第62話 無垢

 隣の部屋に行く前に俺は厨房から包丁を持ち出した。

 素人目にも、それなりの代物だと解るような立派な包丁だ。

 そこらのナイフより、よほど斬れそうだ。

 それに…用心という意味もあるのだが、それ以前に包丁の柄に押された焼印が気になった。

『木島 兼頭』

(きじま けんと?)

 職人の名だろうか?

 であれば問題ないのだ。

 だが…気になった。

 兼ねる頭?

 なんとなく…引っ掛かっただけ、頭を兼ねる。

 もし…思い過ごしではないとしたら…

(ココにいた、もう1人…)


 俺は古い包丁をナプキンで包んで懐にしまった。

(気のせいなら、それでいい…それに刃物の一振りが何の役に立たないということもないだろう…)

 こういう状況ならば、なおさらだ。


 1階で4部屋目…最後の部屋だ。

 ドアノブに手を掛け奥へ押す…

 ホコリとカビの匂いが、俺に纏わり付くように部屋から流れ出す。

 長いこと開くことがなかったのだろう。

 他のどの部屋よりも時の経過を感じる。

 自分の記憶と同じような状況。

 封じた、あるいは封じられた記憶が目を覚ます。


 窓の無い部屋、パチッと電気のスイッチを入れる。

 パチパチッと2、3度瞬いて、黄ばんだ蛍光灯が部屋を照らす。

 誰かの部屋…外部と隔離されたような部屋。

 およそ生活していたような痕跡が無い、だが…此処には誰かが暮らしていた。

 部屋の印象と雰囲気が違う奇妙な部屋。

 モデルルームの真逆とでも言えばいいのだろうか。

 暮らしていないのに生活感を演出しているモデルルーム、その逆だ。

 誰かが暮らしていたが、その痕跡を残さない。

 空家に勝手に住み着いた浮浪者が出て行った後、そんな部屋。


『木島 兼頭』


 脳裏を過る包丁に刻まれた名前。

 本棚にキチッと収められた本、料理の本から動物図鑑、植物図鑑、ダリ、エッシャーなどの絵画集…

(まるで人格が想像できない)

 何人かが打ち合わせなしに部屋を作った、そんな感じだ。

 好きなものも、嫌いなものも感じない。

 空っぽなんだ。

 本当に何もない。

 この部屋には何もない。


 それが…怖い。


 何も考えず、何も感じず、ここで暮らしていたんだ。

 そんな考えが浮かぶと同時に、中年の男性の顔が脳裏で揺らいだ。

 細面の中年男性の虚ろな目だけが網膜に、こびり付いたように離れない、ゾッと鳥肌がたった。

 薄暗い部屋で誰かが用意した家具や本に囲まれて、そのいずれにも興味を示さない。

(虚無…)

 思わず桜が呟いた。

 ただ座って1日を過ごす…

 振り返り閉めた扉の内側、そこに1本の傷がスーッと縦に刻まれている。

 切なさが桜の心に突き刺さる。

 この部屋で唯一、人の痕跡を感じたものが、この薄い引っ掻き傷だけ…

 扉を開いたままなら気付かなかったであろう、薄い傷。


 何を思ったのだろうか?

 涙の痕のような傷を指でなぞって部屋を出た。


 脳裏に浮かんだ男が『木島 兼頭』かどうか桜には解らない。

 だが確信はあった。

『観察者』はコイツじゃない。

 コイツは『観察対象』ですらない。


(抜け殻だ)


 セミの抜け殻、もはや用済みとなった男を囲っただけの部屋。

 道路に過去の全てを置いて、コイツは飛び立ったのだろうか?


 それが7日に満たない自由だったとしても…

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