7-4
「う、……………」
最初に感じたのは首の痛み。どうやら頭を下に向けて寝ていたせいで、首が悲鳴を上げていた。まだ寝ぼけ
(たしか今日は、学校をサボって……)
神代アタルはそれまでの記憶を取り戻し、はっと息をのむ。閉鎖区域に行くためバスに乗ったところ、以前出会った謎の男が乗っていた。そこで不覚にも、男の仲間に薬を打たれ、意識を失ったことを思い出した。
アタルが急いで立ち上がろうと体に力を込める……が、うまく手足が動かない。
「あれ? おかしいな……」
しばらく四苦八苦したところで、ようやく目が暗闇に慣れてきた。
そこは、薄明りが差し込む埃っぽい部屋。あたりを見回せば、床から壁、そして天井にかけて太い配管が巡らせられている。だが、それらは手入れがされていないようで、剥がれた塗装跡から赤銅の錆が顔をのぞかせていた。
そして、一番肝心なのは自分が椅子に縛り付けられていることだった。両足はパイプ椅子に麻縄で括り付けられ、両手はどうやら親指を結束バンドで硬く止められているようだった。
アタルは自分の置かれた状況を理解した。バスで薬を打たれて眠った後、この場所に運び込まれ、こうして拘束されているわけだ。だとしたら、どれくらい眠っていたのだろうか。とにかく、現状わかることはただ一つ。
「面倒ごとに巻き込まれた、ってわけか……」
自虐するかのように、アタルは苦笑する。
(ただの高校生をわざわざ拉致するなんて、よっぽど暇な連中だ。さっさと始末すればいいものを)
「おや、目が覚めたようだね。神代アタル君」
少し前から背後に誰かの気配を感じていたが、どうやら自分の目覚めに気がついたようだ。椅子から立ち上がる音がしたかと思えば、一歩、二歩と革靴が地面を叩く音がだんだん大きくなっていく。
「……あんたも暇だね。たかが僕ひとりの口封じのためにこんな面倒なことをするなんて。言っておくけど、僕の家は裕福でもないし、父はただの
取り乱すことなく、背後に潜むの声の主にアタルは堂々と返答する。だが、返事の内容が面白かったのか、背後にいる男はくすりと笑う。その特徴的な笑い方に、アタルは背後の人物が誰なのか確信した。
「まあ、私にもいろいろ考えがあるんでね。それより、君はちょうどいいタイミングで目を覚ましたよ。……まあ、これを見てみなさい」
目の前が急にパッと明るくなる。明るくなった原因は目の前にあったモニターの電源が入れられたことによるものだった。画面には外の景色が映し出されている。日中らしく、太陽に照らされた見覚えのない施設の様子が次々と映されていく。数回、画面が切り替わったところで、初めて景色以外のものが映り込むようになった。それは、金髪の少女。身にまとう衣服は黒色に白いラインの入ったブレザー、桜鳳学院の制服だ。そして、彼女はどこかに向かうように、走っている。
そんなレイラ・グローフリートの様子を、アタルと男はモニター越しに黙って観察していた。
「……もう少し時間がかかると思ったが、流石だな」
男がそう言った矢先、画面の中の彼女はモニターのフレーム外へと消えてしまった。すると突然、背後で甲高い金属音がしたかと思えば、部屋の奥の扉が何者かによって蹴破られた。破られた薄い鉄製の両開きのドアは強い衝撃にひしゃげ、ズルズルと地面を滑っていく。そして開け放たれた入り口から、日光が
真っ白な入り口にぼんやりと影が揺らめく。それは次第に大きくなり、やがて影の主の姿を露にした。
「はあ……はあっ……、言われた通りに来てやったわよ。さあ、覚悟しなさい!」
そう言ってレイラは、アタルの背後にいる男へ右手で持った剣の切っ先を向ける。部屋の中に漂っていた空気は変わり、一食触発の緊張に包まれた。
「馬鹿か君は! こんな連中の誘いにのって、わざわざ罠に突っ込んでくるなんて。危険だと思わないのか」
「ちょっと黙ってなさい。あたしはこのムカつく男をぶっ飛ばしに来たの。あなたを助けるのはそのついでよ」
無鉄砲に敵のアジトに乗り込んだことをアタルは叱責するが、肝心のレイラは聞く耳を持たなかった。彼女はアタルなど眼中になく、男に強い視線を注ぎ続けている。
パン、パン、パン!
手を叩く音が、静まり返った部屋の空気を震わせた。
「素晴らしい! よくここまでたどり着くことができた。流石は一人前の
アタルには背後にいる男の姿は見えないが、だいたいの様子は想像がつく。どうせオーバーリアクション気味にレイラに賛辞を送っているのだろう。
どうやらアタルの想像は的中したようだった。目の前のレイラは、これまでにないほどに怒りの炎を鳶色の瞳の中にたぎらせていた。
「……ない……」
「何かね?」
「あたしは、絶対に、あんたを許さない!!!」
怒りにまかせて、レイラは怒鳴る。ここまで彼女がボルテージを上げたことは今までなかった。
「おっと、私は争いごとが苦手でね。少々汚い手だが、こちらには人質がいる。乱暴はよしたまえ」
そう言うと、男は両手をアタルの肩に乗せた。アタルを人質に取っている以上、レイラは下手に手出しができない。それでも、彼女の熱は冷めることはなかった。
「ちょっと、あんたも何で簡単に人質になんかなってるのよ! そのせいであたしは大変な目にあったんだから、少しは抵抗したり、なんか言ったらどうなの!」
「んな、無茶苦茶な! 僕は見ての通り、椅子に縛り付けられてんだ。抵抗のしようがない!」
八つ当たりのようなレイラのとばっちりが、アタルにも飛んできた。反論はしたものの、彼女の耳には入らないようだった。
「うるさい、うるさい、うるさい! 根性で何とかしなさい!!」
『根性論で何とかできるか!』と、ツッコミそうになるが、そこはアタルはグッとこらえる。これ以上、彼女の怒りの火に油を注いだら、何をしだすか分かったもんじゃない。冷静にアタルは思慮するが、レイラを落ち着かせる選択肢はそうそうに捨てる。となれば、話すべきは背後にいる謎の男だ。
「そういえば、後ろのあんた。確か、『話をしたい』って言ってたな。まだ肝心の話を聞いていないんだが」
首を後ろに向かせつつ、アタルは背後の男に話しかけた。表情までは見えなかったが、男はアタルの肩から手を離した。
「おっと、すまんすまん。話が逸れてしまったね、私は君たちにとある話を聞かせたかったんだ」
「そんな時間はないわ、それより、とっとと彼を解放しなさい!」
「まずは話を聞いてもらおう、彼を解放するかはその後だよ。レイラ・グローフリート、いや……『
その名を聞き、レイラの中で何かが弾けた。血相を変えると、静止されているのにもかかわらず、つかつかと男へと迫る。
「その名前で……あたしを……呼ぶなっ!!!!」
見たことのない彼女の剣幕に、アタルは何も言えなかった。ただ、明らかに彼女を支配しているのは義憤ではなく、殺意だ。
それは男も感じたのだろう。それでも、慌てることなくスーツのジャケットの内ポケットから〝何か〟を取り出した。
「止まれ、でないとこいつを彼に注入する」
そう男が言うと、アタルは首筋に何か冷たいものが押し付けられるの感じた。直接見ることはできないが、男の言っていることから、注射器の類だろう。
「何よ、それ」
「こいつは……かなり純度の高い
男は持った注射器をレイラに見せる。確かに、注射器の中には光を虹色に反射させる液体で満たされていた。だが、アタルたちは聞きなれない修飾子に違和感を覚えた。
「純度の高いだって?」
「そうだ。普通の幻想子は鉛と同じように体内に蓄積されていき、やがては人間の脳幹に影響を及ぼす。もし、一度に大量の幻想子を取り込めば、中毒死、もしくは幻惑状態と呼ばれる意識障害を引き起こすことぐらいは、君たちも知っているだろう?」
「それと何の関係が……」
「だが、こいつは違う。ごくわずかな量で意識障害を起こすことなく、短時間の間にフェーズⅠ、つまり幻人化を引き起こすことができる」
男はうっとりとした視線を注射器に向けていた。
対して、アタルとレイラは絶句する。幻想子を過剰に摂取した場合、中毒死さえしなければ、必ずフェーズⅡの幻惑状態に陥る。その段階で治療をすれば、ほとんどのケースではフェーズⅠに移行することはない。
だが、この男の話が本当だとしたら、治療の余地もなく、フェーズⅠの幻人化を引き起こすことになる。そんなものが世に出回りでもすれば、社会は大混乱に陥ることになるだろう。
「そんなものを一体どうやって……」
「本当はまだ研究段階の未完成品だがね。およそ二割の確率で幻人化せずに脳死してしまう欠陥を持っている。とにかく、レイラ君。それ以上近づけば、アタル君は幻人になるか、そのまま廃人になってしまうよ」
「なんてゲスな真似を……」
レイラのできることは男を蔑む視線を送ることだけだった。反対に男は自己の優位を確立したところで、話の本題へと入っていく。
「さあ、場が整ったところで、まずは自己紹介だ。私の名前は
名の乗ったところで、岩森は軽く一礼する。
今まで知らなかった男の名を、自ら明かしたことをアタルたちは意外に思った。だが、その名を知ったところで、ふたりに聞き覚えなどなかった。
「結局、あんたの目的はなんなんだ?」
アタルの問いに、男は鼻をふふんと鳴らす。これから話すことが、誇らしいとばかりに。
「よく聞いてくれた。我々、……『
岩森は両手を広げ、天を仰ぐ。それはまるで、
「あんた……自分が何を言ってるのかわかってんの? 二十年前の天幻戦争で、どれほどの人が犠牲になったのか、知らないとは言わせないわよ」
「戦いには犠牲が付きもの。そして今こそ、我々は共存などどいう幻想を捨てて、戦うべきだ。マンハッタン条約などという、その場しのぎで得た平和に何の価値もない。闘争によって勝ち取ったものにこそ、真の価値がある。種の存亡をかけ、妖精たちを滅ぼしたとき、人類はまた一つ、その歴史に輝かしい功績を残すのだ」
岩森の言葉には、一切の迷いがなく、言い表せないほどの憎悪、狂気がにじみ出ていた。それは聞く者の心を刺激し、やがては侵していくように、じわじわと広がるような力強さを持っていた。だが、アタルとレイラは岩森の言葉に簡単に惑わされることはなかった。
「あんたが、妖精たちと戦争したいのはわかった。それはそれで、勝手にやってくれ。だけど、全く関係のない僕たちを巻き込むことに何の意味があるんだ」
アタルの問いに岩森はにやりと笑う。まるで、その問いを待っていたかのように。
「いいや、君たちだからこそ、この場にふさわしい」
そこまで言うと、岩森はふう、と息を吐きだした。これから話す内容への小休止とでもいうかのように。すると先ほどの盲目的な信者のような狂気はどこかに消え、過去を懐かしむかのように、穏やかな表情で顔を上げたのだった。
「たったひとりの娘が、私にはいた。とても健気な子でね、私のために、朝早く起きて弁当を作ってくれる優しい心の持ち主だったよ。そんな娘のために私は必死で働き、保育士になるというあの子の夢を叶えさせてあげられた……」
昔話を語りだす岩森の声は熱がなく、暗く沈むようなトーンだった。
「だが……あの日、あの事件が私の人生を変えてしまった。あの忌々しい妖精たちによって……」
(まさか…………)
そのとき、アタルは得も言われぬ寒気を感じた。それは彼の本能が告げる警告。岩森の話の結末を、すでに自分は知っている。心の奥底に封じた記憶が、揺さぶられた。
「『東洋航空210便』、不幸にも私の娘はこの飛行機に乗っていた」
「そんな……」
岩森の独白に反応したのは、意外にもレイラだった。
「そう、五年前の夏の羽田発、グアム行きの飛行機だ。この飛行機がどんな結末を迎えたか、君たちはよく知っているはずだ」
心に押し込めた記憶が、弾けるようにちらつく。それは、今までアタルが逃げ続けてきた恐怖そのもの。どれだけ忘れようとしても、体に刻みついた記憶は決して消えなどしなかった。
ひとり苦悶するアタルをよそに、レイラと岩森の会話は続く。
「二十幾年、注げるだけの愛情を注ぎ、大事に育てた娘にはもう会えない。そして残されたのは、我が身を引き裂くような深い悲しみと、心の奥底から無限に湧き立つ憤怒。なぜ娘は、あんな目に合わなければならなかったのだろうか、時折考えるが、答えが出ることはない」
左の拳を固めて額にあてる岩森の表情は、悲哀と怒りに満ちていた。顔にはしる皺のひとつひとつに、他人には到底理解できないほどの感情が深く刻まれているかのようだった。
「レイラ君、この気持ち、私と同じように大事な者を亡くした君だからこそ、分からないとは言わせないぞ」
「……………………パパ、ママ…………」
「なんだって……」
ぽつりとつぶやいたレイラの言葉に、アタルは衝撃が走る。
一方で、レイラは岩森の言葉を否定しなかった。いや、できなかった。なぜなら彼女もまた、岩森と同じ境遇を持った身の上なのだから。
――レイラが失ったのは両親。あの日、幼いレイラと家政婦たちを残して、父と母は仕事で家を空けることになった。行先はグアム。ほんの数日我慢すれば、両親は必ず帰ってくる。幼き彼女は自分にそう言い聞かせながら、帰りを待っていた。
……だが、両親は二度と帰ってくることはなかった。それが何を意味するのか、レイラは知っていた。それでも、彼女は両親の葬儀の最中は決して泣くことはなかった。
人前で涙を流すのは、弱い者のすること。これから一人だけで生きていかなければならない。そんなことでは、決して生きぬことなんてできやしない。
そこから、レイラの苦難の日々が始まることとなった。
厳しい表情のまま見つめる岩森の視線から目を反らすと、レイラは地面へと目を伏せる。胸の中は、自然とこみ上げる寂しさでいっぱいだった。
さっきまでの激高はどこかに消え、消沈するレイラの姿に、アタルは取り残されたような気がした。だが、アタル自身もその例外ではない。ただし、彼の場合はこの場にいる二人とは毛色が大きく異なるが。
(あの事件の関係者がこの場にふたりもいるとは。まさかこの男、僕の事も知って――)
「レイラ君、君が私と同じ境遇であるからこそ、知っておくべきことが一つある」
アタルの心の中を見抜いたかのように、岩森はレイラに語りかける。それも、感傷をいたわるかのような、優しげな声で。
「何よ…………」
(この男、やはり)
椅子に縛り付けられたアタルはどうすることもできず、硬く目をつぶると、がっくりとうなだれる。本当はここから逃げ出したかった。だが現状、それすら許されない身の上を、ただただ呪うことしかできなかった。
「政府の発表では、私の娘、そして君のご両親を含めた238人が、あの飛行機に乗っていたことで命を落とした。だが、それは間違いだ」
「どういうことよ?」
「人数だ。実はあの日、あの飛行機に乗っていたのは、238人ではなく、239人だった」
「なら、どうして、ひとり足りないのよ」
岩森の言うことが、いまいちのみ込めず、レイラは目を丸くさせ、きょとんとする。
「公表されることもなく、闇へと葬られたその一人。それは、あの事件の唯一の生存者だからだ」
早まる鼓動を押さえつけることはできない。できるのは、これから岩森が言うことが、間違ってほしいと願うことだけ。
だが、岩森は何も言わず、アタルのもとへ歩みよると、再びその肩に手を乗せた。これが答えとばかりに。
「それって……」
「そうだろう……『
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