(5)夜なべのあまのじゃく
細い弧を描いた月とたくさんの星の灯りの下で、小さなたき火が頼りなげに揺れていた。
二つのテントの前にしつらえたそれを挟んで、フランシアとフェレスは言葉をかわさないまま、ただ向かい合って思索にふけっている。
集めたネムリイバラは、乾燥させるためにすでに洞窟へ運び込まれている。
普段なら夜は大いに酒を楽しむドワーフたちも、さすがに今の状況ではその気にもならないのか、皆早々に木の根元や茂みの中で休んでしまっていた。
だが、
さすがに疲れたのか、フランシアは抱えた膝の上に頭を横たえて、手持無沙汰になったフェレスがつつくたき火の揺らぎをぼんやりと見つめていた。
幻影の類で驚かせる、止められないぐらい大量の水を注ぎ込む、眠らせてから毒を飲ませる、吹雪を召喚して縄張りを寒くする、など、いくつものアイデアを検討しては実現性の壁にぶつかって葬ることを繰り返し、夜が更けてきたことも手伝ってか、もはやフランシアの頭の中にはアイデアになりきらぬ思考の断片が漂うばかりだった。
「……ねえ、フェレス」
フランシアがかけた言葉に、フェレスは手を止めて視線を彼女の方に向けた。そのままフランシアが黙っていると、彼は火かき棒代わりに持っていた太い枝を地面に置いて、火にあたりすぎたのか少し火照った顔を上げて訊ね返す。
「どうした。何か思いついたのか」
「そうじゃないんですけど……。まだ、怒ってるです?」
フランシアの問いに、フェレスは片方を立てていた自分の膝にもたれるようにうつむいてため息をついた。たき火の炎がそれに煽られて揺れると、ぱちん、と、薪が小さく爆ぜる。
「まだそんなことを考えてるのか。また落とし穴に落とされるぞ」
「だって気になるんですもの。正直言って、温泉のことより気になるです。村のみなさんには悪いですけれど」
丸めていた背を伸ばして顔を上げ、フランシアは物憂げに助手の少年の整った顔を見つめた。ぱちん、と、また薪がひとつ爆ぜる音を聞きながら、フェレスは黙ったまま片手で髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、そしてそれを手櫛で整えると、炎を見たままぼそりと答える。
「……もう怒ってない」
「本当に?」
「本当に怒ってない」
「本当に本当です?」
「くどい。怒るぞ」
「あん、だめです。信じるですから怒らないでください」
しつこく繰り返すフランシアを睨みつけようとしたフェレスは、言った彼女に笑みを向けられ、またむくれたような顔をして視線を地面に落とした。そして、先ほど置いた枝を再び手に取って、彼は追加の薪を火に投げ込む。
そんな彼を眺めながら、フランシアは片手を肘に当ててぐっと背筋を伸ばし、そして安心したような息を長く長く吐き出した。
「ふふ、よかった。これで温泉のほうに集中できるですよ」
「……そんなに気にするなら、なんで僕を怒らせるようなことを言うんだ」
「だあって。そういう時のフェレス、可愛いんですもの」
再び膝を抱えながら、フランシアはくすりと笑ってまたその上に頬を乗せた。亜麻色の髪が重力にひかれて肩からこぼれ落ち、丸眼鏡のレンズに炎が反射する。
ぱちん、ぱちん、と、新しい薪が弾けた火の粉を扇いで避けながら、フェレスは改めて彼女を睨みつけた。
「お前の楽しみのために、公衆の面前で僕を辱めるのはやめろ」
「フェレスを可愛がるの、わたしの生きがいですのに……。それじゃあ、公衆の面前でなかったらいいです? ふたりっきりでないときはおすまししておきますから」
いいことを思いついたとばかりのにこにこ笑顔で言うフランシアを見ながら、結局こうだ、と、フェレスは思った。からかわれて、怒って、謝られて、すこし譲歩されて、許す。その譲歩も時間が経つとなんとなく忘れてうやむやになる。
彼女は悪意もなく頭を撫でているぐらいのつもりだろうし、自分の方も確かに腹は立っているが、憎いとか辛いと思ったことはない。だからこそ、結局いつも許してしまうのだ。
フェレスは深いため息をつくと、握っていた木の枝を放り投げて立ち上がった。
「……あまりよくない。少しにしろ」
「はーい。ふふ、だからフェレス大好き――」
フェレスを追うように笑顔で立ち上がりかけたフランシアは、しかし少し腰を浮かせたところで微妙に苦い笑いを浮かべると、再び腰を下ろした。フェレスが怪訝そうに彼女の方へ足を踏み出すと、フランシアはそれを押しとどめるように両手を軽く前へ掲げる。
「どうした?」
「あはは……ごめんなさいです。抱っこしたいなって思ったですけども、ほら、今日はあっつい洞窟入ったり、土に埋められたりテント立てたりいろいろ……で、ちょっと汚れてるっていうか、汗が……ね。それこそ、温泉があったらよかったですけどねえ。あっつい温泉にふたりで入って洗いっこして、そのあとよーく冷やしたお酒を飲んで……」
膝を抱えて体を前後に揺らしながら、フランシアは楽しげに妄想を巡らせる。呆れたようにそれを見ていたフェレスが、ふと何かに思い当たったように真顔で眉根を寄せた。
少年の表情に気づいたフランシアが動きを止めて小さく首を傾げると、フェレスはまっすぐに彼女を見て訊ねる。
「フランシア、冷やすときに使うあの鍋を大きくして作れないのか?」
「あまのじゃくの鍋です? あれは内側と外側で熱を反転させる仕組みですし、熱源と冷やしたいものが両方内側にあると……。ああ、でも待ってください。理屈の上では……」
呟きながら今度こそ立ち上がると、フランシアは先ほどフェレスが放り投げた太い枝を手に取った。そして呪文を唱えた彼女が煌々と輝く光精をいくつも宙に呼び出すと、地面が昼間のように照らし出される。
「表式と裏式を分離して……予備も含めて二つづつ描いて……ここにねじり接続式……」
機能を口ずさみながら、がりがりとフランシアは地面に術式を描き始めた。枝の先で乾いた地面に刻み付けるように次々と複雑な魔法の呪紋と式を描いては、爪先を伸ばして一部を消し、そこへまた別のねじれた文字を描き足す。
そして、彼女の描く魔法陣はどんどん地面の上に広がっていった。
「分割ラインはここですから、この術式はこっちへ寄せて……ああもう。地面が全然足りないですよ。フェレス、そのたき火片づけてくれるです?」
「わかった」
手を動かしながら振り向きもせずの指示にフェレスは素直に頷くと、目の前の森からまた枝を一本調達した。それを使って彼はほとんど炭になってしまった薪をばらし、掘っておいた穴に一つずつ蹴りこんでいく。
たき火が片付いた黒焦げの土の上をフランシアの手が踊るように通りすぎると、そこにもまた呪紋が描き出された。
「ありがとうですよ。それじゃここに利得式と防壁術式を入れて……冗長化して……」
描いては消して、消しては描くことの繰り返しは長い時間続いた。
何かあれば手伝おうと見守っていたフェレスも次第に頭が揺らぎ始め、まぶたが下がってははっとしてそれを開く時を過ごしていたが、やがて――。
「できました!」
「!」
フランシアがあげたその声にフェレスはぱちりと目を開いた。そして、自分の体がいつの間にかテントの中で寝床に横たえられ、毛布もかけられていることに気づくと、彼は跳ね起きて外へと飛び出す。
「あら、おはようです」
テントから飛び出してきた少年に、フランシアは丸い眼鏡のレンズの下の縁に沿うような隈のできた顔で笑みを向けた。
申し訳なさそうな悔しそうな表情で、フェレスは光精を送り返しているフランシアに頭を下げる。
「……すまない、寝てしまった」
「いいんですよ。フェレスはまだ子供なんですから、大人の時間には寝てても。……あ、そうだ。起きたなら紙持ってきてくれないです? 術式転写紙」
「わかった」
すでに東の空は明るく白み、太陽の端は地平から溢れつつあった。そんな中で大あくびするフランシアを横目に、フェレスは荷物から大きな筒を取り出す。片面は白紙、もう片面には呪紋の入った巻紙を受け取ると、フランシアは両手でそれを広げて広場一杯に描いた魔術式に向けた。
「〈
唱えてその紙に封じられた術法を発動させると、地面の上に描かれた魔術式が瞬時にフランシアの広げた紙に書き写された。やりとげたような吐息をこぼしてそれをくるくると元のように丸め、彼女はそれをフェレスに差し出す。
「それじゃわたし、ちょっと寝るですから……。お昼前ぐらいになったら起こしてください。あと、ドワーフさんたちが起きてきたら、空の魔法符を四枚作ってくれるようお願いしてくれるです? 素材はできたら霊銀がいいですけど、無理だったらお任せで……」
「ああ。頼んでみる」
「あとは、ネムリイバラの煙を扇ぐのに使ううちわ、全員分……お願いですよ、フェレス」
言い残すと、フランシアは宙に浮いているようなおぼつかない足取りで自分のテントに潜り込んでいった。
残されたフェレスは受け取った巻紙を大切に荷物の中へしまい込むと、背中をぐっと大きく伸ばす。そして彼はドワーフたちの様子をちらりと見たあと、とりあえずはうちわの材料を集めに森へと足を踏み出した。
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