後編

 道場を出たときにはすでに暮れ六つを過ぎ、辺りはすっかり暗くなっていた。

 清之介せいのすけの提案で、上士たちの集まる藤澤ふじさわ町ではなく、かつて道場帰りに寄り道した笠取かさどり町へ向かうことにした。

 すぐに赤い提灯が見つかった。下士も来れば町人も来るという、安い居酒屋だった。「さくま屋」といった。間口は狭いが、奥行きがある。まさに、うなぎの寝床といった店だった。

 三人は、わずか二つしかない座敷の一つに腰を落ち着けた。

 そこそこに美味い酒と、それなりに美味い肴が、次々に並べられた。

「以前、道場にいた小池こいけ八衛門はちえもんを覚えておるか。つい五、六日前だったか、子どもが生まれたそうだ。男子でな、えらい喜びようだ」

 清之介が焼き魚を口に放り込んで言った。

「そうか、小池には、もう嫁がおったのか」

 甚八じんぱちも焼き魚をつついた。

「そういえば、昔、小池と殴り合いをした阿部だがな、来年、江戸詰になるそうだ」

 源之丞げんのじょうは山菜の白和えを上品に箸で口に運んだ。

 盃を傾けながらの、毒にも薬にもならぬ話に、三人は花を咲かせた。

 ちょうど、数年前のように。

 ただ純粋に心底から笑い、ときには真面目に剣法や藩政について語り、ときには愚痴をこぼし合ったころ――若さ、いや、幼さというものか。

 胸底のどこかに冷めたものを抱えながら、甚八は酒をなめた。

 三人が居酒屋を出たのは、九つを過ぎたころだった。

 夜気が肌寒かった。

 何とはなしに、三人は龍之尾川へ向かった――幼いころから、つい数年前まで、何度も何度も歩いた川沿いの道。

 誰からともなく、河原へ下りた。砂利を踏みながら、揺れる水面みなもに映る笠取町の灯を眺めた。

「懐かしいの。昔はここいらを三人で歩いたものだ」

 口を開いたのは清之介だった。かなり酔っている様子だった。ろれつが回っていない上、足取りがおぼつかない。

「四人だ」

 甚八はつぶやいた。清之介と源之丞の耳に、その言葉が届いたのかどうか、それはわからない。

 かつて、幼かった甚八たち三人に加え、おきぬもまた兄にくっついて現れた。

 夏には、甚八らは着物を脱ぎ捨て、褌一丁になり川に入って泳ぎを競った。お絹が「あたしも泳ぐ」と言い出し、甚八と清之介が慌てたこともあった。

 ある秋の日には、三人で釣り糸を垂れたときもあった。お絹が退屈そうに甚八や清之介にしきりに話しかけ、「女子おなごに釣りはわからん」と源九郎が突き放した。お絹は怒り、膝の上まで着物をまくり上げると、川のなかにじゃぶじゃぶと入り、釣りの邪魔をしたこともあった。

「十四日か。宵待月よいまちづきがまぶしいわ」

 ろれつの怪しい声で源之丞が言った。

「おう、われら、みなでこんな月を見上げたときもあった。あれは、まだ十八か、九のころだったかの」

 源之丞以上に、相当酔っている様子の清之介と一緒に、甚八は東南の夜空を見上げた。明るい月だった。

 その瞬間だった。

 背後から不自然な風――刀を抜いた。

 同時に下段からの敵の凶刃。跳ね上げた。強い気合いの乗った重い刃。すぐさま上段から斬り下げた。かわされた。甚八は月を見たばかりで、闇に眼が慣れていなかった。眼前は、漆黒の闇。青眼せいがんに構えた。すぐさま相手の第二撃。かろうじて体をかわした。

 ――居合いの剣。

 闇のなか、うごめくものがかすかに見えた。「うっ」とうめく源之丞の声が耳に届いた。

「源九郎!」

 呼びかけた。斬られたのか。漆黒の闇に包まれた河原には、何も見えなかった。

 何かが、闇のなか、動いた。

「甚八、危ない!」

 清之介の声が聞こえたが、姿は見えなかった。

 月の光に照らされ、白刃が閃いた。打ち合う音。散る火花。眼に映った。清之介と打ち合ったようだった。一瞬後、うごめく刺客の気配は消えた。

 甚八は剣を八双に構え直した。暗闇のなかへ、あえて力強く、一歩前に踏み出した。草履が河原の砂利を踏みつけた。

 激しい殺気。押し寄せてくる。

 やはり下段からの一撃。半足引いた。擦り上げてくる刃。空を切った。八双から打ち下ろした。鈍い手応え――斬った、と感じた。が、殺気は消えていない。

 甚八は青眼に構え直した。徐々に闇に眼が慣れてくる。

 眼前に、黒い塊のようなもの。じりっ、と近づくのが見えた。殺気は消えるどころか、いや増していた。間合いは近すぎるほど、近い。

 下段からの一撃。

 見切っていた。寸前でかわした。斬り下げた。深々と斬った感覚があった。

 黒い塊が、河原の砂利の上に倒れた。

 甚八は、大きく息を吐いた。

「源九郎、清之介!」

 呼びかけた。

「斬ったか?」

 近寄ってくるのは清之介だった。

「ああ、怪我は?」

「大丈夫だ。くそっ、酒など飲むのではなかった。ところで、源九郎は?」

「甚八、大丈夫か……」

 あえぎあえぎ、月明かりの下、源之丞が近づいてくるのが見えた。

「斬られたのか?」

 甚八は訊いた。

「右腕をな。かすっただけだが……情けない、刀を落としてしまった」

「命あるだけ、重畳ちょうじょう

 清之介が言った。が、甚八は、源之丞の腕からしたたり落ちるどす黒い血を見て、改めて胸底に冷たいものを感じた。

 不意に清之介が言った。

「すまぬ、源九郎。不覚だ。酔うていなければ、一太刀で斬り捨てておったのに」

 苦々しげに、清之介は言い、「うっ」と口を押さえると川べりへと駆けて行った。清之介は吐いているようだった。

 甚八は、はじめて自分がまだ抜き身を下げていることに気づいた。懐紙で血脂を拭い、刀を鞘に収めた。刺客に近づいた。

 見たことのない顔だった。歳のころは、三十近いだろうか。月代さかやきは伸び、身に着けているものも、垢染みていた。無精髭を生やし、骨張った顔つき。浪人のようだった。

「どうする?」

 源之丞が低い声で言った。

「わざわざ番屋に知らせずともよかろう」

 清之介が歩み寄って来た。もとより、甚八もそのつもりだった。

「しかし……」

 言いかける源之丞に向かって、清之介は低く脅すような声で言った。

「今宵、何もなかった。おまえのその傷、医者に診せても口止めするのだぞ」

 月明かりのなか、源之丞はつかの間、動揺した顔を見せたが、ゆっくりとうなずいた。

 三人で、浪人の死骸を龍之尾たつのお川に流した。ゆっくりと、うつ伏せになった名も知らぬ浪人の死骸が流れていった。その背中を、いつまでも執拗に月明かりは照らしていた。

 ――俺は、人を斬った。

 いつまでも両手が震えた。止めることができなかった。

 そして、ふたたび人を斬らねばならぬことを、はっきりと感じていた。


 甚八は、刀を抜いた。刀身が、夕暮れの光に鈍く光った。

 一度、血を吸った剣だ。いくつかの刃こぼれがあった。やむを得なかった。目釘を確かめ、鞘に収めた。

 書き置きをすべきか、と思った。

 苦労を重ねた兄の新左衛門しんざえもんにも、あによめ奈津乃なつのにも、大きな迷惑をかけることになる。いや、迷惑どころか、尾之江おのえ家は取り潰しになるであろう。

 すずりの上で、墨を擦り始めたときだった。

 不意に襖が開いた。甚八は慌てて振り向いた。

 登城しているはずの新左衛門が、蒼白な顔をして立っていた。

「兄上……」

徒目付かちめつけの杉原さまから、使いの者が来た」

「なぜ、兄上が杉原さまに……」

「違う。おまえのことだ」

 甚八は、眼を閉じた。一昨日の浪人との斬り合いが、明らかになったのであろう。まさか、先にこのときが来るとは思っていなかった。

「兄上、実は――」

 が、新左衛門の返答は、意外なものだった。

能見のみ清之介とは、昵懇じっこんの仲と聞いておるが」

「は、はい、確かに」

「栗本源之丞とは、同じ道場に通っておったな」

「源九郎、いや、源之丞と清之介は、確かに親しい友です。二人に、杉原さまから何かお咎めが……?」

 新左衛門の返答はわざと感情を殺すようだった。

「能見が、栗本を斬った」

「な、なんですと……」

 甚八は絶句した。あえいだ。

 ――清之介も、気づいたのだ。

 お絹の死に源之丞が直接関わっていることに、そしてまた、先日の刺客は源之丞自らが放った者であることに。そして、自ら手傷を負ったように見せかけたことに、清之介もまた、甚八同様に気づいたのだった。

 昨日、甚八はふたたび古砥こと町でおように会っていた。後ろから呼びかけると、振り向いたおようは顔面を真っ白にした。

 甚八はつとめて冷静を装い、おようを茶屋に連れて行き、半ば脅すように、問い糾した。

 やはり、おようは知っていた。

 お絹が、自害したことを。

 懐剣で喉を突いたという。すぐさま、懇意にしており、屋敷も近い石鎚いしづち昭白しょうはくを呼んだが、すでにお絹の息はなかった。

 源之丞は修羅のような形相で、お絹の自害を秘すことを屋敷内の者たちに命じた。

 さらに、おようは、嗚咽おえつしながら、切れ切れに甚八に告白した。

 お絹が喉を突いて血みどろで倒れているのを最初に見つけたのは、千代という下女だった。その千代が、いまわの際のお絹の言葉を聞いたという。

 お絹が自害した翌日、千代は暇を出され、実家に戻された。

 お絹の最後の言葉――甚八は、それを聞いた次の刹那には、源之丞を斬る決意をした。

「わたしにも、吟味があるのですね」

「違う。おまえにとっては、もっとつらく、厳しいことかもしれぬ」

 新左衛門は眉間に皺を寄せた。どこか、その双眸そうぼうは哀しげに見えた。

 新左衛門に促されるまま、ただ甚八は玄関へ出た。まるで雲の上を踏むかのような思いだった。

 ――清之介が、源九郎を斬った。

 つまり、甚八は先を越された、ということだった。まさに四半刻しはんとき前には、自ら栗本の屋敷に出向き、源九郎を斬ろうとしていたのに。

「杉原さまの命に従うかどうか、おまえに任せる。わしに言えるのは、それだけだ」

 玄関先に駕籠が待っていたのに、甚八は当惑した。

 その脇に立っている細身の侍は、徒目付、杉原佐門の使者であろう。わざわざ甚八に向かって一礼し、「どうぞ」と言った。

 甚八は、杉原佐門がおのれに求めていることを、そのときに悟った。


助太刀すけだちはご無用に願います。能見は、わたしが斬ります」

 甚八は、年嵩の二人の討手に、頭を下げた。二人とも、城下の道場で剣客として知られている者とのことだった。一人は中肉中背の若い土肥どいという男――〈等眞とうま流〉の遣い手だとのこと――、もう一人は長身痩躯、〈一想いっそう流〉を遣う柳瀬という四十がらみの男で、井筒いづつ道場で師範を務めていた。

 たすきを掛け、鉢巻きを締めた。

 能見清之介は、八つ刻のころ、同じく非番であった栗本源之丞の屋敷を訪れた。

 奥の座敷で、清之介と源之丞はしばし話をしていたという。

 半刻ほどたったころ、怒号とともに、刀の打ち合う音が二度、三度聞こえ、抜き身を下げた清之介が座敷から現れた。畳の上には、源之丞がうつ伏せに倒れていたという。

 そのまま、栗本の屋敷は取り囲まれた。屋敷に仕える下僕や下女たちは、みな外に出され、今では能見清之介ただ一人が残っているという。

「栗本の屋敷には、何度も参ったことがございます。屋敷内の様子は、よく存じておりますゆえ、わたしが先に入ります。後詰めをよろしくお願い申し上げます」

 土肥、柳瀬の二人とも不満そうだったが、甚八の言葉には理があった。

 甚八はゆっくりとした足取りで、栗本の屋敷へ踏み込んだ。


 廊下は薄暗かった。

 甚八は、迷わず奥の座敷へと向かった。

 開け放たれた襖の向こう、畳の上に源之丞が倒れていた。そのかたわらにひざまずき、合掌した。

 改めるまでもなかった。源之丞は、一撃で右肩から斬り下げられていた。

 ――甚八さまは、やはりお変わりになりませんね。

 不意に、最後にお絹に会ったときの言葉が耳の奥に甦った。

「源九郎よ、おまえは、変わったのか?」

 甚八は、源之丞の亡骸に向かってつぶやいた。

「そうよ、変わったのだ」

 不意に声が聞こえた。

 いつしか庭に、能見清之介が立っていた。左手に徳利とっくりを提げている。やや頬が赤らんでいるのは、すでに飲んでいるのだろう。

「まさか、とは思ったが、おまえが討手とは、な。どうだ、飲むか?」

 清之介はかぶりを振った。

「なぜだ?」

「それはわしのやったことか、それとも源九郎のやったことか?」

「両方だ」

「訊かんほうがいい。さあ、早くおまえはおまえの仕事をしろ。ただし、わしも手を抜かんぞ」

 甚八は、足袋たび裸足はだしのまま、庭に下りた。

 振り返った――畳の上の源之丞の亡骸。

「やはり、一杯もらおう」

 甚八は手を伸ばした。清之介は、表情を変えずに徳利を差し出した。甚八は受け取った。一升徳利はかなり重かった。そのまま徳利の口から、二口飲んだ。

 能見清之介は、大儀そうに庭石に腰を下ろした。

 甚八は、徳利を清之介に返した。

「お絹どのは自害だった。源九郎はそれを内密にし、お絹どのの手当に駆けつけた医師の石鎚昭白は、刺客に口を封じられた。あの刺客は――おそらく浪人だろうが――間違いなく、源九郎が雇った者だ。俺が知っているのはそこまでだ」

 吐き出すように、甚八は言った。

 清之介の表情は変わらなかった。徳利からごくりごくりと酒を飲んだ。

「美味い。さすが栗本の家だ。いい酒が台所にあったわ」

「はぐらかすな。何を知った? なぜ、源九郎を……」

 ゆっくりと、清之介が立ち上がった。その白眼は酒精でやや充血していたが、冷静さを失うほどではない、と甚八は悟った。

 甚八は清之介に、ゆっくりと歩み寄った。清之介は警戒しなかった。甚八は清之介の手から徳利を引きちぎるように取ると、あおった。

 熱い液体――胃の腑へ落ちてゆく。

「なぜ……なぜ、俺はおまえを斬らねばならんのだ?」

 徳利が清之介に奪われた。それだけの隙を見せていたのだ。が、甚八はされるがまま、立ち尽くした。

「わしが斬らねば、おまえが斬っていた……そうだろう?」

 甚八は言葉を失った。

 清之介の言うことは、当を得ていた。もしかしたら、ほんのわずかな差で、二人の立場はまったく逆転していたかもしれなかった。

 甚八は、庭の玉砂利に視線を落とした。そのまま、つぶやくように甚八は言った。

「お絹どのが自害されたことには……源九郎が関わっておるのだろう」

 清之介が充血しつつある三白眼を甚八に向けた。

「それ以上、言わせるな」

 清之介が、徳利を脇に置いた。

 甚八は、刀の鯉口を切った。

 清之介の顔には、静かな笑みが浮かんでいた。左手をゆっくりと柄に置く。そのままの姿勢で、清之介はつぶやくようなかすれ声で言った。

「お絹どのは、清之介にけがされたのだ」

 急激に口のなかが乾くのを感じた。

「源九郎は、けだものだ」

 清之介は吐き捨てた。

彼奴きゃつは、狂したのだ」

 清之介は、淡々と、彼が源之丞と直接談判して聞き知ったことを、語った。

 清之介とお絹の婚礼が決まったころから、源之丞の胸底にある毒蟲どくむし――と、源之丞は言ったという――のような闇がうごめき始めた。

 妹であるお絹を、一人の女として見る眼を得てしまったのだ。

 そして、ついにその毒蟲は、源之丞の心を支配した。

 役目を終え、同輩と下城したあと、幾人かで藤澤町で酒を飲んだ。

 酔った源之丞が帰宅したのは、すでに四ツを過ぎていた。毒蟲は源之丞を暗闇へと引き込んでいた。

 源之丞は、すでに寝入っているお絹の寝所の襖を開けた。手を伸ばした。お絹の口を押さえた。布団をはがした。

「言うな!」

 甚八は、おのれの声が裏返っていることに気づいていた。

「お絹どのは、翌日には屋敷を飛び出して行方知れずとなり、屋敷では大騒ぎとなった。が、そのままお絹どのは夕刻には戻って来たそうだ」

 あの日、甚八と会った日、お絹の双眸の奥に見えた闇の正体が、ようやく知れた。

 あまりにも残酷なものだった。

 ――甚八さま、人は、変わるものでしょうか。

 お絹の声。お絹は、おそらく自死する場を探し求め、城下町を彷徨さまよい歩いていたのであろう。

 源之丞は変わってしまった。そして、その場で甚八と偶然にも出会った。出会ってしまった。お絹は死に場所を失ったのだ。そして、屋敷へと戻った。

 ――兄上は、鬼になりました。

 それが、下女のお千代が聞いたという、お絹の遺した最後の言葉だった。

「おまえは鬼を斬った。が、藩命だ。俺はおまえを斬らねばならん」

 甚八は白刃を抜き放った。

 清之介も、ゆっくりと刀を抜いた。

「わしとの婚礼が決まり、彼奴は狂うたのだ。血を分けた妹を手籠てごめに――」

 最後まで聞かず、甚八は一撃を放った。清之介は素早くかわした。甚八の刃はかすりもしなかった。

「聞きとうない!」

「わしも、話しとうなかったわ」

 二人は、ともに青眼に構えた。にらみ合った。

 かつて二人は道場で、竹刀や木剣で何度も立ち合った。互いに打ち合い、互いに怪我をし、ときには昏倒することすらあった。

 あのころには、源九郎もいた。たとえ血を流すような稽古になろうと、そのあとには笑い合い、相手の剣法を茶化し合った。笠取町で酒を飲み、くだを巻いた。

 あのころとは、違うのだ。

 視界がにじんだ。

「馬鹿者め、泣くな! 泣いては立ち合いにならん!」

 清之介の怒号。が、その清之介の頬も、すでに涙で濡れていた。

「源九郎を斬って、ただでは済まぬことはわかっていただろうに。なぜ武士なら武士らしく、おのれの始末を付けなかった?」

 あえぐように甚八は言った。

「言い訳にしか聞こえんだろう。が、先に斬りかかって来たのは彼奴だった。気づいたとき、わしは源九郎を……友を斬っていた。こいつのためなら代わりに死ねる――そう思うておった友を、わしは斬ったのだ」

 清之介の声も震えていた。

 二人は、互いに青眼に構えたまま、互いの姿を見合った。

 甚八の視界は、ますますにじんだ。清之介の姿がいくつにも重なって見えた。

「泣くな、甚八! おくしたか!」

「おまえこそ泣いておるではないか、清之介!」

 頬を濡らしながら、二人は対峙した。

 じわじわと、清之介が左に動き始めた。それに合わせ、甚八も左に動く。足袋裸足なので、庭の玉砂利が食い込んだ。が、痛みは感じなかった。

 風を感じた。と同時に、凄まじい気合いとともに清之介が斬り込んできた。かろうじてかわした。が、左の二の腕を斬られた。

 体を入れ替えた二人は対峙した。

 甚八は、青眼のまま、待った。

 斬られた左腕から、生暖かいものが腕を伝い落ちるのを感じた。

 清之介がゆっくりと剣を八双に構え直した――それでも、待つ。したたる血。

 甚八は、剣先を徐々に右へ傾けた。

 清之介が、半足だけ、間合いを詰めた。

 一瞬の後、八双からと見せかけ、下段から一気に斬り上げて来た。甚八は逆に踏み込んだ。右手だけで剣を振った――確かな手応え。同時に、右脇腹に痛み。

 ふたたび、二人は体を入れ替えた――ともに青眼の構え。

 しばし、甚八と清之介は、互いの濡れた瞳の奥を見合った。

 先に庭に膝を着いたのは、甚八だった。

「今日は、引かなかったな。これが、道場の秘剣『不知夜いざよい』か」

 かすれた清之介の声が聞こえた。

「うむ……」

 かろうじて、甚八は答えた。

 機が満ちたのちも、さらに待つ。そして相手の懐に跳び込む、相討ち覚悟の剣――不知夜。道場では、甚八だけが師範の養老ようろう又十郎またじゅうろうから伝授されていた。

 かすれゆく意識のなか、清之介の声が聞こえた。

「なぜ、わしらは斬り合わねばならなかったのか。お絹どのも、決して、喜んではおらぬだろうに。なぜだ、なぜなのだ……?」

 清之介の声は、もはやほとんどささやきに近かった。

「わからん。俺も……おまえを斬りとうなかった。許せ……清之介」

 あえぎながら、ようやく甚八は答えた。

「甚八、泣くな……討手うってがおまえで、よかった」

 その言葉と同時に、能見清之介の体が、どう、と庭に倒れ込んだ。

 足音が聞こえた。後詰めの土肥と柳瀬が、しびれを切らして駆け込んできたのだろう。

 甚八はゆっくりと立ち上がり、空を見上げた。すっかり暗くなっていた。

 ――甚八さまは、やはりお変わりになりませんね。

 はるか遠くに、お絹の声を聞いた。

 東の空には、満月を過ぎた十六夜――不知夜いざよいの月が上り始めていた。

 尾之江甚八は、天空を仰いで泣いた。


「不知夜の剣」完

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不知夜(いざよい)の剣 美尾籠ロウ @meiteido

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