第四話

 市場に行く日、デイビッドはわざわざダベンポートの家の前まで馬車で迎えに来てくれた。

「リリィちゃんに一人で夜道を歩かせる訳には行かねえよ」

 馬車の御者台でデイビッドが笑う。

 今の時間は午前三時。デイビッドによれば四時三十分の開場の時間には中にいないと到底仕入れは間に合わないという。始まって三十分もしないうちに目ぼしいものはなくなってしまうらしい。

「ありがとうございます」

 リリィはデイビッドに手伝ってもらってデイビッドの隣の御者台に乗り込んだ。

 濃い緑色の馬車の後ろは窓の小さなコンパートメント、ここに魚を積み込むのだろう。

 魔法院の大きな門をくぐり、街道に出る。

 パカパカとのどかな音を立て、馬車がセントラルに向けて小走りに駆けていく。

 馬車を引く二頭の農耕馬を見ながら

(お魚屋さんって大変)

 とリリィは考えていた。

 デイビッドの店は日が暮れる前には店仕舞いしてしまう。しかし、いくら早く寝たとしても九時より早いという事はないに違いない。そして朝の三時には馬車を出して、また一日働くのだ。

「デイビッドさん、お茶飲みますか?」

 リリィはバスケットからモーニングブレンドを詰めて持ってきたボトルを取り出した。そのボトルは実は液体窒素輸送用のテルモス(魔法瓶のこと)だったのだが、リリィはその事実を知らない。ただ単に保温力の高い大変重宝なボトルだと思っている。

「ああ、ありがとう、リリィちゃん」

 デイビッドは片手でお茶の入ったカップを受け取った。

 もう片方の手で器用に馬を操作しながらお茶を飲む。

「やあ、暖まるね。寒い朝には温かい飲み物が最高のご馳走だ」


 馬車が暗い森の中の街道を駆け抜けていく。

 寒い御者台の上でリリィはぶるっと身を震わせた。今日の服装は合理服と厚手の黒い外套マント、寒いといけないので手には厚手のミトン。心配したダベンポートが前夜に渡してくれたマフラーも首に巻いた。

 それでも御者台は少し寒い。

 リリィはお茶を注ぐと、湯気のたつカップをチビチビと傾けた。両手でカップを握ると少し温かい。

 街道を走ること一時間。セントラルの前の分岐を港の方に折れ、しばらく進むと向こうの方に明るい建物が見えてきた。これが王国最大の魚市場、王立卸売魚市場ロイヤル・フィッシュマーケットだ。

 王立卸売魚市場は王国で流通しているほとんど全ての種類の生鮮水産物が扱われている巨大な魚市場だ。王国各地から新鮮な水産物が毎日運び込まれ、それが仲買人を通して再び王国各地へと流通していく。最近では冷凍技術の発達で海外からの水産物の取り扱いも始まった。王国の胃袋を支える巨大な魚貯蔵庫、それがこの王立卸売魚市場だと言って良い。

 デイビッドは駐車場に馬車を回すと、目の前の馬留めに手綱を絡めた。

「リリィちゃん、着いたよ」

 リリィの座っている側に周り、リリィが高い御者台から降りるのを手伝ってくれる。

「急ごう。早くしないと始まってしまう」

 デイビッドがリリィの先に立って足早に市場の中へと入っていく。リリィは裾を踏まないようにスカートを摘むと、遅れないように後に続いた。


+ + +


 王立卸売魚市場の内部は喧騒に満ちていた。

 広い市場の中を大勢の仲買人や魚屋の主人達が往来している。そこかしこに瓦斯ガス灯がともり、市場の中は明るい。暖房のない室内は外と同じくらい寒かったが、魚の鮮度を保つためにはその方がいいかも知れない。

 リリィは一段高くなった入り口から市場の中を見渡してみた。

 あそこにはタラがたくさん並んでる。

 こっちのコーナーはオヒョウハリバットみたい。オヒョウって大きいんだ。

 そこの積み上がった箱はみんなムール貝? 凄い量。

 思わず、青い瞳が大きく見開かれる。

「ふわぁ……」

 リリィはしばらく口を半開きにしたまま周囲を見回していたが、ふと我に返ると

「凄いですね」

 と感嘆の声を漏らした。

「凄いだろう?」

 デイビッドが誇らしげに腕を組む。

「とりあえず、この前話した仲買人のところに行こう。あいつのところは人気だからな。早く行かないと魚がなくなってしまう」


 厳つい仲買人の居並ぶ通路をリリィはデイビッドの後ろからこわごわついて行った。タラ、スズキ、ヒラメ、カレイ……。それぞれ氷の詰まった木箱に入れられ、近海物の魚が並んでいる。

 周囲の光景は大変に興味深い。だが、リリィの想定とその様子はだいぶん違っていた。

 ただお魚を買える場所だと思って来たのに、市場の中はまるで戦場だ。

「やあお嬢さん、今日は何をお探しで?」

 と、不意に向こうの方から声を掛けられ、リリィはビクッと身を強張らせた。

 内気なリリィは基本的に大柄な男の人が苦手だ。ところが市場の中にいる男の人は皆大柄で、腕も太い。リリィはなんとなく、自分がライオンの檻に迷い込んでしまったウサギのような気持ちになっていた。

「ようジェームズ」

 リリィの代わりにデイビッドが片手を上げる。

〈リリィちゃん、あれが例の変な仲買人だよ〉

 デイビッドが小声でリリィに教えてくれる。

 リリィはデイビッドに連れられてそのジェームズという名前の仲買人の売り場へと移動した。

 その『変な』仲買人、ジェームズは優しそうな顔立ちをした小柄な若者だった。

 歳はおそらくリリィとほとんど変わらないだろう。他の仲買人に比べ、ジェームズの服装はお洒落だった。ちゃんとしたベストとジャケットを身につけ、ハンティングキャップを被っている。帽子からはみ出ている真鍮色の髪の毛にも櫛が通っており、清潔な感じだ。

「おはようございます、ジェームズさん」

 スカートを摘んで膝を折り、礼儀正しく挨拶する。

「おはようございます、お嬢さん」

 ジェームズも帽子を取ると右足を引き、まるで舞台俳優のように大仰に挨拶した。

「こんな魚臭い場所にあなたのような若い女性が来るとは珍しい」

「い、いえ、わたしは見学なんです」

 リリィが少し身を竦ませる。

 そんな様子を見かねたのか、デイビッドはすぐにリリィとジェームズとの間に割って入った。

「ジェームズ、今日は何が入っているんだ?」

「ああ、デイビッドさん」

 ジェームズはデイビッドにもにこりと微笑みかけると、目の前の木札を両手で示した。

「今日はね、タラがいいよ。あと、ニシンかな。ヒラメも狙ったんだけど、いいのが獲れなかった。ああ、スズキもいいのが何匹かあるよ」

 不思議なことに、ジェームズの前には魚が並んではいなかった。魚の名前と値段が書かれた粗末な木札が並んでいるだけだ。

「…………?」

 不思議そうに木札を見つめるリリィを見て、ジェームズは微笑みを浮かべた。

「うちの魚はね、まだ生きて水槽の中に入っているから、こうやって名前だけ書いて並べているんだ」

「水槽って、どこにあるんですか?」

 キョロキョロと周囲を見回す。

 水槽! 見てみたい。

「水槽かい? 水槽はうちの船の中にある。うちの船が見たかったらあとで案内してあげるよ」

「うちの船って?」

 仲買人さんが船持ってるの?

「僕はね」──とジェームズは誇らしげに胸を張った──「魚の漁もする仲買人なんだ」

 

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