小指をからめて息をする

篠崎琴子

 逢魔おうまときの路地裏で、私をかどわかそうとしていた犬神が、刃の一閃を浴びて土に臥した。

 ついいましがたまで、私は犬神、と呼ばわられる呪われた妖異から逃げていた。そして窮地に追い詰められては、この世ならざる場所へと拐かされる寸前だった。けれど私はいまだこの世の土のうえにとどまり、息すらあがりきって地べたに転がっている。

 中学校の制服はみじめにくたびれきってしまった。ブレザーは破れスカートは汚れ、ふわふわとした生まれつき色素の薄い髪もひどくもつれて目にかかり、もうさんざんなありさま。

 動き出せずにいるいまの私にできることは、右の手に古刀を提げて眼前に立つ、袴姿の少年を見上げることだけだった。

 厭わしい怪異を退けた彼もまた、ひとめでこの世に棲むものではないとわかってしまう。なにせそのかんばせはこの世離れしてうつくしい。また彼の身は、私とおなじ十代の半ばにも満たなぬほどの齢に見えたけれど、やわらかにこちらへ笑んだ双眸は、人の身には宿りえない黄金こがね色の光彩をもっていたものだから、すべては瞭然だった。

「――おまえ、御霊憑みたまつきの家の女だろう」

 右の手に古刀をげたまま、少年が問うた。よくよく見れば左の手にも、彼はうつくしい桜枝を提げている。

 上がっていた息も少しだけ落ち着いてきた。少年から己が家の呼び名を言い当てられて、ようやく私は身を起こす。犬神から助けられたとはいえ、なおも彼を警戒して「いずれの御方ですか」と、震えながら問いで返した。

 少年は「この土地よりもはるかに西の、古きより人をまつろわせる霊山に連なるもの」とささやくように答えながら、右手の古刀をすいと振る。その一振りで犬神の血糊は刀身からぬぐわれ、あたりに散り、紅葉の形をとりながらひらひらと私たちの周囲に散った。

「人の子どもらが呼ぶ名を――」

 そして跪いて名すらをも私に告げ、おのれの身分をさる高名な霊山に連なる御山の神霊であると明かし……少年の姿をとるこの世のものならざる御方は、刀を鞘に仕舞い込む。それから空いた右手をこちらへさしだし、私をゆっくりと立ち上がらせた。

「畏まらずとも、よい。なあ、そなたの血筋に黒髪のうつくしい、きよらな瞳の、愛らしい娘がいるだろう? 名を、真鶴まなづると聞き及ぶ」

 おそるおそる、うつむきつつも彼の手を取った私は――彼の口から発された、大切で大好きな同い年の姪の、あまりに古風な……けれど確かに愛情でもって名づけられた名前を聞いて、咄嗟に顔を上げてしまった。真正面から彼をみつめる。

 真鶴、という私の姪の名と同じくらいには、この時代にはとてもそぐわない、古めかしい口調と装い。男の子にしてはどうにも長い髪が縁取る、人間離れして整いすぎた輪郭。そういったもののなかでいっそう際立つのは、面差しとは裏腹な、こちらの肌が粟立つほどに鋭く苛烈な眼差し。

「あの子に、なんの御用向きですか」

「どうしようもないほど、恋をしたのだ。よって求婚に参った」

 そんなものをすべてあわせもつ彼は、即答した。それはそれは真摯な表情と、声音だった。

「この通り、見目もおまえたちの齢にそろえてきた。おまえたちを怖がらせるつもりはないのだ。おまえは、彼女のただひとりの叔母だそうだね。……しきたりに則り、真鶴への求婚の、なかだちとなってはもらえないだろうか」

 犬神はいまだ、おおん、とうめいては、こちらへ首だけで這い寄ろうとしている。けれども私の身の震えや足のふらつきは、ちはやぶるかな神威をも纏う少年を前にして、不思議なほど急速におさまっていた。

「それは……」

「もちろん、真鶴の嫌がることはしない。無理強いもしない。そんな、矜持を曲げるようなことはするものか。ただ……僕は彼女とうつくしい我が御山で、とことわの季節をともに過ごせたら、と。望んでいるにすぎない」

 姪に求婚をしたいのだ、と口にする神霊へ、私はしばし迷ってから尋ねた。

「――あの子に恐ろしい思いは、させない?」

「まさか。むしろ万難も辛苦も、僕は彼女から払うだろう。今日のおまえが遭ってしまったような拐かしなどに、彼女が望みやしないものに、この僕が彼女を慕う以上は間違っても遭わせるものか」

「あの子が嫌がって、あなたを拒んだなら?」

「心から厭われたなら、それならば仕方がないと思う。そうなれば僕だって彼女の手をとることは諦めるし……なにより、たとえばおまえに真鶴へ僕を好くよう働きかけろだとか、彼女のもとへ手引きしろだとか、そんな無体は頼まない」

 だったらなぜわざわざ、といぶかしく思った私の思いを察したのか、少年姿の神霊は、すいと視線をそらして恥じらうようにささやきこぼした。

「……ただ、男が女によばいの求めを直接に告げては無礼にあたるだろう。僕の言葉を、彼女に届けてほしいだけだ。それから、求婚の贈り物……我が山いっとうの、彼岸桜のひとふりも」

 そう言って、左手に提げた見事な、本当に見事なうつくしい桜枝さくらえを、彼が託してきたものだから……少しだけ。その言葉と行いに、私はほうけてしまった。そして、急速に私はこの少年に親しみの心を持った。この神霊の力になりたいとすら思った。それが盲目的なたぐいの思いで、どこか脆い気持ちであったとしても。

 それはいままで、御霊憑きの家筋の――つまりこの現代においてさえ、どうしてか人ならざるものらから恋われ焦がれられる血筋の娘である私が、さんざん苦しめられてきた行いとはかけはなれていたからだ。異界のものどもからの強引な求婚や、かろうじて未遂に終わっている拐かしや、そういった恐ろしい目に遭い続けてきた。けれど彼が差し出すこの桜枝は、そんなものらとはとうていかけ離れた思いやりの証だった。

 あれらと同じ、人ならぬものであるのに……この神霊は穏やかで優しい。またその性は彼の本来のもので、きっと崩れることはなかろうと察せられさえした。

「それなら、いいよ」

 少しだけ迷ったけれど、ついに私は心穏やかに彼へと頷く。

「あの子を大切に扱ってくれて、それで、不幸せにはさせないなら、それなら、いい」

 だって、あの子が。真鶴がこの先、私みたいな恐ろしい思いをせず、理不尽な目に遭わず、そしてもしかしたら彼の求婚を受け入れて幸せになる。そんな可能性はどうしたってまばゆくおもえてしまったのだ。

「ならば、ちぎりを。うけいを交わそう」

「指切りでいい?」

 私が小指をたててこぶしを差し出すと、少年は少し戸惑ったように首をかしげたが、すぐに同じように片手を指しだしてきた。

 そして腐臭が満ちる、半ば異界と化した薄暗い場所で、私は人ならぬ少年と誓いを交わした。

 指切りげんまん、嘘をついたら、千歳ちとせの先まで神隠し、と。

 かような言葉をそらんじながら、彼の細く白い指と、私は小指をからめた。そしてまばたきを繰り返すごとにゆるやかに、私の小指の爪の先がにびに染まり果ててゆくのを見つめた。

 奇妙で不可思議な変革は、神霊との誓いの証らしい。現代にあってはあまりにも、たぐいまれにしてあやうい行いだった。

「僕はおまえたちへ無理強いはしない。道理に反することはしない」

「そうして。……でも、私が媒を務められなくなったら、ごめんね」

「それはどういう?」

「今日そうされかかったみたいに、私が拐かされて、戻ってこられなくなることだって、あるかも」

 それでも私は彼とかたく契りあう細い指をふりほどきはしない。なにせ真摯で怜悧な眼差しを私へに向ける彼は、私にとってとても好ましく思えた。

「そんなことに、気をもませるものか!」

 ぎらついた情を飼ったこの少年の視線が、いっそ羨ましいほどに。

「誰のものにもならなくていい。誰かにどれだけ求められようと、無理に添い遂げずともいい。おまえが誰からよばいを求められようと、おまえが身柄を乞われようと、おまえが望まない限りは、絶対僕が邪魔してやる」

「――ほんと?」

「本当だとも! いいか、どんな身の上のものどもからもだ。どんな人ならざるものからも、どんな人間からもだぞ」

 彼の言葉に――あまりの、安堵と嬉しさを得て。私はあやうく手指を解きかけてしまった。私の動揺を察した神霊が慌てたように絡めた小指に力を込めなければ、本当に解けてしまったかもしれない。

「誓いを、破るような真似はするな。……僕には、おまえが。彼女を娶るための媒が、どうしたって必要なんだから」

「――うん」

 私は何度も、熱心に頷いた。そのたびに、こんな人ならざる悩みや憂いを持たずともあたりまえに息をして、安らいで、そして大人になってゆける人並みの女の子として、私たちも暮らせるのではないかと、期待めいた錯覚さえおぼえた。

「私だって、あの子が惜しい。あの子が大事だよ。あの子には、こんな怖い思い、してほしくない。……せめていところに嫁いでくれるなら、それがいいの。その方がまだ、不幸せになるよりは、いい」

 拐かされないために、嫁ぐ。

 その行いを、真鶴がよしとするかはわからない。わからないけれど、それでも私はもしもあの子がそれを幸せとして受け入れてくれるならばと、一心に期待をしてしまう。

「ああ、我が御山は善いところだ。……もし彼女が求婚を受け入れてくれて――僕が真鶴を娶ったとしたって、寝殿も箱庭もうるわしい季節もなにもかも、きちりとしつらえてやれる場所だ」

 鈍い色に彩られた小指の爪を、私はみつめた。互いに絡めた熱に、私もこの神霊の少年も、きっとひどくうかされていた。

 こんな薄暗くてみじめで汚くて、いやなにおいと瀕死の犬神がのたうつ逢魔が時の路地裏に、彼がまったく隠そうとしない、夢みるような恋のいろはふさわしくなかった。けれどこんなにも、人ならざる神霊が心のうちの熱もあらわに語る姿を見てしまっては、それでいいか、それならばいいか、こんなに怖くて悲しい思いをあの子がせずにすむならばそれがと、思ってしまったのだった。

 とうとう視界の端で犬神の首が事切れた。あの恐ろしくてしかたなかった異形のものは、もう私のことを追ってはこない。

「私たち、これできっと、『共犯者』ね」

 契りを終えてゆるりと解かれた指先をみつめた神霊が、安堵をみせて微笑むのを、私はそっと眺めて言った。

 けれど後悔するようなことはひとつもない。

 彼は真鶴へ無理強いはしないと約束した。私も彼の媒となるだけで、誰のものにもならないだけで、それだけでよいのだ。これ以上のことを、どうしていままさに人ならぬものに襲われ、拐かされかけた私が望めるだろう。

 ねえ真鶴。たったひとり、私とおそろいの女の子。

 あなたがせめてこんな怖れ苦しみとはほど遠い、とことわの春を誇るようなその場所に辿り着けるのならば、それでいい。それがいい。

 じきに来る春の盛りには十六歳になろうかという冬の朝。私はそんな夢を思い描いて、私の姪に恋い焦がれる、この可憐で苛烈な少年と理不尽な共謀を約束した。

 なにせ私も真鶴も、ふたりそろってともどもに、いたく難儀な血筋の娘であるからして。

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