大事な人だからこそ

 佐奈井さないは、駿岳しゅんがくという男を見送っていた。謎めいた男だ。素性も明らかにしないまま離れていった。

 かといって佐奈井は、追いかける気にもならなかった。慶充よしみつに聞いたほうが早い。

「何だったの? あいつ」

 ずっと慕っていたのに、今はどうしても慶充を怪しんでしまう。滝のそばで刀の手ほどきをしながら、この人はどんな過去を隠してきた?

「もしかして、兄さん、いつか話してくれた人って、あの駿岳って人のこと?」

 香菜実かなみは何か知っているらしかった。

「ああ。確かに、あの男だ。こんなところで会うとは、本当に思わなかった」

 佐奈井は、慶充の様子に異変を感じていた。拳を固く握り、かすかに、その瞳を震わせている。何なのだろう。怯えている? いつも佐奈井の前では堂々としていて、弱気など微塵も感じさせなかった慶充が?

「どうしたんだよ、あの男が怖いのか」

 気になって、佐奈井はつぶやいた。慶充が驚いたように自分を見つめてきて、慌てて口をつぐむ。

「ごめん、別にからかっているつもりじゃないんだ」

「いや、佐奈井の言うとおりだから。俺はあの男に負い目がある」

 慶充の声に、冷静さが戻った。

「兄さん、また何か抱えている?」

 慶充は、妹の頭に手を載せた。

「お前にあの男のことを話したのは、単に自分への戒めだ。あの男は家族を守ろうとしていて、私はそれを助けようとした。……でも助けられなかった」

 聞いていて、佐奈井はわけがわからなくなっていた。

 佐奈井の戸惑いを見抜いたように、慶充が佐奈井を見つめた。

「たぶん佐奈井、お前の父親の峰継みねつぐさんと、あの駿岳は似ているかもしれない。こう言ったら、お前は腹を立てるかもしれないが」

 佐奈井は、首を横に振った。

 ちょっと、合点がいった。

 さっきの駿岳という男は、話しているうちに何となく、父の峰継に似た雰囲気を放っていた。

 過去に誰かを失ったけれど、別に守るべき誰かがいる、という雰囲気だ。

 峰継にとっての妻、佐奈井の母は死んだ。だが息子である佐奈井は生きている。失ったもののことに囚われてはいられない。だからその息子を守ろうと、父が日頃から必死なのは、ずっとそばにいる佐奈井自身がよくわかっていた。

 きっと、駿岳という男には息子か娘がいて、生きているのだろう。

「でもそれ、どういうこと? あいつの家族を助けられなかったって?」

 佐奈井は慶充に尋ねた。香菜実も事情を知っているみたいだし、答えてくれるだろうと思ったのだ。

 だが慶充は、

「長くなるし、佐奈井が知っておく必要はない」

 茶を濁してきた。

「……さて、そろそろ叱りつけないとな」

 慶充が急に声を低くしてきた。

「叱るって、何だよ」

 佐奈井は、肩口を乱暴に掴まれていた。

「うかつな動きをするな。勝手に家を出て、もう少し遅ければお前、斬られていたんだぞ」

 静かだが、厳しかった。一乗谷にある滝で刀の稽古をつけていた時も、こんな声を出したことはなかったのに。

 それだけ、自分は命の危険にさらされていた、ということだ。

「だって、町の様子が気になって……」

 家の中に引きこもっているのが落ち着かなかった。何千もの織田信長の軍勢が現れて、いつ家に火を放ってくるのか、家に兵が押し入って人を襲うか、佐奈井は考えるとたまらなくなって、外に飛び出したのだ。

「戦続きの兵がどれほど危険か、話したことがあるだろう。気が立っていて、わずかに刺激しただけですぐ刀を抜いてくる。香菜実まで巻き込んだこと、少しは反省しろ」

 最後の一言が、佐奈井にはきつく響いた。隣にいる香菜実を見つめる。

 父たちの目を盗んで家を出たものの、香菜実がそれに気づいてついてきた。自分が家でおとなしくしていれば、彼女も恐ろしい目には遭わなかっただろう。

「……ごめん」

「いいよ。あんなこと。私だって、あの兵からちゃんと距離を取っていなかったし」

 香菜実も落ち込んだ目をしている。佐奈井には、耐えきれなかった。

 と、慶充が佐奈井の右手を取った。

「湧水で洗ったほうがよさそうだな」

 慶充がつぶやき、佐奈井は握られている自分の手の平を見た。土汚れた擦り傷ができていて、見つけたとたんにひりひりとした痛みを感じる。

「さっき突き飛ばされた時のだろう。香菜実は、どこか痛めたところはあるか?」

「私は大丈夫」

「嘘だ。突き飛ばされて足をくじいただろう。立ち上がる時の動作がおかしかった」

 慶充に指摘されて、香菜実は黙っている。

 佐奈井は、さっき香菜実を立たせた時のことを思い出した。掴んでくる手にやけに力が入っていて、変だと思ったのだ。

「歩けるか?」

 佐奈井に言われるまま、香菜実は左足を一歩踏み出す。かすかに顔を歪めた。

 慶充が香菜実に手を差し伸べた。

「掴まって。湧水に浸して冷やすんだ」

 香菜実はおとなしく、慶充の手を取った。慶充がゆっくりと歩き出す。

 香菜実の足を引きずる様子に、佐奈井は胸が苦しくなるのを感じた。

 水が湧いている辺りにさしかかると、香菜実は履物を脱いで、ゆっくりとくじいた足を浸した。その隣で、佐奈井は手の平の擦り傷を洗う。まだ血のにじむ擦り傷を見て、佐奈井はため息をついた。

「もういいな」

 慶充が佐奈井の傷ついた手を取り、止血の布を巻き始めた。

 そこまでしなくていい、と佐奈井は言おうとしたが、慶充が口を開くのが先だった。

「これくらいはさせてくれ」

 さっきは慶充に迷惑をかけたばかりだというのに。

「二人とも最悪な事態に巻き込まれなくてよかった。すまないな、もう少し早く駆けつけていたらよかった。こんな痛い思いもせずに済んだのに」

 慶充が頭を下げる。慶充にとって、妹の香菜実だけでなく佐奈井も、大事な人として扱っている。だからこそ、こうして謝ってくるのだろう。

 佐奈井は戸惑った。

 慶充は、優しい。その優しさは妹である香菜実にすべてを向ければいいのに、佐奈井にすら、実の兄のように振る舞ってくる。どうしてなのだろう。

 三年前、峰継は戦場で慶充をかばい、足に傷を負った。それが後ろめたいのか。

 そのまま、佐奈井たちは帰ることになった。引き続き慶充が香菜実に手を貸し、佐奈井はその後に続いて頼孝の家へと向かっていく。

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