7-1:死せる戦士たちの楽園
『
東京都内。
神代アタルは苦しげな表情を浮かべながら、街を歩いていた。時刻はすでに午前十時半を過ぎている。いつもなら学校にいる時間帯のはずだが、今日に限ってはいわゆるサボりというやつだ。無論、制服姿などではなく、私服で出歩いている。
『ご主人様、今日は学校に行かないのですか?』
主人の行動パターンを学習済みのマナは、アタルが学校に行かないことを心配していた。
「心配かけて悪いね。だけど、体調が悪いんだ。だから今日は休みだ」
『どうかご無理をなさらないでください』
心配するマナをなだめるかのように、アタルは優しげに返す。その反面、アタルとしては、学校に行って授業など受けられる状態ではなかった。
平衡感覚が正常に機能していないかのように、ふわふわとした、地に足のついていない感覚。また、左目は遠くを見渡せないほどに
原因は、はっきりしている。体内を巡る〝
(ここまで追いつめられた状態になるなんて、久しぶりだ)
外見上では何ともないように見えるが、その裏側で満身創痍のアタルは思考する。
(こうなったら、仕方ない。あまり気は乗らないけど、閉鎖区域に行って足らない幻想子を補充するしかないか。……それにしても、今日は暑いな)
今日は梅雨の季節にもかかわらず、天気は晴れていた。時折、雲間から差し込む日光に照らされるたび、肌着が汗で張り付くようで、あまり心地よいものではない。特に体調不良のアタルにとっては、この上なく辛い空模様だった。
額に湧き出る汗を拭いつつ、アタルはバス乗り場へと足を向けた。
××
平日ということもあり、バスの車内は空いていた。
運転手とアタルを除いて、乗客はほかに二人しかいなかった。ひとりは外回りの営業のサラリーマンだろうか、黒いスーツ姿で白髪が大半の頭を下に向けて、眠っている様子であった。もうひとりは、二十代半ばくらいで、明るい髪色をしていた若い男だった。灰色の作業着姿で窓際の席に座り、携帯端末を食い入るように見つめている。
そんな閑散とした車内の後部の座席にアタルは座った。このまましばらく乗っていれば、千葉県に入り、太平洋沿岸部に広がる閉鎖区域近くまで行けるはずだ。
それまでは無駄にエネルギーを使うわけにはいかないと、目を閉じてほかの乗客のように眠りにつこうとした時だった。
「……学校をサボるのは、あまり感心できないな。神代アタル君」
突如、自分の名前を呼ばれ、アタルはハッと飛び起きた。どこかで聞いたことのある声。己の名を呼ぶ声は、低く抑揚の聞いた男の声だった。ともすれば、自分の後ろにいるサラリーマンがそうであろう。
「誰だ」
警戒しつつ、後ろを振り返る。
やはり、アタルに話しかけたのは後ろに座っていた、中年のスーツの男だった。先ほどまで、頭を垂れて眠っているようだったが、今は顔を上げてこちらをまっすぐ見据えていた。しかも、ニコニコと言わんばかりの笑顔を振りまいている。
その顔に見覚えがあった。つい最近、同時多発幻災の日に出会い、川崎の倉庫で再会したあの男だ。相手がわかった途端、アタルの身は強張る。
「また会えたね。いや、正確には会いに来たというのが正しいが」
いまだに笑顔を崩さないそのたたずまいから、なんの思考も読み取れない。得体のしれないその男を、アタルは不気味に思った。
「いったい何のつもりだ」
そう言いつつ、背後にある拳銃に手を伸ばす。もちろん、人間に向けての発砲はできないが、敵意を示す威嚇程度にはなるだろう。
「まあ、待ちなさい。
「…………」
アタルは、何も言わずに男を睨みつけた。対して、男は余裕たっぷりな様子で話を続ける。
「しばらく東京から離れるつもりでね。最後のご挨拶ってことで、君の顔を一目見ておこうと思って来たんだ。ただ、ほかにも会っておきたい人物はいるけどね。例えば、君の彼女とか」
「誰のことだって?」
「おや? その様子だと私の早とちりかな。この前会った時には、結構お似合いの様子だったものでね」
ニヤけた表情で男は言った。
おそらく、この男はレイラのことを話しているのだろう。だが、性格の合わない彼女とお似合いということに、アタルは不服と感じざるを得なかった。
「あんたの目的はなんだ?」
「言っただろう、挨拶に来たんだ」
「いや、違う。あんたは僕の口封じに来たんだ。あのとき倉庫で顔を見たんだから、当然、悪だくみを進めるうえで邪魔な存在になる」
「………………」
体調がすぐれないにも関わらず、アタルは冷静そのものだった。得体の知れない男に物怖じひとつ見せず、真っ向から対峙した。それでも、男は相も変わらず余裕だった。
アタルは、この男がこの場で行動を起こさないと踏んでいた。バスの車内という狭い場所、しかも運転手と他の乗客の目があるなかで、派手な真似はしないだろう。
「ふたつ、君は勘違いしている」
男は落ち着き払った様子で立ち上がった。
「まずひとつ、私は君の口を封じに来たのではない。本当に会いに来ただけだ」
「よくそんなことを言え――」
男の主張に食って掛かろうとした時だった。首筋にチクリとした鋭い痛みが突如、走る。
(あれ――?)
突然、体に力が入らなくなったように、アタルの体は足元から崩れ落ちた。床に転がらないように、何とか座席に倒れこむが、意識が遠のいていくような気がする。
自分の身に何が起こったのか分からないアタルを、男は平然と見降ろしていた。その隣で、もう一人の若い乗客が立っていた。その手には、キラリと光る細長い筒が握られている。おそらく、注射器だろう。
「そして、ふたつ。君はここでは私が何もできないと思っていたようだが、それは間違いだ。運転手ともう一人の乗客は私の仲間でね。君は最初から、我々の迎えの車に乗っていたのだよ」
「どういう……ことだ…………」
薄れゆく意識の中、どうすることもできないアタルは男のジャケットの裾を掴む。だが、男は意に介さない様子でアタルの手を振りほどくと、運転手のもとへ近寄った。
「彼を、例の場所に招待するぞ。さあ、東京を発つ前の最後の余興の始まりだ――」
それが、意識が消えかかる寸前、アタルが聞いた男のセリフだった。
××
(おかしい――)
アタルの異変に最初に気が付いたのは、
アタルが学校に来ていないのは、彼の教室の前を通って把握済みだった。彼が今日登校しない理由は、想像に
だが、GPSで追ったアタルの居場所は、途中からとある地点から全く動かなくなっていた。それは、千葉県の江戸川沿いにある、もう使われていない浄水場跡地。そこは閉鎖区域ではない場所だ。
だが、美幸が違和感を覚えたのはそこではない。かれこれ、アタルは一時間以上その場からぴたりとも動いていないのだ。普通だったら、施設内を移動する挙動があるはずなのだが、それが全くない。
理由として、アタルが彼の端末をその場に落としたということが、真っ先に考えられる。だが、彼に限ってそれはない。いくら普段、間の抜けたところがあったにしても、身に着けているものをぞんざいに扱うことはなかった。それに、端末を落としたところで彼のサポートAIのマナが黙っちゃいない。
だとすれば、もしかすると彼の身に何か起こったとでもいうのだろうか。でなければ、アタルのことを多少なりとも知っている美幸としても、説明がつかない。そう思った美幸は昼休みに入ったところで、いてもたってもいられずアタルに電話をかけた。
数度のコール音、美幸はアタルの無事を祈っていた。
やがてコール音が途切れる。留守番サービスに切り替わるのではないかと恐れていたが、案内音は聞こえなかった。どうやら無事につながったらしい。
「もしもし、アタル君? 今何してるの?」
はやる気持ちともとに、美幸は電話越しに問い詰める。
しばしの沈黙。だが、スピーカーから発せられた声はアタルのものではなかった。
『君は……、神代アタル君の友達かい?』
「誰っ!?」
聞いたことのない男の声。低めの声質から、話し相手は年配の男だろう。見ず知らずの相手が電話に出たことに、美幸は気が動転しそうだった。端末を握る手から、嫌な汗が噴き出す。
『まあ、落ち着いて。大丈夫。彼は今ちょっと手が離せなくてね、代わりに私が電話に出ているだけだ』
「それなら、今すぐ彼を出して! じゃないと……警察に通報します」
精いっぱいの勇気をもって、美幸は男にプレッシャーをかける。もともと駆け引きが苦手な美幸にしても、そんなことを気にしている場合ではなかった。
『それはちょっと困るな。言っただろう、彼は電話に出られる状況ではないと』
「それじゃあ……」
話していても埒が明かない、そう思った美幸が通話を切ろうとした時だった。
『いいのかい? このまま彼の身に何かあっても』
「え?」
電話口から聞こえる一層低くなった男の声が、美幸の手を止めた。その瞬間、アタルの身に何かあったことを美幸は確信する。同時に、恐怖と緊張で意図せずに足が震えだした。
「いま……なんて…………?」
動揺していることを相手に悟られないように、声が震えるのを抑えようとしてみたが、男はお見通しとばかりに畳みかける。
『君の行動次第では、神代アタル君に明日が来なくなってしまうかもしれない』
男の脅しに、思わず呼吸が早まる。美幸は相手に気付かれないよう片手で口を塞ぐ。それでも男は、会話を止めることはなかった。
『君は桜鳳学院の生徒かな? もしそうなら、ある人物に伝言を頼みたい。いいかね?』
恐ろしさのあまり、美幸には返事ができなかった。だが、電話越しに男は彼女の沈黙を肯定と受け取る。そして男は震える美幸に、とある人物に向けてのメッセージを語りだした。
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