10/衝突

 あれから二日。偽装殺人、あるいは自殺誘因の実行犯と思われる〝アポロンの使徒〟について、何も掴めないままに時間だけが過ぎていた。

 澪と絢は油木の自宅に泊まり込み、交代で来るかも分からない襲撃に備えていた。


「ふぁぁ……」


 ソファの上で四肢を投げ出している絢が緊張感の欠片もなく大欠伸をかます。起き抜けでまだ頭が働いていないのだろう。寝ぼけた目を擦りながら、絢はふと思い出したように口を開く。


「なぁ、澪。ずっと疑問だったんだけどよ、どうして《東都》の奴らはこんな表現だアートだに敏感なんだ? いや、表現の自由とかが重要な問題だってぇのは分かるんだが。にしても過剰に反応しすぎだと思うんだ」


《東都》で長い時間を過ごしている澪にとって、この息苦しさは普通だが、解薬士と言えど澪に比べれば圧倒的に《東都》での暮らしの日が浅い絢にとって、この状況が奇異に映るのも頷ける。

 もちろん、人々がアートやクリエイティビティの持つ自由と力に対して敏感なのには、れっきとした理由が存在する。


「浅草浄火、って聞いたことありませんか?」

「火事だろ? たしか震災期の」

「ええ、まあそうなんですけど。……《東都》が震災に見舞われたとき、感染症が蔓延したことは知ってますよね?」

「もちろんだ。前代未聞、致死率四三パーセントの悪魔のウイルスだろ? んでそのワクチンを開発したからこそ普通の製薬企業だった《リンドウ・アークス》が力を持ち、今の《東都》が出来上がったんだ」


 絢は得意気に鼻を鳴らす。

 もちろん、《東都》について語る際に感染症の大流行と《リンドウ・アークス》の活躍について欠かすことはできない。つまりこれを知っていることは誇ることでも何でもない。小学生ですら知っている、真っ先に教えられる歴史の一つと言ってもいい。


「その《リンドウ・アークス》の方策の一つに、感染者の迅速な隔離というのがありました。もちろん感染者の治療と、感染の拡大を防ぐためです。確かに感染拡大を抑え込む一定の効果はありました。ですが一人のアーティストの発言で、事態は一変しました」


 それは何気ない一言だったに違いない。きっと彼が悪いのではない。誰もが思っていたことを代弁したに過ぎなかったのだ。だが彼は自らの影響力に、もっと真摯な理解を向けるべきだった。


「そのアーティストは、収容所周辺の感染症罹患率が、他の地域に比べて数倍も高いという根も葉もないデータとともに、収容所を非難しました。そして収容所に向けた暴動が始まった」

「でもよ、ンなことしたらウイルスが外に漏れるだろ」

「冷静に考えればそうです。ですが恐怖に煽られた人々に正常な判断能力はなかった。それに当時、熱消毒でウイルスを撃退できるという、これまた根も葉もない通説が信じられていました」

「まさか、浄火って……」

「はい。暴徒はウイルスを清めるため、感染者ごと収容所を焼き払いました。都内各地で頻発した暴動のなかでも、特に大きな規模となったのがかつての浅草、現在の九区で起きた暴動です」


 絢は絶句していた。想像を逸脱していたからではない。自らの祖国で知るのと同様の凄惨な地獄が、この煌びやかな《東都》においても決して断絶したものではないということに驚愕しているのだ。


「結果、感染者と医療従事者を含む五七名が焼死。二四名が重傷を負う被害が出ました。収容所が決壊したことによって、漏出したウイルスが引き起こした感染症の犠牲者を考えれば、その数倍の死者は間違いないと、思います」


 その混乱は、震災期の数多の混乱のなかにおいても壮絶なものだった。もう二度と、同じ過ちを繰り返してはならないのだ。


「だから表現に対して過剰に反応するのは、その教訓なんです。大多数の人々は、たとえ自由が制限されることになっても安全が欲しい。まだ生々しい記憶として、《東都》の人々の脳裏に焼き付いているんです」

「そうか」


 絢は噛み潰すように呟いた。たとえ同じ経験はしていなくとも、絢も人が生み出す地獄の恐ろしさを彼女もまた幾度となく目の当たりにしてきているのだ。地獄に怯える〝正アポロンの会〟の連中の言い分を、真っ向から否定することはもはや難しかった。


「心の復興はまだ、ってことなのか」

「そうですね。でも、だからこそ、アーティストたちは書かなければ、描かなければならないと思ってしまうのかもしれませんね」

「業だな」


 絢の口からこぼれた意外な言葉に目を丸くしていると、奥の寝室から出てきた油木と目が合う。明らかにフラストレーションを溜め込んでいる油木の表情は険しく、壁に添えられた指は不機嫌さを露わにしながらリズムを刻む。


「よお、お前寝てたんじゃねえのか?」


 時刻は夕方の六時を回っている。何日も張り込んで分かったのは、楽曲の制作に没頭して時間を忘れる油木は、ほとんど昼夜逆転のサイクルで生活しているらしいということだ。

 ちょうど昨晩に制作させていた楽曲のアップロードを終えた油木だが寝付きが悪いのか、目の下には色濃い隈が刻まれている。

 絢が掛けた言葉に、油木は大きく舌打ちをする。


「呑気に談笑ガールズトークとはいい気なもんだな」

「あ? なんだと?」


 あからさまな挑発に絢が眉間を寄せる。油木は乾いた笑みを浮かべ、挑発的に目を見開く。


「だってそうだろう? 俺はお前らに言われた通り、途中の楽曲を仕上げて発表した。言われた通りのコメント付きでだ! だがお前らは目的も話さず、変わらず俺の家に入り浸ってる。一体いつまでこんなこと続けるつもりなんだ?」


 油木が壁を殴りつける。強く握り過ぎて白くなった拳が小刻みに震えている。


「俺はお前らみたく暇じゃねえんだよ! 考えてもみろ! 家からは一歩だって出しちゃもらえねえ。こんなものは監禁だ! 俺が一体何件の仕事を断らされたと思ってる?」


 一度溢れ出した油木の激昂は止まらなかった。


「だいたい最初から怪しいと思ったんだ。解毒屋ってのは二人一組で行動するんだろ? ならパートナーがいないそこの茶色い女はどう考えたって胡散臭い。調べてみれば大した実績もない雑魚じゃないか! どうせ、お前の不手際でパートナーが死んだんだろ!」

「油木さん」


 澪は油木をなだめようと声を掛けるが、油木は澪を指差し、白い歯と怒りを剥き出しにする。


「お前もそうだ! お前についても調べたぞ、飛鳥澪。あんた、姉がいたらしいな? まさかとは思ったけど、よく知ってたよ。俺も学生のときによく〈higiri〉のアートを見たからね! だがくだらなかったなぁ。特に批判されて自殺したところなんか!」

「おい、油木。それ以上はやめろ」


 今度は絢が低く唸る。だが言葉で油木を押さえることは不可能だった。


「いいや、やめねえよ。どうせ死んだ姉と俺を重ねでもしてるんだろ? だが俺から言わせりゃ、なにもかも違うね。批判されて死ぬのは、アーティストを気取るくせに矜持がない証拠さ。だから批判されてすぐに折れる。その程度の中身のものを作ってたってわけだ! なぁ、妹的にもそう思うだろう? おねえちゃーん、おねえちゃーん」

「油木、てめえっ!」


 絢が立ち上がり、床を踏み鳴らして油木に近づく。

 だが絢が掴みかかるより先に、乾いた音が油木の頬を強かに打った。


「痛えなあ! 公権力の暴走か? 刑事がこんなことしていいのか?」


 息巻く油木の頬に、澪はもう一度平手を見舞う。油木はバランスを崩し、床へと倒れ込む。澪はその胸座を掴み上げ、息が触れるような至近距離で睨みつけた。


「な、なんだよ……。これ以上やったら僕は本当にやるぞ? 俺の影響力が分からないほど馬鹿じゃないだろ、あんた?」

「正直ね、あんたが生きようが死のうが、わたしにはどうでもいいの。訴えようが、あんたを気持ちよくしてくれる信者が集まった動画で何をしようが、どうでもいい。あんたみたいなクズに興味はないから。でもね……」

「うぁ、――あがっ」


 澪は力任せに油木を引き起こし、振り回すようにして壁に叩きつけた。

 許せるはずがない。許していいはずがない。

 姉は懸命に生き、命を削ってまで作品を社会に提示し続けた。その結末が自殺だったかどうかに関わらず、姉は最期の瞬間まで創作を通して戦い、社会に対して問いかけ続けた。

 それを、その生き様を、軽んじられていいはずがないのだ。


「今度、〈higiri〉の名前を口にしてみなさい。――徹底的に殺すから覚悟して」

「ひぅっ」


 澪は油木から手を離す。油木は重力に引かれるまま、へなへなと床に座り込んだ。


「澪、大丈夫か……?」

「ええ。大丈夫です。ですが、少し一人にしてもらえますか?」

「ああ。この馬鹿のお守りはあたしが代わっから。気分転換でもしてきなよ」

「ありがとうございます」


 澪は背後の絢を振り返ることなく、その場から逃げるように玄関から外へと向かっていった。


        †


 翌日の昼下がり。昨晩からのぎくしゃくした空気を引きずったまま、三人は沈黙の落ちるリビングで空間を共にしていた。

 澪は腕時計型端末コミュレットをネットに繋ぎ、油木がアップロードした動画の反応を確認している。

 反応は上々。そもそもテレビなどと違い、SNSや動画サイトなどは情報の取捨選択がより容易だ。気に入らない意見や作品はいくらでも遮断できるので、他のメディアと比べて肯定的な意見が目立ちやすい。それに油木のファンはほとんど宗教じみた熱狂ぶりで油木の作品に心酔しているケースが多い。作品の下にぶら下がる感想欄には、油木の批判に屈しない創作姿勢に眩暈を覚えたくなるような手放しの賛辞が連なっている。

 だが何にせよ、これで油木が無事に生きていることを〝アポロンの使徒〟とやらに示すことができたはずだ。そして自らの落ち度を消すために、もう一度油木アラヤを自殺させに現れる。

 張り詰めていた空気を、不意に鳴ったインターホンが裂く。


「……宅配だ」


 インターホンの映像を確認した絢が言う。油木は相変わらず苛立っている様子で、タブレット端末を片手にソファに座りながら貧乏ゆすりをしている。


「前に頼んでいた機材だよ。今日か明日で届くはずだったんだ」

「あたしが出る」

 

絢はインターホンに応答して玄関へ向かう。泊まり込みを始めてから初となる来訪者に、澪も意識を玄関へと向ける。間もなく玄関の呼び鈴が鳴り、絢が扉を開ける。廊下には段ボールを抱えた青年が立っていて、絢に受領のサインを求めている。

 何事もないことに澪が安堵し、視線を外そうとした瞬間だった。

 配達員がびくりと痙攣し、白目を剥く。口からは泡が溢れ、身体は前のめりに倒れ込んだ。絢は受け取った段ボール箱を床に放り、距離を取る。だが既に遅かった。

 扉の影から人影が現れる。革のパーカーをすっぽりと被った大柄な影は、絢の姿を捉えるやすぐさま鋭い蹴りを見舞う。予想外のリーチに絢は回避が間に合わず、脇腹に蹴りを受けて壁に激突。続きざまに振り下ろされた拳に脳天を打たれ、そのまま床に崩れ落ちた。


「油木さん、動かないで!」


 澪は既に立ち上がり、玄関へと駆け出している。接近に気づいた襲撃者が巨躯を低くして床を蹴り、澪の懐へと突っ込んでくる。澪はそのまま捕えられ、凄まじい勢いで床に押し倒される。後頭部を強打して脳が揺れ、見上げる襲撃者の姿が霞む。

 馬乗りになった襲撃者の拳が振り下ろされる。まるで鋼鉄に打たれているような衝撃が澪の鼻梁を圧し折る。顔の真ん中がぐわっと熱を持ち、血が噴き出した。

 続く二撃目。澪にそれを防ぐ術はなく。額を砕くように穿った鉄拳が、辛うじて残っていた澪の意識を一瞬にして捻り潰した。

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