第8話 宗教という名の服にご用心

 人間は、宗教によって幸せになれたかと言えば、意外にもそうではなく醜い争いや目を覆いたくなる悲劇を招いている。今日、イスラム過激派と呼ばれる人たちの自爆テロは余りにも悲惨だ。


 しかし、日本では起こらないのだが、自爆テロという言葉が躍るために大日本帝国の特攻隊が頭をもたげてくるのは戦争を知らないながら、戦争経験をした父母を持つ最後の世代だからだろう。今の若い人には到底思いもよらないことだと思う。


 日本があれほどまでに戦えたのは、神道という宗教を利用したからである。今では信じられないと思うが、かつての天皇は神様であったのだ。その地位は、今日の北朝鮮における金正恩と全く同じであり、まるで日本を真似したようで気持ち悪いのである。


 未だに、国家を治めるのに宗教的な要素を使っている北朝鮮は、日本から100年近く遅れているという事だと思う。だからと言って、日本が神道を捨て宗教的要素を使わずに国家をまとめているかと言えばそんなことはない^^;


 誰も気づいていないと思うが、資本主義という新たな宗教によって日本は統治されているのである。資本主義というモダンな名称であるが、資本=お金、主義=信仰と置き換えれば資本主義は「お金教」という宗教名に変わるのである。


 そして、この「お金教」が恐ろしいのは、人類史上初めて世界に蔓延したことである。キリスト教も、イスラム教も、仏教でも果たせなかった世界統一という偉業をこの「お金教」は初めて実現したのだ。


 「お金教」がとても恐ろしいのは、資本主義という名称にしているために、誰もが経済原理と思い込み、宗教という認識を持たないことである。洗礼や入信の儀式が無いために、まさか自分が宗教に入っているという自覚を持たせないところである。


 しかし、よくよく見れば、資本主義国家には必ず学校というモノがある。しかも、割と無料で受けられるわけだ。日本には「タダより怖いモノはない」言い伝えがあるが、まさにその通りの実態となっている。


 資本主義という「お金教」の教会が学校なのである。資本主義を徹底的に染み込ませる(=洗脳ともいう)役目を担っているわけだ。お題目は「生きる力をつける」とか「自分で考える人を作る」と銘打ってあるが、実際は、資本主義の教えを授けているに過ぎないのである。


 宗教には必ず神がいる。当然、資本主義の神はお金という紙である。←ダジャレか!と言いたいが^^;


 これまでの宗教の神は、人間の姿を借りていたが、資本主義では、そんなにまどろっこしいことは止めて、目に見える紙切れを神としたわけである。その紙切れが命よりも大事に思えるように教育するのが学校の使命である。


 これまでの宗教と違って、資本主義という新しい宗教における神は非常に分かりやすい。神をたくさん集めると幸せになれると説いているのである。まあ、神をたくさん集めて豊かになると、貧しかったころからすれば見てくれが良いために、幸せそうに見えるから、人々は妄信していくのである。


 そして、今やこの世で信じれるモノは神だけだと信じる過激派で世界は溢れているのではないだろうか?


 彼らは、神を得るためには何でもする。もちろんテロ行為だってお構いなしである。そう考えると、イスラム過激派をテロに走らせているのは、資本主義という「お金教」の仕業なのかもしれない^^;


 前置きが長くなってしまいましたが、こうした人類をたぶらかす宗教とは、人々の信仰によって支えられるわけですが、そのベースにあるものは「幸せ」ではないかと思うのです。


 これをやれば「幸せ」になれるという思いが信仰を作り宗教を作る。


 それは、人間と服との関係ではないかと思うのです。この服を着れば幸せになれるから人は服を作り買うわけで、もし、その服が合わなくなったら当たり前のように着替えるのではないかと思います。


 しかし、宗教という服が拙いのは、着替えさせないという事です。人間は成長する生き物であり、成長することで服が合わなくなることは頻繁に起こるのです。


 だけども、教会によって、それをさせないのです。


 だから、服に体を合わせるという窮屈を受け入れなければならない。その状況が人を苦しませるわけです。何故、人を幸せに導く宗教が、人を苦しませるのかと言えば、人の苦しみがなくなれば宗教が成り立たないからなのです。


 成長に応じて着替えられていては、宗教は続かないことになる。それは、その宗教に携わる者にとっては耐えられないのでしょう。言い換えれば、宗教者の為に信者が苦しむという本末転倒の事態をもたらすわけです。


 このことは、今日の日本でも同じことが言えるのです。


 「お金教」で幸せになれると教えられた日本人は、今や「お金教」いよって不幸のどん底に叩き落されている。これもまた、不幸な者が出ないと、その宗教が存在しえないから起こることなのです。


 資本主義における宗教者とは国家の役人になります。官僚から国会議員まで全ての公務員が資本主義における宗教者となるわけです。


 だから、国民を幸せにする政策は立案されないでしょう?


 お金を大事にする政策は立案されますが^^;

 神様は大事にしても国民は大事にされないのはその為です。


 世界を豊かにした資本主義という宗教には大きな成果があり、中々その服を脱ぐことが出来ないわけです。しかしながら、大事なのは、その服を着て幸せになれるかという事を冷静に判断することなのです。


 今や資本主義が作る過酷な競争社会によって、格差が拡大し少子化が進行しています。このまま行けば、日本は本当の意味で地獄と化すのではないでしょうか?


 そんな服を着ていて良いのでしょうか?


 服の為に命を捨てて良いのでしょうか?


 体に合わない服は着替えるべきだと思います^^

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