さよならカップ焼きそば

@nakamichiko

さよならカップ焼きそば

中毒だとは自覚はあった。毎日お昼に必ず食べているのだから。

「好きねえ」同僚からは言われ、夫からは

「何故買っておいた俺の分がない! 」とさんざん言われ、

「知らなーい」と新婚当初のような可愛い顔をしたつもりが

「そうすると猶更年取ったのが判るぞ」という始末。


「飲酒も喫煙もしないのに、このコレステロール値は・・・」


先生の首の傾げ方があまりにも完璧、理想的過ぎたので


「これはやっぱりまずい・・・止めなければ」


と一念発起するまでにもかなり時間はかかったのだが、カップ焼きそばを食べるのは最後にしよう、お別れしようと決意した。

だが最後のカップ焼きそばを決めるために、何故かいろんな種類を食べてしまったのは、自分に対する甘さでしかない、か、焼きそばに対する愛かはどちらでもいいことだ。ただ気が付いたのは


「え? こんな味だった? 」

とリニューアルが各社激しすぎる。

「不味い・・・」

「美味しくなってる! 」

「ここのだけは変わらないな、でも私の好みじゃない」と一通り試した。

大人なので、メーカー名は避けるが、ある焼きそばに決まった。


「やっぱりこれだよね」試す必要は全くなかったわけである。


「さて・・・日時を決めようか」

夫に証人になってもらうつもりは毛頭ない、ゆっくりとしみじみとお別れの会を一人開きたかったので、それが可能な日に決めた。

「たまには定価で買おうか」十円安い、二十円安い!というときにしか基本は買って、買いだめもしない。でもそう言う逆に遜った時に限って底値で安かったりして

「夫のために買い置き! 」は決意を鈍らせるので止めることにした。

ごめんなさい。


 運命の日、いや決行の日、最後のお湯を作るところから、私はキッチンを離れなかった。椅子に座り、作業宜しくカップ焼きそばのフィルムを破り、麺と乾燥野菜の中のソース等々を取り出した。ガスの小さな音と時々する鍋の金属音の中、ゆったりとした気分で、いつもなら即ゴミ箱行のフィルムをしげしげと見た。


「そうよね、これも日本の技術の象徴よね、味にしても」

改めて考えさせられた。

お湯が沸き、それを注いで、ふたを閉め、重し代わりにその鍋の蓋を使った。

時計もそばに置き、時間を正確に測ることにした。


「ありがとうね、美味しかったよ、これからも頑張って」と口に出して言ってみた。するとその時間がわずか数秒であることに気が付いた。そのあと

「君の麺の太さがちょうど良くていいのよね」とか「味のバランスが最高! 」

などど、ほめたたえたが、まあ、三分って長い長い。言葉が全く続かない。三分間書くのも読むのもあっという間にすぎるけれど、「良いスピーチは一分」と言われるように、言葉を言い続けるのは並大抵のことではなかった。

「ありがとうね、本当にありがとう」と三分の後半は繰り返した。

でもそう言いながら


「ここでじっと待っていたことなんて、人生初なんだ」


と完全に初体験であった。

カップラーメン、うどん、そばならば食べているものの横にすぐ持っていくことができるが、カップ焼きそばの最大の違いは、当然のごとく「お湯を捨てる」という一手間が必要なこと。故にどうしても一時的「ほったらかし」状態が発生する。その三分の間に何かの作業をしようとして、結果三分を大幅オーバーという経験をした人は私を含めて、きっと星の数ほどなはず。「まあ大丈夫だろう」と重しを乗せないで上の紙を強く折って容器に引っ掛けていたら、機関車も動かす蒸気の力でクルリとめくりあがったのを見た経験も上記と同様である。


「ぞんざいに扱ってたよね、ごめんなさい」と本当に謝った。時間になったので湯切り口からお湯を捨て、これが最後なのでしつこすぎるほどに十分に水分を切り、ふたを開けた。


「そう、この香りなんだよね」と思う。


ソースをかける前の麺の状態から漂ってくるものが、まず第一の興奮、そしてソースを開けて暖かい麺と混ぜた時のソースの匂いが第二、全体的にきれいに混ざったものを満足に見て完了。考えてみると意外と奥が深かった。お湯は切りすぎても、食べているうちにぱさぱさになってしまう。


「しまった! ちょっとやりすぎた! 」後悔先に立たずで仕方がない、できたものを居間にもっていって食べることにした。


「いただきます」


合掌をして食べ始めると、今までになかったぐらいに少しだけ口に入れて、よく噛んでいる自分がいた。カチカチと最後は歯が鳴る音がした。その音で思い出したわけではないが、時々あの時に見た光景が、昨日のことのように目に浮かぶ。

それは今までに実際にこの目で見た動物の姿の中で、最高級に可愛いものだった。


十年以上前になる。ある時押入れの洋服の上にポトリと小さなものが落ちた。大きなボタンかと思ったら、それはネズミの子供だった。きっと生まれたばかりなのだろう、あまり動くこともせずにじっとしていた。カヤネズミ、日本にいる一番小さなネズミの赤ちゃんを家族全員で「かわいい、かわいい」と本当にあまりの可愛さに、子供の虫かごにやわらかいものを敷き詰め、寝床的なものも作り赤ちゃんに入ってもらった。私が今まで見た中で最小の手、だった。どれぐらい小さいかと言えば今から説明をする。

「何を食べるかな? 」

「どうしようか・・・とにかくチーズでもやってみる? 」と私は6Pチーズを一つ開け、それを右手の小指の爪でチッとひっかいた。それをケースの中にいくつか入れてやると、この子は両手のひらでちょうどよさげに持ってくれて、結構な速さの咀嚼スピードで食べ始めた。


「カワイイ! 」

しばらく飽きもせずに見ていたが、やはり自然に返すことにした。でも、あの、信じられないほどの指もちゃんと動く小さな手は、ずっと私の心をチーズのようにつかんでくれているのだ。


「ほんとに小さくてかわいかった、小さい・・・そうだ! カップ焼きそばが小さくなったらいいんだ! 大きいから、とにかく全部食べてしまうから、コレステロールが上がる。待てよ・・・本当にカップ焼きそばだけが悪いのか? 他の食生活の改善からでも・・・」だがそうなったらまた完全に逆戻りなので。


「いやいや・・・とにかくやめよう。それで来年の健康診断の血液検査を迎えよう」でも本心はと言うとこの小さなカップ焼きそば構想が案外気に入っていた。三分と言えばカップ麺しか思い浮かばない一般的な想像力しか持たない私にとっては、まあ野球で言えばポテンヒット的な自賛で

「かわいいよね・・・小さい四角のカップで、湯切りの穴も少々小さめ、どこかカヤネズミに通ずるところがあって・・・そうだ! このミニカップ焼きそばが開発されたら食べる! それまでお預けと言うことにしよう! 」

これにてカップ焼きそばのお別れ会は終了とした。


ではその後はどうなったのか。


一つ言えることはこの「カップ焼きそばとお別れした人」と「この話の著者」が同一人物である必要は悪いが全くないということだ。

だが数年後どこかの病院で


「あのおばあちゃん、死ぬ前にカップ焼きそばが食べたいんだって」


という話を耳にした場合は、この話を思い出していただけたら幸いです。


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