1-2

 よどんだ空気を切り裂くように、一陣のつむじ風が颯爽と吹き抜ける。そして、静寂に浸っていた倉庫街の雰囲気は、慌ただしく走るとある人物によって、簡単にかき乱された。

 長い長い髪を振り乱し、一心不乱に走るの様子は、ひと目で誰かに追われているようだった。だが、彼女は自分を追う者たちの素性や人数を知らない。


 ――彼女をこの状況におとしいれたのは、偶然の出来事と、なりゆき。だけど、いまはそれを反芻はんすうしていられる程の余裕はない。ここから何とか脱出しないと。頭の中は、そのことでいっぱいだった。


 見ず知らずの土地、おまけに姿かたち変わらぬ倉庫が立ち並ぶ様相は、ちょっとした迷路だ。自分が入ってきた場所や、今どこを走っているのかさえわからない。だけど、自分の背中を誰かが追ってくる気配をひしひしと感じる。もし、捕まりでもすれば自分の身に何が起こるかなど、想像するだけで悪寒おかんが走る。


 どこかに身を隠そうにも、あいにく、すべての倉庫にはしっかりと施錠がされている。建物の陰に隠れてやりすごすのは、心細い。長く走り続けたせいで、息も切れてきた。絶対絶命的な状況に、なすすべもなく、どうしようかと思い悩んでいた時だった。


 ピピピッ、という電子音が鳴り響いたかと思うと、偶然通り過ぎようとしていた倉庫の入口の鍵が勝手に解除された。偶然なのか、はたまた人為的になされたものなのかはわからない。


 しかし、これは僥倖ぎょうこうだ。外から入ることができれば、中から鍵をかけて追っ手をやり過ごすことができよう。

 そう考えた彼女は、何のためらいなく、倉庫のドアに取りつく。そして、鍵が開いていることを確認すると、扉を開けて勢いよく体を中に滑り込ませた。


 ……何かの機械類が置かれた倉庫だろうか、鉄と油のにおいが倉庫内に充満していた。よかった、人の気配はないと、安心したときだった――


「ンぐッ⁉」


 誰もいないはずの倉庫で、背後から突然口元を布で抑えられる。もはやこれまで、と諦めかけたときだった。


《……動くな、静かにしろ》


 肉声ではない、機械で変換された声。聞いている限りでは男か女かどうかは分からない。しかし、気配からして自分の背後にいるのは男だろう。とにかく、ここは大人しくしておけと、本能が告げる。黙ったまま、こくりと頷いた。


《抵抗しなければ手荒な真似はしないことを約束するし、ここからの脱出方法も教える。だが、その前にいくつかの質問に答えてもらう。イエスかノーで答えられる質問だから首を動かすだけでいい。いいか?》


 背後にいる男の意図が分からないし、そもそも信用できるのかという疑問があった。だが、考える時間は用意されていない。了解という意志をもって、首を縦に振る。


《まず一つ目だ。あの倉庫の関係者か?》


 ノー。首を横に振る。


《なら、なぜあの場所に……、これだと答えられないか。まあいい、次の質問だ。あの倉庫の中にあったものを見たか?》


 イエス。そのせいで自分は追われている。


《これが最後だ。倉庫にあったのは……〈幻想子ファンタジウム〉か?》


 質問に答えるのにしばし躊躇う。自分が見たものは果たして幻想子だったのだろうか? あれは、初めて見たものだった。だが、あの様子を見る限り、――イエスだ。


《分かった、協力に感謝する。それじゃあ、この倉庫の脱出方法を教える。一度しか言わないからよく覚えておけ。――君が入ってきた入口から倉庫を出て、左に向かって進め。そうして進んだところで、右手側に『02』と書かれた倉庫が見えるはずだ。その倉庫の鍵は開けておいた。あとは倉庫の中にある地下通用口を使って脱出するんだ。いいな?》


 イエス。……と言いたいところだが、肝心の背後にいる人物はどうするのだろうかと思ったときだった。


《このことが公になると、少々厄介なことになる。君が完全に脱出するまで、連中の注意を惹きつけよう。先にこちらが外に出るが、しばらく扉はロックさせてもらう。準備ができたら再び解除する、そうしたら一気に目的地まで突っ走れ》


 そう言い終わったところで、口元を塞ぐ布が取り払われた。多少の息苦しさから解放され、ため息が口をついて出る。しかし、解放されて気が緩んだせいか、後ろを振り返りたい衝動が心の中で湧きあがる。


《振り向くな、目をつぶっていろ。もし姿を見た場合は……君を


 自分の行動を察知してか、すこし慌ただしく背後の声の主は警告する。同時に、背中に何かが付きつけられるのをはっきりと感じた。――何とは言うまでもない、拳銃だろう。


 銃を突きつけられて少しだけ鳥肌が立ったが、再び真っ直ぐ前に向き直ると、背後にいる人物はそのまま離れていくようだった。


 扉の開く音がしたかと思えば、すぐにカチャリという施錠音が鳴った。もういいだろうと、試しに背後を確認してみれば、もうそこには誰もいなかった。


「今のは……いったい、なに?」


     ××


「まったく……、慣れないことをするもんじゃないな」


 神代アタルは緊張した面持ちのまま、倉庫を出た。


『お疲れさま。でもかっこよかったよ、雰囲気も出てたしダークヒーローみたいだった』


 ヘッドセットから、嬉々とした美幸の声が伝わってくる。


「だからそのヒーローっていうのは、やめにしないか?」


 そう言いながら、アタルは先ほど自分が出てきた倉庫へと振り返る。


 ――アタルの作戦はこうだ。


 まずはアタルが、逃げ惑う彼女の先回りをするような形でくだんの倉庫にスタンバイ。そして、彼女が倉庫の前を通りかかった瞬間を見計らい、美幸が倉庫の鍵を遠隔操作して開錠する。運良く逃げている人物が倉庫内に侵入した場合、アタルがその人物と接触する。

 その際、アタルは左手で口を塞ぎ、右手に持った携帯端末を拘束した人物の耳元に近づける。端末からは、マイクで拾ったアタルの声を変換しているので肉声を聞かれることはない。そしていくつかの質問をした後、脱出方法を提示する。これが作戦の〝前半部分〟だ。


『それじゃあ、残りの半分に取り掛からないとね』


「僕としてはあまり気がのらないな。まあ、自分で言ったんだから、やるしかないか……」


 ため息混じりにアタルは言う。作戦の後半、それは彼女を追う物騒な連中の気を引いて、彼女をこの場から逃がすこと。


「どうだい服部、何か派手な音とか出そうな物とか見つかったかい?」


『うーん……。どうせなら、超ド派手にやろうと思ったんだけど、ここにある倉庫はみんな機械類ばっかで、火薬や花火とかは置いてないみたい』


「ちょっと待て! そんなことをしたら、僕だってただじゃ済まされないじゃないか!」


 美幸の過激な発言に、アタルはどぎまぎしながら抗議する。たまに、美幸はとんでもないことを言い出すが、ここでそれが出てくることは予想していなかった。


『こういう場面シチュエーションには、爆発っていうのが相場なんだけど……。あ、だったら、こういうのはどうかな?』


 携帯端末が軽く振動したので確認してみると、画面の中には美幸から転送された映像が映っていた。画面の中に映るもの、それは倉庫の壁面の塗り替えのために一時的に建てられた、金属製の足場。すぐにアタルは美幸の意向を汲む。


「なるほど、これを崩せば大きな音が出せそうだ。で、この倉庫はどこにあるんだ?」


『さっき言った『02』番倉庫の裏側の通りにあるよ。で、その近くには梯子はしごが付いている倉庫があるから、それを登った屋根の上から〝狙撃〟すればいいと思う』


 見ていた端末の画面が切り替わり、足場の映像から倉庫の画像に切り替わる。倉庫の姿を頭に叩き込んだアタルは、再び闇の中を駆ける。


 美幸の示した倉庫はすぐに見つかった。平べったい形をした倉庫の壁面には、確かに固定された梯子が敷設されている。音をたてないようにゆっくりと登り、姿勢を低くしたまま、通りの様子を伺う。アタルのいる倉庫から通りを挟んで、少し離れたところに、あちこちが錆びついて赤茶けた倉庫が目についた。倉庫の周りには足場が組まれてはいるが、まだ完成していない仮止めで、完全には固定はされていないようだ。


 倉庫の様子を一通り観察したアタルは、足場の脆そうな箇所にいくつか目星をつける。そして左手を背中にまわすと、着ていたジャケットの中から隠し持っていた物を取り出した。


 ――それは、一丁の拳銃。あちこちが肉抜きされ、軽量化された遊底スライド、その隙間からは金色の銃身バレルが顔を覗かしている。銃口には、発射時の燃焼ガスを利用し、跳ね上がりを抑えるための退制器コンペンセイターが取り付けられていた。そして、銃本体には弾倉の交換を容易にさせるためのマグウェル。精密さと連射に特化した改造を施した競技用拳銃レースガンと呼ばれるたぐいの拳銃である。


 アタルは取り出した拳銃のスライドを、ゆっくりと引く。ある程度後退したところでストップがかかり、そこでスライドが固定される。一通り銃をあらためたところで、アタルはポケットから弾倉と短めの減音器サプレッサーを取り出した。ただし、弾倉に入っているのは通常の銃弾ではなく、圧縮して封入された反幻想子アンチ・ファンタジウムだ。銃口の退制器コンペンセイター取り外すと、手早く消音器を銃口に取りつけ、ゆっくりと弾倉を銃身内に挿入したときだった。


『連射拳銃〈ブレイジング・カストル〉へ反幻想子アンチ・ファンタジウム弾の装填を確認』


 サポートAIのマナが拳銃に反幻想子弾が挿入されたことを知らせる。それと同時に、スライドに干渉しないように装着された、台座マウントにあるドットサイトが点灯する。


「マナ、安全装置セーフティの解除と、音が出ない最低限度の出力に反幻想子を調整してくれ」


『了解なのです。消音モードになると威力が通常の半分以下になりますが、それでもいいですか?』


「構わない。あと、今から銃を向ける場所への距離を測定してくれないか」


 そう言うとアタルは、スライドストップがかかったままの銃を構えつつ、銃口を足場の一点に向ける。


『レーザー測定の結果、目標までの距離は二十三メートルなのです』


「二十三メートル……オーケイ、拳銃で狙って当てられる距離だね。あと、余

計な音は立てたくないから、スライドはブローバックしないよう固定で頼む」


『それだと、次弾の装填ができないですが、よろしいのですか?』


「問題ない、一発で決めてみせるよ」


 そう言うと、アタルは後退したままのスライドを一度引っ張ってから、もとに戻す。チャキリという小気味よい音が、心を浮つかせた。


「服部、見てるか? 今から撃つから、そっちの方は頼んだよ」


『任せて、今のところ問題はないから』


 美幸の返答を聞いてから、アタルは深く息を吸い込んで、脈拍を整える。そして、真っ直ぐに腕を伸ばして、拳銃に取り付けた照準器で足場を狙いこむ。明かりの乏しい夜ではあるが、雲が月に掛かっていない今なら何とか狙える。例え外しても問題はない、チャンスはいくらでもある。そう自分に言い聞かせながら、アタルは銃の引き金トリガーにそっと指をのせた。そして、絞り込むように人差し指へ少しづつ力を込めていく。


 ――発射ファイア


 圧縮された空気が解放されたような、くぐもった音が空気を震わせる。だが、その音を聞き取ることができたのは、アタルだけだった。なぜなら、アタルが狙っていた足場が、凄まじい音をたてて崩れ落ちたからだ。


 ガラン、ガランと耳をつんざくような轟音が、それまで閑静だった倉庫街に響き渡る。もちろん、その音を聞いたのはアタルだけではない。街灯に引き寄せられる羽虫のように、散らばっていた男たちが、その手にライトを点灯させて、次々と集まりだした。その数は、二十をゆうに越している。


(……ただの幻想子にしては、少し過剰な見張りの人数だな)


 いぶかしむアタルであったが、男たちに姿を見られないよう、すぐに闇の中へと身をひるがえす。そして、そそくさと倉庫の屋根の反対側まで移動した。

 いつの間にか、空は厚い雲に覆われ、月明かりはもう地表には届かない。隠密行動するにはうってつけだと、天を仰ぎながらアタルは呑気のんきに思う。そんな時だった。


 たったったと、一定のリズムに沿って、鳴り響く足音がアタルの耳に届く。音は徐々にこちらに向かって近づいてくる。咄嗟とっさに、アタルは身を伏せた。


(連中の仲間か……?)


 通りを見下ろすように、アタルは倉庫の屋根の端から顔を覗かせた。すると、闇がはびこる通りに、ゆらゆらと輪郭がひとつだけ浮かび上がる。しだいに大きくなる正体不明の影が、アタルの目の前を通り過ぎようとしたとき――


 偶然か、巡り合わせというのかは分からない。空を覆う厚い雲の切れ目から、月がたまたま顔をのぞかせる。柔らかな月の光は、アタルの目の前を疾走していく人物の顔を、撫でるように照らし出した。


 ……綺麗、いや、この場合は美しいと言うのだろうか。


 通りを駆けていくのは、そんな美貌をもった少女だった。くすんだ暗めの金髪ダークブロンドでウェーブのかかった長い髪を振り乱し、迷いのない足取りで闇を突き進む。そして、整った顔立ちの中で目立つ鳶色とびいろの瞳は、ただ一点を凛として見据えていた。


 すれ違ったのは一瞬の出来事。ただ、アタルにはその一瞬が十数秒にも感じられた。


 ――完全に見惚れていた。


 通り過ぎていく彼女の背中に、見覚えがあった。どうやら、倉庫の中で接触したのは彼女で間違いないだろう。アタルは倉庫の中での出来事を思い起こす。真っ暗な倉庫のなかでは、彼女の顔まで見えなかった。だから、その風貌に驚きを隠せない。


「それじゃ、気をつけて。……できれば、君の名前を聞いておけばよかったな」


 名も知らぬ少女の背中に向けて、アタルは別れのあいさつを呟く。しばらくすると、彼女の姿は闇にのまれて見えなくなった。


「その後の首尾はどうだい、服部?」


『大丈夫、ちゃんと提示したルートを通っているみたい』


「そうかい。なら、わざわざ危険を冒してまで、助けた甲斐があったよ」


 もともと、幻想子を盗むためにここに来たが、それがうって変わって、人助けに変わるとはおかしな話だ。それでも、一期一会の出会いにアタルの心は少しだけ満たされるようだった。


『ありがとう、改めてお礼を言うね。それで……、帰りのことなんだけど……』


「ん?」


 アタルに礼を言う美幸だが、歯切れの悪い様子で、おずおずと別の話題を切り出し始めた。何だか、嫌な予感がする。


『この倉庫、行きは簡単に侵入できるんだけど、帰りに関してはちょっと問題があって……。ここに来るとき気付いたと思うけど、地下通用口の扉って鍵がかけられてたでしょ?』


 確かに。言われてみれば、そんな気がする。


『あの鍵って、手動のアナログ式だから、こっちからじゃ解除できなくて……。その、……さっきの人、鍵をかけちゃったみたいで、もう通れないみたい』


「冗談じゃない、前言撤回だ! これじゃあ骨折り損じゃないか! いったい僕は、どうやってここから脱出すればいいんだ!?」


 アタルの困惑をよそに、静かに夜は更けていく。

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