最後の3分間

@muuko

最後の3分間


「はぁ!? 寝ぼけてんのかグロービィ。朝っぱらから冗談やめろよ」


 月曜日の朝。

 ガスコンロの前に立つ俺は、朝食のスクランブルエッグを皿に盛り付けながらグロービィに文句を言う。こいつは一応、俺の育ての親だ。対面のカウンターに腰掛けるグロービィの前に皿を置くが秒で横にスライドされる。全く。


「グロービィ。今何時だと思ってんだ?」

 バーボンをタンブラーグラスに注いでいるロクデナシの前で大袈裟にため息をつきながら、いつものように用意しておいたホットミルクをグロービィの持つグラスに注いでやる。詰まる所俺も甘い。中の氷がバチバチと音を立てる。まぁ、ロックで呑むよりはマシだろう。

「いい加減自分の年齢考えろよ。寝ぼけてるんじゃないならまだ昨日の酒が残ってるのか。それともボケて今が朝なのか夜なのかも分からなくなったか?」

「うるせぇクソガキ。俺がいつ何しようと俺の勝手だ」

「だから辞める?」

「あぁそうだ」

 焼いたパンとホットミルクの入ったマグを持ってグロービィの隣に腰掛ける。毎日作るスクランブルエッグも、結局は自分の朝食になる。

「意味がわかんねぇ。勝手すぎる。昨日の『キャンティ』のステージだって客を1番盛り上げたのは俺達じゃねぇか。なんで急に辞める必要がある?」

「自分の年を考えただけのことさ」

「納得出来ないね」

「お前がいつも言ってるじゃないか。さっきもだ。もう年なんだよ俺は。だからもうサックスは辞める。決めたことだ。次の土曜のステージで最後にする。いいか。分かったらこれからは1人で演奏するやるか新しい相棒でも探すんだな」

 そう言ってグラスを煽ると、仕事に行くと言ってグロービィはさっさと出て行ってしまった。


「なんなんだよ全く……」

 1人になったリビングでパンを齧る。


 物心ついた頃から貧困街スラムにいた俺の前に突然現れたのが、このグロービィという男だった。

「今日からお前をここに置いてやる。その代わりお前にはしっかり働いてもらう」

 家に連れてこられて1番最初に言われた言葉だ。今でも覚えている。

 それからは、昼は学校、夜はBAR『キャンティ』で皿洗いの日々だ。皿洗いで稼いだ俺の給料はグロービィにピンハネされて、俺の手元には小遣い程度しか残らなかった。

 キャンティは生演奏のステージが売りで、この歓楽街の中でも毎晩賑わう人気店だ。グロービィはそこでサックス奏者としてステージに立っていた。俺はグロービィの演奏仲間に歌とピアノを叩き込まれ、いつしかグロービィと俺の2人でステージに立つようになった。「少年とコンビを組んだ方が人の目に留まりやすくて客はチップを弾む、いい稼ぎになる」そう言っていたのはグロービィなのに。


 考えていたら出勤ギリギリの時間になっていた。残りの朝食をかきこみ、皿を流しに突っ込んで家を出た。

 向かう先は『キャンティ』。グロービィについて行って皿洗いをしていた場所が、学校を卒業後そのまま就職先になった。バイトだが、今はランチの時間にそこで働いている。


 ✳︎


 木曜日の事だった。

 俺はいつものようにキャンティのキッチンでランチタイムの準備をしていた。

「マイク! マイク! すぐに来てくれ」

 マスターの焦る声がして、小走りで表に行く。

「サラ。どうしたの?」

 店の入口には肩で息をするサラが立っていた。彼女はこの街一美人な看護師で、グロービィも俺も、ずっとお世話になっている。

「今から一緒に来て。グロービィが倒れて病院に運ばれてきたの」



「グロービィ!!」

 病室のドアを勢いよく開けると、俺を見たグロービィはいつものしかめっ面をした。

「おいサラ。大したことないから知らせるなっつったろうが」

 ベッドの上に足を伸ばして座るグロービィは見た目にはピンピンしている。左手で白髪頭をガシガシと掻いて、居心地が悪そうだ。

「大したことかどうか決めるのはあなたじゃないわグロービィ。マイク、はい椅子」

 舌打ちをして腕を組み、窓の方を向いてしまったグロービィの横に椅子を置いて座る。

「マイク、今日グロービィは仕事場で倒れてここに運ばれてきたの。グロービィ、あなたはマイクにきちんと話すべきだわ」

 俺のそっと肩に手を置いた後、サラは静かに病室のドアを閉めた。

 俺達に似つかわしくない清潔な真っ白い部屋に2人、残される。


 無言の時間が過ぎる。

 迷って迷って、先に口を開いたのは俺の方だった。

「なぁ、倒れたって、どういうことだ?」

「ちょっとした立ちくらみだ」

「それくらいでサラが俺を呼びに来るかよ」

 グロービィは組んだ腕をじっと見つめ、しばらく黙る。

「右手がな、大分前から痺れてる。脳と神経だ。それで今日立ちくらみが起きた。治すことは出来ない。だが日常生活は送れる」

 グロービィの顔を見ることが出来ない。俺もグロービィの腕を見つめたまま、また2人は無言になる。


「だから、サックスを?」

「そうだ」

 今までのステージでそんな素振りを感じたこともなかった。

 俺の歌と伴奏にグロービィのサックスが合わさって、いつもお客は沸いた。絶妙なタイミングで入るアドリブも、音の仕掛けあいも、何もかも。


 俺達はずっとそうだった。

 俺達のステージはいつも。

 最高だった。


 気づかなかった。いや、俺が気づけなかったのか。

 無意識に膝の上で組んだ手に力が入る。俺は今までグロービィの何を見ていたんだ。

「右手は使えば使うだけ悪くなる。思うように動かせなくなってくる。演奏はアドリブで誤魔化してきたが、もう限界だ」

 顔を上げる。グロービィが困ったような懐かしいような、不思議な顔をしている。

「情けねぇな全く。ガキの頃みたいな顔しやがって」

「お前はもう16だ。もう大人だ。手前てめぇで稼いだ金で飯を食って、俺の身の回りの世話までしてる。ピアノの腕もいい。歌もだ。お前の演奏を聴きにどれだけの客が店に来てると思ってる。お前1人で充分やっていけるんだ。貧困街スラムでなす術なく泣いてた頃のお前じゃねぇ。いいか、俺は死ぬわけじゃない。サックスを辞めるだけだ。ただそれだけのことだこのクソガキが」

 昔よくやられたように、右手で乱暴に頭を小突かれる。相変わらず痛い。

 死ぬわけじゃない。その言葉を反芻する。死ぬわけじゃない。そうだ。そうだよな? グロービィ。

「土曜日は、どれくらいもつ?」

 しばらく右手をさすって、グロービィが答えた。

「3分だな」


 ✳︎


 土曜日の夜。

 演者ひしめくステージ横の薄暗い楽屋にスペースを確保して、適当な箱に座る。ここで演奏する奴らはラフな服装が多いが、俺とグロービィはいつもスーツを着ることにしている。今日の俺達の出番はトリ、最後だ。


「次の相棒は見つかったか」

 煙草に火をつけながらグロービィが俺の横に座る。吸い始めの煙草を奪って足で踏み消す。歌う前に俺の横で煙草を吸うな。それに楽屋は禁煙だ。

「そんなすぐ見つからねぇよ。大体この街にお前以上のサックス奏者がいるかよ」

「この街で見つける必要ないだろう」

「は?」

 目の前に小さな冊子を放られて、慌てて掴む。

「なんだよ、これ」

「くれてやる」

 僅かな明かりにかざして見る。渡されたのは預金通帳だ。中を見て、目を剥く。

「世界中の人間が夢を持って集まる都市がこの国にはある。国籍も、人種も、肌の色も関係ねぇ。実力と運、両方ある奴がのし上がる。お前はそこに行くんだ。夢を見ろ、マイク。お前には未来がある」

 通帳を見たまま、歯を食いしばる。胸が苦しい。返す言葉に詰まっていると、俺達の前のグループが演奏を終えて帰ってきた。

 2人揃って立ち上がり、ステージへと続く階段を登る。

「泣くんじゃねぇ。これから客前に出るんだ。最高の演奏にしようぜ、マイク」

 からかうように笑って、グロービィは俺の背を叩いた。

「うるせぇクソ親父」

 俺達はいつだって最高だ。そうだろう?

 スポットライトへ一歩踏み出す。


 そう言えば奴が俺をマイクと呼んだのも、俺が奴を親父と呼んだのも、今日が初めてだ。

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