イノセンス

石上あさ

第1話


 壁の向こうから大衆の熱狂が聞こえてくる。

「ほうら、出番だぜ。皆さんお待ちかねだ」

 そう言うと、看守は下卑た薄ら笑いを浮かべながら牢の鍵を開けた。

「…………」

 彼は何も言わずに立ち上がると、呼ばれるままに外へ出る。

 今さら弁解するつもりも、ましてや抵抗する気力もない。自らここに来ることを選んだときから、すべて心づもりしておいたことだ。

 誰もいなくなった牢の扉を閉めたあと、看守は歪んだ笑みを浮かべながら彼に顔を近づけた。そうして、いかにも気分がよさそうに彼の耳元で囁いた。

「さあ、人生最後の三分間の始まりだ」

 ――彼はこれから、冤罪によって処刑される。


 牢を出て久しぶりに娑婆の光に触れると、目眩がした。

 光に目を焼かれて視界が真っ白になっている間にも、大衆の罵詈雑言はエスカレートしてゆくばかり。あの無分別な憎悪と偏見と、真実を見抜こうとしない怠慢と愚かさと、そして欺瞞に満ちたこの社会の誤った正義によって、これから自分は殺されるのだ。殺処分される家畜のように処刑台へと引きずられながら、彼はそんなことを思った。

 きっと、あの大衆の中では自分に濡れ衣を着せてこうなるように陥れた者がほくそ笑んでいることだろう。そしてその周囲にいる大衆は、自分で物も考えずただ目先の感情のはけ口として、都合の良いサンドバックに向かいためらいなくありったけの悪意をあびせかけるのだ。

 虚ろな瞳で、見るともなしに他人事のようにその人だかりを眺めていると、しかし、彼の目はある男の姿を捉えた。

「――――!」

 その瞬間、死んだはずの彼の心に少なからぬ動揺が走った。

 それは、彼が敬愛してやまない音楽家の姿だった。

 そして、彼が冤罪を被ったまま死ぬことを決めたきっかけとなった人物でもあった。

 その瞬間、彼の脳裏にこれまでのことが走馬燈のようによぎった。


 覚えのない罪で身の危険にさらされていると気づいたのは、その音楽家の演奏会に行ったときのことだった。作曲家を生業にしている彼は、その日、いつものように敬愛する音楽家の新譜が演奏されるという舞台へと足を運んだ。

 ところが、そこで思いもよらない衝撃を受けることになる。

 なんと、その音楽家の演奏がまるっきり自分の書いた譜面と同じだったのだ。

 だが、単純にそれだけで衝撃を受けたわけではない。

 彼が最も驚いたのは「なぜよりにもよってこの人が」ということだった。

 実は、彼は友人だと思っていた人物に裏切られ、十七歳から二十一歳のときに書いたあらゆる創作物――本五冊分にはなろうかという日記や、遊びのつもりで書いた小説のメモ、三百を超える詩、自ら手がけた譜面の数々――を盗み出されたことがある。

 だから、単に他人が自分の曲を我が物顔で演奏したくらいでは驚かない。

 一体どういう経路でばらまかれたのかは知るよしもないが、ともかくそれらは数え切れない多くの人間の手に渡り、そうして彼のアイデアによって多くの人間が富と名声を得ることになった。この世の中のあらゆる場面で彼は自らの欠片と出会うことになった。

 彼はまず腹を果てた。そして悲しんだ。人々の見る目のなさを恨んだりもした。

 だが、最終的に彼が手にしたのは絶大な自信だった。

 彼から盗んだアイデアを元にした小説も、楽曲も、どんなろくでなしの下手くそが手がけたにもかかわらずほとんど必ず成功したからだ。彼は人知れず数十億という金を動かし、会ったこともない盗人たちの人生を成功へと導いてきた。

 俺はすごいやつなんだ――それが彼のもった正直な感想だった。

 皮肉といえばこれ以上ないくらいの皮肉だった。

 自らの人生のエッセンス、経験と葛藤の蓄積ともいえるすべての創作物を失った代わりに、彼は絶対に失われることのない揺るぎない自信を手にした。

 そのとき、彼は気づいたのだった。身のほどもわきまえず、できもしない高望みを抱くのは愚物のすることだけれど、その才能があるにも関わらず、自らを卑下し過小評価することによって得られる成功や名誉をみすみす手放すことも阿呆のすることだと。

 それから、彼の人生観は変わった。彼は何よりも創作を愛し、創作の力を信じ、自分のすべてを注ぎ込んできた。そして、だからこそ、それまでその創作を非難されること、誰からも見向きされないことを恐れていた。好きであればあるほどに失敗することへの不安も大きくなったのだ。

 ところが、彼という人間のもつ実力を、底力を、恐れに足をとられて動けない彼の代わりに、別の人間が証明してくれたのだ。この上なく高い授業料ではあったが、代わりに自分一人ではどうしても手にできなかったであろうものを手に入れた。

 だから、彼は先へ進むことにした。

 恐れや憎しみにとらわれるのではなく、新しい一歩を踏み出すことにした。

 街角の至る所で耳にする賞賛、新聞の端から端まで埋め尽くすほどの好評が彼の才能を証明していた。みんなが自分の次の作品を待ってくれているのだ。偽物ごときでもあれだけ支持を得られるのだから、きっと自分が満を持して送り出した作品は、類をみないほどの成功を収めるだろう。盗人たちは自分のネタに依存し、それがなければなにも創り出すことができないが、自分は違う。盗人たちの成功もすべて彼の力によるものなのだ。

 アイデアなどいくらでも思いつく。面白い作品など、いくらでも創り出せる。

 彼は意気揚々とペンを手にした。

 ところが――だ。

 ある日の演奏会で彼は自分が敬愛してやまない、音楽家としても、一人の人間としてもそのありように憧れを抱いてきた人物がよりにもよって他のその他大勢と同じように手を汚している現場を目にしてしまった。

 それは予想外の驚きをもたらした。

 まず、勘違いなんじゃないかと自分を疑った。彼は音楽家を尊敬し、ゆえに研究し、その良さを学び取り入れようとしてきたから、彼の編み出した楽曲は当然、音楽家の影響を受けている。その結果、自分がかつて生み出した楽曲と同じような楽曲を「たまたま」音楽家が創り出してしまったのではないか。

 それは十分考えられることだった。自分の模倣は模倣の域を脱し、つまりは憧れの人の神髄を会得するに至ったのだ。音楽家が創り出すよりも先に、自分は音楽家が思いつくものを生み出すことができたのではないか。

 そう思うと誇らしくあったし、音楽家の楽曲に込められた想いも自分のもののように何から何まで理解できることも不思議には思わなかった。

 そうだとも、あの人は素晴らしい人となりであり、また、その他大勢の盗人とは違い、類い稀な才能だってもっているのだ。自分のアイデアを盗み出す必要が、そもそもない。どう考えたって自分の知っている現実と噛み合わない。


 ところが、その数ヶ月後、国王主催が主催するその音楽家を目玉とした演奏会に行ったとき、その彼の推測はまたしても裏切られることになったのだ。

 なにをどう考えても、音楽家は彼のネタを自分のものとして使っていた。

 彼は何かの間違いだとまた思い込もうとした。

 失望し、悲嘆にくれ、怒りまで湧き上がってきた。それでも彼は音楽家のことを信じていた。いや、そうではないかもしれない。彼はただ、自分の人を見る目を信じたかったのかもしれない。この悪意に満ちた世の中で、それでも夢や希望を失わずに生きていくためには、自分の先を行く道しるべとなるものが必要だった。

 彼はただ、音楽家にだけは、清く純粋な人でいてほしかった。

 だから、もしかすると彼が本当に守りたかったのは、自分自身の夢であり憧れだったのかもしれない。ただ……それでも、心の中にもいくらかは、音楽家を胸の底から尊敬し、信頼している部分とてあったのだろうとは思う。

 ともかく、彼はそれから音楽家の記事を書いた新聞や、音楽家の講演会にも足を運んだ。音楽家が手を汚したのには、なにか理由があると思ったからだ。あのように人を愛する心を、なにかを強く信じることのできる気持ちをもった人が、たとえ人に強要されたとて手を汚すはずがない。

 となれば何か間違いなく理由がある。人のよさにつけ込まれて、彼に悪意をもつ人間に嘘をふきこまれ、そそのかされ、加害者に仕立て上げられたとか。あるいは、よく分かるはずもないけれど、とにかく、何かしらのやむをえない事情があったのだろうと彼は思った。そう思いたかった。

 ところが、行く先々で目にするものは、やはり、そういうことなのだろうか、彼の期待を裏切るものばかりだった。講演会で我が物顔で楽曲について解説をしたり、得意げに自分にしか分からない、このメロディでしか表現できないニュアンスがあるとか、自分は天才だとまで言い出した。

 ほんとうに、そういう人だったのか――?

 有名な人物ゆえに、音楽家には彼の想像を絶する様々な苦しみがあったのだろうことは想像がつく。それがどれほどのものだったのか分かりようはないけれど、きっと相当な苦労とストレスに押しつぶされそうな日々だったのだろうとは察せられる。

 そうした過酷な日々が音楽家をねじ曲げてしまったのか。

 あるいは、彼のもとへ盗みにはいった、あの忌々しい男が言葉巧みに、狡猾な罠を張り巡らされ、それにはまってしまったのか。

 いよいよ彼は途方にくれた。この世に信じられるものがないようにさえ思えた。これまでもヒドい目にはたくさんあってきたのだけれど、そのたびに世の中の、人間の良い部分を見ようとしてここまで戦い抜いてきた。

 しかし、彼には悠長に落ち込んでいる暇さえなかった。

 王様お抱えの音楽家の中には、彼の敬愛する者以外にも、当たり前だけれどもたくさんの音楽家がいる。そうしてその中の何人かも、やはり凡百の盗人どもと同じように彼のアイデアを盗作していた。

 とはいえ、どういった事情があるのかは分からない。巷の凡才とは違い、王家専属の音楽家の中には、いうまでもなく、彼が幼少のころから仰ぎ見てきた才能の持ち主もいる。だから、ただ単にそのあたりに転がっている凡百の人間と同じように私利私欲のために手を汚したとは考えられないのだ。承認欲求も自己顕示欲も満たされ、すでに時代を築き上げてきた功績をもつ伝説だっていたのだ。

 ただし、王家専属とだけあって、その権力も絶大だった。

 なにも悪事を働いていないどころか、むしろ被害者である彼の方が、盗作疑惑で追われる側となったのだ。そうして、これがよくある小競り合い程度ならば禁固数年ですんだのかもしれないが、よりにもよってそれを訴えてきたのが王家専属の音楽家たちだったために、王様の感情的な独断により、彼は死刑を宣告された。

 どうあってもしがない一般人である彼には勝ち目がなかった。

 だから、彼は逃げた。財産を失い、これまで作り上げてきた作品も、アイデアも、信用も失い、信じていた夢も憧れも、友人や家族との繋がりも帰る場所もことごくすべてを失って、それでも生き延びるためにひたすら逃げた。

 生き延びて、自らの才能を世間に示しさえすれば、あるいは自分の汚名をそそぐことができるかもしれないと考えたからだ。そうして、胃に穴があくほどの緊張と重圧に苦しめながら、彼は隠遁生活の傍ら、死にものぐるいで創作を続けた。文字通り、命を削って作品を創り出してきた。これが失敗してしまえば、つまらないものを生み出してしまい、名誉挽回が成し遂げられることがなかったならば、そのとき自分は最後に残ったこの命さえ失ってしまうのだ。


 そうして来る日も来る日も洞窟にこもり、ただひたすらに作品の製作にとりかかっていたけれど、ときどきは浮浪者として町へ降り、食べ物を買ったり情報を集めたりもしていた。

 そんなある日、彼はとある新聞記事を目にした。

 そこには、彼を非難し侮蔑する音楽家の言葉が並べられていた。

 とはいえ、ほとんどの人間にはその文章はそこまで刺激的な文面としては取られないだろう。共通鍵を必要とする暗号と同じように、共通の認識を前提とするものにだけ伝わる遠回しな言葉だっただから。

 ただ、彼にだけはそれがはっきり読めた。読めてしまったのだ。

 それを目にしたとき、彼は心の真ん中をへし折られた気がした。

 憧れの人物が彼の創作を自分のものとして利用したことだけは、まだ耐えることができた。きっと音楽家のことだから、悪意なく、無垢にやったことなのだろう。あるいは被害者ですらあるかもしれない、残忍で幼稚で利己的な悪意の犠牲となって、意図せずに罪を背負わされたのだから。

 恨むべきは音楽家ではなく、彼の大事なものを盗み出してばらまいた主犯者だ。

 彼はどんな冷遇に身を置こうとも、それだけは絶対に見失わないように心がけていた。やつらの思うつぼにはまり、見当違いな憎しみにこの身を委ねることだけはするまいと、強い心によって己を律し続けてきた。

 にも関わらず――にも関わらず、この仕打ちである。

 一体どういった心境の変化なのか、どんな嘘や欺瞞が音楽家の心を変えてしまったのか、あの純粋で善良な人の心を歪めてしまったのか。彼には知るよしもないけれど、ともかく音楽家は、彼の尊敬してやまない人は、あろうことか彼に向けて明確な悪意と敵意まで表明してきた。

「そん、な…………」

 この世をすべて敵に回しても、濡れ衣をかぶせられ、友人に裏切られて家族と切り離されようとも、たった一人でも自分を信じてくれる人がこの世のどこかにいさえすれば、それでいいと思っていた。それだけでどんな困難さえも耐えてゆくことができると。

 いつの日か汚名を晴らし、社会に復帰して、そうして実力によって正当に名を成した暁には音楽家のもとへ会いに行き、この身に起こったなにもかもを洗いざらい伝えようと思っていた。そうして、一体どんな卑劣な嘘が音楽家を襲ったのか、その真実をいつの日かきちんと聞き出そうとも思っていた。

 しかし、言葉の通り、彼は信じるものを失った。

 あるのはただ、幾多の人間に食い荒らされた才能だけだった。だがそれだけでは無意味だった。才能だけでは飯は食えない。それがきちんと資本力のある者の目に留まり、職業人として評価され、そうして資本主義の経済の中に組み込まれて仕事として創作をすることによって、初めて世の中に芸術家としての自分の居場所を得ることができるのだ。

(ああ、なんだったのだろう、今までのことは)

 それが、彼の正直な心情のすべてだった。

 あんな風にあくせく夢をもって、人を信じ、積み重ねてきた日々はなんだったのだろう。これまでのすべての日記もメモも、詩も、ことごとく失われ、奪われて、踏みにじられ、それに込められた彼の思いや理想も知らない卑怯な人間の名札が貼られて、金を稼ぐためだけの道具として市場に出回っている。なにもしらない無知な人々の耳を喜ばせてはいるけれど、それは本来彼が得るべき賞賛であり、名誉であり、利益であった。

 そして、今、あろうことか、会ったこともない憧れの人物に、彼の創作を盗んだこともきっと訳があるのだろうと飲み込もうとしてきた人物に、信じられないほど冷淡な仕打ちまで受けている。

(これが、俺の歩んできた人生の末路なのだろうか)

 彼は、決して器用な人間ではなかった。裕福な生まれでも、幸福な環境でもなかった。天才とはほどとおい、しがない凡人として、けれど親兄弟に恥じることのないように、背筋だけは伸ばして生きてきたつもりだった。どれだけ理不尽な現実にでくわそうと、他人から悪意を浴びせかけられようと、大切なもの、自分を支えてくれた人たち、勇気を教えてくれた人たちから受け取った「信じる気持ち」だけはなくすまいと地を這いながらも明日を目指して生きてきた。

 いつか、誰かに届く日が来ると。

 自分も彼らのように誰かの役に立てる日がくると。

 ただ、それだけを信じて、望んできた。

 他のすべてを捨てて、祈るように、願いとともに歩んできた。

 卑怯なこと、卑劣なことには一切手を染めず、冤罪を着せられて人々に追われ、石のつぶてを投げられたとて、やり返したり、自分も誰かを陥れてやろうとしたことはただの一度もなかった。ただただ、歩むべきように歩み、信じたとおりに生きてきた。

 それなのに。

 音楽家はとうとう、敵に回ってしまった。

 他人の嘘に耳を傾け、彼のことを見下げ果てたクズだと決めつけまでした。

 ああ、どんな気持ちでいるのだろうか。

 そんなこと、やっぱり、どれだけ考えても、分かるはずのないことだった。

 ああ、本当のことを伝えてしまったら、この人はどうなってしまうのだろう。

 彼は、そんなことも考えてみた。

 音楽家は、あまりにも「無垢」だったのだ。

 きっといろいろな苦労を乗りこえてきた人ではあるのだろう。それでも信じる心を失わない弱くても強い芯をもった、優しい人でもあるのだろう。けれど、あまりに無垢だった。そして無知だった。

 音楽家は知らなかったのだ。

 この世には想像を絶するほどに卑劣で、残忍で、人と人とも思わない下劣な人間が存在することを。自分が利益をえるためや、容認欲求、自己顕示欲を満たすためなら、平気で人が苦しむことを承知の上で、ありもしない話をでっちあげて、周りの人間を操ろうとする「悪人」がいることに。

 人間の醜さに対して、あまりに無垢であったために抗体をもたなかった。

 だが、それだって無理もない話だ。

 実際およそ常識的な人間の思いつく範疇にあるようなやり口ではないのだから。脳が機能不全を起こし、人間らしさを喪失したイカレた人間の手法など、音楽家でなくても見抜くのは難しい。普通の人間はそんな小説の中にだって出てこないような外道が人間のふりをして町を歩いているだなんて想像する機会さえもたないのだから。

 だが、不運にして彼は知ってしまった。その餌食になってしまった。

 そうして音楽家も同様に毒牙にかかった。

 音楽家の楽曲を、音楽家が生み出したものと思い込んでいる聴衆と同じように、音楽家もまた他人のついた嘘や偽りに飲み込まれ、それをすっかり信じ込んでしまったのだ。

 

 その事実をまざまざと思い知らされたとき、彼はふとひとつだけ疑問に思った。

(このまま生き延びたとて、何があるというのだろう)

 何度も繰り返し書いてきたように、今の彼は能力と命以外のあらゆるものを失っている。それでも創作を通して成功すればいつの日か誤解を解くことができると信じていたけれど、だが、そこにひとつ問題が生じてしまった。

(音楽家は、どうなってしまうだろう)

 もし彼の描いた通りに、彼が成功し、正当な評価を世間から得て、そうして音楽家にあってすべての真実を告げたとき、あの心優しいがゆえに悪人に騙されて不幸にも手を汚してしまった音楽家は、自分がしてきたことをどう思うだろう?自分を取り巻く世の中の醜悪さと欺瞞とをどう思うだろう?思いやり深い、無垢なあの人は、果たしてそれに耐えることができるだろうか。

 そうではないかもしれない、と彼は思った。

 それを知ってしまったとき、きっと音楽家は今の音楽家でいることはできなくなるだろう。素直な人だからこそ、その瞳に注ぎ込まれた悪意をそのまま受け取って、そうしてその結果、音楽家は自分の心が最も忌み嫌うもののそれへと変わり果てたことを知るだろう。

 それは、誰にとっても不幸なことだ。

 音楽家自身にとっても、その音楽を心待ちにしている聴衆にとっても、なにより、音楽家を尊敬し、憧れ、ずっと夢にまで描いてきた彼にとっても。

 もはや、誰もが幸せに暮らせるハッピーエンドなど辿り着きようがなかったのだ。

 仮に彼が成功し、かつ、音楽家にはすべてを黙って活動していたとしても、それはそれで誤解を受けたままでいることは彼にとっては耐えがたい苦痛であるし、表現することを自らの仕事にしてしまった暁には、きっと彼は最後まで口をつぐむことができないだろう。いつの日か、どこかで、自分の身に降りかかった理不尽を誰かに伝えたくなってしまう。

 それらのことを考え合わせた末に、彼はひとつの決断をくだした。

(もう、逃げるのはやめにしよう)

 実際、もうほとほと疲れ果てていた。ほとんど意地と執念だけでやってきたのだ。もう身体も精神もとっくに限界を迎えていたのに、それを魂を奮い立たせることによってなんとかここまで這いつくばってきたのだった。

 だが、もうそれもここまでだ。

 自分がいなくなれば、それですむ話だ。

 どのみち彼の力では太刀打ちしようのない相手だったのだ。強大な権力という魔物、誤った情報に踊らされる大衆という怪物。これらをすべて敵に回したままこれからもたったひとり、孤独に、すべての秘密を背負い、そうしてへらへらと笑って生きていくなど、土台不可能な話なのだ。

(もう、疲れたな……)

 後悔がないかと問われれば、もちろんある。

 たくさんある。叫びだしたいほどある。壁をなぐりつけたくてたまらない気持ちにもある。

 だが、やり直したいかと問われれば、それは断じて否定する。

 彼は、いつでも全力を出して生きてきた。

 いかなる理不尽や逆境にあっても、常に己の出せるベストを尽くしてきた。

 もちろん、完璧な人生ではなかった。多くの過ちを犯し、人を憎み、恨み、傷つけ、そうして自分も傷つけられたこともある。しかし、そのすえに、お互いの間違いを許し合ったり存在の大切さを確かめあったりもした。

 決して順風満帆とはいえなかった。それどこか常に向かい風だったとさえいえる。常に何かに追い立てられるように、あるいは胸を焦がし追い求めながら生き急ぐようにしてここまできた。迷惑をかけてきた。心配もかけてきた。消えない傷も、引きずってきた暗い過去とてある。

 だが、それでもやっぱり、そのときそのときで自分にできる精一杯をやってきた。それは、彼だけではない。誰だってそうだろう。不完全な人間なりに、無知で未熟な人格なりに、せめて大切な人だけは笑顔にできるように、かなうならば、いつか遠くにいるまだ会ったことがない人とも、笑顔で手を振り合えるように、それだけを願って生きてきた。

 だから、悔いはあるけれど、戻りたいとは思わない。

 そんなのは悪夢だ。終わることのない地獄だ。人生の皮を被った底のない虚無だ。一度きりしかないことを知っているから、いつか終わることを確信していたからこそ、力の限り走ってこられた。どんな生き様を貫いても、どうせ死に際には悔いが残るだろうと知っていたけれど、たった一度きりの勝負だから胸を張れるように死力を尽くしてきた。

 ただただ生き急いできた道のりは、地獄にいるかのように長くて、天国をのぞき見たかのように短かった。


 走馬燈から戻ってきた彼の耳に、大衆の熱狂が蘇る。

 彼の前にいた死刑囚が、ちょうど処刑されようとしているところだった。

「た、助けてくれえ!誤解だ!俺じゃないんだあ!」

 その絶叫を受けて、観客の盛り上がりは最高潮に達する。

 およそ日常とはかけ離れた狂ってるとしか思われない罵詈雑言。もちろん、言葉だけでなく、石やゴミや、とにかく思いつく限りのものが投げつけられる。

 それを彼は、ただただぼんやりと眺めていた。

 あの死刑囚も自分と同じように、濡れ衣を着せられて殺されるのか。それとも自分を陥れ、音楽家にまで罪を背負わせたゴミクズのように卑劣極まる悪人が、ボロを出してつかまっただけなのか。それは本人にしか分からない。ここにいる誰も、大衆にも刑吏にも、もうすぐ同じ運命を辿る彼にすら分からない。

 そうして誰もそんなことを気にかけはしない。

 誰が正しくて、誰が間違っているのか、何が本当で何が嘘なのか。そんなこと、ほとんどの人間にとってどうでもよいことなのだ。そんなことを考えるほど真面目ではないし、暇でもない。人間のあまりの複雑さは頭のなかに畳み込むにはあまりに大きすぎるし、それを考えることで生計を立てるべき学者の多くは、金を稼ぐためだけに実生活で役に立たない机上の空論や現実から乖離した訳のわからない理論をに夢中になったり、別に学者でなくても誰でも最初から知っているようなことをわざわざ小難しく書き並べ立てたりする。

 そんなことを考えているうちに、前の死刑囚の首が吊られて、彼の番が回ってきた。

(やっと楽になれるのか)

 それを救いだと思うことは、あまりに切ないことだけれど。 

 人生に対する逃げかもしれないと自分でも思うけれど。

 でも、もう彼にもどうしようもなかったのだ。

 そしてこれは盗人どもの勝利ではなく、盗人どものの底なしの悪意の勝利だ。

 せっかく血反吐を吐いて作り上げてもその成果をまるごとごっそり盗まれて、おまけにこちらが偽物扱いされたのでは、どうしようもない。

 だから、彼は自主をした。やってもいない罪を認めて殺される道を選んだ。

 彼が口を閉ざすことで、無実の罪をかぶったままくたばることで、守られるものがたったひとつだけあるのだった。

 もはや自分の人生にさえなんの希望も見いだせなくなった彼にとって、それだけが最期に残された希望だった。

 もう、しょうがない。恨まれても、憎まれても、誤解を受けたままだとしても。それはもう、どうしようもない。諦めるほかないことなのだ。

 だが、彼にはやっぱりどうしても音楽家を憎むことだけはできなかったのだ。

「…………」

 彼は、この人混みの中にいた音楽家ではなく、青く眩しい快晴の空を見上げた。

 人生最後の瞬間に、こんなにも美しいものを目に焼き付けられることだけが、彼にとって唯一の慰みだった。

 そうして誰にも知られることのない胸の内で、音楽家に向かって語りかける。

(たとえあなたが俺の無実を信じてくれずとも、俺はあなたの無垢を信じます)

 あなただけは、根っからの悪人ではないのだと。私利私欲にまみれて手を汚すようなクズではないのだと。あまりにもお人好しだから騙されてしまっただけで、本当は、俺が信じたとおりに人を愛し、未来を信じることのできる人なのだと。

 言い訳のように、死者へ捧げる祈りのように、それだけをただ心に念じる。

「おい、なにか最期に言い遺したいことがあるなら聞いてやるぞ?」

 刑吏が気味の悪いほどにたにたした顔つきで尋ねてくる。

 さきほどの死刑囚の死に様が面白かったから、彼にも命乞いのひとつでもさせようという腹づもりなのだろう。ここでみっともなく狼狽えて、泣きわめき、命乞いのひとつやふたつでもお目にかければ、道化として娯楽のひとつくらいを提供してやることはできるかもしれない。

「いや、結構だ」

 しかし、彼はそれを断った。

 たとえこの世すべての人間を敵に回し、誰に信じられずとも、彼は、彼だけは己の無実を知っていた。偏見と差別の海に沈められ、溺死させられることになるとしても、哀れな道化としてこれから首を吊られ、それが人々に喜ばれることになろうとも、己の心の内だけは最期まで一人の人間として生き、一人の人間として死ぬつもりだったのだ。

「け、そうかい」

 刑吏は興をそがれたように唾を吐くと、ぞんざいに彼の首に縄をかけた。

 そうしてひとしきり観客を煽ってから、彼の足を支えていた床を外した。 

 一瞬の浮遊感。

 重力に従って身体が落下し、そして当たり前のように首かけられた輪っかに全体重がかかり、その瞬間。

 彼の首が、音をたてて折れた。


 それから数週間後、彼のねぐらにしていた洞窟から、彼の遺書とおぼしき紙切れが見つかった。そこには、力尽きた弱々しい、そしてみすぼらしい字で次のようなことが書いてあった。


  ◇  ◇  ◇


 宛先を書くことはできませんが、もしあなたがこれを読んでくださったのなら、きっとすぐにお分かりいただけることでしょう。

 ですから、宛名を書かない無礼を、どうかお許しください。

 

 私はあなたのことは今でも信じています。きっとあまりにもお人好しだからそこにつけこまれて加害者にしたてあげられたとか、騙されたとか、やむを得ない事情があったのだと思います。これまであなたの音楽にはたくさん救ってもらったり、勇気をもらったりしてきたので、そのことは、本当に感謝しています。


 そこで、ついでに預かってほしいものがあるというか、私は妥協せずに進んできたつもりですがどうやらここまでのようなので、どうか私が進めなかった分まで遠くへ辿り着いて欲しいと願っています。そこで、とあるアーティストが書いた詩を引用させていただきたいと思います。ご存じないかもしれませんが、興味をもっていただけたら、是非調べてみてください。あなたもきっと気に入る素敵な方です。暗闇の中に光がさして人生が明るくなったけれども、ただ、どれだけ夢を見て雲を眺めてももうどこにも行けず自分の進む道はないから遠く進む人たちに応援しているよと手を振る。あなたは一人ではないから、きっと辿り着けるから、と。希望と諦めの混ざり合った、私はあの詩からそんな連想を抱きました。


 こんなのはほとんど呪いと変わらないことも自覚してはいますが、それでもどうしても行儀良く飲み込んだままではいられませんでした。お互い信じてはならない人を信じてしまったのが運の尽きということなのでしょう。彼らもおそらくこの世の悪意の被害者なのかもしれませんが。良い意味でも悪い意味でも、生きていると思いもよらないことがたくさん起こるものです。


 それでも、あなたのような素晴らしい人が現代にもいるということを知ることができてよかったです。そのことは私にとっても、最後の最後まで心強い希望でありました。できることなら、直接自分の声であなたへの感謝を伝えたり、この身に起こったなにもかもを書き残したいところですが、今ではなんだかしなくてもいいかなあという気持ちです。言いたいことはたくさんありますがきりがないので、このあたりで。最後に、一番伝えたいことを少しだけ。本当に、ありがとうございました。


 あなたの音楽に出会えたことは、両親のもとに生まれたことについで、私の人生で二番目に幸せなことでした。



  ◇  ◇  ◇

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