第26話 羨望

「あのね…アタシね専属娼婦になったよ」

 路地裏でしゃがみこんで独り言をつぶやくナミ。

「ホテルに住んでるんだよ、高い部屋、窓から東京が下に見えるの…ちっとも眺めなんか良くないよ…」


(あの女…)

 路地裏からナミを睨むような目で見ている女。

(確か…専属娼婦の…なんでこんなところにいる?)

 ジリッ…ジリッとナミとの距離を詰めるように近づいてくる。

 手にしたメスがギラッと光る。

(殺したい…切り裂いて…バラバラにしてはらわた引きずりだして…此処で…此処で……)


「ナミさん」

「ん?……誰さん? あっ…看護婦さん?だよね…」

「どうしたの? ホテルから出ちゃダメなんでしょ」

「うん…ダメ…でも…出てきちゃった」

「何してたの?」

「ん…お墓詣り…お墓じゃないけど」

「お墓詣り?」

「ん…此処で死んだの、知り合いが」

「お知り合い?」

「娼婦だったの、だから路地で死んで…お墓なんかないの…戻る場所なんてないの」

「……」


「もう帰るね…」

「それがいいわね」

「あのね」

「誰にも言わないわよ」

「うん、ありがと…じゃね、バイバイ」

「気を付けて帰るのよ…危ないんだからね、最近は特に…」

「知ってる、切り裂きジャックでしょ、大丈夫、大通りから帰るから」

「じゃあね」

「うん」


「危ないのよ…本当に…ね」

 ナミを見送って人ごみに紛れる看護婦。

「イタッ…」

 腕を切られた通行人が地面にひざまずく。

(此処じゃない…もっと相応しい舞台で…)


「アナタ…綺麗だから…」


 御世辞にも美人とは言えない看護婦が呟いた。

 メスをコートのポケットに忍ばせて…薄く笑う。


(看護婦さんはいいな…自由に外に出れて…)

 ナミは短大を卒業して、すぐに風俗嬢になった。

 それしか知らない。

 お金の稼ぎ方を知らない。


 クーデターだって、怖いと思っただけで、こんな世界になるとは思いもしなかった。

 世界は変わっても、ナミは何も変わらない。

 何も…

 相変わらず、その身を晒して金を得るだけ…

 むしろ誰に呼ばれるかも解らない昔より、今の方が幸せなのかもしれない。


 何もしたことがない。

 何も知らないナミにとっては、この世界の方が生きやすいのかもしれない。


 世界は変わった。

 変わらない物もある…変われない者もいる。


 買われて…飼われて…


 変わらないのに…変わってないのに…


 変わってない…帰る場所もない…

 今も昔も…


 だから此処へ戻ってくる。

 そこしか戻る場所はないのだから。


 ホテルへ戻るしかないのだから。

 約束もした。

 若い『ボトムズ』と…


(カギ掛かってる…どうやって戻ろうか?)

 ホテルの裏口で途方に暮れる…


 見知った顔が声を掛ける。


「おい…」

「ん…あっ…ラッキー、ねっ開けてよ」

「帰って来たのか?」

「来るよ、そう言ったじゃん」


 好きでやってるわけじゃない、けれど逃げだすほど嫌でもない…


 だから幸せというわけでもない。

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