不知夜(いざよい)の剣

美尾籠ロウ

前編

 おきぬさまがお亡くなりになった、と尾之江おのえ甚八じんぱちしらせたのは、あによめ奈津乃なつのだった。

「まことですか!」

 道場から帰宅したばかりの甚八は、裏返った声を上げた。そのままふらふらとよろめいた。三和土たたきにへたり込んだ。息ができなかった。

 ご冗談でしょう、と嫂の言葉を笑い飛ばすことはできなかった。

 甚八は立ち上がろうとした。腰から下の力が入らない。また尻餅をついた。息が苦しかった。あえいだ。

 ——お絹どのが、亡くなられた。

 嫂の姿が揺れて、揺れて、そして揺れて、何度も揺れた。

 やがて嫂の姿形も、眼の前から揺らめいて消えていった。

 ——甚八さまは、やはりお変わりになりませんね。

 一昨日、最後に聞いたお絹の声。

 いつになく物静かだったが、それでいてやはり透き通った声——耳朶にはっきりと聞こえる。

 少し微笑んでそう言うお絹の双眸そうぼうの奥底に、甚八は、どこか黒々とした重い石のようなものを見つけた。

 ——あのとき、言葉をかけるべきであった。

 甚八は三和土にうずくまった。

「おおおおうう」

 甚八は、人目もはばからずに泣いた。お絹のために泣いた。

 遠くに嫂の声を聞いたような気がした。

 甚八は気づいていた。あのときのお絹が、背負いきれないほどのくらい何かを負うていたことに。そして、自分が、あえてお絹に手を差し伸べることをしなかったことに。甚八は、殊更にお絹に背を向けた。わざと、その眼を見ぬようにした。

 それ以上を考える余裕などありはしなかった。

 甚八の脳裏に浮かぶのは、まっすぐに、どこまでもまっすぐに相手の瞳の奥を見て話す、お絹の微笑む面影だけだった。

 一刻あまりも、甚八の嗚咽は続いた。


 甚八の剣は、荒れた。

 道場内には、緊迫した空気が濃密に漂っていた。

 尾之江甚八に対する、能見のみ清之介せいのすけの気迫もまた、尋常ではなかった。

 能見の籠手をかわし、体を入れ替えた。二人は離れた。その距離、およそ三間。

 しばし、にらみ合いが続いた。甚八は青眼せいがんに構え、いっぽうの能見はゆっくりと八双はっそうへ竹刀を移した。

 裂帛れっぱくの気合い。

 動いたのは清之介だった。甚八は竹刀を振り下ろした。が、次の瞬間、清之介の竹刀が甚八の胴をしたたかに打った。激しい痛み。甚八の体は宙を飛んだ。壁に叩きつけられた。道場の床に仰向けに倒れた。しばし天井を見上げた。視界は揺れていた。

「そこまで!」

 道場主、養老ようろう又十郎またじゅうろうの声が道場に響き渡った。門弟たちが、甚八に駆け寄ってくるのがわかった。

 甚八は片手を挙げて、彼らを制した。

 全身のあちらこちらの痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がる。まだ眩暈めまいがした。

「もう一本……」

 かすれた声で言った。

「そこまでだと申した。おい、尾之江を隣の部屋へ運べ。布団がある」

 数名の門弟たちが駆け寄ってきた。彼らを振り払おうとして、またしても甚八は道場の床に倒れ込んだ。

 涙がにじむ。その向こうに、見下ろす清之介の姿がかすんでいる。

「甚八、引いたな」

 答えられなかった。唾を飲み込んだ。

「俺のほうが、もっとみじめになる」

 すぐさま清之介の姿は消えた。

 ——見抜かれていたか。

 わざと竹刀に打たれたことに、清之介ほどの剣客ならば、気づかぬはずがない。

 おのれの愚かさに、また眼前がにじんだ。

「あとで藤澤ふじさわ町の『あき』へ行こう。ま、おまえが歩けるならば、だがな」

 声だけを聞いた。

 

 能見清之介は、お絹の許婚いいなずけであった。祝言しゅうげんを直前にして許婚をうしなった清之介の悲哀は、察するにあまりあった。

 尾之江甚八、能見清之介、そしてお絹の兄である栗本くりもと源之丞げんのじょうの三人は、同い年であり、幼いころからの友人同士だった。

 もっとも、清之介と源之丞の家は、それぞれ百五十石、二百五十石取りの上士だ。二十石取りの尾之江家とは、家格が違っていた。

 しかし、若い彼らは、それぞれの家柄など考えることもなかった。道場では、三人とも、一心不乱に汗を流した。三人はいつしか、養老道場でも将来を嘱望される存在となっていた。


 はじめてお絹と出会ったときのことを、甚八は明瞭に覚えている。

 今から五年ほど前——甚八はまだ十六歳。残暑厳しい秋だった。お絹は、十二歳になったばかりであろうか。

 道場からの帰路、甚八、清之介、まだ源九郎げんくろうと名乗っていた源之丞の三人は、他愛もない話に笑い合っていた。

「暑くてかなわん。冷たい茶でも飲んで行かんか?」

 との源九郎の誘いで、甚八と清之介ははじめて栗本家の門をくぐった。

 ——これが、二百五十石取りの家か。

 甚八はみすぼらしい我が家を思うた。顔には出さず、卑屈に笑った。

 ひろびろとし、それでいて細やかに手入れされた庭に面する部屋に通された。広く枝を伸ばした松の木がひときわ目立った。

 庭に見とれていたとき、ふすまを開けて茶と菓子の載った盆を持って現れたのが、お絹だった。

 色黒で、男の子と見まごうばかりだった。

「兄上、一つ頂戴します」

 と言いながら、すでに羊羹ようかんの一切れを手にしたお絹に、

「こら、絹。女子が何をするか」

 源九郎が慌てて一喝した。が、その声の底には、妹への愛情の響きがあった。

「あら? どうして、そんなに殿方は偉いのかしら?」

 いっぽうのお絹は、口をとがらせた。そして、その口に一切れの羊羹を放り込んだ。

 思わず清之介が吹き出したことを、甚八は覚えている。

「絹も男に生まれとうございました」

 言い捨てて、乱暴に襖を開けて部屋を出て行った。

「たかが羊羹一切れで……いやあ、お転婆てんば娘で困る」

 顔を真っ赤に染め、肩をすぼめて恥じ入る源九郎の姿——それがまた、微笑ましくも滑稽だったことを、甚八は覚えている。

 しかし、それから一年少々過ぎたころ——お絹が十三を過ぎたころ——まるでさなぎから色も鮮やかな蝶が現れたかのように、所作も面立ちも体つきも、すっかり女らしくなった。

 そのころから、甚八も清之介も、お絹の存在を強く意識するようになった。何かとかこつけて源九郎の家へ立ち寄った。が、目的の半分はお絹と会い、とりとめもない話をすることだった。甚八は、ただそれだけでよかった。

 そのようなときですら、お絹の甚八や清之介への立ち居振る舞いは、十二のころとほとんど変わることはなかった。

 養老道場での稽古の帰り道、甚八と清之介の気持ちを知っているのか知らぬのか、しばしば、

「冷たい麦湯でも飲んで行け。この暑さだ。家に帰り着く前に倒れるぞ」

 笑いながら源九郎は、二人を彼の家へ誘った。無論、遠慮する理由など、なかった。

 そして、栗本家に招じ入れられれば、必ずお絹が現れた。

 お絹は、いつもよく笑った。

 あれはいつのときだったか——お絹に訊かれたことがあった。

「甚八さまは、歯でもお悪いのですか?」

「あ、べつに、歯はいたって丈夫ですが……」

 すると、お絹は、笑みを浮かべた。

「何か、お茶に入っていたでしょう?」

「いえ、何も?」

「まことでございますか?」

 無邪気にお絹は甚八の顔を覗き込んだ。

 甚八は、わざわざ庭の松の樹へ顔を向けた。自身でも、上気して頬が火照っているのがわかった。

 今のお絹は、野原を駆け回った子ども時代とは違う。すでに歳も十五だった。

「何か悪戯いたずらをなさいましたな、お絹どの?」

 ずけずけと遠慮なく言うのは、清之介だった。甚八には、逆立ちしても真似ができなかった。

「はい、甚八さまのお茶だけに、入れておきましたもの」

 口をとがらすようにして、お絹は言った。

 次の瞬間、うろたえた様子で源九郎が膝立ちになり、身を乗り出した。

「き、き、絹、何をした? 子細によっては、妹といえど——」

「ああ、怖い怖い。確かに絹は入れました。甚八さまのお茶だけに、『苦虫にがむし』を」

 そう言うや否や、はじめて会ったときの十二の少女のように、袖で口を隠すことなどせず、笑い出した。

「絹、おまえというやつは……」

 源九郎は畳の上にへたりこんだ。叱りつけるその顔もまた、笑みで緩んでいた。

 甚八の隣では、清之介が腹を抱えて笑いながら、切れ切れに言った。

「お絹どの、残念無念ながら……この甚八、洒落のわからん朴念仁ぼくねんじんです。きっと今ごろ『苦虫』は、甚八の胃の腑で暴れ回っておるでしょう。それに気づかぬのが、哀しいかな、尾之江甚八という男です」

 部屋は、若者たちの笑い声で満ちあふれた。

 独り、笑いものにされた形の甚八ではあったが、それは苦痛ではなかった。

 お絹の笑顔はうつくしかった。お絹の笑い声は耳に心地よかった。

「絹、もう下がれ。あとは男の話だ」

 源九郎が言うと、お絹は形の整った唇を尖らせた。その歳には、すでに紅も塗っているはずだ。甚八にはその赤さがまぶしかった。

「ああら、いつもいつも兄上は、『男が、男が』とおっしゃいますが、その兄上は女子おなごから生まれたのではございませんかしら?」

「こらっ、口の減らんやつだ」

 源九郎の一喝に、お絹はちらっと舌を見せて、部屋から去って行った。

「困ったものだ。あんな調子で嫁に行けるのか」

 大げさに源九郎がため息をつく。

「いやいや、存外に、あのように気の強い人を嫁に欲しい、という男……いや、家があるかもしれんぞ」

「なんだ、それはおまえのことか?」

 清之介は答えずに大口を開けて笑った。

 甚八は、部屋から去る瞬間のお絹の姿を思い返していた。襖を閉じる直前に、ほんの刹那、甚八に向けたお絹の笑みに、気づかなかったわけではなかった。

 が、もはやお絹の笑みを、二度と見ることはできない。


「今日はすまなかった」

 甚八は徳利を清之介に差し出した。

「いや、手酌でやろう」

 二人がいるのは藤澤町の小料理屋「あき」の座敷だった。

 甚八のような下級武士、しかも次男坊がそうそう入れる店ではなかった。城に近いこともあり、客は侍ばかりだった。甚八がまれに行く笠取かさどり町の店とは大きく異なる。あちらでは町人も下級の侍も同じ店で飲み、しかも、二階に客を上げるようなところだった。比べるまでもなく、格が違った。

「つまらぬ真似をしてしまったな」

 すると清之介が盃を空にし、言った。

「わかっておったぞ」

「うむ、確かに隙を作った。許せ」

 甚八は盃の酒をなめた。酒に強いほうではない。飲もうと思えば飲めるのだろう。が、酒乱の気があり母をよく泣かせていた亡父の姿を思い起こすと、飲む気が失せた。格段、酒というものを美味だと感じたこともない。

「それもあるが……お絹どののことだ」

「お絹どの?」

 甚八は口まで持って行きかけた盃を置いた。

「気づかぬと思うか。俺の眼は節穴ではないわ」

 甚八は盃を指先でもてあそんだ。

「おまえも、お絹どのを好いておったであろう」

「そんなことか……」

 甚八は、盃から手を放し、鯛の刺身に箸を伸ばした。

「おまえはいつもそうだ。ここぞというときに、逃げる。剣と同じだ」

「逃げた覚えなど、ない」

 この店の魚は、いつも新鮮で美味かった。が、今の甚八に味は感じられなかった。

「おまえはそう言うだろう。しかし、子どもの時分から、おまえはいつだってそうだ。必ず、ぎりぎりのところで一歩引く。切羽詰まったとき、必ず引く——勝てることを知りながら、だ。悪い癖だ」

「何の話だ? お絹どのは、おまえの許嫁だったではないか。引くも何も、二十石の次男坊が、なぜ前へ出られる?」

 清之介は盃を空けた。そして、にらみつけるような眼を甚八に向けた。

「お絹どのは……おまえのことを好いておった」

「な、何を言うか」

 甚八は盃をあおった。喉が焼ける。手酌で二杯目を注ぐ。すでに燗徳利かんどっくりはほとんどからになっていた。すかさず清之介が手を叩いた。店の者が姿を現すと、酒の代わりを注文した。

「飲んでばかりいないで、食べたらどうだ? 体に毒だ」

「もっと毒をあおりたいわ」

 清之介は沈んだ声で言い、いらだった仕草で鯛の刺身に箸を突き刺し、むさぼるように喰った。

「馬鹿なことを。それより、源九郎——源之丞はどうだ? さぞや気を落としているだろうな」

 代わりの徳利が来た。清之介はすぐさま自分の盃に酒を満たし、あおった。

「ああ。が、そろそろ登城し始めたらしい。城内で会ったことはないがな」

 さらに清之介は盃を重ねた。

 三人の関係に急な変化が訪れたのは、昨年はじめのことであった。

 源九郎の父、源之丞が卒中で倒れた。二十歳になっていた源九郎は、すぐに妻を娶った。もとより二百五十石の家柄だ。縁談に不自由はしなかった。しかも、娶ったのは次席家老、勝屋かつや勘解由かげゆの縁戚にあたるという。それからふた月とせず、父親の源之丞が没した。源九郎は家督を継いで源之丞を名乗るようになった。

 それから、三人の仲が疎遠になったのは、自然のなりゆきでもあった。正確に言えば、いつまでも部屋住みの甚八と、城中で立派に役目をこなす二人とのあいだに、明瞭で深い溝ができた——少なくとも、甚八はそう思っていた。

「一昨日だったか、四十九日しじゅうくにちの法要があったと聞いたが……」

 甚八が言いかけると、清之介が遮るように口を挟んだ。

「顔は出しておらん」

 清之介は徳利に手を伸ばし、盃を満たすとすぐに空けた。

 お絹の死は、あまりにも突然のことだった。栗本家では内々で葬儀を済ませた。いずれにせよ、甚八が顔を出せるような場ではなかった。

「しかし清之介、おまえはお絹どのと……」

 言い淀んだ。

 清之介は眼を伏せて、盃をあおった。

「俺は呼ばれなかった」

「またも、か?」

 甚八もまた、盃を酒で満たした。飲み干した。熱いものが喉が胃の腑へ落ちてゆく。

「もはや俺は栗本家の縁者ではない、とのことだろう」

 清之介は盃を重ねた。

「しかし、解せんな。まるで……」

 言いかけ、甚八は口をつぐんだ。

 清之介には聞こえなかった様子だった。清之介に聞かせたくなかった。

 ——まるで、お絹どのの死を隠しているかのようだ。

 実際、お絹の死因について、詳らかにされていはいなかった。急病で倒れ、医師を呼びに走らせたが、医師が着いたときにはすでに事切れていたという。

 ——あのとき、お絹どのは……

 亡くなる二日前、甚八はお絹とばったり出会っていた。

 嫂の内職である籠作りの手伝いにも飽いて、釣り竿と魚籠びくを片手に、龍之尾たつのお川へ向かう途中だった。場所は、高弓たかゆみ町の商家が並ぶ通りから、一本南に入った人通りの少ない道だった。

 まだ若い侍が、昼間から仕事もせずに釣りに向かう姿——できれば誰にも見られたくない。

 が、あろうことか、お絹と会ってしまった。

「甚八さま」

 声をかけてきたのはお絹のほうだった。ちょうど、櫻庭さくらば神社の鳥居の下だった。

「や、これは……」

 甚八は口ごもった。今さら、釣り具を隠すわけにもいかない。

 いっぽうのお絹も、思いがけず甚八と会い、動揺している様子だった。

「釣りですか?」

「いや、いい陽気ですな……」

 甚八は頭を掻いた。

 雲一つ見当たらない快晴だった。楠の枝からの木漏れ日が、透き通るようなお絹の顔に微妙な陰影を投げかけていた。

 まるで人形のように顔色が白く、そしていささか面やつれしているように見えた。

「いかがなされた? お風邪でも召されましたか」

「いいえ……」

 答えるお絹の声は小さかった。

「いよいよ、来月でござるな」

 甚八は、曖昧に空を見上げた。

「『ござる』だなんて……甚八さまらしい」

 はじめて、かすかな笑みがお絹の顔に宿った。

 甚八は、動悸どうきを覚えた。

 ——もう、清之介のもとへ嫁ぐ人なのだ。

 穏やかならぬ思いを振り払い、甚八は言った。

「清之介は、このところ、いささかはしゃぎ過ぎですな。稽古がおろそかになっております。昨日も後輩から二本も取られました。が、こんな折も折、養老先生も清之介を叱るわけにもいかず……清之介は果報者だ、と道場内ではやっかみの声がしきりです。それにしても、お兄上と清之介が、ますます遠くなるような思いがします。私のような軽輩の次男坊にも、早く婿入りの口があればよいのですが、なかなか……」

 甚八は、ただお絹の顔を見ないように、ふたたび頭上の楠の枝を見上げた。

「甚八さまも、たまにはお話しになるのですね」

 甚八は口をつぐみ、正面からお絹の顔を見た。

「や、これはお急ぎのところ、失礼しました」

 甚八は一礼し、そのままお絹の脇を通り過ぎようとした。

 もう二度と、この人と親しく言葉を交わすことは叶わぬ。その思いが甚八を饒舌にしていた。それを見透かされ、無性に恥ずかしくなった。

「甚八さま」

「何か?」

 振り向きざまに言い、甚八は胸をかれるような思いをした。

 祝言を前にした十七の娘の、明るく浮き立った面持ちではなかった。何かしら、暗くて重いものを負うた者だけが見せる顔だった。

「いかがなされた? ご気分でも……?」

「いえ……甚八さま、人は、変わるものでしょうか」

 それは問いではなかった。

「清之介のことなら、ご心配無用でござる。情にあつく——ときとして篤すぎますが——正直で決して嘘のつけぬ男であることに間違いござらん。お絹どのと清之介の縁談が決まったと聞いて、心底安堵しているのです」

 甚八が言うと、お絹がぽつり、と独りごちた。それは、甚八の聞き間違いかもしれなかった。

「甚八さまは、やはりお変わりになりませんね」

 お絹は深々とお辞儀をし、甚八も礼を返した。内心では狼狽していた。

 甚八は、歩き出したお絹の背中をしばし見つめ、最後に聞いた言葉を反芻していた。

 しかし、甚八はお絹に背中を向けた。いつまでもお絹を見つめることを、自分に許さなかった。

 甚八は、自宅へ戻る道を足早に進んだ。もはや、釣りなどどうでもよかった。


「起きんか、甚八」

 不意に体を揺すられた。

「おまえが先に酔うてどうする。さして飲んでおらんだろう」

 眼を開いた。眼の前に、真っ赤な清之介の顔があった。

 眠ってはいなかった。

「酔うておらん。一杯くれ」

「おう、その心意気だ。今日は、俺にとことんつきあえ。勘定は心配するな。今宵、飲まずにいつ飲む?」

 いつの間に用意したのか、清之介が突き出したのは湯飲みだった。そこへ、徳利から、なみなみと酒が注いだ。

 甚八は一気に半分ほど飲み干した。

 ——なぜあのとき、お絹どのに声をかけられなかったのか。

 いや、答えはわかっていた。お絹にもわかっていた。

 ——甚八さまは、やはりお変わりになりませんね。

 そう、俺は変わることのできぬ男だ。

「おう、いい飲みっぷりだ。久しぶりに笠取町に繰り出すか」

 笠取町で飲み直す、という意味ではなかろう。あの町には多くの遊郭が建ち並んでいる。

「遠慮する。そんな気分ではない」

「固いの、おまえは」

 その刹那、何か甚八の脳裏で一閃するものがあった。

 ——あの日、なぜお絹どのが、あんなところに……

 栗本家の一人娘であるお絹が侍女も付けず、たった独り、人けの少ないあの道を歩いていたのは、いったいなぜなのか?

 お絹の瞳の奥にかすかに見えた、あの黒々とした闇は何だったのか?


 五日後のことだった。

 夕餉ゆうげの際、珍しく兄の新左衛門しんざえもんが「甚八」と呼んだ。

 仲の悪い兄弟ではない。が、やはり甚八にはつねに「厄介者」という意識が働いていた。祖父の代から使えている老僕の儀助と一緒に、いつも台所で食事を摂っていた。嫂の奈津乃は「遠慮せずに同じ部屋で」と言う。が、やはり甚八にはできなかった。

「おまえの養老道場に、居合いを遣う者はおるか?」

「居合い、ですか? 我が道場は〈無明むみょう流〉ですよ。まもりの剣です」

「わしが剣法に暗いことはわかっておるだろう」

 兄の新左衛門も、若いころに道場に通ったことがあった。が、まったくと言っていいほどものにはならなかった。その代わり、と言うべきか、学問の才には恵まれた。

 もっとも、わずか二十石取り、普請ふしん組で、日々、泥まみれになって人夫を差配している現在、兄の学問の才は、到底、生かされているとは言い難かった。

「聞いておらんか、昨夜、古砥こと町で人が斬られた」

「古砥町で? それはまた、穏やかではありませんな」

 古砥町といえば、城に近く、上士の屋敷が並ぶ町だった。

「あくまでも噂だがな——無論、わし程度のところには噂しか入って来んが——居合いのつかい手が一太刀ひとたちで斬ったとのことだ。斬られたのは医者だ。私闘とは思えん。かといって、浪人者の強盗でもないらしい。それで、辻斬りなどと物騒な話が持ち上がったのだろうが……」

「医者?」

 甚八の背筋を、冷たい何ものかがそっと触れたような感覚があった。

「おまえさま、お食事中にそんな話はおやめくださいませ」

 嫂の奈津乃がたしなめた。

「あ、うむ、そうだな。すまぬすまぬ」

 婿養子でもないのに、嫂の奈津乃には頭が上がらぬ、優し過ぎるほどの優しさを持っているのが、兄であった。

「兄上、斬られた医者というのは……?」

「斬った張ったの話は終わりだ。おまえも、少しは学問をせんか。これからは、刀よりも頭がものを言うときだ。おまえもいつまでも——」

 いつもの説教が始まりそうだった。嫂の奈津乃が、ちら、と夫を加勢するかのように、甚八を見た。が、あえて甚八は食い下がった。

「斬られた医者は、何と申す名だったのか、お聞きですか?」

「おまえもしつこいの。斬られたのは、石……そう、石鎚いしづちなにがしとかいう医者だ」

 急に寒気を覚えた。

 ——石鎚昭白しょうはく

 昨日、甚八はその名を聞いたばかりだった。

 栗本家に呼ばれ、お絹の亡骸をはっきりと見たはずの医師の名だった。


 甚八は理由を付けて内職を怠り、家を出た。嫂の奈津乃は何も言わなかったが、もしかしたら察するところがあったのかもしれない。

 上士らの屋敷がずらりと並ぶ古砥町。その一角、栗本家の前で、甚八は待った。たかは知れていたが、もっとも小綺麗な着物を着て、黒板塀の陰にずっと立ち続け、栗本家を見張った。

 そして昨日、使いに出た下女——名は、おようと言った——の一人に眼を付けた。まだ十二、三であろう。その後を追い、隙を見て背後から声をかけた。怪訝そうな下女に向かって、徒目付かちめつけ配下の者であることを匂わせた。

 下女のおようは激しくおびえた。が、そのおびえた様子から、甚八は、お絹の死が普通ではなかったことを確信した。

「石鎚先生を呼べ」

 蒼白な顔の源之丞が、下男に命じて使いに走らせた姿を、おようは目撃していた。

「お絹どのの姿を、おまえは見ていないのだな?」

 おようは、震えながらうなずいた。

「石鎚昭白どのが到着したときには?」

「すでに……手遅れだと……」

 おようは震え出し、ついには泣き出した。

「泣くな。人目がある。今日、わしと会ったことは決して口外せぬよう。おまえの名は出さぬゆえ、心配するでない」

 甚八は、おように一分銀を渡した。ほんとうの目付であれば、そんなことはしないだろう。が、おようは小粒を押し頂くようにして、逃げるように甚八の前から走り去った。

 しばし甚八は曇った空を眺めて立ち尽くした。

 ——お絹どのは、病死ではなかった。

 しかも栗本家は、お絹の死の真相を隠さなければならなかった。

 ——石鎚昭白に会わねばならん。

 そう思った矢先のことだった。


 能見清之介が鋭く面を狙ってきた。甚八はかわした。鼻先に、宙を切る清之介の竹刀を感じた。次の瞬間に、甚八は清之介の左籠手をしたたかに打った。

「まだまだ、もう一本!」

 清之介は言った。その声には、前回立ち合ったときよりも、張りが戻っていた。清之介も立ち直りつつあるようだった。

 逆に、それが甚八には胸苦しかった。

 ——俺は、友を裏切っているのか?

 その思いが剣にも表れていた。今日はすでに五本中、三本、取られていた。

 そのときだった。道場内にざわめきが起きた。

 若い門弟たちが道場の入り口に顔を向けていた。甚八と清之介も、思わず一度顔を見合わせ、同時に入り口を見やった。

 現れたのは、栗本源之丞だった。

 源之丞が道場に姿を現したのは、およそ半年ぶりであろうか。すっかり憔悴しきった面持ちだった。

 甚八は、苦い唾を飲み込んだ。

「おお、源九郎。案じておったのだぞ」

 額の汗を拭いながら、清之介が昔の名で呼び、笑顔で歩み寄った。

「案じておったのは、こっちだ。おぬしには……」

「養老先生にご挨拶は済んだのか? ならば、稽古を見て行け」

 源之丞の言葉を遮り、清之介は言った。

「いや、今日は、久しぶりに剣を振りたくなってな」

 源之丞——かつての源九郎は、甚八や清之介よりも小柄で、華奢な体つきだった。しかも、色白で、まるで役者のように整った顔立ちをしていた。

 しかし、今の源之丞は、十ばかり歳を取ったように見えた。

 清之介は、道場を見回すと、大声で呼ばわるように言った。

「本日、道場におる者は運がよいぞ。養老道場の『龍虎りゅうこ』、栗本源九郎——いや源之丞と、尾之江甚八の試合に立ち会えるのだ!」

「馬鹿を申せ、清之介。ただわしは剣を振りに来ただけだ」

「それではつまらん」

 諦めたように源之丞は短く息を吐くと、甚八を向いた。

「甚八、相手を頼む」

 甚八が籠手を着けようとすると、

「木剣でやろう」

 すでに源之丞は木剣を手に、二度、三度と感覚を確かめるように軽く振った。

「よかろう」

 甚八も木剣を手に取った。

 門弟のあいだに、ただならぬ緊張が走ったのが感じられた。いつのまにか静まり返り、壁際に寄って、二人の剣士を取り囲んでいた。

 甚八と源之丞は、ともに木剣を青眼に構えた。三間ほど、離れている。

 そのまま、しばらく変化しなかった。

 〈無明流〉は、護りの剣——「待ちの剣」だ。相手が仕掛けてくるのを、待つ。

 甚八は、おのれが冷静に源之丞と、その木剣を見つめていることに気づいた。

 甚八は、ゆっくりと——見えるか見えないか、という速さで、剣先を右へ動かした。

 源之丞が打ち込んできた。甚八には読めていた。わずかに体を捻る。同時に源之丞の木剣を打った。源之丞の手から木剣が飛んだ。床に落ちた木剣は、中程から折れていた。

「参った」

 源之丞は汗だくになり、道場の床に、どう、と腰を落とした。

「大分、なまっておるな」

 甚八は、妙に冷ややかな気持ちで言った。

「門弟たちに無様な姿を見られてしもうた。もう一本、いや三本。今度は竹刀でな」

 二人は竹刀を手にした。防具は、着けていない。

 結局、三本のうち、二本を甚八が勝った。一本は、源之丞に右の籠手こてを許してしまった。

 汗みずくになりながら、道場の隅に座った。門弟たちのざわめきの声が否応なく耳に入ってきた。いずれも、感嘆の声だった。

 息が上がっていた。稽古不足とはいえ、栗本源之丞の剣はかつての鋭さをさほど失っていなかった。

 視界に影が落ちた。見上げると、能見清之介の姿があった。

「また、引いたな。悪い癖だ」

「道場の『龍虎』などと、下らんことを……」

「嘘ではなかろう。どうだ、一杯やらんか、源九郎も交えて。無論、やつのおごりだ」

 甚八は清之介を見上げた。その屈託のない表情に、甚八の胸裡には懐かしい思いが甦った。

 三人で、ただ純粋に竹刀を振るい、汗をかいた日々——わずか、三年ばかり前のことだ。

 源之丞を見ると、やはり額からしたたる汗をしきりに手拭いでこすっていた。甚八の放った右の胴がかなり効いている様子だった。ときおり、片手で打たれた右脇腹を押さえ、眉間に皺を寄せている。

「清之介、居合いの遣い手を知らんか?」

 甚八は小声で訊ねた。

「居合い? 城下には、木部きべ道場というのがあるな。〈孟宗もうそう流〉といったかの。他に居合いを遣う道場はないと思うが……それが、どうかしたのか?」

「いや」

 甚八は思案した。

 石鎚昭白を斬ったのは、何者なのか。


「不知夜の剣」後編へつづく

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