不知夜(いざよい)の剣
美尾籠ロウ
前編
お
「まことですか!」
道場から帰宅したばかりの甚八は、裏返った声を上げた。そのままふらふらとよろめいた。
ご冗談でしょう、と嫂の言葉を笑い飛ばすことはできなかった。
甚八は立ち上がろうとした。腰から下の力が入らない。また尻餅をついた。息が苦しかった。あえいだ。
——お絹どのが、亡くなられた。
嫂の姿が揺れて、揺れて、そして揺れて、何度も揺れた。
やがて嫂の姿形も、眼の前から揺らめいて消えていった。
——甚八さまは、やはりお変わりになりませんね。
一昨日、最後に聞いたお絹の声。
いつになく物静かだったが、それでいてやはり透き通った声——耳朶にはっきりと聞こえる。
少し微笑んでそう言うお絹の
——あのとき、言葉をかけるべきであった。
甚八は三和土にうずくまった。
「おおおおうう」
甚八は、人目も
遠くに嫂の声を聞いたような気がした。
甚八は気づいていた。あのときのお絹が、背負いきれないほどの
それ以上を考える余裕などありはしなかった。
甚八の脳裏に浮かぶのは、まっすぐに、どこまでもまっすぐに相手の瞳の奥を見て話す、お絹の微笑む面影だけだった。
一刻あまりも、甚八の嗚咽は続いた。
甚八の剣は、荒れた。
道場内には、緊迫した空気が濃密に漂っていた。
尾之江甚八に対する、
能見の籠手をかわし、体を入れ替えた。二人は離れた。その距離、およそ三間。
しばし、にらみ合いが続いた。甚八は
動いたのは清之介だった。甚八は竹刀を振り下ろした。が、次の瞬間、清之介の竹刀が甚八の胴をしたたかに打った。激しい痛み。甚八の体は宙を飛んだ。壁に叩きつけられた。道場の床に仰向けに倒れた。しばし天井を見上げた。視界は揺れていた。
「そこまで!」
道場主、
甚八は片手を挙げて、彼らを制した。
全身のあちらこちらの痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がる。まだ
「もう一本……」
かすれた声で言った。
「そこまでだと申した。おい、尾之江を隣の部屋へ運べ。布団がある」
数名の門弟たちが駆け寄ってきた。彼らを振り払おうとして、またしても甚八は道場の床に倒れ込んだ。
涙がにじむ。その向こうに、見下ろす清之介の姿がかすんでいる。
「甚八、引いたな」
答えられなかった。唾を飲み込んだ。
「俺のほうが、もっとみじめになる」
すぐさま清之介の姿は消えた。
——見抜かれていたか。
わざと竹刀に打たれたことに、清之介ほどの剣客ならば、気づかぬはずがない。
おのれの愚かさに、また眼前がにじんだ。
「あとで
声だけを聞いた。
能見清之介は、お絹の
尾之江甚八、能見清之介、そしてお絹の兄である
もっとも、清之介と源之丞の家は、それぞれ百五十石、二百五十石取りの上士だ。二十石取りの尾之江家とは、家格が違っていた。
しかし、若い彼らは、それぞれの家柄など考えることもなかった。道場では、三人とも、一心不乱に汗を流した。三人はいつしか、養老道場でも将来を嘱望される存在となっていた。
はじめてお絹と出会ったときのことを、甚八は明瞭に覚えている。
今から五年ほど前——甚八はまだ十六歳。残暑厳しい秋だった。お絹は、十二歳になったばかりであろうか。
道場からの帰路、甚八、清之介、まだ
「暑くてかなわん。冷たい茶でも飲んで行かんか?」
との源九郎の誘いで、甚八と清之介ははじめて栗本家の門をくぐった。
——これが、二百五十石取りの家か。
甚八はみすぼらしい我が家を思うた。顔には出さず、卑屈に笑った。
ひろびろとし、それでいて細やかに手入れされた庭に面する部屋に通された。広く枝を伸ばした松の木がひときわ目立った。
庭に見とれていたとき、
色黒で、男の子と見まごうばかりだった。
「兄上、一つ頂戴します」
と言いながら、すでに
「こら、絹。女子が何をするか」
源九郎が慌てて一喝した。が、その声の底には、妹への愛情の響きがあった。
「あら? どうして、そんなに殿方は偉いのかしら?」
いっぽうのお絹は、口をとがらせた。そして、その口に一切れの羊羹を放り込んだ。
思わず清之介が吹き出したことを、甚八は覚えている。
「絹も男に生まれとうございました」
言い捨てて、乱暴に襖を開けて部屋を出て行った。
「たかが羊羹一切れで……いやあ、お
顔を真っ赤に染め、肩をすぼめて恥じ入る源九郎の姿——それがまた、微笑ましくも滑稽だったことを、甚八は覚えている。
しかし、それから一年少々過ぎたころ——お絹が十三を過ぎたころ——まるで
そのころから、甚八も清之介も、お絹の存在を強く意識するようになった。何かとかこつけて源九郎の家へ立ち寄った。が、目的の半分はお絹と会い、とりとめもない話をすることだった。甚八は、ただそれだけでよかった。
そのようなときですら、お絹の甚八や清之介への立ち居振る舞いは、十二のころとほとんど変わることはなかった。
養老道場での稽古の帰り道、甚八と清之介の気持ちを知っているのか知らぬのか、しばしば、
「冷たい麦湯でも飲んで行け。この暑さだ。家に帰り着く前に倒れるぞ」
笑いながら源九郎は、二人を彼の家へ誘った。無論、遠慮する理由など、なかった。
そして、栗本家に招じ入れられれば、必ずお絹が現れた。
お絹は、いつもよく笑った。
あれはいつのときだったか——お絹に訊かれたことがあった。
「甚八さまは、歯でもお悪いのですか?」
「あ、べつに、歯はいたって丈夫ですが……」
すると、お絹は、笑みを浮かべた。
「何か、お茶に入っていたでしょう?」
「いえ、何も?」
「まことでございますか?」
無邪気にお絹は甚八の顔を覗き込んだ。
甚八は、わざわざ庭の松の樹へ顔を向けた。自身でも、上気して頬が火照っているのがわかった。
今のお絹は、野原を駆け回った子ども時代とは違う。すでに歳も十五だった。
「何か
ずけずけと遠慮なく言うのは、清之介だった。甚八には、逆立ちしても真似ができなかった。
「はい、甚八さまのお茶だけに、入れておきましたもの」
口をとがらすようにして、お絹は言った。
次の瞬間、うろたえた様子で源九郎が膝立ちになり、身を乗り出した。
「き、き、絹、何をした? 子細によっては、妹といえど——」
「ああ、怖い怖い。確かに絹は入れました。甚八さまのお茶だけに、『
そう言うや否や、はじめて会ったときの十二の少女のように、袖で口を隠すことなどせず、笑い出した。
「絹、おまえというやつは……」
源九郎は畳の上にへたりこんだ。叱りつけるその顔もまた、笑みで緩んでいた。
甚八の隣では、清之介が腹を抱えて笑いながら、切れ切れに言った。
「お絹どの、残念無念ながら……この甚八、洒落のわからん
部屋は、若者たちの笑い声で満ちあふれた。
独り、笑いものにされた形の甚八ではあったが、それは苦痛ではなかった。
お絹の笑顔はうつくしかった。お絹の笑い声は耳に心地よかった。
「絹、もう下がれ。あとは男の話だ」
源九郎が言うと、お絹は形の整った唇を尖らせた。その歳には、すでに紅も塗っているはずだ。甚八にはその赤さがまぶしかった。
「ああら、いつもいつも兄上は、『男が、男が』とおっしゃいますが、その兄上は
「こらっ、口の減らんやつだ」
源九郎の一喝に、お絹はちらっと舌を見せて、部屋から去って行った。
「困ったものだ。あんな調子で嫁に行けるのか」
大げさに源九郎がため息をつく。
「いやいや、存外に、あのように気の強い人を嫁に欲しい、という男……いや、家があるかもしれんぞ」
「なんだ、それはおまえのことか?」
清之介は答えずに大口を開けて笑った。
甚八は、部屋から去る瞬間のお絹の姿を思い返していた。襖を閉じる直前に、ほんの刹那、甚八に向けたお絹の笑みに、気づかなかったわけではなかった。
が、もはやお絹の笑みを、二度と見ることはできない。
「今日はすまなかった」
甚八は徳利を清之介に差し出した。
「いや、手酌でやろう」
二人がいるのは藤澤町の小料理屋「あき」の座敷だった。
甚八のような下級武士、しかも次男坊がそうそう入れる店ではなかった。城に近いこともあり、客は侍ばかりだった。甚八がまれに行く
「つまらぬ真似をしてしまったな」
すると清之介が盃を空にし、言った。
「わかっておったぞ」
「うむ、確かに隙を作った。許せ」
甚八は盃の酒をなめた。酒に強いほうではない。飲もうと思えば飲めるのだろう。が、酒乱の気があり母をよく泣かせていた亡父の姿を思い起こすと、飲む気が失せた。格段、酒というものを美味だと感じたこともない。
「それもあるが……お絹どののことだ」
「お絹どの?」
甚八は口まで持って行きかけた盃を置いた。
「気づかぬと思うか。俺の眼は節穴ではないわ」
甚八は盃を指先でもてあそんだ。
「おまえも、お絹どのを好いておったであろう」
「そんなことか……」
甚八は、盃から手を放し、鯛の刺身に箸を伸ばした。
「おまえはいつもそうだ。ここぞというときに、逃げる。剣と同じだ」
「逃げた覚えなど、ない」
この店の魚は、いつも新鮮で美味かった。が、今の甚八に味は感じられなかった。
「おまえはそう言うだろう。しかし、子どもの時分から、おまえはいつだってそうだ。必ず、ぎりぎりのところで一歩引く。切羽詰まったとき、必ず引く——勝てることを知りながら、だ。悪い癖だ」
「何の話だ? お絹どのは、おまえの許嫁だったではないか。引くも何も、二十石の次男坊が、なぜ前へ出られる?」
清之介は盃を空けた。そして、にらみつけるような眼を甚八に向けた。
「お絹どのは……おまえのことを好いておった」
「な、何を言うか」
甚八は盃をあおった。喉が焼ける。手酌で二杯目を注ぐ。すでに
「飲んでばかりいないで、食べたらどうだ? 体に毒だ」
「もっと毒をあおりたいわ」
清之介は沈んだ声で言い、いらだった仕草で鯛の刺身に箸を突き刺し、むさぼるように喰った。
「馬鹿なことを。それより、源九郎——源之丞はどうだ? さぞや気を落としているだろうな」
代わりの徳利が来た。清之介はすぐさま自分の盃に酒を満たし、あおった。
「ああ。が、そろそろ登城し始めたらしい。城内で会ったことはないがな」
さらに清之介は盃を重ねた。
三人の関係に急な変化が訪れたのは、昨年はじめのことであった。
源九郎の父、源之丞が卒中で倒れた。二十歳になっていた源九郎は、すぐに妻を娶った。もとより二百五十石の家柄だ。縁談に不自由はしなかった。しかも、娶ったのは次席家老、
それから、三人の仲が疎遠になったのは、自然のなりゆきでもあった。正確に言えば、いつまでも部屋住みの甚八と、城中で立派に役目をこなす二人とのあいだに、明瞭で深い溝ができた——少なくとも、甚八はそう思っていた。
「一昨日だったか、
甚八が言いかけると、清之介が遮るように口を挟んだ。
「顔は出しておらん」
清之介は徳利に手を伸ばし、盃を満たすとすぐに空けた。
お絹の死は、あまりにも突然のことだった。栗本家では内々で葬儀を済ませた。いずれにせよ、甚八が顔を出せるような場ではなかった。
「しかし清之介、おまえはお絹どのと……」
言い淀んだ。
清之介は眼を伏せて、盃をあおった。
「俺は呼ばれなかった」
「またも、か?」
甚八もまた、盃を酒で満たした。飲み干した。熱いものが喉が胃の腑へ落ちてゆく。
「もはや俺は栗本家の縁者ではない、とのことだろう」
清之介は盃を重ねた。
「しかし、解せんな。まるで……」
言いかけ、甚八は口をつぐんだ。
清之介には聞こえなかった様子だった。清之介に聞かせたくなかった。
——まるで、お絹どのの死を隠しているかのようだ。
実際、お絹の死因について、詳らかにされていはいなかった。急病で倒れ、医師を呼びに走らせたが、医師が着いたときにはすでに事切れていたという。
——あのとき、お絹どのは……
亡くなる二日前、甚八はお絹とばったり出会っていた。
嫂の内職である籠作りの手伝いにも飽いて、釣り竿と
まだ若い侍が、昼間から仕事もせずに釣りに向かう姿——できれば誰にも見られたくない。
が、あろうことか、お絹と会ってしまった。
「甚八さま」
声をかけてきたのはお絹のほうだった。ちょうど、
「や、これは……」
甚八は口ごもった。今さら、釣り具を隠すわけにもいかない。
いっぽうのお絹も、思いがけず甚八と会い、動揺している様子だった。
「釣りですか?」
「いや、いい陽気ですな……」
甚八は頭を掻いた。
雲一つ見当たらない快晴だった。楠の枝からの木漏れ日が、透き通るようなお絹の顔に微妙な陰影を投げかけていた。
まるで人形のように顔色が白く、そしていささか面やつれしているように見えた。
「いかがなされた? お風邪でも召されましたか」
「いいえ……」
答えるお絹の声は小さかった。
「いよいよ、来月でござるな」
甚八は、曖昧に空を見上げた。
「『ござる』だなんて……甚八さまらしい」
はじめて、かすかな笑みがお絹の顔に宿った。
甚八は、
——もう、清之介のもとへ嫁ぐ人なのだ。
穏やかならぬ思いを振り払い、甚八は言った。
「清之介は、このところ、いささかはしゃぎ過ぎですな。稽古がおろそかになっております。昨日も後輩から二本も取られました。が、こんな折も折、養老先生も清之介を叱るわけにもいかず……清之介は果報者だ、と道場内ではやっかみの声がしきりです。それにしても、お兄上と清之介が、ますます遠くなるような思いがします。私のような軽輩の次男坊にも、早く婿入りの口があればよいのですが、なかなか……」
甚八は、ただお絹の顔を見ないように、ふたたび頭上の楠の枝を見上げた。
「甚八さまも、たまにはお話しになるのですね」
甚八は口をつぐみ、正面からお絹の顔を見た。
「や、これはお急ぎのところ、失礼しました」
甚八は一礼し、そのままお絹の脇を通り過ぎようとした。
もう二度と、この人と親しく言葉を交わすことは叶わぬ。その思いが甚八を饒舌にしていた。それを見透かされ、無性に恥ずかしくなった。
「甚八さま」
「何か?」
振り向きざまに言い、甚八は胸を
祝言を前にした十七の娘の、明るく浮き立った面持ちではなかった。何かしら、暗くて重いものを負うた者だけが見せる顔だった。
「いかがなされた? ご気分でも……?」
「いえ……甚八さま、人は、変わるものでしょうか」
それは問いではなかった。
「清之介のことなら、ご心配無用でござる。情に
甚八が言うと、お絹がぽつり、と独りごちた。それは、甚八の聞き間違いかもしれなかった。
「甚八さまは、やはりお変わりになりませんね」
お絹は深々とお辞儀をし、甚八も礼を返した。内心では狼狽していた。
甚八は、歩き出したお絹の背中をしばし見つめ、最後に聞いた言葉を反芻していた。
しかし、甚八はお絹に背中を向けた。いつまでもお絹を見つめることを、自分に許さなかった。
甚八は、自宅へ戻る道を足早に進んだ。もはや、釣りなどどうでもよかった。
「起きんか、甚八」
不意に体を揺すられた。
「おまえが先に酔うてどうする。さして飲んでおらんだろう」
眼を開いた。眼の前に、真っ赤な清之介の顔があった。
眠ってはいなかった。
「酔うておらん。一杯くれ」
「おう、その心意気だ。今日は、俺にとことんつきあえ。勘定は心配するな。今宵、飲まずにいつ飲む?」
いつの間に用意したのか、清之介が突き出したのは湯飲みだった。そこへ、徳利から、なみなみと酒が注いだ。
甚八は一気に半分ほど飲み干した。
——なぜあのとき、お絹どのに声をかけられなかったのか。
いや、答えはわかっていた。お絹にもわかっていた。
——甚八さまは、やはりお変わりになりませんね。
そう、俺は変わることのできぬ男だ。
「おう、いい飲みっぷりだ。久しぶりに笠取町に繰り出すか」
笠取町で飲み直す、という意味ではなかろう。あの町には多くの遊郭が建ち並んでいる。
「遠慮する。そんな気分ではない」
「固いの、おまえは」
その刹那、何か甚八の脳裏で一閃するものがあった。
——あの日、なぜお絹どのが、あんなところに……
栗本家の一人娘であるお絹が侍女も付けず、たった独り、人けの少ないあの道を歩いていたのは、いったいなぜなのか?
お絹の瞳の奥にかすかに見えた、あの黒々とした闇は何だったのか?
五日後のことだった。
仲の悪い兄弟ではない。が、やはり甚八にはつねに「厄介者」という意識が働いていた。祖父の代から使えている老僕の儀助と一緒に、いつも台所で食事を摂っていた。嫂の奈津乃は「遠慮せずに同じ部屋で」と言う。が、やはり甚八にはできなかった。
「おまえの養老道場に、居合いを遣う者はおるか?」
「居合い、ですか? 我が道場は〈
「わしが剣法に暗いことはわかっておるだろう」
兄の新左衛門も、若いころに道場に通ったことがあった。が、まったくと言っていいほどものにはならなかった。その代わり、と言うべきか、学問の才には恵まれた。
もっとも、わずか二十石取り、
「聞いておらんか、昨夜、
「古砥町で? それはまた、穏やかではありませんな」
古砥町といえば、城に近く、上士の屋敷が並ぶ町だった。
「あくまでも噂だがな——無論、わし程度のところには噂しか入って来んが——居合いの
「医者?」
甚八の背筋を、冷たい何ものかがそっと触れたような感覚があった。
「おまえさま、お食事中にそんな話はおやめくださいませ」
嫂の奈津乃がたしなめた。
「あ、うむ、そうだな。すまぬすまぬ」
婿養子でもないのに、嫂の奈津乃には頭が上がらぬ、優し過ぎるほどの優しさを持っているのが、兄であった。
「兄上、斬られた医者というのは……?」
「斬った張ったの話は終わりだ。おまえも、少しは学問をせんか。これからは、刀よりも頭がものを言うときだ。おまえもいつまでも——」
いつもの説教が始まりそうだった。嫂の奈津乃が、ちら、と夫を加勢するかのように、甚八を見た。が、あえて甚八は食い下がった。
「斬られた医者は、何と申す名だったのか、お聞きですか?」
「おまえもしつこいの。斬られたのは、石……そう、
急に寒気を覚えた。
——石鎚
昨日、甚八はその名を聞いたばかりだった。
栗本家に呼ばれ、お絹の亡骸をはっきりと見たはずの医師の名だった。
甚八は理由を付けて内職を怠り、家を出た。嫂の奈津乃は何も言わなかったが、もしかしたら察するところがあったのかもしれない。
上士らの屋敷がずらりと並ぶ古砥町。その一角、栗本家の前で、甚八は待った。たかは知れていたが、もっとも小綺麗な着物を着て、黒板塀の陰にずっと立ち続け、栗本家を見張った。
そして昨日、使いに出た下女——名は、おようと言った——の一人に眼を付けた。まだ十二、三であろう。その後を追い、隙を見て背後から声をかけた。怪訝そうな下女に向かって、
下女のおようは激しくおびえた。が、そのおびえた様子から、甚八は、お絹の死が普通ではなかったことを確信した。
「石鎚先生を呼べ」
蒼白な顔の源之丞が、下男に命じて使いに走らせた姿を、おようは目撃していた。
「お絹どのの姿を、おまえは見ていないのだな?」
おようは、震えながらうなずいた。
「石鎚昭白どのが到着したときには?」
「すでに……手遅れだと……」
おようは震え出し、ついには泣き出した。
「泣くな。人目がある。今日、わしと会ったことは決して口外せぬよう。おまえの名は出さぬゆえ、心配するでない」
甚八は、おように一分銀を渡した。ほんとうの目付であれば、そんなことはしないだろう。が、おようは小粒を押し頂くようにして、逃げるように甚八の前から走り去った。
しばし甚八は曇った空を眺めて立ち尽くした。
——お絹どのは、病死ではなかった。
しかも栗本家は、お絹の死の真相を隠さなければならなかった。
——石鎚昭白に会わねばならん。
そう思った矢先のことだった。
能見清之介が鋭く面を狙ってきた。甚八はかわした。鼻先に、宙を切る清之介の竹刀を感じた。次の瞬間に、甚八は清之介の左籠手をしたたかに打った。
「まだまだ、もう一本!」
清之介は言った。その声には、前回立ち合ったときよりも、張りが戻っていた。清之介も立ち直りつつあるようだった。
逆に、それが甚八には胸苦しかった。
——俺は、友を裏切っているのか?
その思いが剣にも表れていた。今日はすでに五本中、三本、取られていた。
そのときだった。道場内にざわめきが起きた。
若い門弟たちが道場の入り口に顔を向けていた。甚八と清之介も、思わず一度顔を見合わせ、同時に入り口を見やった。
現れたのは、栗本源之丞だった。
源之丞が道場に姿を現したのは、およそ半年ぶりであろうか。すっかり憔悴しきった面持ちだった。
甚八は、苦い唾を飲み込んだ。
「おお、源九郎。案じておったのだぞ」
額の汗を拭いながら、清之介が昔の名で呼び、笑顔で歩み寄った。
「案じておったのは、こっちだ。おぬしには……」
「養老先生にご挨拶は済んだのか? ならば、稽古を見て行け」
源之丞の言葉を遮り、清之介は言った。
「いや、今日は、久しぶりに剣を振りたくなってな」
源之丞——かつての源九郎は、甚八や清之介よりも小柄で、華奢な体つきだった。しかも、色白で、まるで役者のように整った顔立ちをしていた。
しかし、今の源之丞は、十ばかり歳を取ったように見えた。
清之介は、道場を見回すと、大声で呼ばわるように言った。
「本日、道場におる者は運がよいぞ。養老道場の『
「馬鹿を申せ、清之介。ただわしは剣を振りに来ただけだ」
「それではつまらん」
諦めたように源之丞は短く息を吐くと、甚八を向いた。
「甚八、相手を頼む」
甚八が籠手を着けようとすると、
「木剣でやろう」
すでに源之丞は木剣を手に、二度、三度と感覚を確かめるように軽く振った。
「よかろう」
甚八も木剣を手に取った。
門弟のあいだに、ただならぬ緊張が走ったのが感じられた。いつのまにか静まり返り、壁際に寄って、二人の剣士を取り囲んでいた。
甚八と源之丞は、ともに木剣を青眼に構えた。三間ほど、離れている。
そのまま、しばらく変化しなかった。
〈無明流〉は、護りの剣——「待ちの剣」だ。相手が仕掛けてくるのを、待つ。
甚八は、おのれが冷静に源之丞と、その木剣を見つめていることに気づいた。
甚八は、ゆっくりと——見えるか見えないか、という速さで、剣先を右へ動かした。
源之丞が打ち込んできた。甚八には読めていた。わずかに体を捻る。同時に源之丞の木剣を打った。源之丞の手から木剣が飛んだ。床に落ちた木剣は、中程から折れていた。
「参った」
源之丞は汗だくになり、道場の床に、どう、と腰を落とした。
「大分、なまっておるな」
甚八は、妙に冷ややかな気持ちで言った。
「門弟たちに無様な姿を見られてしもうた。もう一本、いや三本。今度は竹刀でな」
二人は竹刀を手にした。防具は、着けていない。
結局、三本のうち、二本を甚八が勝った。一本は、源之丞に右の
汗みずくになりながら、道場の隅に座った。門弟たちのざわめきの声が否応なく耳に入ってきた。いずれも、感嘆の声だった。
息が上がっていた。稽古不足とはいえ、栗本源之丞の剣はかつての鋭さをさほど失っていなかった。
視界に影が落ちた。見上げると、能見清之介の姿があった。
「また、引いたな。悪い癖だ」
「道場の『龍虎』などと、下らんことを……」
「嘘ではなかろう。どうだ、一杯やらんか、源九郎も交えて。無論、やつのおごりだ」
甚八は清之介を見上げた。その屈託のない表情に、甚八の胸裡には懐かしい思いが甦った。
三人で、ただ純粋に竹刀を振るい、汗をかいた日々——わずか、三年ばかり前のことだ。
源之丞を見ると、やはり額からしたたる汗をしきりに手拭いでこすっていた。甚八の放った右の胴がかなり効いている様子だった。ときおり、片手で打たれた右脇腹を押さえ、眉間に皺を寄せている。
「清之介、居合いの遣い手を知らんか?」
甚八は小声で訊ねた。
「居合い? 城下には、
「いや」
甚八は思案した。
石鎚昭白を斬ったのは、何者なのか。
「不知夜の剣」後編へつづく
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