最後の瞬間に約束を

なるゆら

最後の瞬間に約束を

 金属が引き裂かれる音がして振動で部屋が大きく揺れた。上層階が潰れたか、弾き飛ばされた。ずっと地震は続いていて、収まることはもうない。


 通信機器は全く機能していない。地上に建物と呼べるようなものは、きっと残っていないし上層に繋がる扉を開いた瞬間、放り出されるかもしれない。吹き荒れる暴風に巻き上げられて終わりだ。もしかすると、すでに大気は失われているのかもしれない。部屋の揺れは激しさを増していたけれど、聞こえてくるのは建物内部の音だけ。


 非常電源が尽きれば明かりは消える。でも、そこまでは持たない。

 これは唐突ではなく、何年も前から教えられていたこと。


 アカネさんは目を閉じて無言で俯いたまま。両腕で僕の肩につかまって、振り飛ばされないように身体をロープで固定していた。僕も同じ柱に身体を縛り付けてアカネさんの手を離してしまわないように握り返していた。


 激しい揺れに大きな音。重なった非常事態に精神は慣れていき、異常だと感じなくなっている。次の瞬間に終わりがきても不思議のない状況で、感覚が麻痺するのは、僕らの危機に順応するための機能なのかもしれない。疲労が限界を迎えているだけだろうか。


「ナズナくん」

「はい」

「……ありがとうね」

「……いえ、こちらこそ」


 人類の叡智は、来たるべき未来を高い精度で予測することを可能にした。


 5年前、エッジワース・カイパーベルト上の天体が軌道を乱す様子が確認された。影響力の大きさから、当初は存在が否定されていたオールトの雲の中の新惑星が発見されるのか……と話題にもなったようだけど、僕はそれを知らなかった。


 存在も確認されていない段階から、その物体の軌道は太陽を周回するようなものではなく、太陽系の内側に向かって直線的に進んでいることが判明する。進行方向に存在する木星の重力の影響を受ければ、衝突さえあり得るのではないかとの予想もあった。


 大規模に行われた全天調査でも発見されなかった天体。その質量は小さく見積もられて、太陽系になんらかの影響を与えるとは考えられたものの、当時は地球から天体の最後が観測できるかもしれないといった話に過ぎなかった。


 確認された物体は、アルベドの低さから黒い来訪者などと呼ばれた。そして実際には従来の予想よりも速い速度で、ずっと大きな質量を持っていた。人類が作り出した頭脳は数日のうちに答えを導き出した。――最悪の。


 発見された頃から不穏な噂はあった。僕も耳にしていたが、多くの人が根拠の乏しい噂話だと考えていた。実際に根拠は不十分だったし、噂は噂だった。ただ偶然に、最後の部分だけが一致した。


 ――ネメシス。黒い来訪者の名称は、有名なSF作品にも登場する星の名前で、女神の名前が付けられた。僕たちが直面している出来事が名前が意味する通り、神の罰なのかは誰にもわからなかった。ただ、その天体が、近い将来に人類を滅ぼすことになると世界中の人々が知った。


 僕がアカネさんと出会ったのは、生き残りをかけた計画に参加したのがきっかけだ。回避できない滅びが迫る中で、世界中で人類生存の道を探ろうとする動きが始まった。ノアの方舟にたとえられた、日本版のオリオン計画、はくちょう計画だった。


「好みじゃないと思うけど、吊り橋効果で多少はマシに見えてるでしょ?」

「僕も、マシに見えていますか?」


 冗談に僕は、できるだけ冷めた言葉を返した。アカネさんは鼻で笑った。


 僕は卒業を待たずに計画に参加して、アカネさんと一緒になった。


 僕もアカネさんも身体にわずかな障害を持っていた。僕は適切な処置があれば問題なく日常を送れていたし、アカネさんの障害も、思い切り走る、跳ぶといったことがなければ何の問題もないごく軽いものだった。


 けれど、それは大きな問題にされた。はくちょう計画の趣旨は、地球とは別の星に人類を残そうというもの。選択された惑星は火星だったが、過酷な環境に障害を持つ人間を送り出すなんて非人道的だとされたのだ。


 ただ、僕らだけが除外されたわけではなかった。むしろ、ほとんどの人たちが生き残れないことが前提となっている計画だ。一次の計画ではクルーを含めて60人。テラフォーミングの手法はもちろん、惑星間航行の技術も確立していない今、地球を出たからといって生き残れるわけではない。


 誰を選ぶのかという議論に収拾はつかず、メンバーの選定方法は先送りにされたまま計画は進められていった。


 誰が選ばれても良いように、基本的な知識や技術を学ぶことが国民全員の義務とされた。研究者だったアカネさんは技術指導員になって、僕はその補佐をする役割が与えられた。


 ほぼすべての人が選ばれないという中で、行われる教育や訓練にどんな意味があったんだろう。僕らには知らされていなかったが、最初からメンバーは決められていて、人々の非難をかわすためだけに行われていた事業だったのかもしれない。


 自棄っぱちになっている人は多かったし、僕らに不満をぶつけてくる人もたくさんいた。僕やアカネさんが選ばれることはないという条件が、もしかしたら、訓練を受ける人たちを納得させるための役に立ったのかもしれない。


 自分が生き残れない。そう突きつけられただけで、誰でも気が動転するだろう。指導員も前から知っていたわけではない。突きつけられている事実は同じ。中には心身にダメージを負い、生活がままならなくなる人もいたし、辞めて行方知れずになってしまう人もいた。


 最初の3年は手探りでうまくいかなかった。僕は疲れ果ててミスばかりしていたように記憶しているし、アカネさんも毎日、感情を爆発させていた。2人の相性も良くなくて、噛み合わず空回りすることが多かった。


「わたしはね、思ってることたくさんあるのに、はっきり言おうとしないナズナくんの、そういうところが嫌い」

「……僕は、アカネさんの思い込みが激しくて、すぐに人を馬鹿にしてるみたいな言い方するところが、嫌いです」


 僕は、穏やかで一緒に居ると心が安らげるような人が好きだ。笑えば可愛らしいアカネさんだけど、人に安らぎを与えることに興味なんてなくて、襲いかかってくるスズメバチみたいな人だった。でも、本人にその気はなくても癒やされる瞬間もあった。


 非日常がすっかり日常になった頃、一次計画が実行された。60人は無作為に選ばれたと発表されたが、本当だったのかはわからない。けれど、シャトルが無事に宇宙に旅立っていく姿を見送れたことは、僕たちの自信を大きく回復させた。目標のひとつをクリアし、規模が大きくなった二次計画が発表されて人々の士気も上がっていった。


 なにがいいのかもわからないけれど、ただがむしゃらに取り組んでどこかに進んでいる感覚が僕らを支えた。


 まだ余裕があった頃だった。お互いの好みの話をしたことをアカネさんは覚えているんだろう。確かにお互いに好きのタイプではない。アカネさんは素直に間違いを認めないし、理屈で僕を言い負かそうとする。イライラしていれば理由を作って八つ当たりもする。状況を考えれば仕方がなかったけれど。


 最後の瞬間に一緒にいる相手は、好きになれる人がいい。だけど、実際には不安で心細くて、一人でなければ誰だって良かった。それはアカネさんも同じだったはずだ。誰でも良かったはずの相手がアカネさんだった僕は、幸運だったんだと思う。


「地球の欠片が残って、バクテリアがまた新しい進化を遂げるかもしれない」

「……来世の話ですか?」

「そう、ナズナくんとはちゃんと喧嘩したことないから」


 目を開けてアカネさんがこちらを見た。視界が揺らされて、意識して目を向けていなければ視線が合わない。


「バクテリアになってまで喧嘩したくないですよ」


 僕はいつも通りに答える。普段通りにしたいなら僕もそうするだけ。アカネさんは上機嫌を装って話を続けた。


「知的生命体になった後の話ね」

「あり得るかどうか……。気が遠くなる話ですね」


 アカネさんは僕の腕に頭をもたれさせた。揺れに逆らって頭を上げている状態が辛い。でも、少し落ち込んだようにも見えた。


「……まあ、ないよね」


 46億年で生まれた人類だけれど、また何十億年もかかれば太陽の寿命の方が尽きる。ハビタブルゾーンだった領域も膨張した太陽に飲み込まれて嫌気性のバクテリアも残らない。生命が知性を持ち得た経緯を考えてみても奇跡だ。言ったのはアカネさん自身だ。


「夢のない話です」

「生きていくためには夢も必要だろうけど」


 将来のない僕らにだって夢があってもいい。思ったけれど言わなかった。


「だけどね、わたしたちには絶望もないよ」

「はい」


 意味もわからないうちに応えていた。肯定したいと思った。夢や希望だけがないのはあんまりだと思ったから。夢はないけれど、絶望だってない。僕らを苛んでいた悲壮感も、じきに強い重力に引き延ばされ粉々に砕け散ってなくなるのだろう。


「アカネさん」

「……うん?」


 残された時間はあとわずかだ。一時間かもしれないし、3分かもしれない。だけど、まだ僕らには残りの一生がある。


「僕と最期まで一緒にいてくれますか?」


 日常であれば、プロポーズの言葉なんだと思う。非日常ならどんな意味になるんだろうか。ただ、僕はそのままの気持ちを言葉にした。


「……うん、わかった」


 アカネさんはゆっくりとこちらを向いた。僕にも気恥ずかしさなんてなかった。


「最期まで、大事にするよ」


 普通は逆だ。でも、その返答がアカネさんらしいと思う。

 アカネさんが微笑む。その眼から涙が頬へと伝い落ちた。照明が小刻みに明滅を繰り返し、重力が失われた。空間がひしゃげたのがわかった。絶対に離さない。僕がアカネさんの身体を抱き寄せた瞬間――。


 黄色い閃光と、涙がアカネさんの身体ごと蒸発して、僕は――。

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