不穏な予感
「出るなと言っておいて出た結果がそれだ」
ここが他人の家であることを、峰継は気にしている様子もない。
「この状況で出れば、襲われたいと言っているようなものだぞ」
佐奈井と香菜実は無事に帰ったが、わずかに傷ついた。峰継は息子を叱りつけているけれど、内心では申し訳なく思っているだろう。親らしく。
慶充は自分なりに、峰継の心の内はわかっているつもりだ。だから見守るだけで口を挟むことはしなかった。
佐奈井は、さっきの男のことを話すかと思った。だが当の佐奈井はおとなしく父の叱責を受けるだけで、自分から口を開こうとしない。当然、さっき会った
二人して、秘密をかばっているつもりだろうか。
いや、頼孝や
本当は、隠すほどのことではない。駿岳との関係は、少なくとも自分の中では、ほんの些細なことだ。
だが今は、駿岳のことはどうでもいい。再会したからといって、それだけで不利な状況に陥るわけでもない。
「慶充も、ありがとう。息子が助かった」
峰継に話しかけられて、慶充は我に返った。つい駿岳のことに心奪われて、ぼんやりとしてしまった。
「何もしていない」
武士の家に生まれたというのに、面目ない。
「兵が二人に乱暴しているところに、彼らの仲間が来て、止めてくれた。民への乱暴は禁じられていると言って」
「連中が危害を加えてくることはない、ということね」
園枝が口を挟む。小声だった。外にいるかもしれない織田の兵を気にしているのだろう。
「用心はしたほうがいいが、大規模な略奪はないだろうな」
違和感ならばある。戦に関わりのない民もたくさんいる一乗谷には火を放って、それでいてその他の土地の民には乱暴しない。
実際に谷の状況を目で見たわけではないので、詳細などわからないが、連中が谷に火を放ったというのは、朝倉義景を追い詰め、朝倉の時代が終わったことを示すためと思っていいのか。
「本当に連中が一乗谷に火を放ったとしても、乱暴をしないのには納得できる。この地を制圧できたとしても、民に反感を買われて一揆、なんてことになったら手間がかかる」
慶充の抱える疑念を見透かしたように、園枝は話す。
「加賀の一揆勢もまだ健在というからね」
「もし越前で一揆が起こって、加賀と結びついたりしたら、織田にとって無視できなくなる」
園枝と理世、この母子は意外と見聞が広い。
「こちらが何もしないうちは、相手も何もしないはず、でしょうね」
「あくまで、何もしなければ、だがな」
園枝の言葉を遮ったのは、頼孝だった。
「織田信長が長く軍をこの地に置くはずがない。今はここに何千の兵を置いているが、すぐに引き返していくに決まっている。浅井長政だけでなく、織田にとっての敵は、他にもたくさんあるからな。織田側についた朝倉の兵力も削がれている。そうだろう、慶充」
「ああ、近江の
慶充はすぐに答える。
「民が蜂起するとしたら、もってこいの状況だと思わないか」
頼孝の言葉に、慶充は不穏なものを感じたが、否定することもできなかった。一連の戦で越前の地に兵が残されているとすれば、
一揆が起こるとして、抑え込む兵力が不足している今なら、寄せ集めの民衆でも数で押し切れるだろう。
駿岳は、混乱はまだ続くと言いたいらしい。
慶充自身も予感は抱いている。
外で足音が聞こえた。甲冑の金属の音まで聞こえてくる。外に出た時、織田の兵が民家に出入りする場面を何度も見た。兵は民家で夜を明かすつもりらしい。
「……しばらくこの話はやめにしないか」
慶充は言い出した。
「こんな話を外にいる兵に聞かれたら、不穏な輩として怪しまれる」
「そうね、頼孝も、今後のことは落ち着いてから考えるべきでしょう」
その時、戸が叩かれた。
今の会話が聞かれたのか、と慶充は不安にかられる。だが今さら出ないわけにはいかない。
「佐奈井と香菜実は奥に離れていろ。何かしてくるのなら時間を稼ぐ」
二人が言われたとおり、戸から離れていく。
再び戸が叩かれた。
「早く開けないか」
外から苛立った男の声が聞こえた。慶充は、一瞬動きを止めた。知っている声だからだ。
――俺がまた怯えていたら、佐奈井や香菜実が心配する。
慶充が戸へと歩み寄っていき、そして戸を開けた。
いたのは、さっき会った男、駿岳だった。
「この家を宿とさせてもらいたい」
駿岳は口を開く。
「さっきは、佐奈井が助かった」
慶充はまず、礼を言う。
「構わない」
そして駿岳は、家の中に目を向けていた。
この家には、駿岳が知っているかもしれない者がもう一人いる。峰継だ。
三年前、美濃国の垂井で慶充が駿岳とその家族をかばっている時、その場に峰継もいた。現地の者の刃から慶充をかばい、一緒に逃げたのだ。駿岳は、峰継を覚えているかもしれないし、逆もあり得る。
「慶充、知り合いなのか」
頼孝が背後から声をかけてくる。
「そこで一悶着あってね」
駿岳が、代わりに問いに答える。
「我々が唐突にこの地に押し寄せ、驚かせたことは詫びる。佐奈井と、香菜実といったか、うちの者が手を出したのも。だが私は乱暴などしないし、今後の方針が決まればすぐに去る」
駿岳に何の意図があるのだろう。だが、今はそれを考える時ではない。
「いいか?」
家主の頼孝を振り返り、尋ねる。
「もちろん、路銀は払う。泊めるだけでいい」
駿岳が腰につけた袋から銭を持ち出した。
「いいでしょう、上がってください」
頼孝が促した。駿岳は家に上がり込む。そして銭を頼孝に手渡した。
「すぐ茶を用意します。佐奈井、水を頼む」
頼孝は言いつける。だが佐奈井は、すぐには動かなかった。さっきは助けてくれたとはいえ、敵をもてなすことに抵抗を感じているのだ。
だが佐奈井は立ち上がった。無言のまま、汲んできた水を貯めている甕のほうへと急ぐ。
慶充はほっとした。駿岳に敵意はないとはいえ、ここでさっきのように抵抗したら、香菜実や他の皆も巻き込んでしまう。
頼孝は茶を沸かし、湯呑に注いで、駿岳に差し出す。かたじけない、と言って、駿岳は茶に口をつけた。
「あえてこの家を選んだのか?」
慶充は尋ねる。
「そうしたほうが、お前たちのためにもなると思ったからだ」
歯に衣着せぬ言い方に、佐奈井はむっとした表情を浮かべている。
唐突に、戸が叩かれた。
香菜実が戸口に向かおうとする。だが、
「待って」
園枝が引き止めた。顔を引きつらせ、新たな訪問者を警戒している。
「いや、私が出る。その場にいたらいい」
駿岳が立ち上がった。
もう一度戸が叩かれる。駿岳は土間に下り、戸を開けた。
「何だ」
冷たく鋭い声を出す。外にいたのは、甲冑を着けたままの兵三人だ。
「宿を取りに来たのか」
「あ、ああ」
兵のうちの一人が、まごついた声を出す。
「あいにくだが、ここは手狭だ。これ以上は泊められない。他をあたってくれ」
「そんな、駿岳一人でか」
別の兵が不平を洩らす。
「代わりにここの者の誰かを、外に放り出せということか。子どももいるというのに。住民への乱暴は許さないという上様の命令に反しているようだが」
それならばただでは済まさない、という無言の脅しがあった。
「わかったよ。ケチな奴だな」
兵三人はその場を去っていった。駿岳は戸を閉め、囲炉裏のそばに戻ってくる。
「感謝しますよ」
園枝が声をかける。
「理世や香菜実がいるところに、大人数の兵が押しかけたら何をされるかわかったものじゃない」
「あんた自身は、どうなんだ?」
佐奈井が口を開いた。そして峰継に頭をはたかれる。
「泊めてくれるならば乱暴しない、と言ったはずだ」
叩かれた頭を押さえる佐奈井の様子に薄ら笑みを浮かべながら、駿岳は言う。
「むしろいてくれたほうが、こちらとしてはありがたい」
頼孝がつぶやく。
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