第十章
第66話 夏凛
(ここには何もない…)
綺璃子の部屋には、何も無い。
ココで暮らしながら、綺璃子は、ココに何も残していない。
綺璃子にとって、この洋館はゴミ箱だ。
パンを食べた後の包装紙みたいなものしか残っていない。
用済みのビニール包装紙。
(ここには俺の全てがある…)
俺の全ては綺璃子にとっては捨てたゴミということだ。
当然だ。
自分自身、己の過去に価値を見いだせないのだから…。
まして忘却の奥に、こびり付いた程度の垢のような過去になど…。
綺璃子にとって興味の対象となったのは、おそらくユキのほうだ。
また記憶の中でユキの潰れた顔が笑う。
咽る様な香の残り香、綺璃子に纏わりつかれるような気がして悪寒が走る。
(俺は…こんなところで、こんな女から産まれた…)
桜は、この部屋に入って確信したことがある。
間違いなく自分は、この部屋の主『綺璃子』から産まれたのだと。
自分の身体に纏わりつくような香、この咽る様な香りに包まれると本能が拒絶する血の繋がりを強く感じる。
この場で全て搾り出したくなるような汚れた血。
自分の両肩に強く爪を立てて喰い込ませていく。
少し早足で部屋を出た桜は躊躇うことなく隣の部屋の扉を開けた。
最後の部屋…
正直に言えば、逃げ出したかった。
あのホテルにも戻りたいとも思えなくなっていた。
どこかへ逃げ出したい。
だが、その何処かが、まったく解らない。
どこへ?
どこか…俺の記憶を消してくれる何処かへ…。
何も無い部屋。
部屋の壁に1枚の絵が画鋲で斜めに貼り付けられている。
「なんだ?」
7つの頭を持つ獣に跨る赤い服の女性、手には金の杯をかざす様に持っている絵。
「マザーハーロット…大いなるバビロン………綺璃子……いや…ナミ!!」
桜は走って部屋を出た。
階段を飛び降りるように駆け下り、正面の扉を開け外に飛び出す。
小雨が降る夕暮れ。
オレンジに染まった世界は、酷く不気味に思えた。
「ナミ!!」
庭を駆け抜け道路へ飛び出す。
「ククク…どうしました? 桜 影親さん」
黒い傘を差した黒いスーツの男が桜に声を掛ける。
「ナミをどうした?」
「ククク…いや、さすがというか…頭の回転は母親譲りですかね」
「学徒か」
「そういうことです」
「ナミが目的だったのか?」
「いえいえ…ナミさんというわけではないのですがね、まぁアナタが選んだ女性であれば、誰でも良かったんです」
「貴様…」
「博学ですね、驚きましたよ、あの絵でナミさんのことを悟るとは…驚きましたよ、できればコチラから説明させていただきたかったのですが…」
「大淫婦マザーハーロット…綺璃子が自らを重ねるようには思えない…」
「ククク…自己紹介がまだでしたね、私は岬…学徒の、まぁ…古株です」
「古株? そんな歳には見えないな…上を喰って生きてきたんだろう」
「喰う? ッハハハ…そう文字通りね、アナタは本当に賢い」
「文字通り?」
「私はね、ん? 話す前に…アナタは館で綺璃子とユキの記録を見たはずだ…アナタとの関係性を、どう考えていますか?」
「どういう意味だ?」
「記憶は完全に戻ったわけではないのかと…まぁ確認ですかね」
「母と…姉…」
「ほう…そうですか…なるほど…案外、そのあたりに…ということか…」
(違うのか…)
桜は己の記憶を辿る先で揺らぎのような転換を感じていた。
(記憶が…いや解釈が違うのか?)
「おい、長話をするつもりはない…ナミの所へ連れて行くんだろ?」
桜は岬を急かした。
「そうですね、まぁ、行けば真実が視えるわけですし…」
そう、この館は桜にとって準備運動のようなもの。
いきなり真実を伝えて処理できないより、少し慣らしておいたほうがいい。
その程度のこと。
己の記憶と過去の記録の擦り合わせに過ぎない。
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