谷の異変

 朝、佐奈井さないは目を覚ます。だいぶ明るくなっていた。蝉の音も家の中まで聞こえてくる。少し寝すぎたのかもしれない。佐奈井は大きく伸びをして、隣を見た。

 父はいなかった。父の布団もたたまれて、板の間の隅に置かれている。

「父さん?」

 囲炉裏のそばには、盆に載せられた粟飯と汁物が置かれていた。父が作って、置いていったらしい。まだ湯気を上げている。

 佐奈井は布団をたたんで板の間の隅に置くと、朝餉を食べ始めた。朝早くから父が外出するのは珍しい。

 谷に何かあったのだろうか。

 佐奈井は急いで朝餉を食べ終えた。器を洗い、野良着に着替えると、外に飛び出す。


 佐奈井は周囲を見渡すが、峰継みねつぐの姿は見当たらなかった。それどころか、朝なのに出歩いている人も見当たらない。しかし、谷の中心部、朝倉義景の館がある辺りから喧噪が響いていた。騒ぎが起こっているらしい。不自然だ。

 家の近くの道を走ってくる者がいた。佐奈井の家の、田を挟んで向かいの家に住んでいる、敬之助けいのすけという男だ。

「敬之助さん」

 佐奈井は急いで呼び止めた。

「おお、佐奈井か」

 敬之助は足を止める。

「どうかしたの? 急いでどこかに向かっているみたいだけど」

「ああ、町のほうで何かがあったらしいからな。ちょっと様子見にだ」

「父さんも町に向かったのかな。起きた時から家にいなかったんだ」

「お前は来なくていい」

 敬之助がぴしゃりと言ってくる。

「ここで家を守っていろ。後のことは親御さんが話してくるはずだ」

 敬之助は佐奈井が何か言うより先に、再び駆け出した。


 その場に残された佐奈井は、不満を抱えながら敬之助の背を見送っていた。父と同じだ。何かがあると知っていながら、自分には隠そうとしてくる。

 敬之助の姿が見えなくなると、佐奈井は家から離れた。知っている人はいないのか、と田のあぜ道を歩き始める。敬之助には妻と、佐奈井と同い年になる息子がいる。会って、親は何か話したか聞き出してみようか。


 だがこちらに向かって走ってくる者を見つけた。慶充よしみつだ。

 彼の姿を見つけて、不思議に思った。人目につく場所で、慶充が佐奈井に会いにくることはまずない。家の用事で来るとしても、このような町から大きく外れた、田しかない場所に来るのはおかしいのではないか。

「佐奈井」

 そうこうしているうちに、慶充が自分を見つけ、声をかけてきた。やはり自分に用があったのだ。

「どうしたんだよ。こんなところで……」

 佐奈井は言うのを止めて、周囲に目をやる。武士を相手にこんな話し方をしているところを聞かれたら、後がまずくなる。

「お前のところはどうだ? 何か動きはあったか」

 慶充は構わず佐奈井に話しかける。明らかに、周囲の人の目を気にしていなかった。

 それに、呼吸が荒い。

「いいや、さっき目が覚めたばっかりだし」

 何かあったのか。

「お前の父親は何も話していないのだな」

「起きた時からいなかったんだから。どこに行ったかもわからないし。それにここらの人たちも見当たらない。さっき近くに住んでる人が通りがかったけど、すぐどこかに行ってしまった。慶充は何か知っているのか」

 武士の家の者だ。朝倉の軍勢のことなど、少しは知っているだろう。


「状況が急に変わったんだ」

 慶充が険しい顔のまま、話し始めた。

朝倉義景あさくらよしかげ様が昨晩谷に引き返してきて、今朝方行方をくらませた。今は琵琶湖の畔で、織田の軍勢と相対しているはずなのに」

「どういうこと?」

「南で戦に負けた、ということだよ。それに同行した兵たちも戻ってきていない」

「そんな、近江に向かった軍隊には慶充の兄や父親も同行しているって」

 無事なのかよ、と言おうとしたところで、慶充に口を塞がれていた。

「父上や兄上たちも気がかりだが、今はそれどころじゃない」

 慶充は冷静に言っているが、苦々しいその顔は、焦る気持ちを押さえている。

「谷を出る時は万に近かった数の兵なのに、谷に現れた殿に同行していたのは十人にも満たなかった。かなりの大敗らしい」

 そして、慶充は佐奈井の口から手を離す。

 佐奈井は、昨晩見かけた兵たちを思い出した。傷つき、疲れ果てた様子の者たち。

 慶充の言うことが正しいのならば、あれが朝倉義景ということか。土汚れた鎧を身にまとっていたから、本人だと気づけなかった。

「それで、敵はどうしているって?」

「わからない。どこまで進軍してきているのかも。最も敵の動きを知っている殿も、行方をくらませてしまったからな」

 でも谷から逃げ出してしまったということは。

「もう、楽観できる状況じゃない」

 この谷に、敵が押し寄せてくるということか。

 織田の軍勢がどれほど容赦をしないかは、佐奈井も噂で聞いている。手が震え始めた。

 その手を、慶充が掴んだ。


「とにかく、お前も父親に会ったほうがいい。これから先、何が起こるかわからない。情報は少しでも多く仕入れておくべきだから」

 慶充は佐奈井の手を握ったまま、立たせた。

「お前の父親は、町のほうに向かったのかもしれない。そこに向かうぞ」

「香菜実は? 今どうしている?」

「屋敷にいる」

「もし谷に何かあったとしたら、慶充はどうするつもりだよ」

「何とかする。お前もそうだが、彼女に傷一つつけはしない」

 強気でいる。


 二人で歩いているうちに、町屋が建ち並ぶ一帯の先に城戸が見えてきた。土塁や、山腹に立つ砦が見えてくる。

「慶充は、本当に谷が襲われると思っているの?」

「楽観はできないと言っただろう」

「谷にも兵が残っているんだろう」

 慶充は足を止めた。佐奈井をじっと見つめる。

「何を言っているんだ? その兵たちなら、大勢がとっくに逃げ出したぞ」

 佐奈井はきょとんとした。

「多くの兵力が近江への戦で出払った。それが壊滅状態になって、殿だけ戻ったとあれば、ここに残った兵が恐れをなして逃げ出しても不自然じゃない」

 

 言われてやっと、佐奈井は、気づいた。土塁や砦は無人だ。監視の目を光らせているはずの兵が、いない。

「じゃあ、殿はどうなるんだ?」

 朝倉義景は、どこかで軍を立て直すつもりだろうか。

「もう終わりだ。逃げたが、先は短いだろう。最近だと、殿に離反して織田の軍勢に逃げ込む家臣が多い。殿に忠誠を誓っている者は少ないからな」

 織田の軍勢の勢いに恐れをなして、ということなのか。

「そもそも今回、朝倉義景様自らが兵を出したのは、朝倉景鏡あさくらかげあきら魚住景固うおずみかげかたといった家臣たちが出陣を拒んだからだ。兵の疲労を癒すためと言っているが、何か裏があるとしか思えない」

 景鏡や魚住景固、いずれも朝倉の重要な家臣だ。しかも景鏡は、朝倉義景と従兄弟にあたる。あんな側近が裏切りを企んでいるとでもいうのだろうか。

 佐奈井は、足を止めていた。


 佐奈井の気配が離れていくのに気づいて、前を歩いていた慶充も足を止めた。こちらを振り返ってくる。

「すまないな。こんな恐ろしい話」

 慶充が謝りながら、佐奈井のほうへ引き返してきた。励ますように、そっと背中を押してくる。

「いいよ、事実だから」

 歩きながら、佐奈井は強がっていた。

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