第九章

第57話 深淵

「高木さん…」

 しばし無言で睨みあう桜と高木を、また助手席に座る男の言葉が遮る。

「ん…あぁ…桜さん、着きました…ここから先に進めば、あなたの考え方も、いや世界の見方が変わるでしょう」

「どう変わっても、俺はブレない…」

「どうでしょうね、過去が自分を追い越して行く…そんな状況になれば、アナタもきっと…」

「過去が追い越す?」

「言葉より、御自身の目で確認するといい…そのために生かして連れて来たんだから」

 高木は桜を車から降りる様に促した。

「私の任務はココまでです桜さん、次に会う時は…いえ、おのずと解る事でしょう」

 シトシトと降りだした雨、高木は青い傘を桜に渡した。

「この門の向こう…あなたの過去、いや…全てがあるかもしれません、また、お会いできることを願ってますよ桜さん」

「願う? 誰にだ?」

 傘を開いて桜はウインドウ越しに高木に尋ねた。

「誰にでしょうね…考えたことも無かった」

「だろうな…高木…それは、オマエが本当に願ったことがないからだ」

「本当の願いですか…フフ…そうかもしれませんね…だせ」

 高木は車を走らせて、桜は1人、屋敷の門の前に置いて行かれた。

「ここに俺の過去が…ね」

 自分には縁が無いような立派な洋館。

 正直、自分の出生と結びつきがあるとは思えない…

(俺の過去……痛っ…)

 突然の頭痛が襲う。

 ズキンッ…ズキンッ…

 鈍い痛みに桜は、傘をバサッと落とした。

「なんだ…」

 眩暈と吐き気…脳の隙間に何かが這いずるような不快な頭痛に立っていられなくなり跪き、両手を地面に付ける。

 シトシトと静かに降る雨は止まない。

 桜が門の格子に手を掛け、立ち上がろうと身体を預ける様に体重を門に掛けるとギギッと門が開いた。

 グラッと傾く身体を支えきれずに、桜は再び横向きに倒れた。

 視界が揺れ、吐き気が強くなる。

(ガスか?)

 桜は神経系のガスでも吸ったのかと疑っていた。

 もう身体に力は入らず、そのまま桜は目を閉じた。


 ………

「聞きたくない…」

 呟いた自分の声で目を覚ました。

 白い部屋が妙に眩しく感じて、開いた目を再び閉じた。

 ゆっくりと目を開け、辺りを見回す。

 左側に水差しが置いてある。

(病室か…)

 右手を強く握ってみる。

 力は入る…大丈夫だ。

 桜はベッドから起きて水差しの水をそのまま浴びる様に飲み干した。

 毒の可能性は疑わなかった。

 殺す気なら、とうに殺されている、そう判断した。

 そして…別に毒でも構わないと思っていた。


 招待されてきたわけだが…

 誰にだ?


 薄手のガウン1枚、下着も付けていない。

 スーツは濡れたまま、部屋の壁に掛けてある。

 着替えるまでもない。


 桜はガウンのまま、廊下に出た。

 少しホコリっぽい廊下を裸足のまま歩く。


 左右対称に建てられているらしい洋館。

 窓から見える庭は、手入れされている。

(自然すら制しているかのような貴族趣味…好きになれない)


 桜は自然が好きではない。

 持論ではあるが、人間の言う自然とは、自身に都合のいい自然だと理解しているからだ。

 本当の自然は、人間には不都合なことが多い。

 だから、人間は自然を壊しながら生きてきたのだろうと思っている。

 桜の言う自然とは、そういう管理された、云わば不自然のほうである。


 おそらくは洋館の中央であろう場所、広い階段T字型に折れ、左右に広がっている。

 画に描いたような洋館だな…


 階段正面、中央に当主の肖像画でもあれば、まさしくソレであったのだろうが…

 生憎、その場所には似つかわしくない巨大なモニターが掛けられていた。


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