谷の異変
朝、
父はいなかった。父の布団もたたまれて、板の間の隅に置かれている。
「父さん?」
囲炉裏のそばには、盆に載せられた粟飯と汁物が置かれていた。父が作って、置いていったらしい。まだ湯気を上げている。
佐奈井は布団をたたんで板の間の隅に置くと、朝餉を食べ始めた。朝早くから父が外出するのは珍しい。
谷に何かあったのだろうか。
佐奈井は急いで朝餉を食べ終えた。器を洗い、野良着に着替えると、外に飛び出す。
佐奈井は周囲を見渡すが、
家の近くの道を走ってくる者がいた。佐奈井の家の、田を挟んで向かいの家に住んでいる、
「敬之助さん」
佐奈井は急いで呼び止めた。
「おお、佐奈井か」
敬之助は足を止める。
「どうかしたの? 急いでどこかに向かっているみたいだけど」
「ああ、町のほうで何かがあったらしいからな。ちょっと様子見にだ」
「父さんも町に向かったのかな。起きた時から家にいなかったんだ」
「お前は来なくていい」
敬之助がぴしゃりと言ってくる。
「ここで家を守っていろ。後のことは親御さんが話してくるはずだ」
敬之助は佐奈井が何か言うより先に、再び駆け出した。
その場に残された佐奈井は、不満を抱えながら敬之助の背を見送っていた。父と同じだ。何かがあると知っていながら、自分には隠そうとしてくる。
敬之助の姿が見えなくなると、佐奈井は家から離れた。知っている人はいないのか、と田のあぜ道を歩き始める。敬之助には妻と、佐奈井と同い年になる息子がいる。会って、親は何か話したか聞き出してみようか。
だがこちらに向かって走ってくる者を見つけた。
彼の姿を見つけて、不思議に思った。人目につく場所で、慶充が佐奈井に会いにくることはまずない。家の用事で来るとしても、このような町から大きく外れた、田しかない場所に来るのはおかしいのではないか。
「佐奈井」
そうこうしているうちに、慶充が自分を見つけ、声をかけてきた。やはり自分に用があったのだ。
「どうしたんだよ。こんなところで……」
佐奈井は言うのを止めて、周囲に目をやる。武士を相手にこんな話し方をしているところを聞かれたら、後がまずくなる。
「お前のところはどうだ? 何か動きはあったか」
慶充は構わず佐奈井に話しかける。明らかに、周囲の人の目を気にしていなかった。
それに、呼吸が荒い。
「いいや、さっき目が覚めたばっかりだし」
何かあったのか。
「お前の父親は何も話していないのだな」
「起きた時からいなかったんだから。どこに行ったかもわからないし。それにここらの人たちも見当たらない。さっき近くに住んでる人が通りがかったけど、すぐどこかに行ってしまった。慶充は何か知っているのか」
武士の家の者だ。朝倉の軍勢のことなど、少しは知っているだろう。
「状況が急に変わったんだ」
慶充が険しい顔のまま、話し始めた。
「
「どういうこと?」
「南で戦に負けた、ということだよ。それに同行した兵たちも戻ってきていない」
「そんな、近江に向かった軍隊には慶充の兄や父親も同行しているって」
無事なのかよ、と言おうとしたところで、慶充に口を塞がれていた。
「父上や兄上たちも気がかりだが、今はそれどころじゃない」
慶充は冷静に言っているが、苦々しいその顔は、焦る気持ちを押さえている。
「谷を出る時は万に近かった数の兵なのに、谷に現れた殿に同行していたのは十人にも満たなかった。かなりの大敗らしい」
そして、慶充は佐奈井の口から手を離す。
佐奈井は、昨晩見かけた兵たちを思い出した。傷つき、疲れ果てた様子の者たち。
慶充の言うことが正しいのならば、あれが朝倉義景ということか。土汚れた鎧を身にまとっていたから、本人だと気づけなかった。
「それで、敵はどうしているって?」
「わからない。どこまで進軍してきているのかも。最も敵の動きを知っている殿も、行方をくらませてしまったからな」
でも谷から逃げ出してしまったということは。
「もう、楽観できる状況じゃない」
この谷に、敵が押し寄せてくるということか。
織田の軍勢がどれほど容赦をしないかは、佐奈井も噂で聞いている。手が震え始めた。
その手を、慶充が掴んだ。
「とにかく、お前も父親に会ったほうがいい。これから先、何が起こるかわからない。情報は少しでも多く仕入れておくべきだから」
慶充は佐奈井の手を握ったまま、立たせた。
「お前の父親は、町のほうに向かったのかもしれない。そこに向かうぞ」
「香菜実は? 今どうしている?」
「屋敷にいる」
「もし谷に何かあったとしたら、慶充はどうするつもりだよ」
「何とかする。お前もそうだが、彼女に傷一つつけはしない」
強気でいる。
二人で歩いているうちに、町屋が建ち並ぶ一帯の先に城戸が見えてきた。土塁や、山腹に立つ砦が見えてくる。
「慶充は、本当に谷が襲われると思っているの?」
「楽観はできないと言っただろう」
「谷にも兵が残っているんだろう」
慶充は足を止めた。佐奈井をじっと見つめる。
「何を言っているんだ? その兵たちなら、大勢がとっくに逃げ出したぞ」
佐奈井はきょとんとした。
「多くの兵力が近江への戦で出払った。それが壊滅状態になって、殿だけ戻ったとあれば、ここに残った兵が恐れをなして逃げ出しても不自然じゃない」
言われてやっと、佐奈井は、気づいた。土塁や砦は無人だ。監視の目を光らせているはずの兵が、いない。
「じゃあ、殿はどうなるんだ?」
朝倉義景は、どこかで軍を立て直すつもりだろうか。
「もう終わりだ。逃げたが、先は短いだろう。最近だと、殿に離反して織田の軍勢に逃げ込む家臣が多い。殿に忠誠を誓っている者は少ないからな」
織田の軍勢の勢いに恐れをなして、ということなのか。
「そもそも今回、朝倉義景様自らが兵を出したのは、
景鏡や魚住景固、いずれも朝倉の重要な家臣だ。しかも景鏡は、朝倉義景と従兄弟にあたる。あんな側近が裏切りを企んでいるとでもいうのだろうか。
佐奈井は、足を止めていた。
佐奈井の気配が離れていくのに気づいて、前を歩いていた慶充も足を止めた。こちらを振り返ってくる。
「すまないな。こんな恐ろしい話」
慶充が謝りながら、佐奈井のほうへ引き返してきた。励ますように、そっと背中を押してくる。
「いいよ、事実だから」
歩きながら、佐奈井は強がっていた。
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