7-2
昼下がりの桜鳳学院の屋上。
その片隅で、昼食を終えた少女、レイラ・グローフリートは退屈そうに携帯端末を眺めていた。この前出会った不審な男や、
二日もおとなしくしていたせいもあり、彼女を取り巻いていた生徒たちも興味を失い、次第に離れていった。そのおかげで、こうして静かに屋上でのひとときを過ごせるようにもなった。
「ヴィラル、ここ二日間で幻想子絡みの事件は起こってないの?」
『はい。関東を含め、日本全国で幻災が発生したという報告は幻災対策庁のデータベースにありませんでした』
「ふーん、それって
『登録がないという事実以外のことはわかりませんよ、お嬢様。
「そうね、悪かったわ」
そう言いつつ、レイラは空を見上げた。このところ、灰色の曇り空が続いていたせいか、青い空と白い雲のコントラストは開放的な気分にさせる。ただ、風がなくて暑いのが少し残念だが。
(そういえば、あの日もこんな感じの空だったな)
少しばかり、レイラは昔のことを思い出す。それは、彼女が
(せっかく東京に戻ってきたし、今度会いに行こうかな)
「ヴィラル、今日この後の予定は?」
『お嬢様、本日は午後五時に港区の病院で診察があります。それ以外は特に予定はありません』
「ああ、そういえばそうだったわね」
一息ついてから、レイラは立ち上がる。昼休みの終わりまでまだ時間はあったが、またあの研究科の新島がやってくると面倒だ。とっとと校舎に避難しようとした時だった。階段の踊り場に誰かがいることに気が付く。
白衣を着た黒髪のボブカットの女生徒が膝に片手をついて、入り口にもたれかかるように立っていた。ただ、息を切らしたように、肩を大きく上下させているその女生徒を、レイラはどこかで見たような気がした。
「あなたは……」
目の前の女生徒がふと顔を挙げる。青色の眼鏡をかけた彼女の顔には見覚えがあった。
(この子、あの神代アタルと一緒にいた子じゃない。名前は確か……)
「服部……さん?」
呼ばれた美幸はレイラ目がけて駆けだす。そしてそのまま、レイラの胸に飛び込んでいった。美幸の行動に戸惑いながらも、レイラは彼女を抱き留めた。
「ちょっと、いったいどうしたの!?」
「お願い……アタル君が、アタル君が……」
震えた声を出しながら、美幸はレイラの顔を見上げる。メガネの奥の茶色の瞳には涙がにじんでいた。憔悴した美幸の状態を見たレイラは、すぐさまただ事ではないと悟った。とにかく美幸を落ち着かせようと、レイラは近くにあったベンチに美幸を座らせる。
「まずは落ち着いて、深呼吸を三回しなさい」
言われた通り、美幸はその場で大きな深呼吸を三回する。その間、レイラは黙って美幸を見守っていた。
(彼に何かあったのかしら。この様子だと、何か事件にでも巻き込まれたみたいね)
「何か、あったの?」
「お願い! アタル君が捕まっちゃったの。それで相手の男からレイラさんにメッセージを伝えてくれって……」
動揺が抜けきらないまま、美幸は早口でしゃべり始める。
「待って、ゆっくりひとつづつ話しましょう。まず一つ目、神代アタルが誰かに捕まったってどういうこと?」
「それは……」
美幸はアタルが学校に来ていないことや、電話を掛けたら知らない男が代わりに出たことを説明する。最後に、このことを警察に言えば、アタルの身に危険が及ぶことをレイラに話した。
「電話から聞こえた男の声はどんな感じだった? 若い男? それとも年を取った
ようだった?」
「はっきりとは言えないけど、若い声ではなかったと思う」
(まさか――)
レイラの脳裏に嫌な予感が走る。まさか、その電話に出た男というのはこの前の倉庫で出会ったあの男ではないだろうか。だとしたら、目撃者のアタルの口封じのために彼を捕らえたのかもしれない。次々と浮かび上がる考えをいったん止めて、レイラは再び美幸に質問する。
「次よ。その男があたし宛てにメッセージを伝えろっていうのは?」
「『レイラ・グローフリート、ひとりだけでこの場所に来い。もし、それ以外の人物がいたら神代アタルの生命は保障しない』って男が電話で言ったの」
「この場所っていうのは?」
「千葉県の江戸川沿いにあるもう使われていない浄水場跡。アタル君の端末の反応がそこにあるの。でも本当にそこにアタル君がいるかまでは……」
レイラは考える。このまま、男の言われた通りに指定された場所にのこのこ行くべきか。それとも、ここは警察に任せるべきか。悩むレイラの隣では、美幸が両手をギュッと結びながら俯き、どうすることもできない自分の無力さを噛みしめていた。
「神代アタルの番号を教えてちょうだい」
「でも……」
「あたしのことを知っている相手なら、あたしが電話を掛ければきっと出るはず。まずは彼の無事を確かめるの」
十中八九、あの男は電話に出るだろう。レイラは確信していた。前に会ったときもそうだったが、人を小ばかにするあの男のことだ。
レイラは美幸から教えてもらった番号にコールする。プルルというコール音が三度なったところで、誰かが電話に出たようだった。
『………………』
「いい加減わかってるわよ! こんなことして、どうなるか分かってるんでしょうね?」
何も反応のない相手に対して、レイラは思いっきりけんか腰で話し始めた。すると、スピーカーから低い男の笑い声が流れてくる。嫌悪感を抑えつつも、やはり、その声には聞き覚えがあった。
『いや、失礼。やはり、君は元気がよくて大変よろしい』
「御託はいい。あたしを呼びつけようなんて、いい根性してるわ。当然、神代アタルは無事なんでしょうね?」
『もちろん。彼は私の大事な客人だ。ただ、今はおとなしく眠ってもらっているから、声を聴かせることはできないがね』
「あんたの言うことを信じろと? 残念ね。あたしは自分の身が一番大事なの。いるかも分からない神代アタルのために、危険に飛び込むなんて御免よ」
『果たして本当にそうかな? まあいい、ちょっと待ちたまえ』
通話はそのままに、男は一旦電話口から離れたようだった。すると、隣で黙って様子をうかがっていた美幸の端末から音が鳴る。急いで美幸が端末を確認すると、知らない宛先から、添付ファイル付きのメールを受信していた。恐る恐る美幸は添付ファイルを開く。
「レイラさんっ! これっ……」
美幸は端末の画面をレイラに向ける。画面に映し出されていたのは、一枚の画像。それは、薄暗い背景の真ん中に、ひとりの人物がパイプ椅子に座らされている写真だった。そして、座っているのは渦中の人物、神代アタル本人だった。
写真に写っているアタルは目を閉じていて、がっくりとうなだれている。写真越しでは不明だが、外傷は特になさそうであった。だが、両手を後ろに回している様子からに、拘束されているのだろう。
「くっ……」
写真を見ていたレイラは、唇を噛む。一方で美幸は信じられないとばかりに絶句していた。ただ、顔だけ張り替えた合成写真や、別の場所で撮影した可能性を排除できない。それでも、レイラをおびき出すための罠であることには間違いない。しかし、そうまでして自分を呼び出す理由は何なのだろうか。
『彼の友達もそこにいるんだろう、送った写真は見てもらえたかな? これで信じてもらえないなら、今度は動画を送るよ』
「もういい! あんたの目的は何? 身代金目的の誘拐? それとも、目撃したことの口封じ?」
『君も、彼とおんなじことを言うんだな。はあ……、想像力が豊かなのはわかったが、これだけは言っておこう。私は彼と君に会って話がしたいだけだ。確かに、彼には少し手荒なことをしたかもしれない、それは謝罪しよう。だが、それ以外は何もしていない』
「話がしたいんだったら、そっちから出向くのが礼儀ってもんでしょ。それに誘拐、脅迫してくる相手をどう信用しろっていうのよ」
『君の言うことはもっともだ。しかし、私にも時間がなくてね。お互い、妥協点を探っている暇はないようだ。少々、不本意ではあるが仕方ない。力ずくで話を進めさせてもらうとするよ』
「どういうこと?」
『午後一時半が
今までにないほどの低い声で男はレイラに宣告すると、そこで通話は終了した。それまでの朗らかさが、嘘とばかりに思えるほどの豹変ぶりだった。ただ、その冷徹な
「くそっ!」
苛立ちながら、レイラは時計を確認する。午後十二時五〇分。男の言った期限まで残り四十分しかない。
「ヴィラル! 今から言う場所まで行くのに、どのくらいかかる?」
レイラはヴィラルに、目的地の住所を告げる。彼女の緊迫したやり取りを、美幸はおろおろしながら見守ることしかできなかった。
『現在の交通状況を
「三十二分!? もう時間がないじゃない! 今すぐ学校の前に、無人タクシーを呼んで」
『かしこまりました』
おそらく、ここからの移動時間を加味しての期限だろう。こちらに考える余裕を与えない、絶妙な時間設定に、男の狡猾さが垣間見える。
急いでレイラは校舎内に入ろうとした時だった。速足で行こうとするレイラの手首を美幸は掴んだ。
「待って! これからどうするつもりなの?」
「時間がないの。今すぐ行かないと彼が殺されてしまう」
「まさか一人で行くの? ダメ、危険すぎる」
必死で止めようとする美幸の手を、レイラは振りほどく。そのまま、美幸を置いていくこともできたが、もしかしたらもう会えなくなることも考え、後味の悪い別れ方をしたくなかった。くるりとレイラは振り返ると、泣くのをこらえるので精いっぱいの美幸に向かって微笑んだ。
「大丈夫、私はもう一人前の
「それは、敵が理性を失った幻獣や幻人が相手だったからでしょ。でも今回は違う、相手は私たちよりも長く生き、経験をもった大人。行けばどんな罠が待ち構えているのか分からない中に、レイラさんは飛び込もうとしているんだよ。どんなに強くたって、無謀以外のなにものでもない!」
先ほどまでの右往左往していた時とは打って変わり、今までにないほど真剣に美幸はレイラを引き留める。それでも、レイラの意志は変わらなかった。
「服部さん、ありがとう。でも、私はいかなければならないの」
「どうして……」
「だって、彼が捕まったのは私のせい。あの日、私が彼を巻き込まなければ、捕まるのは私一人だけで済んだもの。誰かを見殺しにしてまで生きるほど、私は
「………………」
美幸は再び泣きそうになる。何かを言おうとしても、喉の奥が焼けるように痛んで、言葉が出ない。
そんな美幸を残して、レイラは駆けだした。
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