慶充の傷

 道のほとりに戻る。少し走っただけなのに、佐奈井さないは呼吸が荒くなっていた。

「兄さん、傷を見せて」

 香菜実かなみはすでに、抱えていた荷をほどいていた。止血用の布を出している。

「かすめただけだ。手当てするほどでは」

「お願い」

 香菜実が語気を強めた。気圧されて、慶充よしみつは腰を降ろし、肩の傷を出す。いまだに出血が続いていた。

「痛いけど我慢して」

 香菜実が傷口の止血を始めた。武家の娘で、傷を見ることが多いからか、やけに手馴れている。


 二人の様子を見ているのが、佐奈井にはつらかった。自分は慶充に戦う術を教えてもらいながら、あの場でまったく動くことができなかった。

「ごめん、俺、何もできずに」

 しかも香菜実まで巻き込むところだった。上手く動いていれば、慶充もこんな傷を負わずに済んだかもしれないのに。

 だが慶充は、手当てを受けながら笑った。

「自分を責めるな。殺気立つ敵を目の前にして、すぐ動けるはずがない。お前ぐらいの年ならなおさらだ。それより、すまなかったな。驚かせてしまって」

「いいよ。襲われていたんだし」

 つい強がっていた。本当は目の前で人が殺されるのを見るのは初めてで、手足がまだかすかに震えているのに。

「香菜実も、大丈夫だったか?」

「うん」

 香菜実は言って、そして止血の布を強く縛った。さすがに痛んだのか、慶充が短く音を洩らす。

「待たせてすまなかった。行く」

 慶充は立ち上がった。峰継みねつぐが、その手を引いて助ける。


「息子を助けてありがとう」

 峰継は慶充を立たせると、礼を言った。

「勝手に体が動いたまでだ」

 そのまま峰継と慶充は歩いていく。その後を香菜実はせかせかと続いた。

「どこか家があったら、そこで薬をもらうよ。縛っただけなんだから」

 香菜実は、後に佐奈井を残していることも気づかずにそんなことを言っている。

「香菜実、そこまでひどい傷か?」

「いいから、今は傷を癒すことを考えて」

 香菜実が口を尖らせる。

「香菜実は恐ろしいな。こんな時でもいつもと変わらない」

 慶充は笑ってみせる。傷を負ったことや、そもそも自分が殺されかけたことなど、気にしていない様子だった。戦場を潜り抜けてきたから、これくらいの傷を負うのはよくあることで、取るに足りないのだろう。

「佐奈井、どうした? ここでぐずぐずしていたら、さっきの連中の仲間が来る」

 峰継にせかされて、佐奈井はようやく歩き出した。三人に追いつくが、話しかけることもなく、その後も黙々と歩いていった。


 一刻くらいは歩いたかもしれない。いつ慶充の傷が悪化するか、と佐奈井も香菜実も心配していたが、彼は平然と歩き続けている。顔色も悪くなくて、決して無理をしているわけでもなさそうだ。

 だが歩いているうちに、佐奈井は別の不安にかられてきた。もう日が傾きかけている。

「父さん、今夜はどうするの? 日中に着けそうにないよ」

 野宿などすれば、それこそ賊の思う壺だ。夜闇に紛れて何をされるかわかったものではない。

「この先に村がある。そこで泊めてもらうしかないか」


 そうしているうちに、四人は村にさしかかった。一乗谷と比べれば規模はかなり小さいが、人も出歩いている。

 そうした人たちは、佐奈井たちに視線をよこしていた。何か訝むものでもあるらしい。

 また一乗谷から逃げてくる者が現れたから。何かよからぬことが起こっていると、暗に示しているようなものだ。


「香菜実、まさか本当に薬を求めるつもりではないだろうな」

 慶充が声をかける。冗談じゃない、やめてくれ、という心の内の声が、佐奈井にも聞こえるようだった。

「もちろんよ」

 香菜実はつぶやくと、自分一人先に出た。よせ、と慶充は声をかけるが、彼女は止まろうとしない。

「あの!」

 そうやって、道の先にいた人に声をかけた。女の人だ。

「あんたたち、一乗谷から来たのかい」

 女の人も声を飛ばしてくる。峰継と同い年くらいの人だ。佐奈井はつい、彼女に死んだ自分の母を重ねてしまった。

「はい。兄が傷を負って。薬をもらえませんか」

 知らぬ者を相手にしているのだが、香菜実は遠慮がなかった。

 女の人は慶充に目をやった。こうなったら、慶充は黙るしかない。

「話が聞きたい。急ぎでないなら私の家に来てくれる? 傷の手当ても考えるから」

 佐奈井は驚いた。まさか簡単に家に連れていかれるとは思わなかった。

「いいのかな」

 佐奈井は峰継を覗う。

「傷の薬をもらえるなら、それに越したことはないだろう。慶充もいいな」

「傷はひどくない。痛みも……」

「いつ悪化するかわからない。香菜実も何度も言っているだろう」

 峰継は遮った。そして峰継は、女の人に向かって手を上げた。

「助かる」

 峰継は声を上げ、歩き出した。香菜実や佐奈井も続くし、慶充も仕方がないとばかりに足を踏み出す。


 女の人の家は、佐奈井の家と同じくらいの大きさだった。佐奈井たちは中に通され、囲炉裏のそばに座らされる。

「傷を負ったのは、あんただけ?」

 女の人はそう、慶充に話しかける。

「慶充だ」

園枝そのえよ。ちょっと紹介が遅れたけど」

 園枝はそう、峰継にも目をやる。

「峰継だ。そこの二人は佐奈井と香菜実」

 園枝は隣同士で座る佐奈井と香菜実を見て、ちょっとばかり微笑んだ。

「よろしく。さて、慶充といったかしら。傷を見せて」

 慶充は真顔のままだが、素直に肩を出した。香菜実がとっさに慶充に近寄って、巻いている布をほどきにかかる。

 傷があらわになった。出血は止まっているが、かすかに腫れている。佐奈井は目を逸らした。

「深くはないけど油断してはいけない、といったところかしら。佐奈井、そこに酒があるから、取って」

 園枝はそう、板の間の奥に置かれた壺を指差す。佐奈井はそそくさとそれを手に持って、園枝のそばまで持っていった。

 園枝は酒を布に浸して、慶充の傷を拭い始めた。

 傷を清め終えると、薬を塗っていく。清潔な布を巻いて、傷の手当てはひととおり終わった。

「これで大丈夫だと思うけど、急に動かないことね」

 園枝は言った。

「恩に着る」

 慶充は着物を着直しながら、礼を言った。

「ありがとう、ございます」

 香菜実も頭を下げている。


「構わない。これくらい手馴れているわ。それより傷を作った原因を聞こうかしら」

「賊に襲われてな」

 峰継が代わりに説明した。

「ついさっき?」

「ああ。荷を狙って、いきなり切りかかってきた」

 峰継の言葉で、佐奈井はぞっとした。父と慶充が追い払ったからよかったものの、下手をすれば自分は、香菜実と一緒に縛られて知らぬ土地へ連れられていたのだ。

「賊にとっては、今は略奪にうってつけでしょうからね」

 園枝も、一乗谷の混乱に感づいているらしい。

「一乗谷の殿のことも知っているのか」

 峰継の問いかけに、園枝はうなずいた。

「家臣を連れて大野郡に向かう朝倉義景様を見た、って同郷の者が聞いている。私は実際に見たわけじゃないけど」

 やはり朝倉義景は、大野郡に向かって、そこで最後の抵抗をするつもりだ。

「それからね。あなたたちみたいに一乗谷から多くの人が逃げている。何かあったの?」

 これには、慶充が答えた。

「織田信長の軍勢が、いつ一乗谷に攻め入ってもおかしくない。皆、それを恐れて逃げている」

 そして織田信長の軍勢は、ここも通るかもしれない。家屋に放火をしてもおかしくない。

「ここに留まるほうが危険、ということね」

「できればあなたも、逃げたほうがいいと思われるが」

 峰継の言葉に、園枝はすぐにうなずいた。

「ええ、逃げるつもり。あの子が帰ってきたら」

「あの子って?」

 佐奈井が尋ねる。

「もうすぐ帰ってくるはず」

 表口で人の足音が聞こえた。

理世りせが帰ってきたみたい。私の娘よ」

 戸が開けられた。

「ただいま」

 娘の声が家の中に響いた。

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