっててのう。担いで助け出しとるんじゃよ」


 しまった。と、フランシアは胸中で呟いて眉を寄せた。当然考えておくべきことだった。多少質が悪くても、解毒と睡眠抵抗をもっと準備して渡しておくべきだったのだ。

 ちら、と、横目でまだ眠っている蛇竜の姿を確認してから、フランシアは腰をかがめて走りつつグンターにもう一度訊ねる。


「あとどれぐらいで全員助けられるです?」

「これを入れて二往復ってところじゃろう。できるだけ急ぐがのう」


 仲間たちが取り残されている奥の通路へ向かう彼にうなずくと、フランシアはドワーフたちと別れて光線が指し示す場所へと急いだ。

 できるだけ足音を殺し、地面に転がるおそらく炉だった物の残骸や金床、頭だけになった鎚などを次々と避けつつ作業場の外周をぐるりと回り込み、光線が示す場所を目指す。


 少しの後、ようやく目的地にたどり着いたフランシアは、弾む息を整えながら次の魔法符をそこへ貼り付けた。

 〈睡眠抵抗レジスト・スリープ〉の効果が不十分なのか、上がりすぎている部屋の温度に体力を奪われているのか、フランシアは襲い来る疲れとだるさに呼吸が乱し、全身に汗をにじませている。なのに、なぜかそこだけは乾いている唇をちろりと舐めて湿らせ、フランシアがゆっくりと振り返ると、二枚の魔法符を結ぶ金色の光線の真ん中からそれと垂直に交わった光線が伸び、残り二枚の符を張り付けるべき位置を指し示していた。


「がんばるですか……」


 目に入りそうなほどの汗の球が浮かぶ額を袖口で拭うと、フランシアは部屋の真ん中でいびきをかいている蛇竜の様子をもう一度伺う。焚いたネムリイバラの量は十分だし、まだしばらくは目を覚まさないはずだ、と、己に言い聞かせると、もう一度彼女は灼熱の中を走り始めた。


 環境に加えて日頃の運動不足もあり、もうあまり走れていない自分に苦笑いしつつ、フランシアは三枚目の貼り付け位置を目指した。そのそばを、やはり息を大きく荒らげながら、眠ってしまった仲間を背負ったり担いだ状態のドワーフたちが駆け抜けていく。それを見送りつつなんとか目標の場所にたどり着き、フランシアはぺたりと次の魔法符を貼り付けた。


 真鍮製の魔法符は作業場の空気に熱せられて、仕方がないこととは言えかなり熱い。ずっと触れていると火傷してしまいそうなそれから素早く手を離すと、フランシアはその手を膝について呼吸を整える。

 そしてフランシアが顔を上げると、遠くにある出入口から様子を伺っているフェレスと視線が交差した。恥ずかしげに笑って手を小さく振ると、彼女はゆっくり体を起こし、最後のポイントへと足を踏み出す。


 だがその時、フランシアはわずかな違和感に気が付いた。何かが違う。先ほどまでと何かが違うのだが、それが何なのかがわからず、フランシアは足を止めて作業場の中を見回す。


 出入口からまた入ってきているドワーフたち、自分のほうを見ているフェレス、まだ動かない溶岩蛇竜、あちこちに転がっている設備の残骸、魔法符の設置先を示した金色の光線。何かが違う気がするのに見つけられない焦りが、フランシアの額にまた汗をにじませた。


 三往復目になって疲れが出てきたか、重くなったドワーフたちの足音が彼女のそばを通り過ぎていく。その瞬間、フランシアははっと息を呑んだ。

 音。蛇竜のいびきの音が聞こえない。慌ててとぐろを巻いた蛇竜のほうを見たフランシアだったが、その頭は今の彼女の位置からは見えなかった。跳ねそうな呼吸を詰め、静かにゆっくりとフランシアは足を進める。


 そのとき、奥から眠ってしまった仲間たちを担いで戻ってくるドワーフたちの重い足音がまたフランシアの耳に届いた。急いで振り返ると、彼らが作業場まで踏み込んでこないよう、そちらへ彼女は手のひらを突き出す。


「どうした?」

「しー……っ」


 訊ねるドワーフたちに、フランシアは手に真鍮の札を持ったまま、突き出したもう片方の手を引いて唇の前に人差し指を立てる。

 そして、蛇竜のほうを振り向いて一歩、二歩、フランシアが静かに足を踏み出したところでそれは伸びあがって身を起こし、めらめら赤く燃える両眼を見開いて彼女たちのほうに顔を向けた。


「下がって!」


 慌てて奥の通路へ下がるドワーフたち。同時に蛇竜が大きく口を開けて甲高い咆哮を上げた。知性竜インテリジェント・ドラゴンの放つ竜咆哮のように精神を直接揺さぶる効果こそないが、大音声にびりびりと空気が震え、小さな石や土くれが天井からまばらに降り注ぐ。

 フランシアが思わずひるんだその瞬間、溶岩蛇竜は口を開けたまま大きく息を吸った。やば、と、小さく呟いて横へ走るフランシア。彼女めがけて溶岩吐出ラーヴァ・スピットが放たれようとしたその時、フェレスが部屋へ飛び込み、魔法符を掲げて叫ぶ。


「〈不可視の衝槌インビジブル・ラム〉!」


 フェレスが掲げた魔法符が淡い光を放って溶け消え、圧縮された空気の衝撃が蛇竜の横面で弾けた。フランシアのほうを向いていた蛇竜の顔がわずかに傾ぎ、吐き出された溶岩が彼女から少し離れた場所を地面を揺るがし、えぐる。


「きゃっ!」


 振動に足を取られて地面に転がったフランシアの耳に、金属質の音が届いた。手の中に持っていたはずの魔法符の手ごたえがない。それに気づいて慌てたフランシアが地面に這いつくばったままで周りを見回すと、金色の魔法符がどろどろと広がる溶岩に飲み込まれるのが見えた。


「ああもう……!」


 さらに広がる溶岩の熱気から転がって逃れると、フランシアはそのまま勢いを殺さずに膝立ちで身を起こした。

 そして彼女が見上げると、蛇竜は出入口から飛び込んできたフェレスのほうを向き、そちらへ鎌首をもたげている。彼が長剣を抜き低く構えると、その意思を感じ取ったかのように蛇竜はまた咆哮した。


 甲高いその声に眉をしかめながらフランシアは腰のポーチに手を差し入れて、何枚かの魔法符をまとめて取り出した。そして、そのうちの一枚だけを引き出すため魔法符を扇状に広げたところで彼女は動きを止める。


 ここで蛇竜の注意を彼から自分へ引くことはさほど難しくないし、すぐにでもそうしたい。そう思っているフランシアだったが、そこからどうするかの計画が彼女にはなかった。

 真鍮の魔法符を仕掛ける場所は示されているが、肝心の魔法符そのものはもう失くしてしまったし、設置済みの三枚だけでは術式が完成せず魔法は発動しない。持っている魔法や魔法符に溶岩蛇竜にまともなダメージを与えられるものはない。では、眠らせたり動きを止める手段があるかというと――。


「……あったら、ネムリイバラ集めてもらったりしなくていいですよねえ」


 苦笑いして呟きながら、フランシアは背負っていた杖を手に取る。結局、今このピンチを脱する手段はただひとつ。予定と違って魔法符は足りないが、予定通りに術式の呪紋を完成させるしかなかった。


「でも、その前に……フェレス!」


 名を呼びながらフランシアが持っていた魔法符の束を蛇竜に向かって投げると、〈水弾ウォーター・ブレット〉〈氷矢アイス・ボルト〉〈雷撃ライトニング〉の魔法が同時に解放され、蛇竜がまとう火の精霊力に吹き散らされて消えた。それでも何の痛痒も感じないわけではないのか、蛇竜は彼女のほうへと顔を向け、炎を封じたガラスのような目玉をぎらつかせる。

 その瞬間、彼女は右手に握っていた杖を突き出し、呪文を短く唱えた。


「〈閃光フラッシュ〉!」


 杖の先端から強烈な白い光が溢れ、蛇竜の視界を奪い去る。人間ならば数十秒程度、どんなに鈍感な動物でも数秒間は何も見えないはずだった。間髪入れず、蛇竜を横目にフェレスに駆け寄ろうとしながらフランシアは叫んだ。


「フェレス! 荷物から転写紙を――」

「フランシア、後ろだ!」

「!?」


 フェレスの叫びにフランシアが振り返ると、そこには大口を開けた蛇竜の頭があった。〈閃光フラッシュ〉が効いていない。瞬時にそれを理解した彼女の顔から血の気が引く。

 考えてみれば、蛇竜は土中や暗い洞窟に棲む動物である。眼球の位置にある、あの炎を封じた宝石のような器官が本当に眼球なのか、仮に眼球だとして、光で物を見ているのかは定かではなかったのだ。

 何か防御の手段を、と、ポーチに手を突っ込むフランシア。


 そして、同時にフェレスも同じことを考えていた。

 彼が繰り出せる手は残り二枚の〈不可視の衝槌インビジブル・ラム〉の魔法符と長剣。だが、先ほどのように側面からならともかく、正面からではたとえ二発を同時に放ったとしても大した牽制にはならない。長剣を振るおうにも、蛇竜は何メートルも先にいるフランシアのまだ向こうだ。第一、この貧弱な腕で普通の剣を振るったところで、鱗には傷の一つもつけることはできないだろう。

 それならば、と、フェレスは長剣を鞘に収め、魔法符の一枚を持ったまま手を自分の背中へ回す。


「〈不可視の衝槌インビジブル・ラム〉!」

「!?」


 フェレスの背中で不可視の衝撃波が弾けた。ごきりと嫌な音がして脇腹に熱が広がるのと同時に、少年の体は蛇竜の頭を揺らすほどの衝撃にはじかれて宙を舞い、驚きに目を見開いたフランシアの胸へと一気に飛び込む。


「うわああああーっ!!」


 フランシアの柔らかな体を力いっぱい抱きしめ、少年は体をひねって地面へと転がった。土ぼこりを上げて倒れたまま滑る二人の上を、真っ赤に灼けた溶岩が通り過ぎる。


「フェレス! なんて無茶を……!」


 倒れる時にまで自身を下にした少年の上から急いで体を起こし、フランシアは彼を心配げに叱った。倒れたままで青ざめた顔をしかめ、口を開いたフェレスがむせて血を吐く。


「早く手当を……」

「ごほ……っ! フランシア、それより転写紙……!」

「あ……っ。は、はいです!」


 声をしゃがれさせたフェレスの言葉に一瞬ためらったフランシアだったが、そこには他の選択肢はなかった。彼を手当てするためには、何としてもこの場を生き残らなければいけないのだ。


 フェレスの荷物に手を入れ、フランシアは目立つ巻紙を引っ張り出した。その留金を外しながら、彼女は一刻も早くたどり着くべき金の光の最後の一端を探す。幸運にも、それは彼女のすぐそばにあった。


 青ざめた顔で血を吐きながら浅い呼吸を続けているフェレスをその場に残して、泥だらけのフランシアは左手に広げた紙の端を、右手に杖を握って金色の光線が指し示す場所へ走る。

 そして、たどり着いたその場で杖の先にその金の光を受け、術式呪紋を描いた紙を目の前に掲げてフランシアは発動詞を連続で唱え始めた。


一番ファースト二番セカンド三番サード術式起動コマンド・ブート! 〈燐光描画ルミナス・ドロー〉! 〈転写コピー〉!」


 フランシアの呪文に応えて、黒い岩壁に貼り付けた一枚目、二枚目、三枚目の魔法符が封じられた〈燐光描画ルミナス・ドロー〉を発動した。輝く燐光で地面から天井にまで届く呪紋が描き出されるのに少し遅れ、フランシアは自らも同じ魔法を発動して、四枚目の魔法符が描き出すはずだった呪紋を目の前に掲げた転写紙から空中へと転写する。


 だが、彼女が四つの呪紋を繋ぎ合わせる最後の手順を行う前に、蛇竜は二人の存在を再認識した。またしても赤い蛇竜は甲高い咆哮をあげ、大きく口を開けて身震いする。腹に溜め込んだ溶岩を逆流させるための準備動作だ。


「ぐううっ!」


 左腕をだらんとぶら下げたまま右手を床につき、歯を食いしばってフェレスは体を起こした。そして口を満たす鉄の味を吐き捨て、少年は必死で長剣を鞘から引き抜いて、細い一本の腕でそれを振りかざす。


「〈不可視のインビジブル――」


 唱えながら、彼が睨みつけたのは真っ赤な蛇竜の口だった。大きく開いたそこ目掛け、フェレスは最後の力を振り絞って自分の長剣を投げつける。そして。


衝槌ラム〉!!」


 最後の魔法符を発動すると剣はそれにはじかれて矢のように空を走り、溶岩をまさに吐き出そうとしていた蛇竜の口の中へと吸い込まれていく。そしてその刃は、さすがに口の中にまでは鱗を持たない蛇竜の上顎へと深く突き刺さった。


「……同じことばかり繰り返すからだ、痴れ者め」


 溶岩を吐き出すことを中断し、甲高い苦悶の声を上げる蛇竜に苦しげながらもフェレスはにやりと笑ってそう呟くと、そのまま前のめりにゆっくりと倒れた。それを横目にフランシアは最後の発動詞を完成させる。


呪紋接合パターン・コネクト!」


 その瞬間、四方の壁の呪紋が接合され、淡く光り輝く四枚の呪紋の壁が完成した。

 手傷を負わされ怒り狂った蛇竜が、呪紋の向こうにいるフェレスめがけ溶岩を放つ。だが、それが呪紋に触れた途端、それが本当の壁であるかのように溶岩はそこで弾き返された。同時に逆側の呪紋の表面に氷の粒が一瞬きらめき、猛烈に熱せられた作業場の空気に溶けて消える。

 その冷気を感じ取ったのか、蛇竜はそちらの側に溶岩を吐きつけたが、すると今度はフランシアが描いた呪紋の表面からぱっと氷の粒が散った。す、と、唇であでやかな弧を描くフランシア。


「ふふ。もうダメですよその攻撃は」


 フランシアが描いたその呪紋は、彼女がかつて作った「あまのじゃくの鍋」に使った呪紋を展開して再構成したものだった。外側が熱せられると内側が冷える鍋の仕組みを応用し、蛇竜を囲んだ四面の呪紋壁の一方を加熱すると、反対側の呪紋壁がそれ以上に冷やされる結界。そして組み込んだ別の呪紋が同時に魔法の防御壁を展開し、溶岩の熱エネルギーを吸収して己の強度に変換するのだった。

 狂ったようにあちらの壁に、こちらの壁に溶岩を吐きつける蛇竜。だがすればするほど作業場の空気はどんどん冷やされ、彼を囲む防御壁は強固になっていく。


「……早くあきらめてくださらないです? こっちもいつまでも待てないですよ」


 地面に倒れ伏したフェレスを横目にフランシアは呟く。魔法を維持するためにあまり集中力を他へ割けないことをもどかしく思いながらも、まだ彼の背がゆるやかには上下していることを確認すると、彼女は再び意識を魔法の維持に戻した。

 目の前では溶岩が冷えて固まった黒い岩が呪紋に沿って積みあがりつつあった。魔法の維持のため少しずつ魔力と体力、集中力を削られ、フランシアのこめかみを冷や汗が伝う。


「がんばれ、人間!」

「おゥ、きっともうちょいだぞォ!」


 迫る冷気に怯えて溶岩をしつこく吐き出す蛇竜の向こうから、ドワーフたちの応援が聞こえた。本当ならわたしも鼻歌混じりに結界の外からこれを眺めてるはずでしたのに、と、苦笑いしてから、フランシアは脂汗を額に浮かべつつもう一度気合を込めなおす。


「フェレスの手当てしたいんですから、早く帰ってくださいです……!」


 そして、その我慢比べに勝ったのは彼女だった。

 冷えた空気に耐えきれなくなったのか、蛇竜はまた甲高く一つ咆哮すると身を翻し、溶岩の中に飛び込んで姿を消した。

 それから数分か、数十秒か。それが戻ってくるのを恐れてぎりぎりまで維持を続けた四枚の呪紋壁が消えると、集中力を限界近くまで消耗させたフランシアは地面についた杖にすがりつき、息を荒らげながらおぼつかない早足でフェレスのもとに駆け寄った。

 大喜びしながら奥から走ってくるドワーフたちの姿を尻目に、倒れこむようにその場に座ったフランシアは、倒れた彼を杖を放り出して抱き起こす。


「フェレス、フェレス……! 大丈夫です!?」

「大丈夫……でも、ちょっと、苦しい……」

「ああもう、こんな無茶して……。待ってるですよ、すぐお薬出しますから……」


 座った自分の脚の上に青ざめた少年の頭を乗せ、フランシアは腰のポーチから陶器やガラスの瓶を次々と取り出しては地面に並べていった。やがて、目当ての瓶を見つけた彼女は小気味よい音をさせてその栓を抜き、フェレスの胸から顔を目掛けて中身をぶちまける。


「お、おい!?」

「なんです?」


 近くに来るなりのその光景に目を丸くして声を上げたゲオルグに、フランシアは不思議そうに首を傾げた。すぐに膝枕に頭を預けていたフェレスの顔がみるみる血色を取り戻していくのを見て、彼は怪訝そうに二人の顔を見ながら訊ねる。


「いや……飲ませるんじゃないのか」

「ああ。これはわたし特製の魔法薬エリクシルですから、普通の調合薬ポーションとは違うんですよ。ほら、大怪我してる方が、必ずしもお薬を飲めるとは限らないじゃないです? そんな時用の『ぶっかけ応急薬』なんです」


 フランシアが汗で火照った頬に張り付いている亜麻色の髪を払いつつ得意げにそう言って微笑んだところで、奥のドワーフたちがようやく彼女たちのもとへとやってきた。彼らは喜びに溢れた顔で二人を囲むと、口々に感謝や喜びの言葉を述べ始める。


「やったぞ! あのドラゴン野郎、逃げ帰ってったぞ!」

「やるもんだな娘っこ! 最初グンターに捕まった時は大丈夫かと思ったが……」


 次々にかかる声援に、脚の上の少年の頭を撫でながら笑顔で応えるフランシア。それを見ていたゲオルグは、普段の険しい顔からは想像できないほど豪快に、小さいが筋肉質な体を揺らして笑った。


「気に入ったぞ、フランシア! 間の抜けた人間の娘がなどと思っていたが、錬金術師、お前はなかなか大したものだ!」


 集まっていたドワーフたちが、つられるように笑いだす。

 ほんの数日のことだというのに戻ってきた平和はあまりに貴重に思えて、そこにいたドワーフたちの顔は安堵に溢れていた。

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