(2)湯治の村 カナベルの一大事

 大陸に覇を唱えるガランドラ神聖帝国。その西の端、国境にまたがる山と森の近くに、カナベルと言う名の小さな宿場村があった。

 鉱脈を探していた頃に発見されたという温泉を囲むその村の外れ、森の入口に建つ小さな家には、一人の錬金術師とその召使いが住んでいる。

 住み始めた頃にはうさんくさげな目を向けられた彼女だったが、医者のいないこの村で病人や怪我人におせっかいを焼き、困りごとの解決に知恵を貸すうちに、いつしか厄介ごととなればとりあえず頼られる便利屋のような立場になっていた。


 そして、先ほど飛び込んできたその常連の一人、村長の娘であるジェシカは、紅茶のカップを前に小柄な身をさらにしゅんと縮めてうつむいている。


「申し訳ありません……。村の一大事にあまりに気が焦ってしまって、つい……」

「そもそもこの錬金術師が、無作法でだらしないのが悪い」


 スープを作る予定だった鍋の湯で淹れた紅茶をポットからカップへ注ぎながら、フェレスが憮然とした顔で言った。

 今は亜麻色の長い髪を背中でひとつにまとめ、トレードマークの丸い眼鏡と涼しげな空色のワンピースを身に着けたフランシアは、カップを手に取ると軽く唇を尖らせ、その後ジェシカに微笑みを向ける。


「あん、もう。フェレスったら。でもジェシカさん、気にしないでくださいです。この村で温泉が出なくなってしまったら、それは一大事ですよねえ」

「ど、どうしてそのことを!?」


 持ってきた相談を口にする前に当てられ、ジェシカはバネ仕掛けのように顔をあげると、ただでも大きな目をさらに見開いた。紅茶をカップに注ぐ手を止めて、フェレスもフランシアの顔を見やる。

 二人の視線を一身に集めてしまった彼女は、紅茶を一口飲んでから、少しばつが悪そうに笑って答えた。


「実は、さっきうちの温泉も枯れてるのに気が付いたんです。源泉は同じでうちは村より上流ですから、うちで出てないなら当然村でも出てないですよね」

「はい……。気が付いたのは今朝なんですけど、来週の頭に辺境伯様のお孫様が村まで遊びにおいでになると伺って準備していた最中で、もうみんな大騒ぎで」


 言いながら、この世の終わりのような顔で再び肩を落とすジェシカ。

 無理もないことだった。領主がこの上なく可愛がっているという噂の孫の予定を、不可抗力とは言えふいにしたとなれば、どんなお咎めがあるかわからない。

 それがなくとも、彼女たちの住むカナベル村の経済は温泉があってこそ成り立っていた。温泉がなければ宿にも、施療院にも、土産屋にも、それどころか村そのものに訪れる者がいなくなりかねない。温泉は文字通りこの村の命脈なのだ。


「やっぱり、昨日のあれが原因でしょうか……」

「あれってなんです?」


 両手で包んだカップの中を沈鬱な表情で見つめてぼそぼそと言ったジェシカに、フランシアは小首を傾げて訊ねた。一瞬の静寂の後、ジェシカではなくフェレスが、空になったポットを流しに置きながら呆れたような顔でフランシアに言う。


「気が付かなかったのか。夜中に、火山のほうからすごい地響きがしただろう」

「うーん……。ああ、フェレスがおびえてベッドに潜り込んできた時です?」


 少し考えてからフランシアがぽんっと手を打って笑顔で言うと、食堂の空気が凍った。ジェシカがびっくりした様子でまずフランシアとフェレスの顔を交互に何度か見た後、顔を赤らめながら居心地悪げに首をすくめる。それに少し遅れてフェレスは褐色の頬を朱に染めると、両手を強くテーブルに叩きつけた。


「ち、違う! 心配で様子を見に行った僕を、お前がベッドに引っ張り込んだんだ!」

「うーん、優しく抱っこしたのと、気持ちよかったのは覚えてるんですけど……」


 とぼけた口調で言いつつフランシアはティーカップを手に取り、それで口元を隠してくすくすと笑った。このようなやりとりが大好物な彼女は、暇さえあれば少年の羞恥を嬉々としてくすぐって遊ぶ。特に最近は男性の自覚が出てきたのか少年の反応が彼女好みになってきて、フランシアはこの遊びに執心だった。


「……もういい! 知らん!」


 顔を赤くしたまま、スリッパを鳴らしてフェレスは食堂から駆け出して行った。その背中を戸惑いの表情で見送った後、不安そうな視線を向けてくるジェシカに、フランシアはふわっと柔らかな微笑みを返して口を開く。


「解決できるかはわからないですけど、ともかく源泉を見に行ってくるですよ。この村がなくなっちゃうとわたしも困っちゃいますし。速くて丈夫なお馬さん、二頭貸していただけます?」

「は、はい! ありがとうございます先生! すぐに馬はご用意しますから、少々お待ちください! 白星号も黒葦も空いてますので!」


 カップを置いて立ち上がり、勢いよく頭を下げて、村でも一番、二番の馬をすぐ用意すると約束したジェシカは、現れた時以上の勢いで村に戻っていった。

 ひとり残された錬金術師は、少しばかりぬるくなってしまった紅茶をのんびり飲み干してから、ゆっくりと席を立ってつぶやく。


「それじゃ、フェレスをなだめてお出かけの準備をするですか」

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