02/遭遇

「――一体どういうことなんだねっ!?」


 そう声を裏返したのは年々薄くなっていく頭を気にしている刑事部長。昔は精悍だったという肉体も加齢とともに萎んでいき、いまではきっちりと閉められたシャツの襟の上に余分な肉が乗っている有様だ。お腹のあたりからは生地の悲鳴が聞こえる気がする。


過剰摂取者アディクトと接触する必要はないとあれほど言っているだろう!」


 刑事部長の言う通り、現場の刑事が最前線に出張り、過剰摂取者アディクトと事を構える必要などどこにもない。むしろそういう危険から能力的には一般人とさして変わらない刑事を守るために、解薬士とコードαという仕組みが存在しているのだ。

 無論、澪としても義勇に駆られていたり、英雄願望を抱いていたり、というわけではない。ただなんとなく、最悪の状況を想定し、最善の行動を選択しているとなるのだ。

 ただ今回は最善の行動が最悪の状況を生んだ、らしい。


「ビルの倒壊と配水管の破裂のせいで、元々そこらに住んでいた廃区の住民が都市部に漏れ出してきている。おかげで都市部の近隣住民からは苦情が殺到だ。《リンドウ》の見立てじゃ、一カ月は復旧工事にかかるって話だ」


 どうやら、今回はやりすぎたらしい。だがあの状況で応援を要請する猶予はなかったし、あのまま鈍谷にだけ戦わせていればより多くの犠牲者が出ていたに違いない。事件は会議室で起きてるんじゃない、とは昔の映画の台詞だが、まさに的を射ていると澪は思った。


「そ、れ、に、だ!」


 刑事部長は耳を赤くしながら、澪の顔に向けてに人差し指を突き立てる。


王海解薬警備社おうみげやくけいびしゃからクレームだ! 女刑事の無鉄砲な行動で弊社の社員一名が死亡、一名が重傷を負ったとな! 然るべき処分を下さない場合は、警視庁うちとの契約を切って組合サークルに加入するとまで言ってる!」


 刑事部長は捲し立てるように言って、薄くなった頭を大事そうに抱えて机に蹲った。澪は直立不動で乱れに乱れる刑事部長の薄頭を見下ろした。


「と、とにかく、君には謹慎を言い渡す。処分が正式に下されるまで、自宅待機とメンタルケアの療養に専念しなさい!」

「かしこまりました。ところで刑事部長」

「な、なんだねっ?」

「謹慎はいつまででしょう?」

「…………」


 何も考えていなかったらしく奇妙な間が空いた。


「い、一週間だ! 一週間後、正式な処分を言い渡す。それまで絶対に面倒事を起こすんじゃないぞ? 自宅待機だ、自宅!」


 澪はもう一度かしこまりましたと言って敬礼し、刑事部長のもとを後にする。



 澪は警視庁を出たその足で勝手に予約されていたメンタルケア施設へと向かい、簡単なカウンセリングを受講する。別に精神疾患でも何でもないのに六種類もの処方箋を受け取って帰路へ。まだ時間は一五時とあって日は高い。

 まだ放課後を楽しむ学生たちの姿や、夕食の献立を考えながら子供の手を引いて歩く父や母の姿も多く見受けられる。こうしてすぐそばで流れている穏やかで豊かな日常は、刑事という仕事に注力すべき理由を、澪に教えてくれる。

 街頭に浮かんでいるホログラムディスプレイではワイドショーが流れていた。司会に大抜擢されたらしい人気の芸人と整った顔立ちのアナウンサーがパネルの前に並び、ひな壇へと話を振る。

 話題に上っているのは、どうやら先日一二区で起きた通り魔少女殺傷事件についてのようだった。澪の管轄ではなかったし、犯人はその場で取り押さえられていたが、女子中学校の通学路で起きたセンセーショナルな事件は当然記憶に真新しく残っている。


『これを見てください。これは被告の部屋にあったのと同じものですがね』


 そう言って、三つ揃えのネイビースーツを着込んだ男が一冊の小説を持ち出す。大楠大和おおぐすやまとというその男は、どうやら都市議会の議員らしく、胸にはこれ見よがしな議員バッジを光らせていた。


『「リトル・ウィッチ・クリーナー」というこの小説は、魔法の力を手に入れた中高生の少女が主人公の手によって残虐に殺される様を克明に描いているんですよ。加え、こうした残虐行為を肯定的に描く節さえある。ほら、ここです。「腸を引き摺りながら、糞尿を撒き散らしながら、逃げることを諦めようとしない少女を前に、諭志さとしは確かな高揚感を感じていた。鼻腔を満たした血と恐怖の臭いだけが、諭志に確かな生きる感覚をもたらしていた」……なんとも気味の悪い文章だ。こうした作品が被告の思考に大きく影響を与えていることは否めないでしょうね。被害者である女子生徒たちは、こうした表現によって殺されたも同然ですよ』


 議員は演技じみた表情で眉を顰め、大きな手で顔を覆う。

 澪は呆れたと言わんばかりに肩を竦め、ホログラムから意識を逸らした。

 的外れも甚だしい議論だった。逮捕された被告の犯行動機は既に明らかになっているし、整然と供述する語り口は現実と創作の区別がつかないような精神錯乱のそれではない。

 もちろん誰かの創作物が他人に対して全くの無影響であるとは思わないが、公の電波に乗せて作品を名指しで批判していいほど大きな影響力はないだろう。人の行動は色々な要因が複雑に絡み合った末、絶妙なバランスの上で成り立っているのだ。

 澪の左手首につけられた腕時計型の端末コミュレットが振動する。仕事とプライベートでは振動の種類が違うので、それが私的な通話であることはすぐに分かる。澪は文字盤に触れ、通話を取った。


「どうしたの、おばあちゃん」

『どうしたのも何も、かわいい孫娘に連絡するのに、用がなくっちゃいけないのかい?』


 祖母は不満げに言い、それからカカカと笑った。

 澪の祖母は《東都》の外に、澪の両親と一緒に住んでいる。両親は元々こっちに住んでいたのだが、祖母の足腰があまりよくないこともあって澪の大学進学と同時に引っ越した。在学中は休みのたびに会いに行っていたのだが、社会人になってからは忙しさを理由に一度も実家には帰れていない。


「そういうわけじゃないけど、突然に連絡があったら、何かあったのかって思うわよ」

『かかか。ばあちゃんは、いつだって澪が元気にやってるかどうか心配してるんだよ。一番、大事なことだろう』

「もう。わたしだって子供じゃないんだよ?」

『まだまだ子供じゃよ。それに警官なんて危ない仕事……心配に決まっとるじゃろ』


 澪は内心で溜息を吐く。

 基本的に祖母は澪のすることに甘く、両親が反対したとしても祖母だけは味方になってくれることが多かった。そんな祖母が唯一、澪に反対したのが刑事になることだ。危ない、婚期を逃す、など理由は色々あったのだが、祖母の兄が警官であり、殉職していることが何より大きな理由だったのだろう。


「大丈夫。わたしは単に書類整理する部署だから。危ないことっていったらときどき紙で指を切っちゃうことがあるくらい。だから心配しないで」


 何回と繰り返している嘘だった。もちろん嘘を吐くことがいいことだとは思えない。年寄りにいらぬ心労をかけるのも違うような気がしてそういうことになっていた。要は嘘も使いどころ。いいか悪いかではなく、必要な嘘もあるということだ。


『そうかい? ならいいんだけど。危ないことはするもんじゃないよ。女の子なんだし、顔に傷でも残ったら大変なんだから。そうじゃなくたって、女で警官なんてとっつきにくいもんなんだ。澪ちゃん、結婚とかはちゃんと考えてるのかい?』

「はいはい。その話は今度ね。なるべく時間見つけて実家そっちにも顔出せるようにするから。もう仕事戻らないと」

『そうやってはぐらかすんじゃ――』


 切った。

 祖母のことは嫌いではないし、むしろ好きだったが、この手の話だけは面倒だった。祖母はどういうわけか、女の幸せが結婚や家庭にあると思っているらしく、何かにつけて相手はまだかと聞いてくる。

 もちろん澪自身もいい人がいれば、とは思うが、今は正直それどころではない。もし今結婚や家庭に幸せを見い出してしまうならば、それはきっと逃げだとさえ思う。澪にはまだ、この都市でやるべきことがあったし、やりたいことがあった。

 祖母の心配へ感謝をしながらも、そのお節介に溜息を吐き、澪は家路を急いだ。

 澪の自宅は二五区の賃貸マンションである。《東都》の治安はおおまかに、支配者である《リンドウ・アークス》の本社が位置する一区から順に悪くなっていく。つまり《東都》で一番大きな数字を冠している二五区は治安最低ということになるのだが、どうもこのあたりだけは例外らしい。

 二〇二〇年に開催されたオリンピックの需要で湾岸部は非常に再開発が盛んな地域だった。その名残からか、震災の難を免れたタワーマンションなどもちらほら残っており、以前ほどではないがそれなりに活気はある。

 もっとも澪のマンションはそうしたタワーマンションなどではなく、ごくごく普通の小さな、そして少し古いマンションである。さすがに公務員の安月給ではタワーマンションなど夢のまた夢だったし、そもそも事件を抱えれば家に帰れることも多くはないので、寝ることができさえすれば自宅などどうでもいいというのが澪の思うところだ。

 異変に気づいたのは、エントランスを抜けてエレベーターに乗ったとき。まだこのときは異変というには漠然とした感覚で、胸の奥に嫌なざわつきを感じただけ。

 それは自室に近づくにつれ明確な悪寒へと変わり、ドアノブに手を掛けるころには確信へと変わっていた。

 玄関脇の傘立てからビニール傘を抜き、下段に構えて扉を開ける。

 玄関から真っ直ぐに伸びる廊下に、異変はない。廊下脇のトイレや浴室にも異変なし。その先のリビングにも何の気配もない。残るは寝室。澪は覚悟を決めて扉を開け、


「…………な」


 驚きに目を見開いた。

 クローゼットの扉には血塗れの女がもたれかかっていた。褐色の肌にエキゾチックな灰色の髪は彼女が異邦人であることを示す。黒いつなぎの野戦服は血と汗でぐっしょりと濡れ、至る所が擦り切れ破れていた。

 死んでいる。客観視すれば誰もがそう思うだろう。何者かに追われ、そして何とか逃げ、この場所で息絶えた。

 澪は正体不明の闖入者よりも、何者かの追撃を警戒し、割られた窓ガラスのほうへ意識を向ける。

 違う。

 ここは四階だ。追手から咄嗟に逃げ込むには不自然すぎる。

 つまりこの女は、ピンポイントで澪の元を訪れた――?

 澪がそう思い至って振り返るのと、女が血で咽返ったのは同時だった。


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