一乗谷の滝

 ――天正元年(西暦一五七三年)八月

 ――越前、一乗谷、朝倉義景の統治する地。

 藍色の野良着をまとった少年は、稲の葉を撫でた。稲は少年の腹ほどの丈があって、鋭い深緑の葉を空に伸ばしている。無事に収穫を迎えられそうで、少年は微笑んだ。

「おい、佐奈井さない

 父の峰継みねつぐに呼ばれて、少年は振り返る。

「そっちはどうだ?」

「草刈り、終わったよ」

 返事をして、佐奈井は袖で汗を拭う。

「こっちに来い」

 峰継に呼ばれて、佐奈井は稲を掻き分けながら歩き出した。田から出ると、峰継は息子の着物に着いた草のくずや土を払い落していく。

「病気の稲はなかったか」

 峰継は佐奈井の背中をはたきながら尋ねる。

「うん」

「汗がすごいな」

 この間は大雨が降って、今も谷は曇りがかっている。陽射しの強い時と比べればましだが、かといって暑いことには変わりない。むしろ湿気のせいで、汗がなかなか乾かなかった。

「もういいだろう。休め」

 父に連れられるまま、佐奈井は木の陰に腰を降ろした。谷を吹き抜ける風が田の稲を揺らし、佐奈井の頬や髪を撫でた。涼しくて、佐奈井はほっと一息つく。


「食べたらいい。町で買ってきた」

 峰継が懐から笹の葉にくるまれたものを取り出した。佐奈井は受け取って、包みをほどく。中から一つの団子が出てきた。小さいし、古びていて、見た目からして固そうだった。

「父さんの分は?」

「腹は空いていない」

 峰継は素っ気なく言い、佐奈井の隣に腰を降ろした。

 後ろめたくて、佐奈井はもらった団子を食べることができなかった。日々、食べる物も不足していて、父も苦労しているのはわかっている。菓子の団子一つ買ってもらうのは、久しぶりだ。

「どうした? 早く食え」

 峰継が笑ってくる。

「俺も腹なんて減っていない」

 佐奈井がつぶやくと、こつん、と峰継が頭を叩いてきた。

「強がるな。それはお前の分だ」

 ……父さんだって強がっているくせに。

 佐奈井は心の内で文句をぶつけるが、父の目の前で吐ける言葉ではなかった。団子を手に取って、口に含める。

 見た目どおり固いが、おいしかった。

「ごちそうさま」

「それでいい」

 峰継は微笑んだ。佐奈井は横を向き、父のその顔を見上げた。

 最近の父は、今までと変わっている。


「父さん、最近優しいな」

「うん?」

 かつて峰継は、足軽として戦場を駆けまわったという。三年前に足を負傷したため、戦場にいられなくなり、こうして田を借りて佐奈井と耕すようになった。

佐奈井は日頃から、父がまわりの農民たちと違う雰囲気を漂わせていることに気づいていた。妙なまでに落ち着いていて、滅多なことでは取り乱さない。

「町を出歩いていたのも、職人に直してもらった鍬を受け取るためだけじゃなかったんだろ」

 ここ、一乗谷を統べている朝倉義景が、谷を発ってから一カ月近くになる。北近江に兵を出した織田信長の討伐、及び攻め込まれた浅井長政の援助が目的だ。また戦か、と佐奈井は愚痴をこぼしたものだ。

 長年、織田信長の勢力と戦をするために戦費がかさんでいる。昨年に収穫した稲も、兵糧の確保のためなどと言われて多くが取り上げられていた。自分たちの食料の確保が難しいのもそのためだ。戦で父が傷ついた佐奈井には、嫌になる状況だった。いつまで続くのか。

 多くの家臣や兵が出払ってからというもの、父は田での仕事をこなしつつ、朝倉の館付近といった、谷で多くの人や情報が行き交う一帯に出かける。

 まるで何か不安を抱えているように。


 どこかにでかけた峰継は、時々さっきのように、土産物を佐奈井に渡してくる。まだ十二歳で、ほんの子どもにすぎない佐奈井にとっては、それは素直に嬉しいが、父が不安を隠そうとしているのが何となくでも気づいていた。

「殿が戦に出ていって、何か気がかりなことでもあるのか」

 谷の外からは、不穏な情報がもたらされることが稀にある。南での頻繁な戦や、それに伴って多くの人が食料や命を奪われること。最近では、織田の軍勢によって京の都付近の比叡山が焼き討ちされて、女子どもも含め多くの者が殺されたという。

 だが一乗谷やその付近では、戦など起こったことがない。町に出ていけば甲冑をまとった武士を見かけることはあるが、戦の影はそれくらいだ。佐奈井にとって、討ち取られる兵の悲鳴は聞いたことがないし、家や城に火を放つ兵もまた、見たことがなかった。

 もちろん、ここ越前の一乗谷は、近江と違って京の都と各地を結ぶ要衝からは程遠い。一乗谷が平和を保っているのは、たまたま戦地から外れているからという事情がある。だが、子どもの佐奈井にそのような難しいことはわからなかった。

「なぜお前がそんな心配をする?」

 峰継の声が低くなる。叱りつける時の話し方をされて、佐奈井は背筋に冷たいものがよぎった。

 だが峰継は、一つため息をついて、立ち上がった。

「今日はもう、好きにすごしたらいい」

 峰継は言って、家のほうへと歩き出す。

「日没までには家に戻れよ」

 峰継は歩きながら、取ってつけたように言った。

「ああ」

 残された佐奈井は、今さら父の背中を追いかける気にもなれなかった。

 ……それよりも

 ある人に会う用事を思い出した。佐奈井は立ち上がって、暑い日差しの中へと足を踏み出す。


 佐奈井は川に足を踏み入れて、着物が濡れるのも気にせずに頭から水をかぶる。大きく頭を振って水気を払った。

谷のさらに奥から流れくる清水は冷たくて、暑さにほてった体には心地いい。田で体に付いた泥も一気に洗い落とされていく。

できればこのまま水浴びをしていたいが、佐奈井は川から出た。

人目を気にしながら、川に沿って上流へと歩を進めていく。

やがて佐奈井は、田や民家が建ち並ぶ一帯から外れ、森の中へと入っていった。

 一人ではあるが、心細さはない。軽い足取りで、獣道を遮る倒木を踏み越えていく。歩き慣れた森だし、木々の影や川の飛沫のおかげで涼しい。川から離れなければ、まず道に迷ったりすることもなかった。

 谷の人たちは、日頃から自分が一人でここを歩いているのを知らないだろう。父もあまり強く詮索してはこない。秘密を独り占めしているみたいで、佐奈井にとっては楽しくもあった。

 やがて川と森の奥から滝の流れ落ちる音が聞こえるようになった。この先に自分を待っている人がいるはずだ。佐奈井は足を速めた。

 滝の轟音に混じって、何かが空を切る鋭い音まで聞こえてくる。

 進んでいるうちに、滝が見えてきた。そしてその滝に向かって、木刀を振っている者がいる。

「おーい、慶充よしみつ

 佐奈井がその背に向かって声を上げた。慶充は木刀を振り下ろすと、後ろを振り返った。栗色の瞳が佐奈井を見つめる。

 慶充の紺色の着物は、若干汗に濡れてはいるものの、破れ目は一個所もない。武士らしく小奇麗な袴も身に着けていた。

「よく来たな」

 野良仕事を終えたばかりの佐奈井の着物は泥に汚れ、擦れている箇所もある。

着ている物からして、明らかに二人の間には身分の差があった。おまけに慶充は十七歳で、佐奈井よりもずっと年上だ。だが慶充は、そんなことなど気にする様子もなく佐奈井を迎えた。佐奈井も構わずに彼に近づいていく。

「髪が濡れている。水浴びでもしたのか」

「やっと仕事が終わったから、ちょっとね」

 自分よりも頭一つ分背の高い慶充の顔を見上げながら、佐奈井は答える。

「また、やりたいのか?」

 慶充のそばに立つ木には、もう一本の木刀が立てかけられている。佐奈井はそれを見ると、こくりとうなずいた。

 佐奈井もまた、木刀を手に持つ。慶充がすでに木刀の切っ先を自分に向けているのを見て、佐奈井も教わったとおりの動作で木刀の切っ先を慶充に向ける。すっかりと馴染んだ動作だ。

「じゃあ、いくぞ」

 慶充がゆっくりと間合いを詰めてきた。佐奈井は後ずさりしたくなるが、あえて前に足を踏み出す。やがて互いの切っ先が触れた。

 慶充が打ちかかってきた。佐奈井は半身を切って避ける。身を翻して慶充に攻撃を加えた。慶充は木刀で受け止め、周囲に乾いた音が響き渡る。

 佐奈井の手に痺れが走った。痛む手であえて次の手を繰り出し、慶充と鍔迫り合いになる。

 滝からの涼しい風が、二人の髪や着物を揺らした。

 佐奈井と慶充、農民の子と元服して年数がたつ武士。身分に差がある二人が、こうして木刀で叩き合っている。

田畑を耕すのが本来の仕事である佐奈井にとっては、こうして剣術を習うのは無意味なのかもしれない。だが、慶充に相手にしてもらえることが、佐奈井にとって単純に楽しかった。本物の刀に触れさせてもらうことはないけれど、手合わせをするほど、木刀が思いどおりの太刀筋を描くのがわかる。

 ーー何より、相手が本気だから。


 佐奈井は間合いを取ると、袈裟切りを仕掛けた。

 慶充は澄ました顔で受け止めた。押し返し、佐奈井がよろめいたところへ、思いっきり木刀を振り上げる。

 折れんばかりの音が響いて、佐奈井の手から木刀が飛んだ。武器を失った佐奈井は、それでも慶充の二の腕と喉元に掴みかかる。だが、慶充の体は重く、動かなかった。逆に足元を蹴り払われて、佐奈井はもろに地面に倒れた。

 柔らかい地面の上だし、受け身も慶充に仕込まれているから、痛みはない。

「負けたよ」

 佐奈井は横になったまま素直に認めた。慶充は木刀から片手を放し、佐奈井の手を掴んで立ち上がらせる。

「攻めを焦りすぎだ」

 慶充は言いながら、佐奈井の背についた土を払いにかかる。淡々とした物言いとは裏腹に、その手にはいたわりがあった。

「……うん」

「もっと間合いや守りも考えろ」

 そして慶充は、こらえきれなくなってか笑みを漏らした。

「なんて、本当は厳しくする義理なんてないんだけどな」

「いや、あるよ」

 佐奈井は文句をぶつけた。なぜ、と問われれば、佐奈井自身も答に困ったかもしれない。けれど、まっすぐに慶充の目を見つめる。

「そうだよな。根性だけなら、お前は道場の下手な輩は上回っている」

「それ、褒めているんだかわからないんだけど」

「褒めているんだ。意地っ張りなところは、会った時と変わらない」


 佐奈井と慶充が今の関係になったのは、二年前のこと。ちょうど今みたいな夏の時期だった。

 かつての足軽だった峰継が、戦での負傷ゆえに落ちぶれて、今は田畑を借りて耕す身分になっている。谷の武士たちにとって峰継は、鬱憤をぶつけるには恰好の相手だった。

 そして目をつけられるのは、息子の佐奈井とて同じだった。むしろ子どもで、大して抵抗できないからかもしれない。佐奈井のほうが、峰継よりも露骨に乱暴な目に遭った。

 道場からの帰りで、わざわざ道草を食って町ではなく佐奈井の家がある辺りまで来た武士の子たち三人に、佐奈井は捕まったことがある。親から聞いたらしい、峰継の話を持ち出して侮辱しては、佐奈井に掴みかかって乱暴を始めた。

 だが佐奈井は、抵抗をこらえた。乱暴されたとはいえ、武士の子相手に殴りかかったりするわけにはいかない。峰継も含めて後で咎めを受けるのは、子どもでもわかっていたからだ。ただ、馬乗りにされ、殴られる痛みに耐えながら、終わるのをじっと待っていた。


 その時に現れたのが、慶充だった。

 相手の数にひるむことなく、慶充は佐奈井に馬乗りになっていた少年に掴みかかっては投げ飛ばした。こいつ、と後ろから掴みかかった仲間を背負い投げ、残った一人は目で威嚇して制した。

 佐奈井に乱暴を働いた三人だが、そそくさと逃げていった。後で知ったことだが、あの三人は道場でも格下の腕前で、当時から常に上位の腕を持っていた慶充には束になってかかっても勝てないほどだったらしい。

 助けられた佐奈井は慶充に川へ連れていかれた。慶充は佐奈井の傷を洗い、濡らした布で痣を冷やしながら、問い詰めてきた。

父も含めて侮辱され、乱暴されたのになぜ抵抗しなかったのかと。殴りかかって咎めを受けるのが恐ろしかったことを話すと、真顔だった慶充は笑顔を浮かべた。佐奈井の肩を軽く叩いては、父親思いを褒め、そしてこう言うのだった。

 ――気に入った。


「そういえばお前の父上、まだ健在なんだよな」

 佐奈井が思い出に浸っているのを見透かしたように、慶充は尋ねてきた。

「ああ、元気でやっている」

 父が負傷した時のことは、よく覚えている。戦地から帰った父の足の傷を見て、佐奈井は当初、取り乱した。

幸い傷は生死に関わるほどではなかったが、父と同じ足軽連中に蔑まれもした。だが谷のために戦った父のことは、佐奈井にとっては誇りではあっても不名誉とは思っていない。落ちぶれたことに腐ることなく、父は幼かった自分を抱えて生き延びたのだから。

「最近何か話したりしなかったか? 谷の外のこととか」

「いいや、でもしょっちゅう町に出ている。噂話を聞いてまわっているみたい」

「そうか。いや、ちょっと聞いてみたかっただけだ」

 戦に発った朝倉義景らのことを気にしているのだろうか。父親も進軍に同行していて、慶充も心配しているのかもしれない。

「あと元足軽だったっていうけど、剣術のこととか、教えたりはしないんだな。佐奈井に」

 刀の構えも、振りも、戦う術はすべて慶充に教えてもらった。峰継には、田の耕し方や病気の稲の見分け方くらいしか教わっていない。

「戦に出たりすることはないから、だって。俺をそんなことに巻き込みたくないんだよ」

 慶充は、無言だった。何気なさげに滝を見つめるその横顔は、難しいことを考えているみたいだ。気に障ることを言ったのではないかと、佐奈井は不安になってきた。

 慶充は、しかし唐突にこちらを見た。口元を緩ませている。

「休んだことだし、もう一本やるか」

 それで、佐奈井の懸念も飛んでいった。

「うん」

 目を輝かせてうなずく。佐奈井は立ち上がり、刀を構えた。

 佐奈井は一気に間合いを詰めて木刀を振り下ろす。乾いた音が響き、佐奈井の手に再び、心地いい痺れが走った。慶充が刀を振り降ろし、返す刀で振り上げる。佐奈井は、今度は上手くかわした。澄ました顔の慶充が、口元を緩ませる。

 一合、二合と二人は刃を交えていく。先ほどはあっけなく刀を飛ばされて敗北した佐奈井だが、もうそのようなこともなかった。切り合いを続けるほど、手に痺れが走るほど、心地いい喜びが湧き上がってくる。

 慶充が本気を出すようになったのはいつからだろう。最初、慶充の打ち込みは甘くて、今のように手に痺れが走るほどではなかった。木刀を叩き合う音も鈍かったし、手加減をしているのは、佐奈井にもよくわかっていた。

 だってそうだ。慶充の体格は佐奈井より格段に大きい。同い年の武士三人を相手にしても簡単にあしらえるほどの力の持ち主であり、道場でも常に上位の腕前を持つのならば、佐奈井が互角に競えるはずがない。いつまでも手を抜いてくるのが悔しくて、佐奈井は慶充に気持ちをぶつけたこともある。

 また鍔迫り合いになった。

「上達はしたな」

 手合せの時は普段しゃべらない慶充が口を開いた。

「どうも」

 佐奈井は応じるやいなや、慶充の木刀から攻撃の気配を感じた。後ろに下がる。だが慶充がさらに間を詰めてきた。

「後ろに下がるなと言っているだろう」

 慶充の言葉で佐奈井は我に返った。繰り出された木刀を受け止め、横振りを仕掛ける。

 木刀の先が、慶充の着物をかすめた。

 慶充は構わず木刀を振り上げる。

 振り降ろされるよりも先に、佐奈井が慶充の後ろにまわり込んでいた。慶充のがら空きになった喉元目がけて木刀を振りかざし、触れる寸でのところで止めた。

「今回は、お前の勝ちだな」

 佐奈井は木刀を下げた。

「刀を寸止めしたのは、俺の真似か」

「まあ半分、そんなところ」

「懐かしいな。俺がそれをやった時、以前のお前、怒ったな」

「ああ」

 ――何で止めるんだよ。

 負けが悔しくて、やけくそで言い放った言葉だ。いっそのこと思い切り振り抜けばよかったではないか。

 その時の自分は、強がりながら、たぶん怯えた顔をしていたと思う。

「同じことを聞いていいか? 佐奈井、なぜ止めた」

 ――それで腕を痛めたりしたら、田を耕せなくなるだろう。

 かつて慶充は、佐奈井の問いにそう答えた。

「怪我させたくない」

「俺だったら、いつぞやの稽古で痛めた、ということで理由が立つが。現に肩が今、こんな状態だ」

 慶充は、袖口から肩を見せた。あらわになった青い痣が痛々しくて、佐奈井は動揺した。

「どうしたんだよ、それ」

「稽古で痛めた、と言っているだろう。この程度の痣、俺ならもう一つや二つ増えても問題ないんだ。本気でかかってきてもいいんだぞ」

慶充は、前も腕に痣を作っていたはずだ。それほど激しい稽古をしているのか。

「それでもだよ。痛めつけたくない」

「本当に腕を上げたんだな」

 慶充の言葉に、佐奈井は微笑んだ。

 その時、がさりと音がした。佐奈井と慶充はとっさに音のしたほうに目を向ける。

 いたのは、香菜実かなみだった。慶充の妹で、年は佐奈井と同じくらいだ。兄と同じく栗色の瞳をしているが、彼女は髪まで栗色だった。慶充によると、亡くなった母を継いでいるらしい。

「いつから見ていたんだ?」

 慶充が呆れながら尋ねる。香菜実は立ち上がってその姿をさらした。

「ちょっと前から」

 佐奈井は、その場に立ったまま香菜実を見つめる。何か言いたそうにしているのが、佐奈井には気になった。

「佐奈井をつけてきたのか」

「ええ」

 いつの間に、と佐奈井はつぶやきかけた。

「食べ物を持ってきたのなら、ありがたくいただく。ちょうど動いて腹が減っていたんだ。佐奈井にも分けてやれ」

「また冗談を言う」

 香菜実が笑顔を浮かべた。

 香菜実に佐奈井と慶充の関係が知られたのは、半年も前のことだ。暇を見てはどこかへ出かける慶充の行動を怪しんでいたらしい。滅多に人の寄りつかぬ滝へ向かう兄の足取りをこっそりとつけていた。

そしてその兄が、農民の子の佐奈井に刀を教えている現場を見た。

「もともと私も、小さい頃からよくここに来ていたんだし」

 佐奈井は、初めて彼女に会った時のことを思い出す。普段は人も立ち寄らぬこの滝に、ひょっこりと現れた。ちょうど慶充と手合せをしていた佐奈井は、あまりの唐突さに木刀を持つ手を止めてしまい、こつんと慶充に木刀で頭を叩かれたものだ。

 佐奈井が武士と会って、しかも木刀で叩き合っている。それを香菜実に見られた。この話が広まって、誰にどのようなお叱りを受けるのだろう、とびくびくした。だが香菜実は、二人の様子をたまに見にくることはあっても、誰かに話したりすることはしない。

 むしろ楽しそうに見つめてくる。

「楽しそうね、兄さん」

 香菜実は無表情のまま言う。

「ああ、随分と立派な弟子になったからな、こいつは」

 弟子、しかも立派と言われて、佐奈井も口元が緩んだ。

「で、佐奈井、どうしたんだ? 香菜実の前で黙り込んで」

「べ、別に、急に現れたから」

 香菜実の前となると、少し緊張する。今までは慶充と二人だけだったのに、一人加わり、見られることに、わずかだが不安がよぎるのだった。しかも、相手は慶充の妹とはいえ、武士の家の者だ。

「そんなに動揺していないで、さっさと次やるぞ」

 慶充は木刀を構えている。佐奈井はうなずいて、同じように木刀を構えた。慶充が刀を振り上げる。滝のしぶきの音に混じって、再び木の乾いた音が響いた。

 香菜実の存在が気になって、佐奈井はなかなか集中できない。

「俺たちといることがまだ後ろめたいのか」

 佐奈井の動揺を察してか、慶充は話しかけてくる。

「それは、人目につかないところじゃないと会って話したりできないからな」

「ああ。本当だったら俺、斬り捨てられるんだろ。さっき慶充に木刀を突き付けた」

「斬り捨てる? 浅ましい」

 慶充の木刀に力がこめられた。佐奈井は受け止める。腕全体に衝撃が走った。

「構えが崩れているぞ。しっかりしろ」

 慶充が叱ってくる。佐奈井は歯を食いしばって、体勢を整えた。正面から慶充に切りかかる。

 だが佐奈井の刀は、下から振り上げられた慶充の刀に負けた。持っていた木刀が手から抜け、衝撃で佐奈井はよろめき、地面に転ぶ。

「刀も持っていない者を相手に斬り捨てるなんて、俺たちからすれば簡単だ。まずこちらがやられることはない」

 慶充が倒れ込んだ佐奈井に言って聞かせる。

「だが俺から言わせれば、それはただの卑劣。抵抗もしない人間を一方的にいたぶっているだけだ」

 佐奈井のそばに手が差し伸べられた。細く小さい手。いつの間にか近づいてきた香菜実の手だった。

 佐奈井は戸惑いながらも、その手を取った。香菜実はそっと、佐奈井を立たせてくれる。

「ありがとう」

 おずおずと言う。自分が、香菜実に親切をされるとは思っていなかった。

 自分や香菜美には、母親がいない。そう、慶充は話していた。詳しいことは話してくれないし、佐奈井も遠慮して尋ねたりはしていない。でも母親がいないという立場は佐奈井も同じだから、気が合うのかもしれない。

「いいよ、これくらい」

 香菜実は笑みを向けてきた。この笑顔を見ると、冬を越え春に咲く花を見つけた時みたいに、佐奈井は温かな気分になる。 

「卑屈になるなよ、佐奈井」

 慶充は励ますように言った。

「お前は日々、米を作っているんだろう。その米が谷の人間の腹を満たしてくれている。斬り捨てられるなんざ、寂しいことを簡単に言うのはやめろよ」

「うん」

「無礼を気にしているのなら、俺はそんなふうに思っていない。安心したらいい」

 

 佐奈井と慶充は、香菜実に見守られながら、木刀で叩き合った。そうしているうちに日が傾いてくる。鬱蒼とした森の中だから、三人のいる場所はもっと暗かった。

「もういいだろう。そろそろ帰るといい」

 佐奈井を打ち負かすと、慶充は空を見上げて言う。香菜実の目の前だからか、陽気に振る舞っていた慶充だが、今はなぜかしら無表情だった。空を見る目に憂いを認めて、佐奈井はちょっとばかり妙に思う。

「これ以上やると父さんも心配するだろうしね」

 佐奈井はそう、木々の間から見える茜色の空を見上げた。

「先に行きな、佐奈井」

 互いに一緒にいるのは、滝のそばにいる間だけ。人目につかないよう、帰る時は行きと同様、一人で帰る。佐奈井にとって、本当は家までの道中を彼らと共にしたいが、仕方がなかった。佐奈井と、慶充と香菜実の兄妹は、身分が違う。そんな者同士が肩を並べて歩くのを、他人に見られるべきではない。

「今日はありがとう」

 佐奈井は木刀を慶充と、滝に背を向けた。

「じゃあね」

 香菜実が手を振ってくる。

「ああ、また」

 佐奈井も手を振って、駆け始めた。家路を急ぐ。

 慶充が空を見上げながら、憂いに満ちた目をしていたことは、走っているうちに忘れていた。

 ただ激しく木刀で叩き合ったがために、佐奈井の手は豆だらけになっていた。腕や足の筋肉が痛む。

 今はとにかく早く帰って、夕餉を食べて寝てしまいたかった。

森を抜け、田に出る。その時には、本格的に日没にさしかかっていた。暗くなり、佐奈井は帰宅を焦る。このままだと、父さんに叱られる。

 だが少し離れた場所に、馬にまたがった人たちを見つけた。佐奈井は思わず足を止め、注意深く観察する。人数は五人くらい。土汚れた甲冑をまとっていた。長い距離を急いできたからか、馬の足取りがふらついている。先頭を行く者に、後から続く者が声をかけた。いたわっているのだろうか。

 外を出歩いている者はいないから、彼らに目をやる者もいない。

 この道をまっすぐ進んでいけば、いずれ彼らが通っている道とぶつかる。

佐奈井は、近くの草むらに隠れた。なぜかしら、彼らに姿を見られたくなかった。

甲冑をまとった者たちが充分に離れていくのを待って、佐奈井は草むらから出た。引き続き、家路を急ぐ。

 甲冑をまとった者たちの先頭は、織田信長との戦に負け、敗走してきた朝倉義景あさくらよしかげであることは、この時の佐奈井は知らなかった。

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