11/業火
頭に響く疼痛に、澪は目を覚ます。顔の中心は鈍く痛み、まだ止まっていないらしい鼻血がぽたぽたと床に落ちる。座らされた椅子に四肢を縛りつけられているせいで関節が軋み、その無理な体勢が祟ってか、首もじくじくと痛みを訴えている。
そこは油木の作業部屋だった。両脇の壁には所狭しと書籍や演奏機材が並び、
隣りを見れば、絢も同じように縛られて気を失っていた。蹴り飛ばされて開いた傷口には血が滲み始めている。
澪はガムテープで塞がれた口の奥でギリと歯を食いしばる。
あれほど警戒していたはずなのに。
澪も絢も決して油断していたわけではなかった。ただ一つ落ち度があるとすれば、認識が甘かった。どうしてこの《東都》で、敵が自分と同じ生身の人間だと思い込んでいたのだろう――。
かちり、と回転式弾倉が嵌め込まれる音。見上げた澪の視線の先には革のパーカーを着込んだ襲撃者が背を向けてしゃがみ込んでいる。
その突き刺さるような視線に気づいたのか、襲撃者が振り返る。目深に被ったフードの、その奥の顔貌が露わになる。
焼け爛れ、皮膚の下の筋繊維が剥き出しになった顔の左側。唇はなく、剥き出しになった歯茎と歯が、まるで笑っているかのように晒される。喉元には黒光りした呼吸補助器具が嵌め込まれていて、分厚い胸が呼吸で上下するたびに不気味な風音を立てていた。手には
それらの事実が示すことは実に端的だった。
「思ったより早かった」
火傷の男の声は、声帯を無理矢理に磨り潰しながら発せられているようだった。聞いているだけで言い知れぬ不安を催した。
火傷の男の肩越しには作業用の椅子に座らされたまま眠っている油木が見える。既に空になった精神安定剤が机の上に転がっている。
「それにしても驚いたよ。事件を嗅ぎ回っている解薬士は処分してもらったはずだったのに、刑事まで引き込んでるって知ったときはね。君、名前は……?」
火傷の男は訊ねて間もなく、澪の口にガムテープが貼られたままであることを思い出す。ゆっくりとした、だが乱暴な手つきで澪の顔からガムテープを剥がす。
「君、名前は?」
「…………」
「まあいいや。これさ、正式な捜査ではないよな? なんでこんな無茶までして? 解薬士と接点があるってことは、コードαの担当だろう。その若さでそこまで出世して、どうしてこんなキャリアを台無しにするようなことした?」
「……ご心配どうも。ですが、ここであなたを捕まえて真実を暴けば大手柄。さらなる出世街道が開けますので大丈夫ですよ」
火傷の男は哄笑する。そして呼吸が乱れたのか、激しく咳き込む。火傷の男はポケットから取り出したタオルを広げ、赤黒い痰を吐く。
「ふぅー……。見苦しいところを見せたね。だが今日はこれでも体調がいい方なんだ」
火傷の男はあまりに平然としていた。これから殺しを行うとは思えないほどに。まるで自らの殺意を完全に飼い慣らしているとでも言いたげだった。
だが油木を殺させるわけにはいかない。目の前にある真実を、みすみす逃すわけにはいかない。
考えろ。この状況を切り抜け、形成を覆す方法を。
澪は考えながら今一度周囲に意識を向け、絢が目を覚ましていることに気づく。幸い、余裕を醸す火傷の男は澪が起きたことにしか気づいていない。
「一つ確認させてください。あなたは、〝アポロンの使徒〟ですね」
火傷の男の顔が歪む。それが笑みを浮かべたのだと、澪は遅れて気づく。
「そう呼ばれたりもしてるみたいだな。何でもいい。ネットの奴らは騒ぐだけの、くだらない連中だから。それに俺はもう何者でもないんだ」
「どういう意味ですか?」
「意味もなにも、そのままだ。俺は死んでいる。八年前、人の恐怖が焚きつけた、邪悪な炎によってね」
澪は合点がいった。男は浅草浄火に代表される収容所襲撃の被害者なのだ。炎に焼かれ、文字通り全てを失い、そして何かの奇跡か手違いによって生き永らえた。
「浅草浄火ですか」
「俺がいたのは浅草ではないがね。今でも迫ってくる炎とこの身体が焼かれていく感覚を、昨日のことのように思い出すことができるよ」
火傷の男は身をぞわりと震わせ、自らの両腕で身体を抱き締める。
「だが悪いことばかりではなかった。こうして明確な目的意識をもつことができたんだ。生前、俺は医者だったんだけどね、別にその仕事に何か価値があるとは思えなかった。だが今は違う。自ら死んでいく彼らを見ているとね、胸の奥がスッとするんだ」
「どうやって自殺させたんですか」
「そうだね。冥途の土産に教えよう。別に秘しておくようなことでもないし、ごく簡単なことだ。知っての通り、ペンゾジアゼピン系の精神安定剤を大量に投与する。過剰投与によって、ある種の鬱に近い症状が生じる。そこにこれ――二〇〇倍に薄めた
「それだけ、ですか?」
「そうとも。そして死を確認してすぐ、
澪は怒りに震えた。悪びれもしない火傷の男の態度もそうだが、この《東都》において最後の砦である解薬士の仕事道具が、卑劣な行為に用いられているということが許せなかった。火傷の男の行いは、《東都》の平和を真っ向から踏み躙っている。
「そうやって殺しを請け負って、正義の執行者気取りですか」
澪が吐く辛辣な言葉に、男が引き攣った嘲笑を溢す。喉元の呼吸器から不規則な風音が漏れる。
「請け負い? 違うな。好都合だったから利用しただけだ。ああやって炎上させればごく自然に自殺させることができたし、別に、奴らのために、やってるわけじゃない。……いや、奴らのためかもしれないな。俺は現に、ゴミを掃除することで社会をよくしているんだから。そうか、俺は正義を為していたんだな……」
「ふざけるな!」
「ふざけているのは社会のほうだろう!」
澪が荒げた声を、火傷の男の怒声が掻き消す。逆上した男の蹴りが澪の椅子を薙ぎ倒し、澪は横っ面から床に叩きつけられる。
「たった一人の何気ない意見が、どれだけの命を奪った? アーティストってやつは馬鹿で無自覚なんだよ。自分のやってることが、その発言が、どれだけ社会や人間に影響を与えるか、全く想像力が欠如している! そんな馬鹿どもを褒め称える奴らも同罪だ! あの恐怖を、壮絶極まる苦渋の日々を、もう遠い過去なんだと思っていやがるんだ!」
火傷の男がなりふり構わず何度も足を踏み下ろす。肩が外れ、肋骨が折れる。臓腑から込み上げた血が喉を伝って勢いよく吐き出される。椅子の背もたれが折れ、腕の拘束が緩んだ。
やがて火傷の男は乱れた呼吸に咽返り、情けなくよろめく。
この男のうちで燃え盛る復讐心を、澪に否定する権利はない。
いつだったか、姉の死の黒幕を暴いたあとどうするのかと絢に訊かれた時、澪は自らのうちにある復讐心や憎悪を否定しなかった。どれほど時間が経ったとしても、どんなに目を背けようとしても、黒ずんだ感情は確かにそこに存在するのだ。
「あなたの、憎悪を否定は、しません。ですが、あなたは決定的に、間違えている……」
澪は拘束の解かれた腕で支えながら、身体を起こす。全身に走る激痛を、歯を食いしばって噛み殺す。正直、呼吸するのも辛かった。だがなんとか立ち上がり、毅然とした眼差しで火傷の男を糾弾する。
「本当に、憎悪している、なら、あなたが憎むべきは社会でも、アーティストというカテゴリの人々でも、ないでしょう……。それは、火を放った人間で、あるべきです」
「ゲホッ……黙れ! ゲホッ、ゲホッ……俺は、殺されたんだよ、この社会に!」
「違う! あなたは逃げただけです。憎悪で自分を正当化し、安直な方法に、逃げた。使徒、なんて崇められて、内心、悦にでも浸っていたのでしょう……」
「あんたに、ゼェ……ゴホッ……何が、分かる、ってっんだ!」
火傷の男が澪に襲い掛かる。繰り出された拳を、澪は構えた掌で絡め取り、横へと受け流す。男がバランスを崩してよろめき、澪もまた自分の脚では自重を支えられずにたたらを踏んで大きなアンプへと寄り掛かる。
男が
しかし狂気を剥き出しにする火傷の男の背後、漆黒の影が差して煤けた髪が舞った。
「あたしを忘れんなよ、クソ野郎が」
肩越しに、獰猛な獣の笑みが咲く。
絢の蹴りが火傷の男の脇に見舞われる。男は機材を薙ぎ倒して床を転がり、咽返っては血を吐く。取り落した
「返してもらうぜ、兄貴の得物」
絢は弾倉を開き、込められていた
「使い方がなってねえ。これはな、こうやって使うんだよ」
絢は自らの谷間に埋もれる
「滾るよなぁ! ぶっ潰してやる!」
床を蹴る。依然として咽返る火傷の男と間が詰まるのは一瞬。振り抜かれた拳が火傷の男の顔面を穿ち、砕け散るような歪な音ともに男の体躯を吹き飛ばす。扉が折れ、男はリビングに投げ出される。
絢は追撃。火傷の男も立ち上がって応戦する。互いが同時に振り抜いた拳。体格のリーチがある分。火傷の男の一撃が一瞬早く絢を捉える。だが絢は男の拳を寸前で見切る。傾けた首筋を拳が掠めていく熱を感じながら、固く握った右正拳を振り抜く。
「――どぉぉぉううううららららあああああああっ!」
爆撃じみた打突音とともに、絢の拳が火傷の男の胸を打つ。衝撃が男の胸を貫き、生命線である喉元の呼吸器や
「……ぅ、がふっ、あ、がっ、ぇほっ、ゲホッ」
息をすることもままならず、火傷の男が苦悶に喘ぐ。口からは血の泡が溢れ、胸には呼吸器の破片が突き刺さり、流れ出す命を象徴するように血を滲ませた。
絢はトドメを刺そうと拳を鳴らす。だが作業部屋から出てきた澪が肩に手を置いてそれを止める。
「まだ……、彼には、聞くことがあります」
絢と入れ替わるようにして澪が前に出る。ふらつく澪を、少し後ろから絢が支えた。
「あなたにわたしたちの情報を渡したのは――」
澪の言葉を遮るように、ガチンと何かが割れる音。火傷の男が食いしばった歯の隙間から、血の色にしては茶色すぎる、煉瓦色の液体が溢れて顎を伝う。
それが
火傷の男の全身に赤黒い筋が浮かぶ。内圧に膨張し、耐え切れなくなった血管から肉や皮膚を突き破って血が噴き出す。まるでその肉体を内から食い破られ、引き裂かれるように。
全身から体内の血液のほとんどを噴き出させた火傷の男は、澪の言葉を聞き届けることなく絶命していた。
男の周囲に血だまりが広がっていく。それはまるで、最期の瞬間に至るまで行き場を見つけられなかった憎悪と狂気が溢れる様を、見せつけられているかのようだった。
†
やがて遠くから響くサイレンの音が聞こえた。
濃密な血臭が満ちる部屋で座り込んでいた澪と絢はようやく重い腰を上げる。
「わたしは事態の説明のために、ここに残ります」
「大丈夫なのか?」
「まあ大目玉は確実でしょうが、説明、というか言い訳はしておいたほうがいいでしょう。現行犯だったので、証拠もありますから」
刑事部長にはまた怒鳴られるだろう。それに今回は謹慎中の違法捜査だ。どんな理由があり、どんな結果をもたらしたとしても、警視庁が組織である以上、厳罰は免れない。今度こそ本当に職を失うかもしれない。
だが澪の気分は不思議と晴れやかだった。場違いというか無神経というか、どこか心地のいい疲労感を、地獄の焼き映しのような凄惨な室内で抱く自分に少しだけ驚く。
「絢は、おそらくいないほうがいいでしょう。先にわたしの家に戻っていてもらえますか?」
「ああ、そうだな。そうするよ」
「それじゃあ、また後ほど」
絢は澪が投げ渡した家の鍵を受け取る。
気分は晴れやかだった。
だが靄が晴れて見える景色が澄んだ分、見送った絢の背中は少しだけ、遠くにあるように感じられた。
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